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はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

風の終わる場所 9

2020年12月05日 09時49分20秒 | 風の終わる場所
目を覚ました孔明は、ずっと背中のあたりに付きまとっていた気だるさが、なくなっていることに満足した。
小鳥のさえずりが聞こえてくる。
だれか、気の利いたものが窓を開けてくれたらしい。
さわやかな冷気が吹き抜けて、起き目覚めたばかりの体の上をそよいでいった。
よい朝だ。出立にはちょうどよかろう。
そんなことをまず先にかんがえながら、ぼんやりしたまなこに映る光景に焦点をあてる。
うす紫色の天蓋の布が風にたわんでいる。
布が風にそよいで、隙間から欄干が見えた。

おかしいな。

孔明は、清潔で居心地のよい寝台に横になりながら、目の前にある光景の違和感を、徐々に受け入れていく。
天蓋も天井も、風によって生じる隙間から見える、あざやかな緑の風景も、どれもこれも見覚えのないものばかりだ。
ここはいったい、どこなのだろう。
そうおもい至った時点で、孔明は、軍師将軍としての顔を取りもどした。
起き上がり、寝台を出て、天蓋をかき分ける。
よほど熟睡していたと見えて、体が軽い。
見晴らしの良い欄干から吹き付ける風は、爽快でつめたく、あきらかに成都のものではない。
欄干からは、こじんまりとはしているが、家人たちが丹精にしてくれている、毎度おなじみの庭ではなく、こんもりと木々の生い茂った、あざやかな新緑の山々を見下ろすことができる。
状況がつかめない。
孔明は欄干を移動して、ほかになにか見えないかを探ったが、あるのは山ばかり。
人家はない。
人家から立ち上るであろう煙も見えない。

ここで混乱する孔明ではない。
すぐさま欄干から下を見る。
どうやら、自分は、楼閣のてっぺんの部屋にいるらしい。
しかし周囲に人の気配はない。
欄干の床板も、ながらく掃除をしていないらしく、裸足の足に、かわいた土埃がついた。
人の気配もなければ、人の声もしない。
どころか、物音ひとつしないのであった。
おもい当たって、床板の足跡が、自分以外のだれかのものがついていないかを確かめるが、残念なことに、くっきりと残っているのは自分のものだけである。

孔明は、足の裏の違和感に顔をしかめつつも、ふたたび部屋に入り、それから自分の眠っていた寝台や、そのほかの家具を調べ始めた。
調度品の趣味はよいが、決して高価なものではない。
部屋の掃除は行き届いているらしく、欄干と部屋をつなぐ戸口の桟もさほど汚れていないことからして、だれもいない、ということはなさそうだ。
楼閣は、二つの部屋に区切られるかたちとなっており、そちらにつづく扉を開けようとして、孔明は、ふと耳をすませた。
だれかがいる。
安堵すると同時に、つよい恐怖を覚えた。
傷つけられた形跡はない。
目が覚めたあと、自由に動き回れるようにしているし、部屋も清潔で快適だ。
何故自分がここにいるのか、さっぱりわからないのだが、相手に敵意や殺意は、いまのところない、と見てよい。
だが、あくまでもいまのところ、だ。
戸口の向こうにいる者たちは、ひそひそと会話を交わしているが、はっきりした言葉は聞き取れない。
自分の処遇についての相談をしているのだろうか。

これで、じつは記憶が曖昧になっているだけで、ほんとうは誰かの屋敷に招かれて、そのまま眠ってしまったのでした、という話であれば、笑って済ませる話だが…
たしかに、左将軍府の仕事を、病人を出すほどの異様な速さでこなして、広漢へ行く余裕をつくったところまでは覚えている。
宮城へ行って、あとの処理を法正に頼み、帰ろうとしたところを趙雲に捕まって、怒られたあとに、一緒に広漢へいく、という話をしたところまでは、はっきりしている。
そのあと、四方山話をしながら、一緒に宮城を出て、市を抜けて、途中で別れて、屋敷にもどって…

いや、もどったのだろうか。
そこからがあやふやだ。
そういえば、顔色がわるいと誰かに言われた。
子龍だったか? 
御者? 
いや、子龍ならば、早く屋敷に帰ろうとせかしただろう。
そうではない。
御者か、だれかかがそう言って、すこしおやすみなさいと馬車を止めたのだ。
休んでいるところへ、行商人ふうの親子連れが、こちらに気づいてやってきた。
父親のほうが、お疲れのようだからといって、声をかけてきて、商っている薬湯を飲んだらよろしいと言ってきた。
疲れに利く、といって自分もそれを飲んでみせたし、子供にも飲ませた。
そこで安心して、薬湯を受け取った。
そうだ。
そこで強烈な眠気におそわれて、御者に、屋敷についたら起こせと命じたのだ。
だが、御者め、唐突に物忘れがひどくなったのか、自邸ではなく、こんな山奥に主をつれてきた。

御者は、荊州時代からつかっている、家人の中でも古参の男だ。
御者が裏切ったとはおもえない。
孔明の家人は、ほぼすべて、なんらかの形で訓練を受けている者たちばかりであり、かれらは主人の孔明に心服している。
孔明にとっても、かれらは単なる使用人ではなく、家族のようなものであった。

扉を叩き、向こう側にいる相手に、自分が起きたことを知らせようかとおもったが、相手の正体がわからない以上、不用意な真似はしないほうがいいだろうと判断した。
まず見極めなければならないことは、ここはどこで、なんのために連れてこられたのか、ということだ。
まあ、人を眠らせて連れてきたのだから、聞いて、こちらが喜ぶような内容ではあるまい。
いつまでも寝巻きではみっともないと、孔明は寝台にもどって、用意されていた服に着替えた。
色が地味なので、趣味ではないな、とおもったが、袖を通してみると、抜群に着心地がよい。
衣の形も洒落ており、なかなか高価なものと知れる。
しかも、身の丈にぴったり合った。

害意はないのだ。

孔明は、ますます自分を捕らえた者たちの意図がわからず、かんがえるために寝台に座った。
自分に敵は多い。
役職以上のことをこなしているので、でしゃばりといわれて反感を買っているし、下々にも、厳しい将軍だといわれて敬遠されている。
刑罰も、ほかの官吏が下すより厳しいので、逆恨みも買っているようだ。
上から下まで、おもい当たるところが多すぎて、ずばりこれだと言い切ることができない。

ふと、扉が、がたがたと開き、孔明は身を固くした。
天蓋の向こうにある影は、男のものがふたつ、子供のものがひとつ。
そのうち、男のひとつと子供のひとつは、まちがいなく、声をかけてきた行商人の親子だろう。
だが、その先頭に立つ男の影を天蓋越しに見て、孔明は直感的に、予想していた以上に、自分は深刻な状況にいるのだ、ということを知った。
男の身なりはすばらしく、じつに品のよい正装をしていた。
地方によって、正装にもいろいろ幅があるが、その男には洗練された中央の空気がある。
魏の人間だ。
するとここは、漢中より北なのか?

「お目覚めですかな、軍師将軍」
深みのある、穏やかな声だ。
聞き覚えはない。
孔明が天蓋から出ると、男がすこし、息を呑んだのが感じられた。

初対面の男が、自分に対し、そんな反応を示すのはいつものことだ。
世間の諸葛孔明、という印象は、ひどく奇矯なものが一人歩きをしている。
神秘の地、琅邪の出、ということも大きいのだろう。
実務においての孔明の獅子奮迅の働きが、きわだっているということもあり、諸葛孔明というのは、人間離れしたところを持っている男だ、という印象を、世人は持っているようだ。
市井のひとびとは、そのほうが面白いから、というのもあるだろうが、どちらかといえば、神秘的な印象を信じる。
しかし一方で、有識者はその話を否定し、神秘家で術士のような孔明像を否定する傾向にある。
ところが、実際に孔明という人間と対峙すると、ほとんどの者は、噂を否定しなくなる。
もとより、孔明は術士ではないが、その振る舞いや風貌が、どこか夢幻の世界にいるような印象を与えるからである。
男とも女とも区別のつかぬ柔和な美貌と、陽気と妖気をあわせもつ、ふしぎな男。
孔明は、自分でも、こんな人間、天下に二人といなかろう、と自負しているので、男の示した反応は、当然だとおもった。
蜀の人間は、孔明にすっかり慣れてしまっているので、いまさらなんとも言わないが、たまに他国者と会うと、こんな反応がかえってくる。

さて、孔明の顔をまじまじと見入っている男である。
人の顔を凝視するなど、無礼な態度であるが、それを不快におもわせない、高い身分をにおわせる品のよさがあった。
年齢は孔明より一まわり上だろうが、肌艶もよく若々しい。
落ち着いて堂々としており、信頼できそうな、おのれの信念をたやすく曲げない者どくとくの、しっかりした印象を残す風貌をしていた。
男は、孔明に対し、慇懃に礼をとると、言った。
「斯様なかたちでの対面をお許しくだされ。時間がないために、やむを得ず取った行動でございます。これもすべて万民のため、天下のため」
孔明は眉をしかめて、その礼を返さなかった。
いきなり自分を略取したという点を認めたことについては評価できるが、その理由が天下だの万民だのと、あいまいすぎる。
「貴殿のご尊名をお伺いしたい」
「御史中丞、陳長文」
孔明は、自分の血が一気に下がるのを感じた。
曹操を支える知の三本柱。
そのうちの一柱、陳長文。
名族陳氏の主である。
ここは、魏なのか。
なんとか冷静な矜持を保とうと、おのれを叱りつつ、目の前にいる、小柄な男を見下ろす。
そして、尋ねた。

つづく……

(サイト はさみの世界・初掲載日 2005/05/19)

風の終わる場所 8

2020年12月02日 10時02分27秒 | 風の終わる場所
趙雲の知る劉封という青年は、劉備の養子に迎えられたころは、もっと溌剌としていた。
それが、孔明が軍師に迎えられ、時をほぼ同じくして、劉禅が生まれてから、様子がおかしくなってきた。
劉禅が生まれたときは、幼い弟の後見になろうと、それなりの立派な自負を持っていたらしい。
しかし、劉備は、養子の劉封より、赤の他人である孔明に目をかけ、孔明は自然と、劉禅の後見のような立場になっていった。
ただし、孔明がでしゃばってその地位を劉封からうばった、というのではない。
劉禅が義兄よりも、やはり他人の孔明のほうになついた、ということでもあるし、劉封の主張のつよすぎる性格と、うかつな言動が、劉備の不審を招いた、ということである。
そのような経緯があるために、劉封は孔明を恨んでおり、劉禅を恨んでいる。
劉禅は、義兄の気持ちを敏感に察して、ますます劉封から離れ、孔明はそれを庇う。
孔明の手が足らないときは、孔明がもっとも信頼する武将であり、劉禅を命がけで救った勲功をもつ趙雲に、白羽の矢がたつ。
そして、劉封は、趙雲も憎むようになる。

「如何いたしましょうや。いかな劉副軍中郎将とはいえ、弟君にあのような狼藉を働かれるとは、ゆるせませぬ」
「単なる兄弟げんかと片づけられる年齢差ではないからな。かといって叔至、ことを騒げば、劉副軍中郎将を後継に推す者たちが騒ぎ出すぞ」
「すばり、軍師将軍の敵たちですな。
まったく、荊州では?軍師を推し、?軍師が戦死なされると、今度は益州にやってきて、劉副軍将軍を推して、軍師の権威を弱めようとする。
奴らはいったい、なにがしたいのでしょう」
「それこそずばり、軍師の邪魔がしたいのさ」

面倒になりそうな気配を感じ、趙雲は、劉禅を市に連れてきたことを後悔しながら、ひとまず、宮城へもどって、劉禅を側仕えの者たちに託した。
劉禅はしょげかえっており、趙雲は、おおいに周囲の者たちに責められたが、劉封のことは言わなかった。
馬車のなかで、劉禅に、口止めをされたからである。
劉禅は、兄が自分を突き飛ばしたのは、酔っ払っていたからだ、と言った。

趙雲は、勘のよいところで、突き飛ばしただけではなく、劉封は、暴言も劉禅に投げつけたのだろうと見当をつけたが、問い詰めると、少年は泣き出しそうであったので、ほかの面から探ることにした。
そして、取って返すようにして、すでに店じまいのはじまっている、市へもどる。
ひよこ売りはまだ残っていた。
商品のひよこたちのさえずりを聞きながら、悠然と夜闇のなかで、ひょうたんの水を飲んで休んでいるところであった。
「おい、ひよこ売り。聞きたいことがあるのだが、よいか」
ひよこ売りは、へえ、なんなりと、と言って、趙雲に顔を向けた。
「なんでございましょう、旦那様」
「うむ、さきほど、おまえの店の前で、少年が男に突き飛ばされたのを覚えておるか」
「はあ、覚えておりますとも。ひどい酔っ払いでしたな。あの男が、なにかしでかしたのですか」
「そのようなものだ。聞きたいのだが、そのとき、男は、あの少年になんと言っていたか、聞いておったか」
「妙なことを口走っておりましたので、覚えております。坊ちゃんのほうは、うちのひよこが可愛いだろうといって、男にみせてやっていたのに、あの酔っ払いときたら、『おまえのような愚か者なぞ、そのうちにこの国から追い出してやる』と言い放ったのですから」
まったく、子供に言う言葉じゃございませんなぁ、とひよこ売りは嘆かわしそうに首を振る。

だいたいの予想はつけていたが、趙雲は、あまりに直情的な劉封の言葉に暗然とした。
そして、それを告げずに、沈黙した劉禅のことをおもった。
愚か者、と言われたので、劉禅は単純に、勉強をしなければと、おもったにちがいない。
さらに、国から追い出してやる、などと嘯いたとは、迂闊もよいところ。
つまり劉封は、義弟を追い出し、自分が劉備の後を継ぐのだと、堂々と、当の本人に向かって宣言したも同然だ。
自分ひとりの胸のうちにしまってよい話ではない。
だれに告げるべきか。
劉備か? 孔明か?

答えは向こう側からやってきた。

「おや、趙将軍ではありませんか。このような時間に、この界隈にいるとはお珍しい」
言葉遣いの丁寧なのにだまされてはいけない。
口調はおもい切り、趙雲を揶揄している。
「おまえのそれは、どうして直らぬのかな」
「三つ子の魂なんとやら、でございますよ」
胡偉度は、洒落た形をした、複雑な編み方の笠から顔をあげて、にいっ、と人懐っこく笑った。
「おまえこそ、この時分になにをしている。聞けば、左将軍府では、むずかしい案件が集中し、軍師の主簿のひとりは、高熱を出して寝込んでいるほどだという話ではないか」
それを聞くと、偉度は侮辱されたかのように、顔をしかめた。
「わたくしを、ほかの主簿と一緒にされては困ります。これでも仕事で動いているのですよ。貴方さまは、女漁りでございますかな」
「……」
趙雲は黙って、怒りを抑えた。
この青年、趙雲を怒らせることを無上の楽しみにしているのだ。
「あなたのその顔が出たところで、冗談は止しにしましょう。軍師から聞いてはおられませぬか、先日、費家が賊に襲われたという話」
「なんだと? で、文偉は無事か?」
「みな無事ですよ。おや、ご存知なかったのですか」
といって、偉度は後れ毛を指先でくるくると手巻いてみせる。
年々、気味が悪くなるほど、偉度は孔明に振る舞いが似てきている。
「知らぬ。どういうことだ? 賊とは、いったい何者なのだ?」
「ああ、もしかして薮蛇だったのかな…」
言いつつ、偉度は趙雲に事情を話はじめた。





趙雲は、怒りのあまり、ろくに眠られぬまま、早朝に起き出して、おびえる家人たちに出立の準備をさせると、それから一番に左将軍府へとむかった。
趙雲の剣幕に、左将軍府の文官たちはすっかり肝をつぶしていたが、趙雲は無視し、孔明の所在を尋ねた。
孔明は、仕事の仕上げとして、法正のところへいって、最終的な詰めの作業をしている、という。
それを聞くや、趙雲は馬を飛ばして宮城へ行き、ちょうど法正のところから辞去しようとする孔明を見つけた。
それこそ、顔を見たら、今度こそ殴り倒してしまうかも知れぬ、とおもっていた趙雲であったが、法正と力のない声で話をする孔明の、いつになく疲れた様子を見たら、毒気を抜かれてしまった。
あの法正すら、いつもならば、表面はにこやかにしつつも、孔明に嫌味三昧を浴びせるところであろうに(それが法正の仲間意識の表現方法なのだということに気づいたのは、つい最近のことであるが)さすがにそれでは、単なる弱い者いじめとおもっているのか、いつもより態度が控えめだ。
法正がきつねのような顔をしかめて言う。
「許長史が、またも死相が出ていると騒いでおられなかったか」
「それほどひどい顔をしておりますか」
「陰気そのもので見るに耐えぬ。近くに立っていれば、こちらの運気まで下がりそうな。はた迷惑なので、早々に屋敷に替えられて、ゆっくり休まれるがよかろう」
最後のひとことだけでよいものを、どうして余計なことばをたくさんつけるのであろう、と趙雲は首をかしげた。
しかし、いつもの孔明ならば、法正のことばに数倍は応酬するところであるが、力なく、そういたします、といって、場を辞去する。
そしていつもならば、嫌味で、さっさと踵を返してしまう法正も、孔明のふらふらした様子に、きちんと見送りの体勢を取っているのが、妙に微笑ましい。
孔明は、心身ともに疲れきっているのか、視線もぼんやりとして、眠りながら歩いているのではないかというほどだ。
そんなふうであるから、廊下に待機していた趙雲を見つけたのは、法正のほうが先だった。

「おや、翊軍将軍、お久しゅう」
趙雲は、蜀の文官の頂点たる、法正に礼を取った。
孔明すら、実質上の地位も、権限も、法正には敵わない。
法正は、性格上はさまざまに問題があるが、政務にかかわる能力に関しては、孔明をも上回る実力の持ち主なのだ。
とはいえ、孔明のほうが上、と世人が錯覚しがちなのは、やはり孔明のもつ圧倒的な存在感が、あまりに明るい印象を残すからであろう。

「よきところへ。貴殿の軍師が死に体ぞ。行き倒れになる前に、回収してはくれぬか」
「承知いたしました。ご迷惑をおかけして申し訳ござらぬ」
「迷惑も迷惑、いつもは満月のように煌びやかな男が、斯様にしょぼけている様子を見るのは、正直、心苦しいものよ。
まったく、呆れるではないか。軍師将軍は、ほかの者たちが一年かかって仕上げる案件を、なんと三日ですべてこなしてしまわれたのだよ。
とはいえ、決裁は我らがするのだ。我らも軍師将軍の仕事に合わせて、一年分を三日でこなさねばならぬ」
「揚武将軍ならば、たやすく仕上げることができましょう。もしかしたら一日でこなせるやもしれませぬな」
法正は、趙雲が、武将にしては口が立つ、ということを忘れていたらしく、む、と顔をしかめた。
「軍師どの、揚武将軍のお言葉どおり、今日は屋敷へもどりましょう」
いつになく畏まった趙雲の言葉に、孔明はどんよりした目を向けてきた。
「声をたてられぬほどに疲れておられるのですから、無理はいけませぬ」
と、趙雲は、自分にできうる限りの、最高にやさしい笑顔を浮かべてみせた。
法正は、忙しいので失礼する、といって、さっさと執務室にもどっていく。
残された孔明は、ぼんやりした表情が、雪が融けるようになくなって、あきらかに恐怖とも表現できるような、強ばった顔になった。
「どうされました?」
趙雲が、優しげな、しかしその実、目がまったく笑っていない笑顔を向けると、孔明は、蛇ににらまれた蝦蟇のように冷や汗を流しつつ、云った。
「あなたこそ、どうした。なにをそんなに怒っている?」
「御胸に手を当てられて、どうぞごゆっくりおかんがえ下さい」
孔明は、おっかなびっくりと、それでも素直に胸に手を当てて、なにやらおも案している。
「このあいだ、たけのこをもらった礼が、十分でなかったから、か?」
「たけのこなんぞは、どうでもよろしい」
「さっぱりわからぬ。では、もっと以前のことであろうか」
「いいえ、ここ数日のことでございます」
孔明は、こめかみをひきつらせつつ、おずおずと言った。
「もしかして、費家のことか?」
「それだ! この大馬鹿者めが! なぜ俺に知らせない!」

戦場で見せるような大音声を響かせたので、廊下を行く宮女はもちろん、それぞれ部屋で仕事をしていた文官、武官までが、仰天して顔を出す。
趙雲は、それら全員の視線を、虎のようなひと睨みで退散させた。

孔明は、怒鳴られたことで、顔を赤くしつつ、抗弁する。
「仕方なかろう。あなたも忙しい身であるし、いつまでも、あなたばかりに頼っていては、後進が育たぬ。
それゆえ、今度は偉度や公琰に任せたのだ。決して、仲間外れにしたのではないぞ」
「殴るぞ」
「おや、ちがうのか」
「ちがう! 俺は連絡がなかったということを怒っているのではない。もしも、別の件であったなら、俺はおまえのかんがえに賛成しただろう。
だが、此度の件、もしも費家のだれかが傷ついていたら、どうなったとおもう? 
費家は劉璋についていった者と、主公に従った者とに別れている。もし益州の費家に何事か起これば、それこそ劉璋に従った費家の、そして、おまえの政敵どもが、おまえを引き摺り下ろし、攻撃する、格好の材料とするだろう。
なぜ、文偉を囮にするような真似をした。それに終風村のからくりについても、時間をかければ、危ない橋を渡らずに調べることができたはずだぞ。
李正方に遠慮しているというのなら、それこそ俺を使えばよかったのだ!」
孔明は、趙雲の言葉にしばし唖然としていたが、やがて、ふうっ、と大きく息を吐いて、云った。
「わたしは、あなたがどういう人だったか、しばらく忘れていたようだよ」
「おもい出したか」
「おもい出したとも。すまないな、子龍。そんなふうに怒ってくれるのは、あなただけだ。たしかに浅慮であった」
孔明は言うと、いささか気まずそうにはしているものの、素直に頭を下げてきた。

昨日から、それこそ怒りで居ても立ってもいられなかった、というのに、孔明本人に会い、素直に頭を下げられたことで、趙雲は嘘のように、気持ちがおちついた。
そうして、孔明に仲間外れにしたのではないと指摘されたものの、じつはそれこそが怒りの元だったのではないかとおもい、気恥ずかしくなってきた。

「…うむ、俺も言いすぎた」
「そうか。よかった。これから大仕事があるというのに、あなたと仲たがいしてしまったら、気になって、身動きが取れなくなってしまうからな」
「大仕事?」
趙雲が鸚鵡返しにすると、孔明は、周囲の目を気にしつつ、大きくうなずいた。
そうして、移動しながら言葉をつづける。
「偉度から、若君の件は聞いたよ。偉度があなたに終風村のことを話したこともね。
それで、おそらくあなたが、そろそろ現れるのではないかとおもっていたのだが、予想以上に早かったな。しかし、助かる」
「どういうことだ」
「偉度からの報告で、劉副軍中郎将が、今日、成都を発ったらしい。表向きは、昔馴染みを荊州に送っていく、ということだが、おそらく、かれらの行き先は、広漢ではないかとわたしは睨んでいる」
「広漢…終風村か?」
「呉の細作の娘が正直者だと信じるならば、終風村のことは捨て置いてもよいとおもう。
だが、気になるのは、魏の細作の動きだ。かれらは、なにが目的で終風村にやってきたのだろう? 劉封どののことといい、どうも気になるのだ」
趙雲は、孔明の話し振りから、なにをかんがえているか、気がついた。
「左将軍府の仕事を異常な速さでこなしてみせたのは、みずから広漢へ赴くためか?」
孔明は、にっこりと晴れやかな笑みを向けた。
「その通り。李正方と、盗賊たちの件についても、話ができるし、終風村の件もこの目で確かめることができて、一石二鳥だ。どうだ、付いてくるか」
「付いていくのはもちろんだが、その前におまえを止めるべきだろうな」
すると、孔明は声をたてて、ほがらかに笑った。
「あなたならば、そんなことに意味がないと、いちばんよく知っているじゃないか。
さて、揚武将軍どのがおっしゃったとおり、いまのわたしはひどい有様なので、すこし屋敷で眠らせてもらうよ。出立は明朝だ。それまでに、あなたも準備していてほしい」

なんだか新野にいた頃にも、こんなことがあったなとおもい出しつつ、趙雲は、妙に浮き立つおのれの心を、静かに叱りつけた。

つづく……

(サイト はさみの世界・初出 2005/05/05)

風の終わる場所 7

2020年11月28日 09時47分23秒 | 風の終わる場所
夕闇の市は、雑多に混みあう。
昼間ならば、容赦ない白日が正体を暴き立ててしまう物も、黄昏どきのあいまいな光線は、ぼんやりとその輪郭を、ひとびとの視界から隠してくれる。
「ねえ、子龍、あちらの店を見て来てもかまわないだろうか。ちゃんと目の届くところにいるよ」
と、劉禅が指で示した先には、籠いっぱいにヒヨコを入れた店が立っていた。
ざわついた市のなかでも、ひっきりなしにつづく蒲公英のような色の小鳥たちの声は、とくに耳に訴えてくる。
趙雲が、よろしいでしょう、と言って肯くと、劉禅は、にっこりと、うれしそうな笑顔を向けて、ぱたぱたと軽やかな足音をさせて走って行った。
趙雲は、ひさしぶりに市場にやってきた公子の、楽しそうな姿を見て、知らず、微笑んだ。

劉備が年を経て得た、健康に育ちきった、はじめての子、ということもあり、劉禅は、過剰なほど大切に育てられている。
しかも、かつて孫夫人に略取されかけたことがあったために、その養育をつとめる者たちは、いっそう頑なになって、劉禅を宮城に閉じ込めるようにして育てていた。
劉禅は、趙雲を赤子のときから知っている、ということもあり、まるで実の兄のように…いや、実際のところ、親子といってもいいほどの年齢差であったが…慕ってくる。
それは臣下として、誇るべきことがらであったが、しかし、趙雲の内面は複雑である。

不意に、ぽんと肩を叩かれ、おもわず身構える趙雲であるが、この自分の不意をつく、などという芸当のできる人間は、成都にも数人しかいない。
見ると、副将の陳到であった。
頭に笠をかぶり、平服で武器すらもたず、かわりに持っているのは白菜の束。
あきれるほど特徴のない素朴な顔に、きらきらと好奇心に輝く双眸が光っている。
「奇遇でございますな。将軍が、市に来ているとは、お珍しい。もしや、逢引きでございますかな?」
興奮しているのか、なんなのか、陳到は『逢引き』の言葉だけをやたらと声高に言う。
そのため、市場の往来のひとびとが、何事かと視線を向けてきた。
「声を落とせ、みっともない。俺の用事は」
と、趙雲は、ひよこの店に向かった劉禅を示した。
笠を上げて、劉禅の姿を見た陳到は、あからさまにがっかりして、「なあんだ」といった。
趙雲とあまり変わらぬ年頃だというのに、十は老けて見える陳到は、近頃、おのれの部下たちを、評判のよい町娘と娶せるのを趣味にしていた。
最終目的は、自分の紹介で趙雲を結婚させることらしい。
「公子がお珍しい。よく、おばばたちがお許しになりましたな」
「まあ、いささか苦労はしたが、おばばたちには、これも市井の様子を知るためと説得をして、公子を連れ出すのに成功したのだ。なんだ、その目は」
「いや、趙将軍はあいかわらず、馬と子供の面倒は、よく見られるお方だな、と。公子は、われら家臣のうち、趙将軍に、いちばん懐かれておりますからな。なにせ、赤子であったあのお方をお助けした、長坂の英雄なのですから」
陳到は、上司の誉れ高いことが、自分のことであるかのように、嬉しそうに声をたてて笑った。
無邪気な陳到が向けてきた言葉は、ほかの者から、嫉妬混じりによく向けられる言葉でもあるが、趙雲は素直に肯けず、うむ、と曖昧に言葉をにごした。

長坂の戦いにおいて、混乱し、戦場に取り残された幼子を、趙雲が単騎で救い出したことは、いまもって語り草となっている。
が、趙雲が気にしているのはその後のことである。
劉備は、趙雲が救い出した劉禅を見て、子供が助かったことよりも、おまえがもどってきてくれたことがうれしい、と言った。
家臣として、これほど、ありがたい言葉はほかにない。
趙雲はひどく感激したものだが、しかし、おのれの武勇譚が、格好の材料として、兵卒たちへの鼓舞に使われるようになり、講談師に使われるようなり、そうしてどんどん誇張されるにつれ、趙雲はむしろ口を閉ざし、人が、あまりおのれのことを過度に賞揚しないよう、目立たぬように振る舞うようになった。

「趙将軍は、公子に気を遣いすぎですぞ」
と、顔を曇らせる趙雲に、妙に鋭い陳到が、ずばり言う。
「公子は聡明なお子ゆえ、父君が、なぜそのような言葉を趙将軍に向けられたのか、ちゃんと理解されているでしょう」
「そうだろうか。子供ならば、まずは自分が助かったことを、父親に喜んで欲しいとおもわないだろうか」
「かんがえすぎでございますよ。大人がおもう以上に、子供というものは聡い。むしろ、おのれが、趙将軍のようなお方に助けられたことを誇りにおもっておられる。でなければ、あのように慕ってこられないでしょう」
無類の子煩悩の陳到にいわれると、趙雲も、わずかに慰められる。
そして、その言葉が、ほんとうにそのとおりであればよいな、とおもう。

趙雲は、自分があまり父母の愛情に恵まれなかったがゆえに、その姿を、どこかで劉禅にかさねていた。
劉禅が生まれてからの劉備というのは、まさに劉禅が母の胎内から、幸運をも一緒に連れてきたのではないかというほどの昇り竜。
しかし皮肉にも、劉備はそれゆえに、家庭をまるで顧みる余裕がなかった。
ほとんど共に暮らすこともなく、いまもって、滅多に顔をあわせることもない。
そして、育ての母、糜夫人は戦乱でなくし、生母はほどなく死亡、養母の孫夫人も、ほかならぬ趙雲の失態ゆえに(と、趙雲は自身を処断している)、失った。
さらに、趙雲の武勇譚とともに聞こえてくる、父親の言葉。
自分は、この少年から、母親だけではなく、父親までも奪ってしまったのではないか。

「だが、俺は気になることがあるのだ。公子は、俺が宮城に上がると、かならず姿をあらわして声をかけてくださるのだが、そのときに、ひとことも主公のことを話されない。呉夫人のこともそうだ。
その代わり口に上るのは、自分を育ててくれている側仕えの者の話、あるいは宦官などの話だ」
「それは、公子がむずかしい年頃になられた証しでしょう。
男の子というものは、長じれば長じるほど、親の話はしなくなるものでございますよ。それはどんな孝行息子とて同じこと」
「そうだろうか。おもえば、公子から、主公の話が出たことは、ほとんどないようにおもえる」

そこに趙雲の危惧がある。
そもそもからして、劉禅の視界に、劉備はいないのではないか。
趙雲が戸惑うほどに、劉備と劉禅の関係は希薄なのだ。
これはさすがに、だれにも口にできないでいたが、趙雲は、劉備が、子供は放っておいても育つと、勘違いをしているのでは、と危ぶんでいた。
劉備の義弟たる関羽や張飛。
かれらの子供たちは、うらやましくなるほど、のびのびと、立派に育ってはいるが、それはなにも父親が立派なので、その背を見て、子供たちが自然に立派に育ったのではない。
かれらの家庭には、夫を敬愛する妻女がおり、そのかれ女たちが、夫を助け、子供たちを育て、支えているのだ。
劉備が、群臣にすすめられ、あらたにむかえた呉夫人は、劉備に似合いの、家庭的な夫人ということだが、なさぬ仲の子、しかも多感でむずかしい時期をむかえた子を、どこまで支えきれるであろう。
呉夫人は、劉禅の義弟にあたる、おのれの腹を痛めた幼子の養育もしなければならないのだ。
自分にその権限さえあれば、もっと劉禅と関わって、しっかり支えてやりたいとさえ、趙雲はおもう。
劉備にその願いを申し出れば、意外にあっさりと受理されるかもしれない。
しかし、趙雲は、いまの役職を返上し、劉禅のための主騎になることに、踏み切れないでいた。

「趙将軍、あれを」
陳到の声が、強ばり、見ると、店の店主とひよこを選んでいた劉禅が、立ち上がって、笠で顔を隠した武人ふうの男と話をしていた。
往来のにぎやかさにまぎれて、どんな言葉を交わしているかはわからない。だが、ずいぶん親しそうである。
顔見知りなのだろうか。
趙雲が劉禅のところへむかおうとした途端、男の様子が変わった。
どういうわけか激昂したらしく、なにか言葉を劉禅に投げつけると、戸惑っている劉禅の肩を、どん、と強く叩いた。
「叔至、頼む!」
お任せを、と低くつぶやくと、抱えていた白菜の束をうっちゃって、笠の男を、鳥のような素早さで追いかけた。
趙雲は、陳到の買い物を拾い上げ、そうして、地面にしりもちをついている、劉禅のもとへとむかった。
「大丈夫でございますか、若君」
劉禅は、しりもちをついたまま、ぼう然と、男と、陳到が走り去ったほうを見つめている。
「お怪我はございませんか」
趙雲の言葉に、劉禅は、ううん、と首を横に振って、それから、不意に、泣きそうな顔になって、うつむいてしまった。
「かえる」
「来たばかりではございませぬか。あの狼藉者は、きっと捕らえて見せましょう。
ヒヨコはよろしいのですか? それがしが引き取りますゆえ、遠慮せずに、お買いになられたらよろしいでしょう」
「ヒヨコはまたにするよ。弟たちが喜ぶかとおもったけれど、そんな気分ではなくなってしまった」
「ならば、ほかの店を回りましょう」
趙雲が肩を掴んで、包み込むようにして助け起こすと、劉禅は、やはり視線を下に向けたまま、首を横に振った。
「いい。もう、かえる。かえって勉強する」
「勉強?」
この、父親ゆずりの素直さをもつ少年は、人が進めるままに書を読み、暗記し、答える。
それが身についているか、となると別の話であるが、どんな課題を出されても、文句もいわずにこなすのは、美点であった。
「もう日が落ちるのに、勉強をされるとおっしゃるのですか」
うん、と肯いて、劉禅は、趙雲の手をやんわりと振りほどいて、とぼとぼと、市場を出ようとする。
たまに、市場の商人たちが、威勢のよい声をかけてくるが、それすらも知らぬ顔である。

趙雲は、突然の劉禅の変わりように戸惑った。
笠の男に狼藉を働かれた市場がいやならば、自分の屋敷の厩で飼っている、子ロバやら子馬を見せてやろうかとおもったが、劉禅は、意外に意固地なところをみせて、やはり、かえる、の一点張りであった。
「子龍、叔至は、あの方を捕らえるであろうか」
劉禅のことばに、趙雲は、おや、とおもった。
狼藉者に対して『あの方』とは。
「叔至は、あれでも、それがしの部将のなかでは、もっとも武芸達者でございます。おそらくひっとらえて参りましょう」
「捕まらないほうがよいのに」
と、劉禅は言った。
ますます趙雲は怪訝におもったが、うつむき、じっとおもいつめた目をした少年は、あまり話をしたくない様子であったので、深く尋ねることはやめた。
では、またにしましょう、と言って、趙雲が劉禅を、連れてきた馬車に入れていると、ほどなく、息を切らせた陳到が帰って来た。
それを見て、趙雲はおどろいた。
まさか、叔至が、見失ったのか?
「それがしでは判断しかねましたので、追うことを中断いたしました」
と、陳到は、この男らしからぬ深刻な顔をして、言った。
その意味ありげな言葉に、趙雲は、劉禅の世話を御者に頼むと、会話の聞かれないところへと陳到をつれていく。
「どういうことだ?」
「劉副軍中郎将でございました」
趙雲は、仰天し、さらに陳到の腕を掴んで、劉禅の乗る馬車から離れる。
「まことか」
劉姓は天下にあまたいるが、副軍中郎将を拝領する劉姓の男、といえば、蜀には一人しかいない。
劉備の養子にて、長子の劉封である。
「なぜだ」
「劉副軍中郎将は、逃げはいたしましたが、途中から追っているのがわたくしと気づきますと、足をゆるめまして、その後、悠然と妓楼へ入っていきました」
「妓楼、とな?」
「踏み込むにしても、将軍にお知らせしてから、とおもいまして。それに、気になることに、その妓楼、ただの妓楼ではなく成都でも一、ニを争う高級店でございます。
そこの下働きの娘をつかまえまして、劉副軍中郎将が、ここによく出入りしているのかと尋ねますと、ここ数日はそうだ、と。
荊州の昔馴染みがやってきたとかで、ともに連日泊り込み、おおいに賑やかにしている、とのこと」
「昔馴染みか。しかし、おかしいな」
趙雲の疑惑に、陳到もおおいに肯く。
「劉副軍中郎将は、たしかにお若いのに立派な軍功をあげられて、それなりの報酬を得ておられる。
しかし、妓楼に大人数で連泊できるほど、内容のある収入ではないはずです」
「二つ、可能性がある。ひとつは、劉副軍中郎将が、見栄を張り、昔馴染みを高級店へ泊めさせてやっている、という可能性。あの性格からすれば、おおいにかんがえられることだ。
二つめの可能性は、昔馴染みのほうに金があり、逆に奢ってもらっている、という可能性だ。その、昔馴染みという相手のことは、探れたか」
「そこまでは。しかし、あまり感心せぬことに、昔馴染みという男、子連れで妓楼に連泊しているとか。しかもその子供、まだ十歳になるかならぬかの、少年だというのです」
「筋のよくない相手、ということか」
言いつつ、友を選ばぬところは、昔からかわらぬ、と趙雲は苦くおもう。

つづく……

(サイト はさみの世界・初出 2005/05/05)

風の終わる場所 6

2020年11月18日 10時38分07秒 | 風の終わる場所
かれらは、立ち位置の利点を活かして、手刀や弓でもって、上空から刺客たちを狙っていく。
たまらないのは、胡偉度をはじめとする、味方の細作たちである。
本来ならば戦わねばならぬ相手と接近しているがために、飛んでくる手刀を避けたり、あるいは矢を振り払ったりしなければならず、しかも目の前の刺客たちは、上空からの攻撃を受けながらも、容赦なく、隙あらば斬り付けてくるのだ。

「蜀の者たちよ、聞きなさい! わたしたちは、貴方がたと戦う意志はない! ともに曹操の狗と戦おうではないか!」
芝蘭の声に、何本目かの矢を地面に振り落とした胡偉度は叫んだ。
「都合のいいことを申すな! いまわれらと戦う者が曹操の狗ならば、おまえたちは何者ぞ!」
「江東訛り…孫権の狗であろうよ」
と、公琰が、芝蘭の代わりに答えた。
芝蘭は、口をぎゅっと引き結んで沈黙を守っている。
しかし、その沈黙こそが、公琰の言葉に対する答えであった。
「なるほどな。魏と呉が連合していたが、仲間われをはじめ、よい風を得ようと、呉がまたも我らに助けをもとめにきた、というわけか!」
いいざま、胡偉度は、鮮やかな手並みで、そばにいた魏の刺客を切り伏せた。
そうして、仲間たちに下知をする。
「兄弟たち! 聞いての通りだ。目の前の敵を打ち滅ぼせ!」
偉度の声に応えるように、ふたたび剣戟がはげしくなり、ついで、芝蘭の操る銀狼が、雄雄しく遠吠えをした。
多勢に無勢、ということもあり、魏の刺客たちはつぎつぎに討ち取られ、費家の庭に、無残な屍をさらした。

最後の一人が、逃げようとするところを、偉度の手刀でもって倒されると、公琰は、長剣を鞘にしまって、塀の上で仲間たちに指示を出していた芝蘭に呼びかけた。
「さて、今宵限りのことかもしれぬが、貴女方とわたしたちは仲間だ。そのようなところにいないで、降りてこられては如何か」
しかし、芝蘭は、皮肉げに苦笑すると、首を振った。
「無礼を承知で、ここにいさせてもらいましょう。馴れ合いはしたくありません」
「では、名乗るくらいはさせてほしい。わたしの名は蒋公琰。文偉の友人だ。まず、文偉を三度にわたって助けてくれたことに礼を言う…」
そうだ、と文偉は屋敷から這うようにして出て、頭上の芝蘭に叫ぶようにして言った。
「待った! 先にわたしに言わせてくれ! ありがとう、芝蘭! 貴女のお陰で、わたしは生きながらえることができた。貴女はわたしの命の恩人だ!」
それまで、近づきがたいほどに威厳のある矜持を保っていた娘は、文偉の登場に、笑ってよいものか、それとも無視するべきか、困っているような、フクザツな表情を見せた。
「貴方を助けたのは、無意味な死は、好まないからですわ」
「しかし、費観殿の部下は救わなかった」
偉度の皮肉を利かせた声に、芝蘭は、おおいに眉をひそめる。
「費観の部下など、民を見殺しにするくせに、威張ってばかりいる、ろくでなしですもの」

偉度は、血にべっとり濡れた衣を始末しつつ、乱れた結髪をまとめていた頭巾をほどいて、豊かな黒髪を風に流した。
そのさまは、見るものを意識してのことでもないであろうが、どこか色っぽく、芝蘭に意識は向かいつつも、一瞬だけ、文偉は偉度に目をうばわれた。
そうして、あわてて、コレは男だ、とおもい出し、芝蘭を見る。
そんな文偉を、芝蘭はじっと見つめていたようだ。
ふたたび目が合うと、芝蘭はすこし怒ったような顔になった。

公琰は、そんな二人をよそに、前に進み出る。
「芝蘭どの、これからわたしが言うことに、誤りがないかどうか聞いて欲しい。
広漢の周辺は、盗賊どもが横行している。村々は襲われ、被害は絶えないというのに、盗賊討伐の任を果たすべき李将軍は、中央復帰の野望が強すぎて、大手柄を狙い、なかなか討伐にかからない。それゆえ、広漢は無法地帯に等しい状態になっている。
そこへおまえたちは目をつけた。魏か、呉か、どちらが先に話を持ちかけたのかは知らぬ。おまえたちは蜀に潜入するため、互いに手を組んで、村をまるごとひとつ、自分たちのものにしたのだ。
魏は、呉ほどにこちらの地理に詳しくない。呉は、魏ほどに多くの手勢を持っていない。蜀としても、まさかひとつの村の村人が、そっくりそのまま、刺客と入れ替わっているなどとはおもわぬから、すっかり油断し、おまえたちはおもうさま動けた、というわけだ。
終風村が選ばれたのは、費家の所領であったからだ。費家の族姑は、劉璋の母。そして劉璋は、いまだ蜀への帰還を狙っている。おまえたちに終風村の情報を教えたのは、劉璋だろう」
「公琰殿、諸葛孔明が、その才に惚れこみ、育てているという、その評判は伊達ではないようですね。だいたいそのとおり」
芝蘭は、隻眼を鷹のように鋭くして、公琰を見る。
「李正方は、中央へ返り咲くための大手柄を狙って、たびたびの広漢の住民たちの懇願にもかかわらず、盗賊たちを討伐しようとしなかった。
終風村の住民たちも、なんども盗賊たちに村を襲われ、すっかり絶望してしまったのよ。
そこで、かつての領主であった費家の者…費観に頼んだのだけれど、費観は費観で、むずかしい立場におかれているから、終風村の村人たちの声に応えることができなかった。
おもい余った村人たちは、荊州に移住した費家の族姑に陳情に行ったのよ。費家の族姑は、かつての領民たちの窮状に怒り、やはり劉備に益州は任せておけないと、わたしたちにこの計画をもちかけてきたの」

「なんと、族姑さまが…」
文偉は絶句した。聡明でやさしい女人であったが、その優しさは、益州に留まった同族には向けられなかったらしい。
「われらが主・孫仲謀さまは、同族よりも領民を優先させて、なんとか救って欲しいと訴えてきたあなた方の族姑の話を聞いて、いたく感動されたの。
とはいえ、李正方も無能ではないから、わたしたちが、普通の形で蜀に入ることがむずかしかった。そこで、終風村の村人と相談して、村をまるごと譲り受けることにしたのよ。そうして、こっそり村人と入れ替わったの」
「大胆だな…しかし、それならば、魏と手を組む必要などなかったであろう。現に、こうしておまえたちは仲間割れをして、殺しあっている有様だ」
「わたしたちは、困っている者たちを、助けるためにやってきた」
芝蘭は、誇り高いその表情を、憎しみに歪ませて、言った。
「魏は、どこからかわたしたちの計画を探り当てて、蜀に計画をばらされたくなかったら、手を組め、と言ってきた。
蜀の地で、蜀と魏に挟み撃ちにされたら、いかにわたしたちとて、ひとたまりもない。そこで仕方なく、手を組むことにしたの。そこへ、貴方がやってきた」
と、芝蘭は文偉を見る。
その目は、公琰を見るときより、やさしい。
文偉の隣には、戦闘のあいだ、ずっと文偉を守ってくれた銀狼が、よく躾けられた犬のようにお座りをして、芝蘭の命令を待っていた。
「わたしたちは、あなたの旅の目的が、決してわたしたちの害にならないと知ったので、普通に貴方を帰して差し上げるつもりだった。けれど、魏の馬光年は、どうしても貴方を殺すといって聞かなかった」
「戸籍の件だな」
公琰の言葉に、芝蘭は肯く。
「そうよ。諸葛孔明が計画しているという戸籍の話を聞いて、馬光年は小心者なので、すっかり動転してしまったの。
あいつらが、なにを企んで終風村に入り込んだのかは知らない。
けれど、かれらにとって、いま、自分たちを調べられることは、危険だと判断したのはまちがいないわ。あいつらは、戸籍調査をするために、文偉さま、貴方が孔明直々の命令を受けて派遣された者だと勘繰ったのよ。
馬光年は、貴方と伯父君が、董幼宰を通じて、諸葛孔明と親しくしていることをも知っていたわ。やつらは、諸葛孔明を極端に恐れているの」
偉度は、芝蘭の言葉におおいに納得しつつ、いつもの冷笑的な笑みを浮かべた表情で、芝蘭を見あげた。
「なるほど、馬光年は、だからこそ費文偉を消そうと躍起になり、生きていると知ると、必死になって成都にまで追いかけてきた、というわけか。
すべてがわかったところで、姑娘、あんたがそこまで詳しく手の内をさらすということは、我らになんらかの頼みがあると見てよいのかな」
「そのとおり。正体が知れた以上、わたしたちは、終風村から引き上げるわ。孫権さまは、貴方がたとの仲が、必要以上に険悪になることを喜ばれないの。
今度のわたしたちの計画は、あくまで費家の族姑の心意気に応じたものよ。もう十分だわ。
その代わり、広漢の民を助けてあげて。終風村の村人は、いまは荊州の劉璋のもとにいるけれど、みんな故郷に帰りたがっているわ。李正方を説得するなり、代わりの武将を派遣するなりは、味方の貴方がたなら、たやすいでしょう?」
「ふん…まあ、立派な動機だけれど、それをわたしたちが、はいそうですかと承諾するとでも? 少なくとも、あんたがたは、一度はわたしたちに刃を向けたのだ」
「そうね。でも、貴方はわたしたちの頼みを、きっと諸葛孔明に伝えてくれるわ」
「買いかぶられたものだな。我らの手勢が、おまえたちを成都から出さぬ、といったら?」
芝蘭は慈母のような笑みを浮かべると、偉度の目をまっすぐと見て言った。
「あなたの兄弟たちを知っている。みんな、あなたがどんな人だったか、教えてくれたわ。わたしたちにとっても、あなたは兄のようなものよ」

とたん、偉度のそれまでの冷笑的な表情が崩れ、あきらかに強ばった。
文偉は、芝蘭の言葉の意味がわからない。
そういえば、偉度の兄弟は、荊州に留まっているのだっけ、とぼんやりとかんがえていた。

「それは、ずるいんじゃないか」
「戦わずにすむ、ありとあらゆる手段を講じて、それでもダメなら戦え。
あなたが、兄弟たちに言った言葉よ。さあ、わたしたちはこれで帰るわ。さようなら兄上。そして」
芝蘭は、ちらりと文偉を見て、やさしい笑顔を見せた。
文偉がなにか言葉をかけようと口を開くその寸前に、ぱっと身を翻すと、そのまま屋敷の外へと消えてしまった。
芝蘭の銀狼も、芝蘭を追うようにして、木々をつたって上手に飛び上がり、塀を飛び越えて、そのまま去ってしまった。





「やれやれ、これでは追うこともできやしない」
と、偉度は苦い笑いを浮かべて、芝蘭の去っていったほうを見あげている。
遅れて、屋敷から出てきた休昭が言った。
「公琰殿が、『公琰殿』で、文偉は『文偉さま』か。好かれたな、文偉」
「そうだろうか。そうだといいな」
文偉の言葉に、偉度、公琰、休昭の三人は、仰天して視線を集めてくる。
しかし文偉は、かれらの顔を見返して、言った。
「だって、そうではないか。とても綺麗な娘だ。ずばり言うなら、好みだ」
「…バカ坊ちゃん。あの娘は呉の細作だ。しかもあの若さで長をつとめている、やり手だぞ。下手に近づいたら、それこそ骨抜きにされて、散々利用されたあげくに長江の魚の餌だ」
偉度の言葉に、文偉はむっとして反駁した。
「でも、わたしを三度も助けてくれた。わたしのような、利用価値などなにもない男をだぞ? たしかに細作かもしれぬが、きっとなんらかの事情があるにちがいない。
それに、あの娘の高潔な要求を聞いたか? 敵地にて、あんな要求を出せるなど、並みではない。ああ、あんな綺麗な賢い娘がどうして呉の人間なのだろう」
「綺麗、か。すごいヤツだな、おまえ」
と、公琰は、素のままに心の底から呆れた、という顔をしている。
「すごい美人だろう。そうはおもわなかったか」
「半分だけは、たしかに」
「公琰殿は目が悪い」
と、文偉は言って、ふと、とてもよいことをおもいついた。
「そうだ、偉度。さっきの話、軍師将軍にお伝えするのだろう? だったら、文偉が妻に迎えたい娘を見つけたらしいが、相手の職業が、呉の細作なので困っている、とついでに伝えてくれ」
「バカ。そんな話を軍師にできるか」
「なぜだ? たしか軍師は呉に兄上がいらっしゃるはず。あちらに親交の深い者も多いと聞いたぞ。なんとかなるのではないか?」
「頭が痛くなってきた。休昭、この恋に浮かれたバカを屋敷に閉じ込めておいてくれ」

休昭は、むっとして偉度に詰め寄ろうとする文偉を止めつつ、尋ねた。
「たしかに文偉も頭を冷すべきだろうが、ひとつ、ちがうことを尋ねてよいだろうか。貴方はさっき、あの娘に『兄上』と呼ばれていた。貴方はいったい、何者なのだ?」
すると、偉度は、乾いた血でぱりぱりしはじめた髪を、うるさそうにかきあげつつ、休昭に答えた。
「好奇心は身を滅ぼす元だよ。どうしても知りたいというのなら、そうだな、あんたが父親より偉くなったら教えてあげよう」
「そんな先まで待てない」
「じゃあ、せめて、軍師将軍に全面的に信頼される人間になるのだね。
さて、わたしはちょいと風呂を借りるよ。それから左将軍府に行ってくる。まったく、結局、残業でこられないなら、使いのひとつでも寄越せばいいのだ」
と、ぶつぶつ言いながら、偉度は休昭を煙にまいて、去っていった。





孔明は、筆を置いて、やれやれと呟いた。
そして、窓越しに見える、すっかり暗くなった空を見て、偉度や公琰は、腹を立てているだろうなと情けなくかんがえた。
本来ならば、なにを置いても文偉の家に駆けつけるところであるが、今日にかぎって、孔明でなければ決裁のできない案件が、夕暮れ以降に、集中して届いたのである。
こればかりは、ほかのだれに任せる、というわけにもいかなかった。
それに、文偉ならば、逆に公琰や偉度たちがいればなんとかなろう、と判断し、二人を信用してまかせることにしたのであった。
とりあえず、この時間まで、なんの使者も費家からやってこない。
ということは、かれらが無事である証拠であろう。
偉度がふくれているだろうことは、いまから予想がついたので、さてなんと言い訳をしたものかなと孔明がかんがえていると、ふと、どこかでちりん、ときれいな鈴の音がした。
顔を上げてみると、並べられた机には、孔明につきあって、残業をしていた主簿たちしかいない。
はて、このなかのだれかの装飾品が、なにかにぶつかってした音だろうかと、孔明はひとまず捨て置いて、仕事のつづきをしようとしたが…

また聞こえた。

しかも、音は、室内からではなく、廊下のほうから聞こえる。
きれいな音ではあるが、職場には似つかわしくない。
さて、こちらは必死に仕事をこなしているというのに、だれが、鈴などという、浮かれた装飾品を持ってうろうろしているのかなと、持ち主に注意をするべく、孔明は立ち上がって、廊下を見たのであるが、そこにはだれの姿もない。
いや、だれの姿もない、というのはあたらないであろう。
姿は見えないけれど、たしかに人のいた気配が感じられる。
床を踏みしめた人の足音が、しんと静かな建物に、まだ残っていたからだ。
主簿のひとりが怪訝そうにたずねてくる。
「軍師、如何なされましたか」
「鈴の音が聞こえなかったかね」
すると、このところの忙しさゆえに、目の下にクマをつくっている主簿たちは、互いに顔を見合わせ、答えた。
「申し訳ございませぬ。書面に気をとられておりまして、気づきませなんだ」
孔明は、いささか毒気が抜かれた気がして、草臥れ気味の部下たちを見遣った。
「そうか。先も見えてきたことだし、わたしもおまえたちに倣って、集中することにしよう。邪魔をしてすまなかったな」
本心では、すまないとおもっているくせに、出てきた言葉がおもわず尖がったものになってしまった。
孔明はすぐさま、しまったと後悔した。
が、さいわいなことに、主簿たちは、頭が朦朧としているらしい。
いつもならば恐縮したであろうが、孔明の言葉に反応する余裕もないようだ。
安堵して、孔明は、後ろ手で扉をしめて、自分の席にもどろうとしたが…

また、聞こえた。

あわてて廊下に顔を出したが、やはり、だれの姿もなかった。
鈴の音。
咽喉元に魚の小骨がひっかかったような、気分の悪さを感じつつ、孔明は今度こそ扉を閉めた。

つづく……

(サイト はさみの世界・初出 2005/05/03)

風の終わる場所 5

2020年11月14日 09時51分20秒 | 風の終わる場所
「相変わらず、あのひとはめちゃくちゃだ」
文偉がつぶやくと、伯仁の、この世のものともおもえぬ琴の音に、じっと我慢していた休昭は、泣きそうな顔をして同意した。
「文偉、このまま伯仁殿に琴を続けさせていれば、刺客どもも恐れて、屋敷に近づかないかもしれないね」
「手習いをはじめてもう二ヶ月になるのに、まったく上達しない。伯父上はある意味、天才かも知れぬ」
「天災のまちがいだろう。公琰殿、よく平気だな」
休昭が感心するのも道理で、公琰は、伯仁の隣の席で、じっと、伯仁の奏でる音のひとつひとつを、忍耐づよく確認するようにして、うん、うんと肯きながら、それこそ樹海の獣道をおもわせる、予想のつかない旋律を追っている


休昭は、文偉の三つ年下であるが、同年に仕官したので、互いに字を呼び捨てで呼び合っている。
一方の公琰は年上であり、同じ年に仕官した、というような共通項がないので、『殿』をつけて呼んでいる。

「そういえば、公琰殿がご家族のことを話されたことがないな。休昭、あるか?」
「うん、そういえば、ないな。偉度殿もないけれどな」
その胡偉度は、さほど広くない費家をくまなく見て回り、部下だという、あきらかに細作とわかるものたちを、四方に配置している。
「ただの文官ではなかろうと、父上はおっしゃっていた。剣を振るうところを見たことがあるが、あれはたしかに並みではない」
「なんだ、剣が不得手なのは、この場では、俺とおまえと伯父上だけか」

文偉は、毎夕になるとはじまる、伯父の魔の旋律に飽き飽きしていたが、公琰は、ほんとうに伯仁の相手を楽しんでいるようだ。
その穏やかな顔を見て、文偉は、自分が休昭の父親の董和に抱いているような感情を、もしかしたら公琰は伯仁に抱いているのかもしれないな、とおもった。

そういえば、軍師将軍も、いつだったか、おまえは伯父上を大切にせねばならぬよと酔ったときにおっしゃっていた。
あとになって、軍師将軍は、親代わりであった叔父上を悲惨な事件で亡くされた、ということを、人づてに聞いて、納得したものだが。

…などとおもい返していると、不意に、どこからか犬の遠吠えが聞こえてくる。
終風村で見た、屍を食い荒らす犬の姿をおもい出し、おもわず文偉は身を固くする。
伯仁も、琴を止めて、おもわず腰を浮かせている。
伯仁には、おそろしい野犬が成都に入り込んでおり、この屋敷にも現れるかもしれない、と伝えてあった。
半分は嘘ではない。
公琰は、その場にすっくと凛々しく立ち上がると、野犬の雄叫びが尾を引く空を、じっとにらみつけた。
そうして、偉度と目を合わせ、うなずく。
文偉としては、そのさまが、なんとも絵になっていて格好がよく見える。
また、ちりちりと、胸を焼くような厄介な気持ちを持て余していると、偉度の声がかかった。
「坊ちゃんがた、あんたたちは、伯仁殿といっしょに、屋敷に入ってらっしゃい。あとは、こちらでするから」
文偉は、状況判断の甘い青年ではない。
むしろ逆なのであるが、この場合、若さが邪魔をした。
「でも、ここはわたしの家だ。あなたがたを外に放り出して、自分たちばかりなかで震えているわけにはいかない」
偉度は、やれやれ、というふうにため息をつくと、手を腰にあてて、子供にするように諭してきた。
「また、意地を張りなさんな。相手はもしかしたら、手練れの刺客かもしれないんだ。あんたたちみたいなお坊ちゃまたちが相手をするのは無理だよ」
「貴方だって、軍師将軍の主簿、文官じゃないか!」
偉度は意味ありげに、妙にさびしそうに笑うと、肩をすくめた。
「たしかにそうだが、わたしは、あの軍師将軍の主簿だということを、忘れてもらっては困る」
でも、と更に抗弁しようとすると、意外なことに、あずまやにいた公琰が割って入ってきた。
「ならば、わたしもともに屋敷に入り、文偉殿をお守りする、というのはどうだ。偉度、外は頼めるか」
「やろう。そのうち仕事を片づけた軍師将軍も飛んでくる予定だから、なんとかなるかもしれない。まあ、あてにはしてないけれど」
「拗ねるな。かならず来るさ」
妙に親しげな二人の会話を聞きながら、文偉は、まるで公琰に、自分の心のうちを読まれたような、決まりの悪いおもいをしていた。
しかし、やってきた公琰は、文偉のことを特に気にするふうでもなく、足を止めている文偉と休昭に対し、
「ほら、はやく入るぞ」
と、声をかけてくる。
度量の広さを、また見せ付けられたような気がして、文偉はガッカリした。





先に屋敷に入っていく公琰の背中を見て、文偉はおもった。
自分と公琰と、いったいどこが違うのだろう。
生まれ持ったものだというのなら、もう努力のしようがないけれど、もし修練によって埋められるものなら、どんな努力だって厭わない。
「なんだか、人間というのは悲しいな」
と、隣に並んでいた休昭が、どきりとするほど奇妙なことを口走る。
「どういう意味だ?」
「べつに…おのれと他者を比較することをしなくなったら、心は軽くなるだろう。けれど、同時に克おのれ心もまた、失われてしまうのだ。どちらがいいのかな」
「なあ、もしかして、俺は顔に出ているのか?」
すると、休昭は、やわらかな風貌に、優しげな笑みを浮かべて、友の肩を叩いた。
「出ていないよ。わたしだから分かるのだ。けれど、すこし安心した。おまえは悩みがないように見えていたからな」
「悩みならば、山のようにあるよ」
そう答えると、休昭はくすくすと声をたてて笑った。
「それはすまなかった。わたしの観察が足りなかったようだな。でもこんなことを言うとおまえは怒るかも知れぬが、わたしは悩んでいるおまえのほうが好きだ。
だから悩むのを止めるなよ。でなければ、たぶんおまえは、ただの能天気になってしまうからな」
「…休昭、俺の中のおまえって、どんな男なのだ? それに、なんだかいつものおまえらしくないな、そんなことを言うなんて」
「軍師将軍に言われたのだ。あとで後悔しないように、相手に伝えて嬉しいとおもうことは、すぐその場で相手に伝えよとな」
そうか、となんとなく照れつつも、文偉は『後悔』という言葉にひっかかっていた。
「なあ、休昭。軍師将軍は、おまえにそのことを話したとき、もしかして、俺が死ぬかも、ということを前提に、話をしていなかったか?」
「深くかんがえないでよ。あの人はあのひとで、かんがえがあるのだ」

二度目の犬の遠吠えが聞こえた。
今度は近い。
「おそろしい野犬とは、いったいどのような物なのだろう。熊のように大きなものなのだろうか」
と、事情を知らない伯仁は、不安そうにつぶやく。
伯仁曰く。
終風村の村人には、猪肉を届けてもらう際に会っていたが、終風村の長は、馬光年という名前ではなかったはずだ。
孔明の言いつけもあり、文偉は、この伯父に、終風村で経験したおそろしい体験は伏せていた。
そのため、伯仁のもっぱらの感心は、老け込んでいた、という費観のほうに向いていた。
「どうであろう。長星橋の者が教えてくれたのだが、江東で取れる海草が、若返りにいいらしいのだよ。少々値が張るようなのだが、送ってやったら喜ぶだろうか」
「従兄殿は喜ばれるでしょう。配置換えがあればよいのですが…」
「李将軍というのは、そんなに癖のある男なのかね。公琰君、きみも確か荊州だったな。なにか聞いてはおらんかね」

尋ねられた公琰は、愛用の長剣を抱えるようにして壁にもたれかかり、胡坐をかいていたが、しばしかんがえたあと、慎重に口をひらいた。
「評判は良かったり、悪かったり。つまり、二面性のある男、というわけですよ」
「ふむ?」
「あくまでわたしの印象なのですが、不器用な軍師将軍、と表現すればうまく言い表したことになるのでしょうか」
「つまり、能力は高い、と」
公琰は、こくりと肯く。
「世人の評価が高いのもうなずける、華をもたせたくなるような雰囲気のある御仁です。ただし、短期間に主を替えすぎた。強いものになびく臆病者、という印象を世間につけてしまったのです。
おなじ荊州の人士の中にも、李正方どのを軽んじる見方があるのは、事実です。
だから、焦っておられるのです。元劉璋の家臣で、裏切り者という印象を払拭し、一気に中央に返り咲くためには、派手な勲功を立てるしかない」
「で、広漢の盗賊どもを一網打尽にしようと?」
「おそらくは。しかし、そこを盗賊どもに付けこまれているのかもしれませぬ」
と、自分で口にしておきながら、公琰は、ふと眉根をよせて、片手で、自分の口を覆うような仕草をして、じっとかんがえ込む。
「文偉、馬光年と戸籍の話をした、といったな?」
「ええ、たしかに。劉璋時代の戸籍は、どうも役人の仕事がいい加減であてにならないから、きちっとしたものを作らねばならないと、以前に軍師将軍が全文官をあつめて、訓告なさっていたでしょう。
揚武将軍がめずらしく全面的に賛成されたので、来春には調査がはじまる。そのことを話題にしたのです」
「馬光年、あるいはほかの村人はなんと?」
「特には…いや、すこし場が静まったかな。もともと、村人たちもあまり口を開かなかったので、気にしなかったのだけれども」
「おまえは、それがいつになるかをかれらに説明したか?」
「いいえ、そこまで詳しくは」

そのとき、庭のほうからはげしい剣戟が聞こえた。
おもわず立ち上がり、戸口を開こうとする文偉に、公琰の鋭い声がかかる。
「文偉、開けるな!」
しかし、一瞬おそかった。
文偉が戸口を開くと同時に、白い閃光が走った。
それが刃だと気づいたときには、凶刃は目の前に迫っていた。
公琰の舌打ちが、真後ろで聞こえる。
身動きが取れない。

ざっ、と鈍い音がして、凶刃が消えた。

見ると、一瞬にして、文偉の前に立ちはだかっていた男は、背後から胴体を真っ二つにされ、床に転がった。
ぶわっと血の匂いが、風とともに襲ってくる。
血しぶきの向こうで、男を切り伏せた剣を持つのは、ほかならぬ胡偉度である。
「まったくバカ坊ちゃんどもめ。大人しくしていればよいものを」
「ス、スイマセン」
おもわず声をそろえて謝る文偉と休昭であるが、偉度は、ふん、とひとつだけ鼻を鳴らすと、つぎの敵を目指して、風のように去っていった。

さほど広くない費家の庭が、いまや戦場となっていた。
あちこちで剣戟が聞こえ、偉度の指示により、細作とおもしき男女と、盗賊らしい風体の襲撃者とが刃を交えている。
戦のあとの光景ならば見慣れているが、戦場そのものにはまったく慣れていない文偉には、屋敷の中と外とで、ちがう世界が展開している錯覚さえおぼえた。
公琰は、その光景に眦をつよくしつつ、手にしていた長剣を、すらりと抜き放った。
「律儀におまえを追って、屋敷にまで現れたらしい。文偉、休昭、おまえたちは後ろへ」

言われるまま後退すると、なにか柔らかいものを踏んだ。
ぎょっとして振り返ると、自邸のとんでもない状況に、すっかり目を回してしまった伯仁が倒れていた。
「伯父上!」
助け起こそうと声をあげた文偉であるが、それが裏目に出た。
賊が、文偉の声にするどく反応してしまったのである。
「いたぞ、費家の主と若造だ!」
「大人しくしていろと言っただろう!」
公琰は、さすがにいらだち混じりに叫ぶと、襲いかかってくる賊の刃を跳ね除ける。

賊はいったい、何人なのか? 
偉度が配置していた細作も、獅子奮迅のはたらきをみせているが、賊のほうが、数が多いようである。
「休昭、そちらを持ってくれ。伯父上を安全なところへお連れするのだ!」
「莫迦! それはわたしに任せて、ひとまずおまえだけでも逃げろ!」
休昭は真っ赤な顔をして、伯仁を助け起こしながら言うが、文偉に、友と伯父を見捨てて、逃げる、などという薄情な真似ができるはずもない。
そうして、逃げるのもかなわず、立ち去ることもかなわずで、身動きがとれなくなっていると、視界の隅に、公琰が防いでいた刺客のうち、防ぎきれなかった者が、わずかな隙をついて、文偉たちのところへやってくるのが見えた。
文偉は、自分があまりに迂闊だったことを呪った。
屋敷に籠もったさいに、すっかり安心して、武器のたぐいを手放していたのである。
それほど文偉というのは楽天的な青年であった。
今度は、胡偉度も間に合わない。
偉度はといえば、仲間の細作たちとともに、次から次へと、塀を乗り越えて降って来るように増えてくる刺客と戦っている。
「お覚悟!」
刺客は言うと、文偉めがけて刃を付きたてる。
体は強ばり、悲鳴をあげることすらできず、目を逸らすことも、つぶることもできない。
ほんの一瞬のうちに、刺されたらどれほど痛いか、なんとか身をひねったらどうなるだろう、残された伯父はどうなるだろうということなどが、すさまじい速さで脳裏を掠めていった。

銀色の影が、ふと薄闇の空を抜けていく。
それがなんであるかわからず、文偉はぼう然と、眼前にある、一幅の絵のように非現実感をたたえた光景を見つめていた。
自分がいて、腰をぬかした自分の足があり、その目の前に、銀色の狼がいる。
銀色の毛を逆立たせ、長く太い尻尾をぴんと伸ばし、文偉を狙う刺客めがけて、威嚇の牙をむいている。
そして、刺客は片手を押さえて、うずくまっている。
銀狼の牙によって傷つけられたのであろう。
銀狼の姿に、刺客は怖じつつも、忌々しそうに舌打ちをして、費家の塀を振り返る。
文偉もそれにつられるようにして、目線を移した。
塀の上に、終風村で会った、あの芝蘭の姿があった。
薄闇の空を背景に、毅然と修羅場の上に君臨するさまは、まるで山の女神が降臨したかのごときである。
潰れた瞳の傷も隠すことなく堂々と晒し、きつく刺客たちを見下ろしている。
芝蘭の、凛とした声が、剣戟の耐えない修羅の庭にするどく響いた。
「卑きょう者! なにも罪のない者を巻き込んで、あまつさえ命すら奪おうとするとは、恥を知れ!」
「黙れ、裏切りもの! 日和見の二枚舌どもめが! 我らの邪魔をするな!」
と、黒装束の頭巾を脱ぎ捨てて、叫んだのは、終風村にて文偉たちをもてなした村人のひとりであった。
「黙るのはおまえたちのほうだ! 甘言に乗せられ、おまえたちと組んだわたしたちに咎があったのだ。血に餓えたけだものめ! さあ、みんな、曹操の狗どもの咽喉笛を切り裂いておやり!」
芝蘭の声を合図に、塀の上に、つぎつぎと、新手の刺客たちがあらわれた。

つづく……

(サイト・はさみの世界 初出 2005/05/03)

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