恩田陸著の「蜜蜂と遠雷」をKindleで購入して読んだ。文庫本だと上下2巻で販売している。恩田陸は1964年生まれの58才の女性作家だ。過去に彼女の書いた「夜のピクニック」を読んだことがある。「蜜蜂と遠雷」は2017年に直木賞(大衆文学)と本屋大賞のダブル受賞をしている。ちなみに「夜のピクニック」も第2回本屋大賞を受賞している。何かのきっかけか忘れたが、この本がクラシック音楽に関連した小説だと知ったので、読んで見ようと思った。
全体的なストーリーとしては日本で3年に一回開催されている芳ケ江国際ピアノコンクールに挑戦する4人の主人公たちのコンクール開始前から終了までを描いたドラマである。このコンクールは実際日本で開催されている浜松国際ピアノコンクールをモデルにしたもので、著者も小説を完成させるまで4回このコンクールを聴きに行って最初から最後まで客席で演奏を聴いたという。
クラシック音楽業界のことはある程度のことは知っていたが、本書には教えられることが多かった。本書を読んで感じたこと、教えられたことなどを書いてみたい。
- コンクールはピアノのうまい人を求めているのではなく、スターを求めていると書いてある。同感である。それは受賞してからも同様であろう。ピアノのうまい人はいくらでもいる、技術以外のプラスアルファで何が必要かを考えない人は世の中で評価されることはないであろう。ショパンコンクール2位を取った反田恭平はそれを徹底的に考えていると思う。
- クラシック音楽のファンは高齢化が進み、若いファンの獲得はこの業界の課題であると書いている。そうかもしれないが、若いときからクラシック音楽を聴く人はまれだ。年齢とともに文化的なものや芸術に興味がわいてくるのが自然だ。今後、働き方改革で生産性を向上させ、より余裕のある生活が実現すれば、クラシック音楽を聴く心に余裕のある人も増えてくるだろうし、新興国などが成長していけば、国全体で文化・芸術に興味を持つ人が一気に増える可能性もあるのではないか。
- 地方のコンクールなどでずば抜けた才能を持つコンテスタントが出てきて最高点を獲得しても、その人が特定の先生に師事していない場合など、適当な理由を付けられて予選落ちすると書いてある。これは問題であろう。何か国選弁護士みたいに安価で師匠を請け負う制度を作るか、著名な音楽家を配したコンテスタント支援会社を作り、その会社が保証人になるなど何らかの対応が業界として必要でしょう。
- この業界でプロとしてやっていける人は一握りで大部分の人はピアノ教師で生計を立てていると書いてあるがその通りでしょう。今年聴きに行った公演で、若い演奏家は海外で入賞しても食べていくのは大変な人が多いと言っていたを思い出した。また、以前も書いたが、ミヒャエル・ハネケ監督、イサベル・ユペール主演の2001年仏映画「ピアニスト」が、そのようなピアニストの狂気を存分に描いている。
- ピアノコンクールは乱立状態になっていると書いてある。コンクール以外に有能な音楽家や作家を見いだす手段はないものか。NHKなどがそういう未受賞の無名の演奏家を積極的に放送すべきでしょう。
- 日本人演奏家は何で東洋人が西洋音楽をやるのか、というところから考え始めなくてはならないと書いてある。私はもうそんなことは考えなくてい良いと思う。むしろ、なぜ西洋人でなければいけないのかを考えるべきだと思う。例えば、N響の首席指揮者はなぜいつも西洋人でなければいけないのか。もう高い報酬を払って有難く教えを乞う時代ではないだろう。国営放送なので希望者を公募して、プレゼンをさせ、審査をして決定してはどうか。仏人のクラウス・マケラのような有能な若手日本人指揮者を思いきって登用する可能性も持たせるべきだ。
- 音楽家として身を立てると、好きな音楽と聴衆から評価される音楽とは違うと書いてあるが、その通りだろう。漱石の「私の個人主義」という文庫本に「道楽と職業」という講演記録が収録されており、「芸術家が職業として優に存在し得るかは疑問として、これは自己本位でなければ到底成功しないことだけは明らかなようであります、およそ職業として成立するためには何か人のためにする、すなわち世の嗜好に投ずると一般のご機嫌を取るところがなければならないのだが、本来から言うと芸術家というものはその立場からして既に職業の性質を失っているといわなければならない」と話している。また、以前書いた樋口一葉も「うもれ木」で、陶芸技術を追求して世に迎合しなかったため、うもれ木のまま終わる陶芸家を描いている。だからこそ、功なり名を遂げた大金持ちは芸術家を支援することが求められると思う。
(その2)に続く
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