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はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

風の終わる場所 19

2021年04月18日 09時56分01秒 | 風の終わる場所


「どうやら成功しましたね。あの狼、おそらく呉の芝蘭のものでしょうが、ここでも手助けをしてくれるとは」
「これからどうする。村に入ったら最後、おそらく連中、出すつもりはあるまい」
「それはそうでしょう。ただし、最初はわたしに襲い掛かってくるだろうから、将軍は、隙を見計らって、連中を倒してください。ところで、渡した鼓は、ちゃんと打てるのでしょうね」
「俺に聞くか? 無理だ」
「おやおや、常山真定の趙家にはみやびの趣味はなかったと見える。万が一、なにか芸を披露しろといわれたときは、うまく誤魔化してくださいませよ」
「あいにくと、武の気風のつよい家でな。芸事はさっぱりだ。歌も唄えぬ」
「わたしが足を大きく踏み鳴らしたら、あわせて、ぽん、と叩けばよろしい。あとは判断にお任せします」






「わたしは、どこへ向かっているのだ?」
息をぜいぜいと切らしつつ、孔明が尋ねると、芝蘭は、あちらです、といって、さらに鬱蒼とした森を示す。
そこには樹齢百年を越すであろう大木があり、ひときわ異彩を放っている。
「こちら。声を立てないで」
と、芝蘭はてきぱきと孔明に言うと、大木の根元に屈んで、こんこんと、その木を叩く。
すると、おどろいたことに、木の内側より同じく、こんこんと音が返ってきた。
「村が使えなくなってしまったので、ここがわたしたちの仮の宿りです。ようこそ、軍師将軍。歓迎いたします」
芝蘭はそう言うと、ぱっと開いた大木の雨露を見せる。
中は空洞になっており、さらに、根元から深く掘り下げられ、大木のちょうど真下にある天然の洞窟につながっているのだ。
垂れ下がる根に注意しながら梯子を降りると、中には数人の細作とおぼしき者たちの姿があった。
孔明の姿を見て、かれらは狭いなか、立ち上がり、作法どおりの拱手をする。

芝蘭もそれにならって、あらためて孔明に拱手をした。
「軍師将軍、諸葛孔明さま」
「いかにも。そなたたちは、呉の細作であろう。なぜ、わたしを助ける」
「われらがお助けするのは、あなたさまのみ。魏の思惑を、我らは掴んでおります。劉左将軍の隠し種を帝位につけて、無血のまま蜀を併呑し、勢いで呉を攻める、という策略でございましょう。
そのためには、あなたさまは邪魔になる。ほかならぬ、劉括という子供の母親の仇。そのうえ劉左将軍は、あなたさまをじつの息子のようにおもわれていなさる。あなたさまが蜀にありつづけるかぎり、かれらは野望を達成できない」

孔明は、芝蘭たちもまた、曹丕と陳羣らが弄した策の、うわべだけに踊らされていることを知った。
じわじわと曹家が、劉氏よりうばったものを、いまになって、たやすく手放すはずはない。
かれらは、大掛かりな嘘を仕掛けて孔明を追いつめ、味方に組み入れようとしたのだ。
嘘があまりに大掛かり過ぎるため、孔明もそれを見破ることが遅れたのだ。
だが、果たしてこの事実を、呉の細作たちに洩らしてよいものか。
かれらは確かに命の恩人ではあるが、敵である事実はうごかせない。

「自分たちを守るために、おまえたちはわたしを助けた、ということだな」
「左様でございますわ。ご同行なさっていた、小男のほうは、残念でございましたが」
追っ手の目的が、ほかならぬ、小男のほうだと知ったら、この娘と、そして仲間たちはどうおもうかな、と孔明はおもった。
細作たちは、どれもみな若い。
二十前後、偉度と同じくらいであろう。
あのとき、義陽の村であらかた子供たちを救い出し、ある者は故郷へ、ある者はそのまま手元に置いて大切にあつかってきた。
だが、この子供たちは、いち早く『村』あるいは樊城から江東へ向かっていた子供たちなのであろうか。
わが手からこぼれた子供たち。
そうおもった途端、孔明はかれらを他人とはおもえなくなった。

芝蘭は、かたわらにいる大きな銀の毛並みの山犬を撫でながら、孔明に言った。
「ご安心くださいませ。われらが主は、孔明さまをお助けし、かならず巴蜀へお返しせよとおおせでございます。万が一、あなたさまを狙い、刺客が追ってくるといけないので、成都までかならず無傷でお返しせよ、と」
「つまり、わたしは魏に対する呉の盾、というわけだね」
左様でございます、とその場にいた細作たちが頭を下げた。
「老婆心ながら申し上げますと、費将軍と李将軍には、ここに軍師将軍がいらっしゃることを悟られないほうが、よろしいかとおもわれます」
「なぜだね」
「あのお二方は、盗賊を一網打尽にし、大手柄を立てようと、着々と策を進めてらっしゃるのです。そこへ、あなたさまが顔を出されたら、おそらくお二人は、手柄を横取りされるのではと勘違いをし、あなたさまに害を為すやもしれませぬ」
「待て待て、そのようなことがあるか」
と、孔明は、芝蘭の言葉を留めた。
「李将軍が、中央復帰を狙い、大手柄を目指しているのは、わたしも把握している。だが、わたしがそこに現れたというだけで、恐慌に陥るような、小心者ではないぞ」
すると芝蘭は、あきれたような顔をして、首を振った。
「お人よしの軍師将軍さま、あなたさまは策士であるはずなのに、策士のこころをご存じない。李将軍は、あちこちに保険をかけてらっしゃいます。もしも盗賊を抑えることができなかったら、そのまま魏か呉に降るための手を打たれておいでですわ」
「まことか?」
「盗賊を鎮圧できたら、中央へ華々しく帰還。失敗したらそのまま他国へ逐電。いまの世では、めずらしい処世ではございませんわ。広漢の地がいくら広いとはいえ、こうもわれらの動きを、李将軍が気づかれなかったというのは、おかしな話ではございませぬか」
「そうだ、そもそも、それがおかしい」

広漢を賊が荒らしまわったのは、そもそも広漢を無法地帯にし、曹丕ら精鋭の兵たちが隠密に侵入するのをたやすくするための策の一部であった。
それを抑えるために、李巌は広漢に派遣されたのであるが、大手柄を狙って動かない。
いや、ほんとうにそれだけの理由で動かないのか。
曹丕は、李巌が動かないほうが得策だと手紙を書いて、動きを牽制したのだと言っていたが、李巌が動かなかった理由は、ほんとうにそれだけか。
そも、曹丕を襲い、連れ去った連中は、何者だ? 
曹丕の弟たちなのだろうか?

「芝蘭よ、おまえを偉度の妹として尋ねる。そなたから見て、さきほど我らを襲った者は、何者であったかわかるであろうか」
孔明の質問が意外であったのか、芝蘭は、慎重な娘らしく、じっとかんがえているようであった。
が、やがて、孔明の目をまっすぐと見据えて言った。
「おっしゃることの意味がわかりません」
偉度もそうであったが、壷中の子供たちというのは、相対するときに、全神経を研ぎ澄まさせて対さなければ、気圧されてしまうほどの迫力を持っている。
偉度は最たるものであるが、この娘もおなじ係累のようである。
呉の細作であるのが惜しい。
文偉が惚れるのもわかるな、とおもいつつ、孔明は、慎重に言葉を選びつつ、言った。
「包み隠さずそなたたちには打ち明けよう。先刻、わたしと逃げていた小男。あれは、ほかならぬ、魏王の長子・曹丕であったのだ」
狭い急ごしらえの地下は熱い。
そのなかにひしめく細作たちに、緊張が走ったのがわかった。
「嘘ではない。事のカラクリを、すべて明かそうではないか」
そうして、孔明は、呉の細作たちに、曹丕の策の真実を、ひとつひとつ明らかにしていった。

つづく……

(初出 旧サイト・はさみの世界(現・はさみのなかまのホームページ) 2005/07/22) 

風の終わる場所 18

2021年04月11日 06時49分19秒 | 風の終わる場所


さて、またも時間を遡る。


趙雲は広漢に到着するなり、次の行動について迷った。
まるで火の玉のようになって、ここまで我武者羅に馬を駆ってきたわけであるが、さて、相手の規模もわからなければ、正確な位置もわからない。
第一、孔明を略取せしめた時点で、目的は果たせたのだとしたら、とっくにかれらは蜀から引き上げていることもかんがえられる。
最悪の場合、孔明はすでに死んでしまっている可能性もあるのだが…

いいや。

趙雲は、それを強く打ち消した。
それは有り得ない。
もしあれの身に凶事が降りかかれば、おのれの身に、なんらかの兆しが起こるであろうと、なんの根拠もなかったが、趙雲は信じていた。
新野で出会ってより、ずっと身近で守っていた者、だれより心を寄せた者である。
ふつりと糸が切れてしまうように、手繰った先が虚無になっているなどと、ありえない。
生きている。
かならず生きている。
そう念じ、あせるおのれを叱りつつ、さらに先に進む趙雲の背後では、酒が入ったために気が強くなっている費文偉が、あれこれと偉度に話かけていた。

うるさがられても話をやめないでいるうちに、文偉は、自分と偉度の年が、さほどちがわない、ということを発見した。
「ならば、これもなにかの縁。どうだ、義兄弟にならぬか」
「ヤダ」
義兄弟の申し出は、わずか数秒で破談した。
なぜだ、と決まり悪くぶちぶち言っている文偉をよそに、偉度は前方にいる趙雲に声をかける。
「趙将軍、費将軍にお会いなされますか。もし話をつけられるのであれば、兵をお借りしたほうがよろしいかと」
うむ、と偉度の提案を吟味しつつ、趙雲は首だけをふりかえらせる。
趙雲は、偉度の目の中に、おのれと同じ危惧を読み取った。
「終風村への道は、あとは一本道。そうだな、文偉」
はい、と文偉が答えるのを確認し、趙雲は決断した。
「よし、文偉、頼まれて欲しいのであるが、従兄殿に会いに行き、兵卒を借りてきて欲しい。事情は話して構わぬ。ただし、李巌にはそれと悟られぬようにするのだ」
「李将軍には内密に、ということでございますか。なぜです」
「李将軍は、もともと軍師に、あまりよい感情を抱いておられぬ」
「李将軍の、中央復帰を願うつけとどけを、軍師はすべて突っ返しておりましたからな」
と、趙雲の言葉を、偉度が補足した。
「此度のことに、だれがどれほどに関わっているのかが読めぬ。村ごと人が入れ替わっていたことを、李巌がほんとうに知らずにいたのかが疑問だ」
「それをおっしゃるならば、遠慮はいりませぬ。わが従兄とて同様でございましょう」
「その見極めは、おまえに任せる。俺と偉度は先に終風村に向かう。おまえは、兵卒たちと一緒に、村へ来るのだ。よいな」
文偉は、不服そうにしていたが、趙雲が再三、行け、と命ずると、やがて何度も何度も振り返りながら、費観の陣のあるところへと、馬を走らせていった。





そのうしろ姿がやがて木々に遮られて完全に見えなくなると、偉度は言った。
「これで文偉は無事なところへ逃れられる。かんがえましたな、趙将軍。文偉はなかなか聡い。われらの意図に気づいて、嫌だとダダをこねるのではと、ひやりといたしましたが」
「だから、義兄弟の申し出も断ったのか?」
馬上の偉度は、趙雲の問いに、ふいと顔をそむけた。
「ちがいます。余計な荷物は背負い込みたくない。だれかの義兄弟になるのは、二度とご免です」
「そうか。すまなかった」
「謝ることはありません。気を遣われるのも好きではない。さあ、村へと参りましょう」
偉度に促される形で、趙雲はふたたび馬を駆って、前方へと進んだ。
何の変哲もない山郷である。
そこかしこに、人の手の入っている気配はある。
だが、それはあくまで形跡のみで、人間そのものはどこにもいない。
そして、この空気。
終風村に近づくにつれ、大気中にぴりぴりとした空気が漲っている。
だれかの悲鳴が、声をなくして、永遠に大気に閉じ込められているような、落ち着かない気配だ。
「近いな」
趙雲がつぶやくと、偉度も顔に緊張を走らせ、無言のままうなずいた。





村の入り口に向かう道は、ゆるやかな坂道となっている。
斜面の上に村はあり、近づくと、木々の隙間から楼閣が見えた。
楼閣は三階建ての、山中のものにしては立派なしつらえで、村の財力を示している。
おそらく見張りも兼ねているのだろう。
呉の細作である芝蘭の話からすれば、村はまるごと住人と入れ替わり、呉の細作、そして魏の細作が共同して住んでいたという。
ふもとの木に馬を繋ぎ、足音を忍ばせ、そおっと村に近づいていくと、ふと、楼閣に、人影が見えた。
この村に近づいてから、はじめての人影である。
目を凝らす趙雲であるが、それが何者かはわからない。
だが、よく見ると、楼閣の二階には、兵卒たちが往来しているのがわかった。
それは、日光を反射する鎧や武器の輝きでそれと知れた。
「魏か、呉か、どちらだ?」
「こう遠くてはわかりませぬ。近づきますか」
「いや…偉度、あちらでも、なにか光っておるぞ」
趙雲が示す先には、鬱蒼とした森がある。
しかし、その一箇所で、木漏れ日を反射して、きらきらしたものが光っているのである。
楼閣の兵士たちに見つからないように注意しながら、趙雲は前方に進み、光るものを確認した。
それは、まだ温かさを残している、兵卒の遺体であった。
ただの兵卒ではない様子が、黒い鎧、玄人をおもわせる手入れの行き届いた武器や鎧のしつらえから見て取れる。
体が硬くなっていないところから見て、まだ死んでから間もない。
「戦いがあったのだな。趙将軍、どうやら、魏と呉の戦争を、蜀の地で行った様子ですよ」
偉度が言う方角を見ると、わずかに離れた先に、大きな山犬が息絶えて横たわっていた。
「呉の細作の娘、芝蘭があやつっていた山犬でございましょう。こちらもまだ温かい…どうやら、魏と呉は連合していない様子ですな。これはよい兆しでございますぞ」
「なぜ」
「魏も呉も、いまだこの地を離れていない、ということは、かれらがいまもって、本来の目的を果たせていない、ということでございましょう。もし軍師を殺めるつもりならば、この地にいつまでも留まる理由はないし、逆に略取せしめるのが目的にしても、長逗留は命取り。なのに、いまだにここに留まっている、ということは、軍師は無事、ということです」
「逃げたのであろうか」
「あるいは、逃がされたのか。呉が軍師を捕らえる理由はないので、おそらく助けが入ったとしたら、呉かもしれませぬ。此度の劉括に帝位を譲るという話、魏や蜀にはよい話かもしれませぬが、呉にとっては一大事。一度は引き上げたものの、魏の動きを知り、取って返してきたのやもしれませぬぞ」
「なればよいが。さて、とすると、軍師はどこだ?」
「あれでは?」
と、偉度が、となりにいる趙雲の腕をつよく引っ張り、倒木の陰に隠れるように指示をする。

そおっと木陰からのぞくと、地面に伏した黒い鎧の兵卒と似た格好をした兵卒たちが、両脇に抱えるようにして背の低い若者を引きずっていくところであった。
そのうしろ姿は孔明とは似ても似つかない。
安堵するものの、さて、あの若者はなにものか。
「尾けましょう。ここにいたら、馬があるので、すぐに見つかる。それよりも、連中が油断をしているあいだに、村に入り込んだほうがいい」
「油断をしていると、なぜわかる」
すると、偉度はふふん、と鼻を鳴らした。
「油断も隙もない細作がどこで気を抜くかといったら、ひと仕事終えたとき、それに限ります。ともかく、やつらは仕事を終わらせたようです。いまならば、侵入はたやすい」
「だとよいが」

偉度の言葉を信じつつ、趙雲は足音を立てないように注意しながら、小柄な青年を両脇で引きずる男たちのあとに従った。
やがて、かれらは村の前までやってくると、堂々と正門を叩き、中に入っていく。
茂みに隠れて様子を見る二人であるが、さすがに正門を突破するのはむずかしいようだ。
村はぐるりと高い塀に囲まれており、櫓と楼閣に配置された兵士たちが、それぞれ侵入者を見張っている。
近場の木から飛び降りる、あるいは櫓の兵を倒して侵入、という策は取れなさそうだ。
「だめか」
ぼやく偉度に、趙雲は言った。
「たやすいと言っていなかったか」
「こうなれば、仕方がない。一度、馬へもどりますよ。用意していたものが役に立つ」
「なんだ、それは」
だが偉度は答えず、やはり疾風のように森を駆け下りると、だれにも見つかっていないことを確認し、馬に積んでいた荷物を外した。
そして、それを趙雲にも分けた。
荷物を受け取った趙雲は、わけがわからず、眉をしかめる。
「これは?」
「見たままのもの」
言いつつ、偉度は臆面もなく、みずから纏う衣を手早く脱ぎはじめている。
「なにをするつもりだ?」
「侵入です。ほら、将軍もぼんやりなさらずに、早いところ御召しかえなさいませ」
「…偉度よ、おまえが何をかんがえているかは、おおかたの予想がつくが、それに俺も噛め、というのは過ちだとおもうぞ」
「冷たいことをおっしゃる。将軍は、有望な若い士人ひとりを、敵地にひとりで乗り込ませようとおっしゃるか? 軍師があとで聞かれたら、子龍は薄情者よと嘆かれましょうな」
趙雲は、あくまで慎重な人間であり、勝算のとぼしい賭けには決して乗らない。
だが、この先行き不透明な状況において、打つ手もなくぐずぐずしていることはできなかった。
こうしているあいだにも、孔明がどうなっているのかわからないのである。
それに、こういった行動に経験の多い偉度がかんがえたことなのであるから、案外、よい策かもしれぬ。
自分をごまかし、趙雲は受け取った荷物を解き、着替えをはじめた。





数刻後…

終風村の櫓を見張っていた兵卒は、村に近づく二人組を見つけ、鋭く地上へ呼びかけた。
「おい、おまえたちは何者だ!」
笠をかぶった二人組みのうち、一人が笠を上げて、櫓を見上げる。
その白い手が笠の縁を掴み、花の顔(かんばせ)を表にあらわした途端、櫓の兵士は、そのまま地面に落ちてしまうくらいの錯覚をおぼえた。
それほどに、女は美しかった。
垢抜けて、洗練された雰囲気、文句の付けようのないほどに整った容姿。
目から唇から、まるで花のように男を誘う香りがあふれているようではないか。
匂いたつ美女、というのはこういう女のことを言うにちがいない。
「道に迷った、旅芸人でございます。仲間たちとはぐれ、しかも日が暮れてしまいました。お慈悲でございます、どうかお宿を取らせてくださいまし」
殊勝なか細い声も、あわれをさそうものである。
とはいえ、その兵卒は、決して村にはだれもいれてはならないと、きつく言われていた。
情は動かされたものの、素直に諾というわけにはいかない。
「だめだ、すぐに引き返せ!」
「お慈悲でございます。どうか」
そのとき、女の声を後押しするかのように、甲高く山々をぬって、狼の遠吠えが四方に響き渡った。
狼に、「例の二人」を追った者たちが襲われたことは、兵卒も知っていた。
おもわず、手にした槍を強く握りなおす。
「ほら、あのように狼すら出ているのでございますよ」
地上の女はさらに言う。
いかん。
ここで返せといえば、ほかの土地に女が回ったとき、あそこの村はおかしかったと噂になってしまうのではないか。
「しばし待て」
兵卒はそういうと、士卒長のもとへ行き、二人組みの男女の旅芸人が村の戸を叩いていると報告した。
狼の声がさきほどからこだまとなって、山間を走っている。
たしかにこの状態で旅人を追い返せば、無用な噂が麓の里に出回るのは確実であった。
「仕方ない。中に入れろ。ただし、二度と出すことはできぬが」
了解しましたといって、兵卒は櫓へと取って返した。
あらわれた女が、絶佳であることは黙っておいた。
そうでなければ、士卒長は、女を独り占めにしてしまうだろうから。
どうせ殺してしまう女ならば、多少はこちらの役に立ってもらわねばならぬ。
暗い楽しみを見つけ、そのときから兵卒の理性が狂い始めた。

つづく……

(旧サイト「はさみの世界」 初出・2005/07/22)

風の終わる場所 17

2021年04月04日 09時40分18秒 | 風の終わる場所
曹操には複数の息子がいる。
それぞれが父親の後を継ぐために、互いに互いを牽制しあって、さまざまに父親と其の周囲に働きかけていた。
しかし、曹操の気持ちは、夭折した二人の息子に向いており、正当な嫡子であるはずの曹丕の才能を、あまり買っていない。
いまだに後継を譲るのに曹丕でよいか、迷っているフシがある(孔明からすれば、この切迫した時勢に迷っていられるところが、魏の余裕であるように感じられるのであるが)。
曹操はそれを息子たちに隠さないため、余計に後継争いが熾烈になる。
よいとばっちりである。
国内だけで揉めていればよいものを、どうして自分もあおりを食わなければならないのだ?
背後から追ってくる者たちは、おそらく曹丕の命を狙う何者かが、その手勢にこっそり忍ばせたものにちがいない。
もともと、曹操も気乗りでなかった大胆すぎる策。
刺客を潜り込ませ、こっそりと長子を葬り去るに、うってつけであったのだろう。
しかも敵国の軍師将軍の首も一緒にとれる…あるいは捕虜にできる、というおまけつきだ。
そうだ、わたしはもしかしたら助かるかもな、と孔明は一瞬かんがえ、背後でぜいぜいと息を切らして枯葉を踏みしだく青年をちらりと見て、自分の薄情さを叱った。
あまりに稚拙といわざるを得ない行動のツケを払わされているのだ。
曹丕に同情する気持ちはうすい。
しかし、ここで見捨てたら、自分の寝覚めがわるい。

割り切るならば、この男は、将来おのれの、蜀にとっての障壁となるだろう。
だからこれを機に葬り去るのもよいかもしれないが、少なくとも、曹丕に害意はなかったのであり、あまりに情がないかんがえだ。

おもいもかけない逃避行に、曹丕はすっかり混乱しているらしく、孔明よりも息を乱して走っている。
ばらばらに逃げればよいのであるが、曹丕はなぜだかヒヨコのように孔明のうしろをついてくるのであった。
じつは孔明は、いざとなれば、曹丕を盾にするしかあるまいとかんがえていたのである。
が、じつは曹丕のほうも、おなじようなことをかんがえているのかもしれないとおもい始めていた。

ともかく、費観の兵卒がいるところまで逃げることが先決である。
しかし、自分のこののろい足で、どこまで山道を抜けられるのか。
背後から迫る刺客たちとは、どんどん距離が詰まってきている。
だんだんと呼吸が浅くなり、臓腑が重くなってきた。
懸命に足を動かしてはいるものの、ほとんど距離が稼げていない。
いまいましいことに、背後にいたはずの曹丕が、孔明を途中で追い抜かした。
とたん、刺客たちが動きを変える。
それまで、一定距離を保って様子を見ていたのだが、曹丕が駆け足を早くしたと同時に、いよいよ命令を遂行することに決めたらしい。
むささびのように林間を身軽に飛びながら、刺客たちは瞬く間に、すぐ背後に迫ってきた。
孔明の脳裏に、戦う、という選択肢が浮かんだが、すぐさま打ち消した。
無理だ。
一度もひとを殺したことがないくせに(間接的にはあるけれど)、いまさら戦えるものか。
徐庶から倣った撃剣は、とっくの昔に得意な型以外は、すべて忘れてしまっている。
趙雲や偉度にすっかり頼りきりになっていたので、自身で戦うことになるなど、かんがえてもいなかったためである。

ひゅっと風を切る音がして、ばさばさと大量の葉が降ってきた。
と、同時に、刺客たちが数名、孔明の行く手を阻む。
かれらは剣を振りかざして孔明を威嚇し、先に進ませまいとする。
その素振りから、こちらを殺せという命令は下っていないと判断できたが、前方を行く曹丕のほうは、やはり危うい様子で、刺客がすばやく打ちかかっていく。
だが、小柄ながらも敏捷なところを見せ、曹丕は果敢に刺客たちの刃を振り払った。
刺客たちは無言のまま、孔明を取り囲むと、刃の切っ先を、目の前に突きつけて、村へもどれ、という合図を送る。
「おまえたちは、かれの者の兄弟に雇われたのか」
答えはないだろうとおもっていたが、案の定、刺客たちは沈黙を守っている。

曹丕の兄弟、あるいはその兄弟たちの取り巻きが仕組んだことであろう。
陳長文が絡んでいるとはおもえない。
いまごろ村は、刺客たちによって制圧されている可能性がある。
いや、そもそも、『諸葛孔明を罠にかけ、降らせる』という作戦自体が曹丕を暗殺するための罠だったのかもしれない。
わたしは釣り針のえさだった、というわけか。
だれが黒幕かは知らないが、曹丕と陳長文、オマケの諸葛孔明の三人も虜にできて、いまごろ腹を抱えて大笑いしているのであろう。
想像しただけで、誇り高い孔明は怒りに捕らわれる。
とはいえ、過剰に感情的になることはない。
周瑜の例から、孔明は、策士が感情に溺れることの恐ろしさを学んでいた。

剣戟の音が響き、見ると、木々に遮られた暗い森のなか、曹丕はなかなか健闘しているようであった。
だが、刺客たちは焦ることなく、孔明を村に連れもどそうとする。
ずいぶん優秀な連中だな、と孔明は感心するが、それどころではない。
得物もない状態では如何ともしがたく、かれらに従うしかない。
ともかく、生き延びさえすれば、起死回生の機会はかならずやってくる。
感情的になってしまえば、あとは状況に流されるだけだ。
自分の運命の舵を、他者に譲り渡すことになってしまう。
忍耐力のみせどころだ。

そのときである。

山間を駆け抜ける風よりも力強く、山犬の遠吠えが響き渡った。
同時に、闇のなかを、銀色の獣が飛来した。
あまりにその動きが素早かったため、翼の生えた狼にみえたほどである。
孔明の目の前にいた刺客が、ぎゃっ、という悲鳴とともに、あらわれた銀の狼に咽喉笛を噛まれた。
そのまま地面にもんどり打つ。
仲間に喰らいつく銀狼を引き離そうと、もうひとりの刺客が剣を振りかざすが、それは林間をみごとに越えて、飛んできた手刀によって遮られた。
四方から浴びせかけられる攻撃に、孔明が立ち往生をしていると、不意に背後より、強く手を掴まれた。
ふりかえると同時に、手を引かれて、走るようにうながされる。
目の前に娘がいた。
娘が自分の手を引いて、障害だらけの山中を、まるで草原を駆け抜けるような軽やかさで走り抜ける。
孔明はちょうどうしろから、その耳から頬にかけてしか娘の顔を見ることができない。
だが、娘の顔には、痛々しい火傷の痕があった。
「そなたは?」
孔明がたずねると、娘の顔が、わずかにうしろを向いた。
皮膚のただれた表面の傷はひどいものの、顔の容はよい、美しい娘であった。
うりかえると、刺客たちと戦っていた曹丕のもとへも、助け手が向かっていたようである。
「わたくしの名は芝蘭。お味方でございます」
「偉度の兄弟ではないな」
すると、つないだ娘の手が、おどろきで、わずかに震えたのがわかった。
「細作の顔を、すべて覚えてらっしゃるのですか?」
「当然であろう。かれの者たちは、わたしの耳目となって危険な仕事をこなしてくれる。いわばわたしの一部同然の者たちである。おのれの耳目のことは、他者よりもおのれがいちばんわかる」
芝蘭は、羨ましいことですね、とちいさく言った。
これが、偉度が言っていた、呉の細作の娘…偉度の『妹』だ。
かつての樊城をめぐる事件が胸を去来し、孔明は、あのときに我が手から漏れた娘に手を引かれているとおもうと、悲しい気持ちに襲われた。
芝蘭のほうは、それきり黙って、孔明の手を引き、走りつづけた。

つづく……

(サイト「はさみの世界」(現・はさみのなかまのホームページ) 初出 2005/07/22)

風の終わる場所 16

2021年03月28日 10時11分12秒 | 風の終わる場所


孔明は、ふと足を止めて、振り返った。
森にあちこち満ちている、ちいさな生き物の息遣い、風の渡る音、山の動く音のほかに、獣が走ってくる音が聞こえる。
極度の緊張のために、五感が研ぎ澄まされているのだ。
これは、追っ手がかかったか? 
森に逃げた孔明たちを追うために、猟犬が放たれたのかもしれない。
もし自分が追う立場の陳長文ならば、ためらわずに猟犬を放しただろう。
犬は言葉が通じないので、当然のことながら、孔明お得意の口で丸め込むという作戦がとれない。
人の情も解さない。
優秀すぎる追っ手というわけだ。
木に登ってやり過ごせというのは素人かんがえで、よく躾けられた猟犬というのは嗅覚がするどいので、すぐさま木上に逃げた人間を見つけ出す。
兎や狐のように、犬に追われてかみ殺される、という最期だけは避けたかった。
醜い死と、醜い生、どちらも醜いのであれば、ためらわず、生きることを選ぶ。

「軍師、なぜ足を止められる?」
青年が肩をぐっと掴んで、孔明を進ませようとするが、孔明はその手をすばやく振り解いた。
「犬が放たれたらしい。逃げても無駄だ」
犬、と聞いて、青年はあえぐように、莫迦な、と言って、木々の向こうに押し寄せてくる気配を察し、顔色を変えた。
「陳長文というのは、なかなか厳しい男だな。さて、それでもわたしは生き残って、なんとしても蜀へ帰りたいのだが」
「ならば、お早くお進みくだされ」
「無駄だ。犬というのは、下手な兵卒よりも、よほど優秀な兵士なのだ。どれだけもがこうと、アレだけは振り切れぬ。ここでかみ殺され、あわれな肉片となり、最期を迎えることであろう」
「さきほどまで、生きるために、さまざまな努力をされていた御方ともおもえぬお言葉。さあ、諦めてはなりませぬ」
励まし、さらに先へ進ませようと、手を伸ばしてくる青年に対し、孔明は、懐に隠し持っていた短剣を突きつけた。
青年の顔が、片側だけ、びくりと強ばる。
その短剣は、自害すべしと陳長文に渡されたものであった。
「あざむく相手が油断のならない男ならば、隠し持つものが何もないか、調べるべきであったな」
「わたくしを、殺すと? ですが軍師、貴殿は一度もその手で直に人を殺められたことがないはず。しかも、そのような短剣では、人を殺すことはむずかしい」
じり、と青年は、言葉をつなぐ間も、孔明との間を詰めていく。
孔明は、短剣を構えたまま、緊張した面持ちの青年が、ゆっくりこちらに近づいてくるのを見つめていた。
「その物騒なものはしまって、さあ、ともに参りましょう」
短剣を握る孔明の手を、封じるために青年の手が伸ばされる。
孔明は、すばやくその甲を、短剣の切っ先で傷つけた。
青年が、あわてて腕を引っ込める。
そして、はじめて激しい表情で孔明をにらみつけた。
「なにをなさる!」
「そなたと対等に話をするためだ」
「対等?」
と、青年は皮肉げに唇をゆがめて見せた。
さきほどもそうであったが、この青年は、表情が動き出すときに、片側だけが正直に物を語る。
本来は不器用な性質なのに、うまく立ち回らねばならぬ立場にあるため、本性を隠そう、隠そうと懸命になった結果、表情に癖がついてしまったのだろう。
食事を運んできたときにした、兄弟の話も、ほんとうにおのれの家族のことを反映させた真実であったにちがいない。

「対等というのがおかしいかね。しかしこうでもしなければ、そなたはまともにわたしと話をしようとはしないであろう」
「忘恩も甚だしいとはこのことですぞ。わたくしは、貴方を逃がして差し上げた」
「そうかな。もともと、わたしを死に追いやるために連れ出したのだったら、どうだ」
「なぜそのような。貴方は気が動転されている。だからおかしなことをかんがえ付くのだ」
「劉括という少年が、ほんとうに主公のお子かは、わからぬ。しかし、わたしにはどうしても、曹操がおのれの地盤を、赤の他人、それもあのように、祭り上げられるためだけに存在しているような子供に譲るとはおもえない。それに、そなたらがなぜ、法孝直ではなく、わたしを攫ったのか。単に、劉括の母をわたしが処刑したから、という理由ではなかろう。わたしは、本来、殺されるはずでは 『なかった』のではないかね」
「なにを根拠にそのような」
「この策は、大胆にすぎる。最近の曹操は、守りに入る一方だ。曹操の執政の全体からすると、この策は浮いて見えるのだよ。この策は、曹操ではなく、陳長文でもない。そなたが練ったもの。ちがうか」
「芸人風情に、なにができるとおっしゃるのか」
「芸人などではなかろう。その『芸人風情』が、天下の陳長文を呼び捨てになどできるものか。そなたは喋りすぎる。わたしならば、敵方の将を捕らえたなら、芸人などに身辺の世話をまかせぬ。うまくわたしを誘導したつもりであろうが、わたしは、単にそなたの出方を見ていただけだ」
「貴方のほうが上手だとおっしゃるのか、この状況で? そのような短剣では、一撃でわたしを殺すのはむずかしい」
「そうだな。何度も急所を中心に刺さねばなるまいよ。ただの短剣ならばな」
孔明のことばに、青年の顔の片側が、びくりと震えた。
「今後は、わたしのような性質をもつ人間に、不用意に剣だの毒だのを渡さないことだ」
青年の足元が、ぐらりと揺らめく。
息苦しくなってきたのだろう。
ぜいぜいと浅い息を吐き、悔しそうに目を細めて孔明を睨みつける。
「剣に毒を塗ったか」
手足を震わせ、睨みつける青年を、孔明は冷徹に見下ろした。
「わたしは力がなく弱い。だから世では卑怯と言われる手段をどうしても使わざるを得ない。もしほんとうに人を追いつめたいとおもうのなら、完全に出口を塞いでしまうのではなく、一箇所だけ、出口を作っておくのだ。あらかじめ、おのれの都合のいいふうに作られた出口をだ。自分の意おもで逃げたようにおもわせて、気づいたときには蟻地獄のように、抜け出せなくなっている。そうなれば、もはや抵抗する気力も沸かない。策とはそういうものだ」
孔明は、膝をついて、そばにある倒木に手をかけ、苦しそうに前かがみになり、あぶら汗を垂らしている青年のそばに寄った。
そして、青年の帯びていた剣や、紐など、武器になりそうなものをすべて奪っていく。
「わたしを生きて捕らえることができたなら、最高の戦利品となっただろうな。法孝直ではなく、わたしを選んだのは、わたしのほうが、中原で名前が通っているからだ。『諸葛孔明』を降すことができたなら、そなたの地位は確実なものとなり、ほかの兄弟たちも、文句をつけることすらできなかったであろう」
孔明の皮肉に、青年は苦しそうにうめきながらも、苦笑いを浮かべた。

かさり、と森に敷き詰められた落葉を踏みしめる音がする。
あらわれたのは、猟犬ではなく、村から追ってきた兵卒たちであった。
いや、孔明が楼閣から出た時点で、かれらは距離を置いて、ずっとこちらを観察していたにちがいない。
孔明は、慌てることなく、曹丕から奪った長剣を抜き放ち、青年の首につきつけた。
「下がれ! 曹公子がどうなってもよいか!」
鋭く決め付けると、無表情に孔明の隙を狙っている兵卒たちの足が、ぴたりと止まる。
自分の声が、こだまとなって森に響き渡り、おどろいた野鳥が、ばたばたと羽ばたいていった。
剣を突きつけられながらも、青年は浅い呼吸を繰り返しながら、背後の孔明にたずねてくる。
「いつから気づいた」
「すまないな。初対面からだ。わたしは劉玄徳に仕える以前に、一度だけ許都へ行ったことがある。そのときに、言葉こそ交わさなかったが、そなたの父上を間近で見る機会があった。そなたの声は、そなたの父上によく似ている」
青年は、声を立てずに笑った。
「曹操が、おのれの跡継ぎを、長子のそなたにするか、三男にするか、迷っているという話は知っていた。洛陽でひと悶着あることを期待していたのだが、まさかわたしにそれが及ぶとはおもってもいなかったな」
「長子ではない。昴という、兄がいた。父は、戦死した兄か、病を得て死んだ弟の沖を世継ぎにと願っていたのだ。ところが、ふたりとも早世してしまい、世に叶わぬことがないと自負していた父上も、ほかならぬ世継ぎには恵まれなかったというわけだ。
わたしは最初から、選外だったのだよ。正嫡の長子であろうと、いつも薄氷の上にいるようなものだ。大きな勲功が必要なのだ。父上と、世を納得させることのできる、大きな勲功がな」
「それで、わたしを捕虜にして、うまく降らせることができたら、とおもったのか?」
「普通の策では、貴殿はすぐに見破ってしまうであろう。だから、一度捕らえて命を奪うと怯えさせておき、命乞いをしてきたら、殺すつもりはなかったと許してやる。そういう計画だった。だからさまざまに情に訴えてもみたのだ。しかし、貴殿は昼を過ぎてもなお、あきらめる気配がない」
「そこで、わたしの逃亡を助ける振りをして、追っ手にかかり、絶体絶命のところを助けてやり、わたしを心服させて、堂々と魏に帰国する、という手段に変更したわけか。劉括、あれも偽者か」
「あいにくと、あれは本物だ。わたしのほんとうのおも惑は、わたしと長文しか知らぬ。兵卒たちに知らせてしまうと、どこから漏れるかわからぬ。この策は、いかに貴殿を追いつめるかにかかっていたからな」
「残酷なことをしたものだな。兵卒たちは、わたしさえ死ねば、すくなくとも蜀の地は、戦をすることなしに併呑できるとしんじているだろうに」
「こんな面倒になるのであれば、手っ取り早く、魏に連れて行ってしまうべきであったよ。だが、父はこの計画に大反対をしていたし、ほかの兄弟たちに計画を気づかれたら、邪魔をされる可能性があった。
ならば、敵国で堂々と策を展開すればよい。そこで拠点をつくるために、細作を動員し、広漢を盗賊に荒らさせた。我らとしては、都合のよいことに、広漢を任されたのは、貴殿と不仲な李巌であった。盗賊の猛威のふるう地なれば、地元の民さえ近づかなくなる。
ところが、李巌はおもった以上に働かず、たまりかねた民が、あろうことか荊州の劉璋の母に訴え、それが呉に届き、面倒なことに、呉の細作たちが広漢に入ってきた。しかしうまい具合に、呉の連中が、村ひとつまるごと入れ替わる、という芸当をしてくれたので、それにぶら下がる形で、われらも入蜀したというわけさ」

吐き気がこみ上げてきたのだろう。
曹操の長子、曹丕は、激しく咳き込みはじめた。
孔明は、前方にいる追っ手たちから目を離さないまま、落ち着いてきた曹丕に言う。
「李巌は、貴殿らの動きをどこまで知っている」
「一通、手紙を書いただけだ。もしもこのまま貴殿が動かないでいれば、数ヵ月後に天下に異変が起こったとき、貴殿だけは栄誉に預かることが出来よう、ということだけ記した」
「よくも調べたものだな。中央復帰に焦る将に、意味ありげな文書をおくれば、それは動きを止めるであろう。どちらにしろ、李巌は盗賊たちを一網打尽にするつもりであったから、動くつもりはなかった。手紙だけであろうな」
「そこまでは詳しく知らぬ。長文が手配してくれたからな。それにしても軍師将軍、貴殿は、噂以上にひどい男だな」
だんだんと呂律が回らなくなっている曹丕である。
肩を上下させて、必死に、どんどんまわってきた毒と戦っているのがわかる。
「毒でいまにも死にかけている男を人質に取るとは」
「連中に解毒剤をもらえばよかろう。さあ、そなたからも命令をしてくれ。追っ手を下がらせろ」
「出来るとおもうか?」
「ならば、ここでわたしと共に、広漢の森の肥やしになるのだな。そなたは兵卒たちを騙した。かれらには怒りを晴らす権利があろう」
曹丕は、悔しいのか、苦しいのか、獣のような唸り声をあげると、じりじりと距離を詰めようとしている、終始無言の追っ手に言った。

「軍師将軍の命に従うがよい。ここは下がれ」

だが、じりじりと近づいてくる追っ手たちは、ひと言も発せず、まるで曹丕のことばが聞こえなかったように、前進をしてくる。
孔明は、得物を手に、ひたひたと近づく兵士たちの無表情に見える顔のなかに、押し殺された殺意を敏感に感じ取った。
陳長文が追えと命令したのならば、曹丕を危険にさらすことをおそれ、見つけ次第捕縛せよ、と命令するはずである。
しかし、この兵卒たちは、はっきりと二人にたいして殺意を持っている。
「よい部下をお持ちだな」
孔明は言うと、剣の拘束から曹丕を解放してやり、そして、ほかならぬその長剣を曹丕に手渡した。
おどろく曹丕に、孔明は素早く言う。
「どうやら、そなたの策は破綻しまくったようだぞ。わからぬか、かれらは、わたしとそなたを狙っている」
まさか、という顔をして、長剣を手にしたまま、曹丕は、孔明と、それから追っ手たちを交互に見た。
「先ほどの口ぶりからいけば、そなたのほうが戦い慣れているのであろう? 戦いたまえ。不本意であるが、まだしばらくは手を組む必要がありそうだ」
曹丕は、うろたえつつも、ぜいぜいと息をつきながら言った。
「あきれるほどに、ひどい男だな、諸葛亮。わたしは毒を得た身ぞ。戦えるとおもうか?」
孔明は、その声に肩をすくめて、言った。
「戦えるだろうとも。短剣に、毒など塗っておらぬもの」
「なに?」
「毒が塗ってある、というのは嘘だ。見事に引っかかってくれたので、感動することしきりだ。貴殿はすこし、手の甲に切り傷が出来ただけだ」
「だが、わたしの具合は、ほんとうにわるかったぞ」
「気のせいだ。暗示による効果だな。呪い師がよくやる手だ」
「わたしをたばかったのか!」
「そのとおりだ。さあ、立て。どうやら向こうも、こちらがカラクリに気づいたことを感づいたらしい」
「莫迦な。わたしはともかく、貴殿はそんな短剣で、どうやって戦うつもりぞ」
「戦うつもりなんぞない。逃げるのさ」
うん? と怪訝そうにする曹丕に、孔明は、にっこりと清清しい笑みを向ける。
そして、くるりと背を向け、一目散に走り出した。
「貴様! わたしを置いていくか!」
「ならば走れ! 休みすぎたくらいに休んだであろう!」
そう言って、孔明はともかく行き先のわからない森を駆け始めた。
道もわからず、徐々に日が落ち、暗さも増しているが、ともかく生き延びるためには、走るしかない。
文偉が逃げ切ったのだ、わたしだって逃げ切れるさ、と、必死に自分に言い聞かせながら。

つづく……

(サイト はさみの世界 初掲載・2005/06/12)

風の終わる場所 15

2021年03月21日 10時21分21秒 | 風の終わる場所
日がいよいよ西にゆっくりと傾きかけたころ。
息の詰まるような静寂に包まれた広漢の終風村は、いきなり大きく響いた、どしん、という音に、一斉に動き出した。
それは、蔵に積んでいた米俵が崩れ、地面に落ちたような音にも聞こえた。
蔵に米俵はあった。
だがそれは、崩れないようにきちんと積み上げてあったし、また米俵を移動させる作業の予定もなかった。
それをおもい出した兵卒たちは、いっせいに顔を見合わせ、音のした方角へと飛んで行く。
終風村にあつめられた兵は、みな特別に調練を受けた精鋭ばかりであった。無駄口のひとつも叩かずに、かれらは目指すところへと飛んでいく。
村の端にある、楼閣のところである。
楼閣はすでに大騒ぎとなっており、ぴんと張り詰めた糸が切れ、緊張が飽和したような状態となっていた。
楼閣の入り口には兵卒がいた。
が、中を守っていた兵卒が飛び出してくるや、これは一大事と瞬時に判断し、ともに持ち場を離れて、音のした方角に向かう。
緊張が高まっていくのと同時に、兵卒たちのあいだには、安堵ともいうべき空気がひろがっていた。
これで無事に故郷へ帰れる。
それだけではない。
敵方の軍師が死に、これで天下がふたたび統一される。
平和な世の中がやってくるのだ。
兵卒たちは、みな、劉括という子供の出自や、約束されている未来について知っていたし、そこに希望を託している者たちばかりであった。
かれらはそれぞれがそれぞれに、乱世によって受けた傷をどこかに抱えている。
劉括という子供には、とりたてて希望をもたらしてくれるような片鱗はどこにもなかったし、あの覇王曹操の事績を、こんな小さな子供が受け継いで大丈夫なのか、という不安もあった。
だが、そこに目をつぶり、あえてかれらはやってきたのだった。

中から飛び出してきた兵卒たちが、駆けつけてきた兵卒たちに声をかける。
「諸葛亮が、楼閣から飛び降りたらしい。おまえたちは、諸葛亮の部屋の真下を見てくれ。おれたちは、ほかの連中に知らせにいく」
「うむ…やつめ、いよいよ覚悟を決めたか。もうすこし粘るかとおもったが。きっとほかの連中も、喜ぶにちがいない。早く知らせてやってくれ」
わかった、といって、楼閣の内部を兵卒たちは連れ立って、無人の村を駆けていく。
自分以外の兵卒の、地面を蹴る足音を四方八方に聞きながら、みながそれぞれ、あたらしい時代に向けての高揚感をおぼえていた。
そして、そのあたらしい時代のはじまりに、自分たちが貢献しているのだという誇りが、かれらをなお、興奮させていた。





足がもつれそうになるのを何度も励ましながら、孔明はひたすら駆けていた。
もしも、はしこい者ならば、周囲に気を配って目立たぬようにすることも出来たであろうが、もとより生真面目で不器用な孔明には、そんなことはできない。
かぶった兜も、鎖帷子も、実際で見るのと、装着するのとではまったくちがって、重いし、動きがままならない。
これに厳しい調練がくわわるのだから、新兵が不安に怯えて故郷を恋しがるのも無理はないなと、妙に一部だけ冴えている脳裏のなかでおもいつつ、孔明は男のあとにつづいて走った。
その背を見ながら、生きて帰れたなら、工房に指示をして、軽くて丈夫な鎖帷子の作成を命令しようとぼんやりかんがえた。
自分の吐く荒い息で、耳朶が塞がっている。
「ずいぶん流暢に河北のことばを話される。何処で覚えたのです」
前方を行く男が、孔明の速さにあわせて、隣に並んで、たずねてきた。
「だれに教わったというわけでもない。旅をしているうちに、自然とおぼえたのだ。これでも耳はよいのだよ」
「もうすこしで、村の侵入者を見張るための櫓が見えてきます。そこの兵卒たちも楼閣に向かわせましょう。あとは、村を出ればよいのです」
「そう簡単に行くだろうか。首尾よく村を出られたとして、わたしはこのあたりに詳しくない」
「大丈夫、村を出た先に、樵夫が住んでおります。そいつに金をやって、道案内をさせましょう」

もともと、孔明には一案があった。
天蓋の布を裂いて、紐を作り、それをわざと途中で裂いて、自分と同じくらいの重さのものを地面に落とし、それから兵卒や陳長文たちがそちらに気をとられている隙に、楼閣を脱け出すというものである。
そうして扉の向こう側の人間の気配に注意しながら、せっせと準備にはげんでいたのだが、そこへ、さきほど、みごとな舞を披露した芸人が、ひょっこり顔をだしたのである。
しまった、見咎められたか、と観念した孔明であるが、小男は、こう言った。
「お助けいたします」
とはいえ、そうか、ありがたいと素直に喜べる状況ではない。
沈黙していると、男は、身の上を簡単に話しはじめた。
曰く、
「わたくしはしがない旅芸人の子でありましたが、芸を深く愛する魏王さまに拾われ、たいそうご温情をいただきました。それゆえ、いかに天下のためとはいえ、あの方の築き上げたものを、劉姓というだけで、あのように傀儡にしかならぬと明らかにわかっている子供に譲らねばならないなど、納得がいきませぬ。
わたしは陳長文さまにも、ひとかたならぬご恩がございますが、芸人にも義の心がございます。魏王さまは、わたくしにとっては父。父に背くことはできませぬ」
こんどは、『陳長文さま』か、とおもいつつ、孔明はとりあえず、この青年の言うことを聞くことにした。
ともかく、楼閣から脱け出すことが先決である。ここに留まる限り、確実に命はないのだから。

孔明は、自分が途中までこさえた紐を、頃合を見計らって下に垂らし、そして布団を首括り用の糸束でまとめたものに自分の上着を着せて、地面に投げ捨てた。
そうして何事かと部屋に飛び込んできた兵卒や、陳長文らが欄干から外を覗いている隙をみはからって、ともに連れ立って部屋を出た。
途中、青年がこっそり用意していたという、兜や鎖帷子などの一式にすばやく着替え、兵卒の振りをして、上手に楼閣から脱け出した、というわけである。





青年は、息を切らしている孔明の肩越しに、だれも追いかけてこないことを確認して、兜の下で、にやりと不敵にわらっている。
孔明はもとより、そんな気分ではない。
装束は用意されていたとはいえ、武器は用意されていなかった。
用意できなかったと青年は言ったが。

あまり息を切らせていると不信におもわれる。
孔明は懸命に息をととのえ、見えてきた櫓の兵卒に、軽く手を振って合図を送ってみた。
すると、向こうも何事かという顔をして、櫓から声をかけてくる。
孔明は、さきほど披露した、河北の訛りで兵士たちに言った。
気をつけないと、うっかり蜀の訛りが出そうになる。
孔明は董和のすすめにより、人前ではなるべく蜀の言葉を使うようにしていた。
周囲は荊州出の文官ばかりであったから、下手をすると、まったく蜀の言葉に触れる機会がない。
だからこそとおもい、注意をしてつかっているうち、かえって蜀の言葉をおぼえたのである。
「諸葛孔明が楼閣より身を投げた。ここは俺たちが守るゆえ、おまえたちもその目で確かめてくるといい」
櫓の上の男は、一瞬、声を詰まらせたが、しかしすぐに冷静に言った。
「いいや、だめだ。なにがあってもここから離れてはならぬとの命令なのだ」
優秀だな。
焦りつつも、孔明は、櫓のうえの兵卒に感心した。
だが、優秀であるからこそ、取り除かねばならぬ障害だ。
孔明は、ちょうど太陽を背にするようにして立ち、表情のわからぬ兵士たちに、慎重に言った。
「この天下の命運が決まったのだぞ。その目で見たいとはおもわぬか」
兵卒は、しばし逡巡したあと、やはり慎重に答えた。
「ちゃんと、俺の代わりをしてくれるか? 士卒長に言うなよ?」
「言ったりするものか、兄弟」
ならば、と兵卒たちは櫓を下り、楼閣のほうへと急ぐ。

孔明は、兜を目深にかぶって、顔を見られないように注意をした。
もとより、兵卒たちは、相手がまさか孔明だとはおもっていないから、まともに目を合わせることすらなく、楼閣のほうへ行ってしまった。
もしも成都に帰れることになったなら、わたしの兵には、人を確認するときに、かならず目を見るようにと指示をしよう。
いろいろ勉強になるものだなと、ひたすら前向きな孔明は、今後のことを含めて、いろいろかんがえた。

さて、櫓を守っていた兵卒たちが行ってしまうと、あとは村を出るばかりである。
とはいえ、徒歩で逃げたなら、すぐに追われてしまうだろう。
楼閣に、孔明の姿がないことが、そろそろわかる頃合だ。
諸葛孔明は殺される運命にあると兵卒たちはおもっているのだから、あざむかれたと知った兵卒たちが追いかけてきた場合、すぐさま殺される可能性が高い。
馬が必要だ。
しかし、芸人の青年は、馬を探す孔明に、素早く言うのであった。
「いけませぬ、このあたりは悪路が多い。それに山深いなかで、道らしい道はほとんどございませぬ。馬は、かえって煩わしいでしょう。森を行くのです。森を抜けて、広漢の李巌の陣まで参りましょう」
なぜ李巌の陣の位置を、ただの芸人風情が知っているのだ。
その質問を口にするのは愚かであろう。
ともかく、この村を出ることが先決である。
孔明は、素直に青年の言うことに従うことにして、ともに足早に村を出た。背後より、いまにも、
「そこな二人、待て!」
との声がかかるのではとひやひやしたが、静かなものであった。

いや、静か過ぎる。
舐められたものだな、と孔明は腹が立った。
しかし、絶体絶命の危機に際して、誇りなんぞ荷物になるだけである。
そう言ったのは、劉備だったか、それとも? 
ああ、子龍か。
長坂の戦いのおり、そんなことを口にしていたことがあった。
そういうものかと感心するばかりであったが、もっと詳しく聞いておくべきだった。
いま、この状況に子龍が置かれたら、どうするだろう。
鬼神のごとき働きをみせるあの男のことだ。
やはり同じように、この青年に黙ってついていくにちがいない。
そして、その先は、どうするだろうか。

青年は、迷うことなく、村を出るとすぐに暗い森へと孔明を案内した。
倒木や草むらに足のとられやすい樹海の道を、ぐんぐん進んでいく。
たしかに悪路であった。
孔明は懸命に足を前に進めるものの、障害物が多すぎるため、先に進むことがなかなかむずかしい。
青年は、芸事で足を鍛えているのか、息を切らせつつも、速度は落とさず、どんどん先に進み、遅れがちな孔明のために障害を取り除いたり、あるいは手を貸したりと、こまめに尽くしてくれる。
その双眸には、余裕などどこにもない。
真剣そのものの眼差しであった。
この青年が、ほんとうは何者かはともかくとして、かれなりに必死なのだ、ということだけは伝わった。
必死で真剣なものというのは、利害云々をこえて、情につよく訴えるものだ。
孔明もやはりそうで、おのれの推測が正しくないほうがよい、とさえおもってしまう。
だが、すぐに気持ちを引締める。
いま目の前にいる青年は、自分に、そんな隙を作らせる男なのだ。

つづく……

(サイト「はさみの世界」初掲載・2005/06/12)

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