ゆっくり行きましょう

気ままに生活してるシニアの残日録

映画「眠りの地」を観た

2024年06月30日 | 映画

アマゾンプライムで映画「眠りの地」を観た。2023年、127分、アメリカ、原題:The Burial(埋葬)、監督マギー・ベッツ、プライムビデオでの独占配信のようだ

冒頭で、実話に基づく映画であることが示される。南部アメリカのミシシッピ州で葬儀社を営むオキーフ(トミー・リー・ジョーンズ)は、代々続く家業が資金トラブルで行き詰まっていた、その苦境を脱するため顧問弁護士に相談すると、事業の一部を業界最大手のローウェン・グループに売却すればよいとアドバイスを受けた。

そしてローウェン・グループのトップと直談判して合意し、あとは弁護士に契約書を作成させるとしていたが、ローウェンはいつまでたっても連絡してこなかった、契約書作成を引き延ばすほどオキーフが困るのを知っていたためだ。このため、オキーフは訴訟を起こすことを決意。カリスマ弁護士ウィリー・E・ゲイリー(ジェイミー・フォックス)を雇う。正反対の性格の2人だったが、一緒に戦っていくうちに絆が芽生える。

映画の題名は、騙されて搾取されてきた多くの黒人が墓石もない荒野に埋葬され、やがてそこは開発され、いろんなものが建ってくる、その黒人差別の象徴ともいえる黒人が眠っている埋葬場所、眠りの地、を採用したのだろう

映画を観た感想を書いてみよう

  • 全体的によく考えられた良い映画だった、見ていて退屈しなかった
  • 主人公のオキーフを演じたトミー・リー・ジョーンズ(1946)は好きな俳優だ、もう年なので若い時のような刑事ものなどはできないので、この映画のような中小企業のオーナーのような役をやっているのだろうが、似合っていた。
  • オキーフの弁護を引き受けた弁護士ウィリーをやったジェイミー・フォックスは初めて見る俳優だが、よかった。アグレッシブな黒人弁護士役をうまく演じていた。ウィリーは人身事故補償専門の弁護士で、上昇志向が強く、スタンドプレーがうまく、今までの訴訟で負けなしだが、実は勝てる訴訟しか手がけない。そして、オキーフの依頼について、契約法は専門外である、白人を弁護したことがない、今回の訴額がショボいなどの理由で断るが、オキーフの新人弁護士のうまい説得で結局弁護を引き受けることにした、ウィリーを説得した着眼点が良かった
  • 訴訟では何が論点なのかよくわからなかった、口頭で契約に同意していたが、契約書の作成を遅らせた、それによりオキーフ側に大きな損害が出た、それが1億ドルだ。口頭でも契約は成立するので、それほど大きな論点にならないだろうと思うが、裁判で議論されていたのは、契約書に両当事者がサインをしていないと拘束力はないとか、ローウェンがいかに黒人を騙して金儲けをしてきた人間であるかとか、その騙して儲けた金でいかに豪勢な身分になっているかなど、被告の貪欲と黒人搾取だ
  • そして訴訟の最後にウィリーが被告に対して、こんな差別や貪欲なことをして「良心が痛んだことはないか」と質問すると、「無い」と答える被告、黒人陪審員が多かったのでこれ決定的になったような描き方になっていた
  • この映画のポイントは、法律上の論点などではなく、訴訟に連戦連勝で傲慢であったウィリーが、スケベ根性で専門外で勝てる見込みもあまりない訴訟を引き受け、苦闘し、被告弁護人から攻められて依頼人のオキーフに恥をかかせ、主任弁護士を降ろされ、人生で初めて挫折を味わうが、それにめげずに妻に自分の弱いところもさらけ出しアドバイスをもらい、気を取り直して初めて他人(オキーフ)に失敗を謝罪し、その後、徐々に盛り返していき、オキーフの信頼も取り戻し、最後は勝訴するまでのその人間模様であろう、その点では見ごたえがあったと思う。

映画の最後には、その後、控訴を経て両者は1.75億ドル賠償で和解し、ローウェン・グループはその後倒産、オキーフ葬儀社は継続して成長し、夫妻は慈善団体を設立して賠償金を黒人の教会や学校に寄付、ウィリーは大企業相手の訴訟弁護士になり勝ちまくった、オキーフとウィリーの友情は続いたと出ていた。

楽しめる映画だった

 

 


劇団俳優座、演劇「野がも」を観る

2024年06月29日 | 演劇

劇団俳優座創立80周年記念事業の演劇「野がも」(全2幕)を観た、シニア割引で5,000円、14時開演、16時30分終演、この日は公演最終日

場所は六本木の俳優座スタジオ、俳優座のビルの横のエレベーターから5階に上がり、そこにある、初訪問、スタジオ内は狭く、アングラ感満載、座席はざっと見て100席くらいか、ほぼ満員で7割くらいは中高年だったのには驚いた、外国ものは原作を読んだことがある意識高い系の中高年世代が観に来るのだろうか、私もその一人だが

ヘンリック・イプセンは劇団俳優座が取り上げ続けた「近代演劇の父」、「野がも」は築地小劇場開場100年、劇団創立80周年に立ち返る新劇の原点、と劇団の宣伝にはある、さらに、宣伝には「人間てやつは、ほとんどだれもかれも病気です、情けないことにね」と劇中の最後のほうで医師レリングが吐くセリフがある

脚本:ヘンリック・イプセン
翻訳:毛利三彌
演出:眞鍋卓嗣

イプセンはノルウェーの劇作家、グリーグ作曲「ペール・ギュント」はイプセンの戯曲の上演のために作曲したものだ。「野がも」の初演は1885年1月、ノルウェー劇場であったが、評判はあまりよくなかったそうだ。

<配役>

豪商ヴェルレ・・・・・・・・加藤佳男
グレーゲルス・ヴェルレ・・・志村史人
老エクダル・・・・・・・・・塩山誠司
ヤルマール・エクダル・・・・斉藤 淳
ギーナ・エクダル・・・・・・清水直子
ヘドヴィク・・・・・・・・・釜木美緒
レリング・・・・・・・・・・八柳 豪

豪商ヴェルレとエクダルはかつて森林伐採工場の共同経営者だったが、森林法制定により法に違反する伐採を行った罪でエグダルが投獄される、ヴェルレはエクダルの無知を利用して自分だけ無罪になる。その後、ヴェルレ家は巨利を得、エグダル家は没落していく。

その事件から数年後、久しぶりに別居していたヴェルレの息子グレーゲルスが帰ってきてエクダルの息子ヤルマールと再会する。ヤルマールは、ヴェルレ家の女中ギーナと結婚し、娘ヘドヴィクを持ち、ささやかながら幸せな家庭生活を送っていた。

ところが、話をしていくうちにグレーゲルスはヤルマールの妻ギーナと娘のヘドヴィックについてある疑惑を感ずるようになる。やがてグレーゲルスは疑惑を暴き、真実をヤルマールに伝えると・・・・

題名の「野がも」は、ヴェルレが湖で狩りをした時、打ち損じて水底に潜ったものを、彼の犬が引き上げたもの、それを老エクダルに与え、それを孫娘のヘドヴィックがかわいがっていた

この「野がも」という劇について、岩波文庫の巻末の解説を書いた訳者でもある原千代海氏は

  • イプセンは、ある一家の環境を描き、平均的人間がどれだけ「真実」に耐えうるかを検証した
  • 「真実」の使徒をもって自任するグレーゲルスは、ヤルマールの結婚の秘密をあばくことにより、この一家をヴェルレルによって撃ち落された哀れな野がもの状態から救い出そうと考える
  • グレーゲルスは「真実」を伝えたあとに起こる以外な結果に、もし平均的な人間からあらゆる虚偽を取り去るなら、それは同時に彼らから幸福をも取り去ることになるのだ、という教訓を知る
  • イプセンは、特にグレーゲルスを戯画化して、悲劇を抱えた喜劇としてこれを書いた、そして自分自身のモラリスト的一面に鋭い自己批判を加えた
  • 戯曲の象徴として用いられている野がものあり方も、エクダル親子には「生活の夢」、ヘドヴィックには「孤独」、ギーナには「無関心」、そしてグレーゲルスには、ヤルマールが野がもに重なる、という多義的なものとなった

と解説している、なかなか難しい

イプセン研究家の毛利三彌氏は、「野がも」について

  • 1960年代と70年代はノルウェーが急速に近代化を進めた時代で、勝ち組と負け組が明確になり、「野がも」でも家族関係の軋轢には、近代化による経済差が反映されている、それがイプセン自身の家族の変遷と重なっている
  • イプセンが8歳の時、父は破産同然に没落、イプセンは15歳で別の町の薬屋に奉公に出て、その後は故郷に帰らなかった
  • グレーゲルスは「理想の要求」でヤルマールの家庭を崩壊してしまうが、このグレーゲルスの中にかなりイプセン自身の反映がみられる
  • それまでイプセンは旧道徳批判で名を挙げていたのが、一転して、保守的ともみられる「人生の嘘」肯定論を展開していることに当時の人々は戸惑ったが、イプセンは老エクダルが国家近代化の犠牲になって没落したことを書いて、その基本姿勢は変えていない

と解説している、なかなか奥が深い

さて、これだけの予備知識をインプットして当日演劇を観た感想を書いてみたい

  • イプセンは好きな作家である、「人形の家」、「民衆の敵」、「幽霊」などは良い作品だと思う。彼の人生を簡単に調べると、結構いろいろあった人だと分かったし、昨年行ったミュンヘンにも一時住んでいたことを知った
  • 物語には二つの家族が出てくる、豪商のヴェルレ家と没落したエクダル家だ、だが、勝ち組と負け組と単純に言えないと思った、ヴェルレはエクダルを陥れ自分だけが富を築いたが、妻に先立たれ、息子のグレーゲルスとはうまくいっていない、さらにヴェルレは目に重大な疾患があるので幸せそうには見えない、没落したエクダル家は貧しいながら家族3世代一緒に仲良く暮らししていた、金と幸福度は正比例しないと思った、人々の「金持ち度合×幸福度合=一定」という公式が成立するように神はちゃんと考えているのではないか
  • 野がもは豪商ヴェルレによって撃ち落されたが、ヴェルレの犬によって救われた、そしてエクダル家に与えられた。また、ヴェルレは手を出して孕ませた女中をエクダルの息子のヤルマールと結婚させた。ともにヴェルレは楽しんで不要になったものを自分のせいで没落したエクダル家に与えた。その後、罪滅ぼしのためかエクダル家が行き詰まらない程度の援助をギーナに与え続けたがギーナはこれをヤルマールには話していなかった、それを知ったヤルマールは妻や子供ばかりか金までもヴェルレから与えられたものと知り大いに自尊心を傷つけられた。野がもはヴェルレがエクダル家に押し付けた不要なものの象徴だと思った
  • グレーゲルスは真実を伝えるべきと信じていたが、イプセンが暗示したように人間は真実には耐えられない場合があり、常に真実を知ればよいというものではないという考えは、私も同意する。英語にもWhite lieという用語がある、「相 手を傷つけないための、必ずしも悪いとはいえない嘘」である。日本でも「知らぬが仏」という言葉がある。こう考えると、世の中でグレーゲルスのように「真実」や「正義」を振り回す一直線な人は困った存在ということになろう、今の日本でこれを振り回しているのは・・・
  • 初めてこの演劇を見て、事前予習をした時と印象が異なる部分があった、例えば、この演劇の主役は誰であろうか、はっきりしななかったが、観劇した後ははっきりとヤルマールだと思った、斉藤淳の熱演が本当に良かったためかもしれない。パンフレットなどでは、家業のカメラ屋をほっぽり出してギーナに任せきりにし、自分は金にもならない研究などに没頭しているダメ男として描かれているが、今日の舞台では、結構しっかり自分の考えや感情を出しており、ダメ男ぶりは強調されていないように見えた。
  • 準主役はグレーゲルス、ギーナ、ヘドヴィックで、それぞれ志村史人、清水直子、釜木美緒の演技もよかった
  • 劇場内が狭いため、舞台と観客の距離感が非常に近く、すぐ目の前で演技を見せてくれるので、俳優の迫力がビシビシと観客に伝わってきた、こういう設定も良いなと思った。また、俳優たちも舞台の袖や奥、観客の入口のロビーのほうから出てきたりと、面白い工夫がなされていた。

興味深い演劇であった、役者の熱演が素晴らしかった


映画「九十歳。何がめでたい」を観た

2024年06月28日 | 映画

映画「九十歳。何がめでたい」を観た、シニア料金1,300円、2024年製作、99分、監督前田哲、今日はシネコンの比較的大きな部屋、結構中高年の人が観に来ていた。

作家の佐藤愛子が日々の暮らしと世の中への怒りや戸惑いを独特のユーモアでつづったベストセラーエッセイ集を、草笛光子主演で映画化したもの

これまで数々の文学賞を受賞してきた作家の佐藤愛子は、90歳を過ぎた現在は断筆宣言して人づきあいも減り、鬱々とした日々を過ごしていた。そんな彼女のもとに、中年の冴えない編集者吉川がエッセイの執筆依頼を持ち込んでくる。最初はけんもほろろに断って追い返していたが、吉川の情熱に負けて書き始めることに。そうしたら意外と人気を博し、何万部も売れ出したが・・・・

編集者の吉川を唐沢寿明、愛子の娘の響子を真矢ミキ、孫の桃子を藤間爽子、吉川の妻麻里子を木村多江が演じた。

観た感想を述べてみよう

  • 佐藤愛子(1923)は知っていたが、彼女の本は読んだことがなかった、今年で100才だ、すごい女性がいたものだ、この映画を観て感心した
  • 映画の中で佐藤が吉川に頼まれたエッセイを書くが、その最初のエッセイは自宅の隣が公園で、子供の騒ぐ声がうるさいと文句を言う老人についてだ、佐藤はこの老人だって子供のころは楽しく騒いでいたくせに老人になるとうるさいという身勝手を批判し、子供の遊び声が聞こえるのはうれしいことだと書いた、その通りだと思う。
  • 最近もそんなニュースを聞いた、しかも公園で遊ぶ子供の騒ぐ音に文句を言っているのがある大学の名誉教授だというからあきれた。文句を言われた市町村は、このようなクレーマーの騒ぐ音にはすぐに反応して公園の廃止を決めて、遊具の撤去工事をしたら、今度は別の市民がその工事の騒音がうるさいと言ってきた。醜きもの、それはエゴだ。
  • 佐藤担当のリストラ寸前の編集者を唐沢寿明(1963)が演じていたが、その編集者吉川信也は会社では部下に対するパワハラで内部告発され、家では妻や子供のことに一切関心を示さない典型的な昭和の父親、その妻が新聞の人生相談に「こんな夫との関係をどうしたらいいでしょうか」と投稿すると、佐藤が「きっぱりと私はあなたを嫌いです」と言いなさいとアドバイスし、最後は結局そう言って離婚するが・・・
  • 時代の変化についていけない人、と言えばそれまでだけど、私は同じ昭和のオヤジとして吉川に同情を禁じ得なかった、まあ、こんな極端な例はないだろうが最近のセクハラ、パワハラ、○○ハラスメントというのは行きすぎではないか、ただ、唐沢寿明というのはこういうキャラが得意なのだろうか、よく知らないが、あまり適役ではないような気がした
  • 佐藤を演じた草笛光子(1933)も90才か91才だ、だが本当に元気である、90才過ぎてなお現役というのがすごい、映画の中でも佐藤が「だらだら何もしないで過ごしてはダメだということがわかった」と言っていたが、その通りでしょう。私はその意味を生涯現役で仕事をしなければダメということではなく、仕事を引退しても、熱意をもって取り組むことがあり、イキイキと生活することだと思う
  • 三谷幸喜が佐藤を乗せたタクシーの運転手で出ていたが、ご愛嬌でしょう、演技のほうはイマイチだった、ヒッチコックのようにちょっとだけ出るほうが良いのでは

元気が出る映画でした


中村隆英「昭和史(上)1926-45」を読む(4/4)

2024年06月27日 | 読書

(承前)

第四章 「大東亜共栄圏」の夢

1 緒戦の勝利

  • 開戦後、日本軍はマレー半島全土、シンガポール、フィリピン、ニュウーギニア、ソロモン群島、ビルマ、ジャワ、スマトラ、ソロモン群島の広大な領域を占領下に収めた、しかし政府にとっての問題は、緒戦の勝利ののち、その後の戦争指導の計画がほとんどなかったことである
    コメント
    これほどの破竹の勢いで東南アジアや南洋諸島を占領できた日本軍がなぜ、中国で何年もてこずっているのか、それは、敵に回した米英が中国を支援していたこと、共産軍が中国を支援していたことが大きいだろう、緒戦勝利後の計画がなかったのは5.15事件や2.26事件を起こした青年将校らと共通するものがある
  • ミッドウェイ海戦に敗退し、太平洋の制空権を失ったことを当時の軍部は政府に対してもひた隠しにしたのである、政府もこれによって戦局が一転したという深刻な意識は持っていなかったように思われる
    コメント
    都合の悪いことは開示しないというのは今でも同じでしょう、新聞は何をやっていたのか、アメリカのラジオニュースくらいまだ聞けたでしょう

2 「絶対国防圏」の崩壊

  • 東条内閣が太平洋戦争において果たした役割については、ほぼ次のように考えることができるであろう、としてかなりの字数を費やして著者の見解を述べている、おおざっぱに言えば、彼は軍人政治家としての信念を持っていなかった、例えば開戦回避、開戦後の戦争の見通しなどについて。そして、世界情勢や敵対国に対する知識もなく、強気一辺倒で国民の生活や生命を犠牲にした
    コメント
    東条のことは十分に研究したことがないので著者の見立てを評価できないが、別の観点から一つ言えることは、東条首相は暗殺や自殺ではなく、平和的手続きで退任したということだ
  • 東条のような人物を首相にいただかなければならなかったことは、当時の日本の不幸であったが、同時にこのような軍部勢力の台頭を統帥しえなかった政治機構の欠陥を痛感せざるを得ない。太平洋戦争はおそらく避けられたものであったが、軍部とこれに結び付いた官僚の政策決定が戦争をもたらしたことは否定できない
    コメント
    天皇に東条を首相候補として推挙したのは内大臣の木戸幸一、明治の元勲木戸孝允の孫であり、その罪は大きいと思う、太平洋戦争は避けられたという見解には同意できない、「軍部とそれに結び付いた官僚」との表現があるが、軍部も官僚である、陸軍大臣、海軍大臣、陸軍省、海軍省がありそこに属する戦争指導者は皆官僚であった、内閣と官僚が国を滅ぼしたと言える

3 小磯内閣とフィリピン決戦論

  • 小磯は首相となると同時に、何らかの形で作戦用兵(統帥)に関与できるようにしてほしいと陸軍に要望したが拒否された。軍部の統帥権意識はこの期に及んでも強烈で、陸軍出身の小磯にも例外を認めようとはしなかった
    コメント
    陸軍という官僚組織の暴走であろう、官僚が大臣の意向に従わないのは陸軍や海軍以外に外務省でもあったし、昭和憲法になった今でもある、官僚、すなわち学校成績が優秀なだけの者というのは国際情勢を見る眼がなく、外国と交渉する能力など全くない、日本の民間企業がさえないのも経営者、社員、組織運営が官僚化しているからだ、すなわち横並び、前例踏襲、事なかれ主義、会議や資料作りに時間をかけるなど

4 敗戦

  • 6月22日の御前会議では天皇自ら時局収拾の発言をし、鈴木首相、米内海相、東郷外相らは、ソ連を通じて戦争の終結の斡旋させる方針を述べ、陸海軍もあえて反対せず、極秘裏にソ連を通じて和平交渉を行うことが決定された
    コメント
    独ソ戦でドイツが破れ、ヒトラーが5月8日に自決し、ベルリンがソ連軍に降伏したにも関わらず、ソ連に和平交渉の斡旋をたのむという外交音痴ぶりが悲しい
  • 終戦に際し、8月9日午後12時近くから翌10日午前2時まで開催された御前会議で、ポツダム宣言受諾か否かで意見がまとまらず、鈴木首相が天皇の決断を要請し、天皇が受諾の意見を述べ、10日午前7時15分に発電された、アメリカの回答は「日本の国家統治はsubject to連合国司令官」となっており、陸軍内部の戦争継続を叫ぶ中堅将校らの勢いは激しくなった、阿南陸相を押し立ててクーデターを行い、天皇を軟禁し、あくまで戦争継続しようとする陸軍省部の動きが激しくなった、阿南も突き上げられて、14日朝、梅津参謀総長と協議したが、梅津は宮城内に兵を動かすことを否認し、次いで全面反対したため、阿南もこの計画を断念した
  • 天皇の敗戦の詔勅案が14日午前の閣議で決定されると、夕方、陸軍省軍務局の畑中健二少佐、竹下正彦中佐らは、あくまで戦争を継続するために近衛師団によって宮城を占拠することを考え、同日夜、森武赳師団長に蹶起を要請したが、これを拒否されると、拳銃をもって師団長を射殺し、師団長の偽の命令によって宮城を交通遮断して詔勅の録音盤を捜索した、しかし、東部軍司令官宮田中静壱大将が、自ら手兵を率いて宮城に入って鎮圧し、計画は失敗に終わった、この事件を起こした責任者らは翌日自殺し、15日未明、阿南陸相も割腹自殺した、こうして15日正午に予定通り天皇の放送が行われ戦争が終結した
    コメント
    あわやという宮廷クーデター未遂があったとは。人間というのは思い詰めると何をやるかわからない怖い面を有しているのがわかる、根拠なき強気一辺倒がとんでもない結果を招く可能性があったことを物語っている、後先考えない強硬一辺倒はどうしても声がでかく、勢いがあるので、人の心を動かしてしまう危険性があることを我々は教訓とすべきだろう
  • これ以降も戦争継続を叫ぶ陸海軍の飛行隊は盛んに東京上空でビラをまき、アメリカ軍が進駐するならば一戦を交えると叫んで、状況は必ずしも穏やかではなかったが、皇族が天皇の命を奉じて各地方におもむいて、説得し、ようやくその勢いは衰えた。

5 太平洋戦争期の経済

  • 開戦とともに強化された統制のもとで、ソ連型の中央指令による計画経済の体制に近い状況になっていたが、それは戦争のための生産が急増したことを意味していなかった、緒戦が順調すぎたため軍部も政府も軍需生産の拡大に真剣な努力をしていなかったのである
    コメント
    円高により国外に工場を移転させるのは、有事のことを考えると大変危険だと思った。造船業、鉄鋼業、自動車産業、航空機産業など軍需品も生産可能にする工場は国内になければいけないでしょう、その他民間の雇用創出の観点からも円安は工場の国内回帰や海外企業の工場誘致を促す国策といえるでしょう、円安のデメリットばかり強調する最近の新聞論調は経済音痴、安全保障音痴のミスリードと言えるでしょう、もっとも工場だけ国内にあっても生産を簡単に増大できるわけではないが、ワクチンなども含め民族生存維持のための最低限のものは国内製造を目指すべきでしょう

6 戦争下の社会と生活
7 太平洋戦争とは何だったのか

  • 第1次大戦後のヴェルサイユ体制は、19世紀以来の帝国主義の時代の終結の宣言したものだが、この時の世界秩序は英・仏・米を中心とする連合国の主流にとって有利でありそれ以外の国、独・日・伊にとっては不満があった、連合国は植民地などを「持てる国」であり、それ以外の国は「持たざる国」であった、その二つの陣営が戦ったのが第2次大戦だった
    コメント
    持たざる国の不満があったことはそうでしょうけど、さらに、戦勝国が敗戦国ドイツに過大な賠償金を課したことも第2次大戦の原因でしょう
  • 第2次大戦はこの世界の帝国主義の秩序を打破するきっかけとなり、帝国主義的支配の終焉をもたらした、それは歴史の皮肉とも、弁証法的帰結ともいうことができる
    コメント
    その通りでしょう、そういう意味で、世界は多大な犠牲を出して、帝国主義を終わらせたと言えるでしょう、そして植民地を失った国家の没落がそこから始まったとも言えるのではないか
  • 戦時日本の軍部をファシスト集団としてとらえる考えがあるが、日本の戦時体制とドイツ、イタリア、あるいはソ連の戦時体制とは大きな相違があった、明治憲法のもとでは首相兼陸相の東条でさえ統帥に関与できなかった、立法府の力が低下し行政府の力が強まり国民生活を統制した、そして行政府のうちで一番最強の力を発揮して国家の命運を左右したのが陸軍だった、その陸軍も官僚の一部であった、大臣や局長などその立場を離れればその力は失われた、今も昔も変わらない日本型官僚制下の決定機構は、課長ないし課長補佐クラスが政策の立案にあたり、上位者に承認をもらい、やがて政府の決定になる、日本の運命を決める和戦の岐路においてもそのシステムは同様であった、それはヒトラーのドイツ、チャーチルのイギリス、ルーズヴェルトのアメリカ、スターリンのソ連とも異なっていた、すべての機構に優先する独裁者のいないファシズムがあるだろうか
    コメント
    中村教授の見解に全面的に同意する、戦時日本はファシズム国家ではなかった、教授の説明を読めば明らかである、軍部も官僚であった、官僚は当時も今も学業成績優秀なだけの人たちであるが、その人たちに国家の命運が握られているのが日本の不幸であろう、その官僚と協力して、適切な方向に国を持っていくのは政治家だろう、そのどちらを非難ばかりしていても事態は改善されまい、理論ばかりに走らず、かといって情緒や感情に流されず、常に多様な選択肢や考え方を検討し、あとは為政者に現実的な判断をしてもらうしかない
    この過程における新聞の果たす役割が大きいが残念ながら彼らは多様な考えを国民に提示することなく、自社が正しいと信ずる考えで紙面を作成し、国民をその方向に誘導することに熱心である、新聞社が主張することが正しくなかったことは戦前戦後とも少なくない

いろいろ勉強になった本でした

(完)


名曲喫茶「ショパン」に行く

2024年06月26日 | カフェ・喫茶店

池袋の東京芸術劇場で音楽鑑賞をした後、久しぶりに近くの名曲喫茶「ショパン」に行ってみようと思った。場所は池袋からひと駅行った要町、そこから歩いて10分弱のところの住宅街のど真ん中にある、ちょっと不便なところなので足が遠のいていた。

ドアを開けて中に入ると先客が一人、広々したスピーカー正面の座席に腰掛ける、あとの予定が詰まっていたので、ここで食事もと思ってメニューを見ると、以前あったサンドイッチがなくなっている、店主は「やめたんです」と、それではということで、あとはカレーかトーストになるが、チーズトーストを選んだ。

昨年来た時と室内は全く変わっていない、窓が大きく、外光がたっぷり入ってくる、大きなスピーカーが正面に2台鎮座しており、そこからそれほど大きな音でないクラシック音楽が流れている。右側のカウンター横にはLPのターンテーブルもあるので、以前はLPもかけていたのであろうが、今はCDを使っているそうだ。

正面の大きなテーブルの上や、スピーカーの間のスペースには店主の宮本英世氏のクラシック音楽関係の書籍がずらっと並んでいる。氏のクラシック音楽の普及にかけた情熱は多くの人に影響を与えたでしょう、私もその一人だ。壁にはフルトヴェングラーやトスカニーニ、ショパンなどの写真や絵が飾ってある。

流れている曲を聴いていると、ショパンをはじめいろんな作曲家の曲がオムニバス的に流れている、1つの作曲家のCDをじっくり聴かせるやり方ではないようだ、そこは国分寺の「名曲喫茶でんえん」と同じだ。

あとの用事があるので45分くらい滞在して失礼した、私がいた間に、もう一人客が入ってきた、店は店主とその奥様で運営しているようだが、お二人とももうご高齢であり、いつまでこの店をやっていけるのか心配になる。私のよく訪れる名曲喫茶はみな店主が高齢化している、しかし、店が無くなってもらっては本当に困る、ご子息などもそれなりの年になっているだろうから定年後に引き継いでもらえないだろうか。あるいはほかの誰かがやってくれないだろうか。

そんなことを考えて店を後にした、ご馳走様でした。いつまでもお元気で。

 


芸劇 ブランチコンサート「念願のメンバーでピアノ四重奏」を聴きに行く

2024年06月25日 | クラシック音楽

芸劇 ブランチコンサート ~清水和音の名曲ラウンジ~第48回「念願のメンバーでピアノ四重奏」を聴きに行った、6月19日、11時開演、12時15分終演、2,400円、今日は満員に近い観客が入っていた、出演者が有名な方たちだからだろうか、良いことである。

今日の私の席は、1階、ステージに向かって右側のI列であった、先日読んだピアノ調律師をモデルにした小説「羊と鋼の森」(宮下奈都、その時のブログはこちら)で、主人公がピアノを聴くときは左側の席より右側の席のほうが良いのだと言っていたが、今日はまさに右側の絶好の位置であった。

出演:

郷古廉(ヴァイオリン、N響第1コンマス)
佐々木亮(ビオラ、N響首席ヴィオラ奏者)
向山佳絵子(チェロ)
清水和音(ピアノ)

プログラム:

モーツァルト:ピアノ四重奏曲 第2番 変ホ長調 K.493
ドヴォルザーク:ピアノ四重奏曲 第2番 変ホ長調 op.87

今日の出演者はN響コンビの二人で、郷古氏をステージで見るのは初めてだ、1993年生まれのまだ若手と呼んでも良い年齢でしょう。佐々木氏は先日もこの清水和音シリーズで出演したのを見たので2回目である。

向山女史は失礼ながら知らなかったが、今までアルゲリッチなど名だたる演奏家やオーケストラと共演し、ソリストとしても活躍する傍ら、公演プランナーや大学で後進の指導に当たるなど幅広くご活躍のようだ。

今日の演目は初めて聴くもので、四重奏というあまり曲がない分野の演目で面白かった。聴いてみると、やはりモーツアルトとドヴォルザークという作曲家の曲想の違いが明確であり、興味深かった。両方とも長調の曲で初夏にふさわしいプログラムだと思った。

さて、今日の公演であるが、

  • この公演は清水氏が演奏の合間に司会をして出演者とのトークを聞かせてくれる面白い取り組みをしている公演会だ、今日もどんな話を聞けるのか楽しみにしていると、1曲目の終了後、佐々木氏が舞台に残り、郷古氏のことについて話題にした、いわく、彼はオーケストラの誰からも一目置かれるだけの技術的な優秀さや統率力があるなどだ。若いのにたいしたものだ。N響にしては大抜擢だろう。本人の話もぜひ聞いてみたかった。また、今日の出演者は佐々木氏が熱望したと紹介していた
  • トークのあとは、2曲目のドヴォルザークに入るのだが、ここで佐々木亮が第1曲からそのままステージに残ってトークしていたので、慌てて楽屋に戻り、1曲目とは異なる2曲目用の弓を持って戻ってきたのがおかしかった、曲に合わせて異なる弓を使うのかと感心した(同じ弓の交換かもしれないが)。
  • さらに、さあ、2曲目というところで、また佐々木亮が「しまった」という仕草をして慌てて楽屋に戻った、今度は2曲目の楽譜を取りに行ったのだ、息せき切って戻ってきたときは少し休んでから演奏を開始したほうが良いのではと思ったが、観客を待たせないためにすぐに演奏を開始した、こんなハプニングが起こるのもこのシリーズの公演の面白さだろう

良い音楽を聴かせてもらいました


中村隆英「昭和史(上)1926-45」を読む(3/4)

2024年06月24日 | 読書

(承前)

4 第二次近衛内閣-新体制と三国同盟

  • 近衛は1938年以来の新党計画が再燃し、「新体制運動」に深入りし始め、1940年に強力な挙国政治体制ないし新体制樹立のために微力を尽くしたいと声明した、右翼・左翼を問わず、現状打破を標榜する革新勢力を取り込んで新しい政治組織を作り上げる青写真を持った、東京帝大の政治学担当教授矢部貞治が新体制関係文書の多くを作った、7月に入って各政党は相次いで解散し、陸軍の軍務局長の武藤章らはこの動きを利用した
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    政党政治や経済、戦争が行き詰まると革新的な挙国一致体制に期待したくなる、新聞はこの危険性をいつも国民に警告する役割があると思う、そして国民に人気があるが無能な人をトップに担ぎ本人もその気になる、国民に人気がある政治家やタレントなどは一番危険だろう、また、東大の政治担当の教授がいかにばかげたことに協力してきたかがわかる、肩書だけでその人の言うことを信じてはいけないという教訓である
  • 1939年8月に、近衛は新体制準備会を作り、新体制の定義をした、それは何度読んでみても、わかったようでわからないが、当時の雰囲気だけはよく伝えられている、この原文は東京帝国大学の矢部貞治の筆になるものであった
    コメント
    物事を難しくしか説明できない大学教授、結局、世界情勢を見る能力がなく、わけのわからない文書を書いて国民をミスリードしただけだった、戦後も世界情勢を理解できず、講和条約締結に際し、非現実的な全面講和を主張した大学教授がいた
  • 10月に大政翼賛会の発足式があった、その性格をめぐり議論があり、平沼騏一郎は後に「翼賛会に入っているものは、軍人でもそうでないものでもアカがいた」と回想している
    コメント
    翼賛会は右翼、左翼、軍人、官僚が支配したことに注意すべきだ、全体主義に右も左もないのだ、官僚も統制経済などの全体主義が好きだ、我々は右翼だけでなく左翼にも官僚にも十分な警戒を怠ってはいけない、その点で戦後の日本メディアがほとんど左傾化しているのは危険な兆候であろう

5 北部仏印進駐と松岡外交

  • 北部仏印への進駐は仏政府と平和進駐で合意したが、現地の佐藤賢了南方軍参謀副長、東京から出張した参謀本部第一部長富永恭次は武力進駐を強行した、太平洋戦争期の陸軍を誤らせたのはこの種の強硬論者が省部の中央に据えられたことも一因であろう
    コメント
    合理的判断ができず、情実判断、根拠なき強硬論、順法意識の欠如、精神論重視・・・今に続く日本の弱点であろう
  • 三国同盟締結に当たり、御前会議では批判的な意見も出た、原嘉道枢密院議長は、アメリカはなお日本を独伊側に加入せしめないためにかなり圧迫を手控えているようだが、同盟締結によりかえって反対の結果を促進する、蒋介石を援助して日本を疲弊させ戦争に耐えられないようにしようと計画する、広田弘毅も質問を重ね、英米の日本に対する態度は極めて悪化するし、そうなれば中国はこの事態を利用するであろうから支那事変の終結はいよいよ困難を来すであろう、これら良識的な批判は、この時期の熱狂的な日独伊枢軸強化論のあらしの中ではもとより小さな響きしか持たなかった、石橋湛山は、三国同盟が発表された後、東洋経済新報の社説で深刻な危機感を表明した
    コメント
    本来新聞が大きく取り上げるべき良識的批判であろうが、「バスに乗り遅れるな」と時代の空気を増幅することしかせず、日本は判断を誤った、石橋湛山は契約締結後に批判しても遅いだろう
  • 松岡は同盟締結に先立ち、在外外交官を全面的に更迭し、霞が関出身の大公使をほとんど召還し、軍人や代議士であったものを登用した、すべての外交を自分の手中に掌握し、曲面の打開を図ろうとしたらしい

6 日米交渉と独ソ開戦

  • 近衛は日米交渉の前途を危ぶみ、松岡の罷免を意図して1941年7月16日に内閣改造を実施した、松岡の伝記作者D・J・ルーは、1890年代の荒荒しく膨張主義的だったアメリカで教育を受けた松岡は、その時代のアメリカがしたことを1940年代に日本が行ってもアメリカは理解すると考えたが、アメリカは昔日のアメリカではなかった、と書いている
  • 近衛の政治責任について、若い時から現状打破的な志向を抱いていたが首相としては日本の進路をもてあそんだ形となった、内政面では政党政治を破壊して大政翼賛会を作り、軍部の内政支配の道を拓いた、中国との戦争において「蒋介石を対手とせず」声明を発し、果てしない長期戦にみちびき、東亜新秩序声明を発して対外関係を悪化させ、松岡を外相にして三国同盟を締結した。
    コメント
    国民に人気があった人が必ずしも有能な人物ではない、という教訓を日本人は学び取るべきであろう

7 日中戦争期の社会と文化

  • 日中戦争以後、思想統制は公然化した、喜劇や芸能の面でも政府の統制の網は覆いかぶされた、文部省は学生の映画、演劇観覧は土日に限る、ダンスホールの営業は禁止など
    コメント
    目の前に重要事項が現れると他が全く見えなくなり、思い詰めて、反対意見を力で押しつぶすか無視する、今でもこの思想統制は同じではないか、例えば、環境問題やLGBTについて異なる意見を表明しようものなら袋叩きにする、新聞はこういう風潮こそ国民を危険に陥れるものとして多様な考えを政府や国民に紹介すべきだが先頭に立って「時代の空気」を増幅している

8 日中戦争期の経済

  • やがて大政翼賛会に結実する新体制運動が近衛を中心に始められたとき、経済新体議論が巻き起こる、朝日新聞社の論説委員であった笠信太郎が「日本経済の再編成」という書物で世に問うて以来、注目を惹いていた、この時企画院が本格的に取り上げたために、政府と財界を二分する大問題となった、笠によれば戦時下の企業は膨大な戦時消耗ために増産第一でなければならない、この発想は企画院の注目するところとなった、当時の商工大臣小林一三は革新官僚の総帥だった商工次官岸信介に辞表提出を求める大問題となった、こののち、企画院にはアカがいるということで捜査の手が伸びたが笠は朝日の欧州特派員としてあわただしくベルリンに赴任してかろうじて検挙を免れた
  • 農業についても、興味深い事件がある、1939年にコメ不足が深刻化し、40年産のコメからコメの流通を政府が統制するようになり、コメは配給制になった、41年からは農水省を中心に「食糧管理制度」が実施され、小作農からも政府が買い上げ、生産奨励金の交付などが行われ、その食管制度は幾多の変遷を経て今日まで存続している

9 開戦への途

  • アメリカはモーゲンソー財務長官が作成した強硬な10項目を日本に提示することを決心し、25日夕方には、大統領、ハル国務長官らの会議が開かれ、この提案を行うときは、対日開戦を決意しなければならないが、アメリカに多大の危険を招かぬように配慮しつつ、日本にまず攻撃をさせるように仕向けることが合意された
    コメント
    白人のずる賢いところが存分に出ている、石原莞爾が秀才か天才か知らないが、満州事変のやり方を見れば、まだまだ幼い青二才でしかないだろう

(続く)


春日部の菓子工房OakWoodで休憩し、パンとギフトを買う

2024年06月23日 | カフェ・喫茶店

春日部にあるケーキ屋さんOakWoodに立ち寄ってみた、以前一度訪問したことがある。この店はメディアにも取り上げられることもあるこの地域の人気店。

シェフの横田秀夫氏は業界の有名人でしょう、大手ホテルに勤務するなどの経験を積んだ後、2004年にこの店を開業し、今年で20年周年だ。また、2018年には「黄綬褒章」 受賞しているというから凄いものだ。

この店は、春日部駅から徒歩20分と決して便利なところにあるわけではないが、繁盛しているようだ、薄いオレンジ色というかベージュの外観がイタリアか南仏のイメージに思え、緑がいっぱいある森の中のお菓子屋さんの雰囲気

屋内はお菓子・ケーキ・パン売り場と喫茶室の二つに入口も分かれている、店員の数もかなりいる、ひっきりなしに客が訪れる。駐車場も広い。

喫茶室に入るとすぐに座れた、飲み物とケーキを1つたのんだ。室内はきれいにしてあり、アンティーク調で洒落た感じだ。座席もゆったりと間隔を取ってあり、営業優先の詰め込み主義ではなさそうだ

混んでいるときの待合スペースには社員旅行なのかパーティーなのか、シェフと社員が勢ぞろいした集合写真が飾ってある、社員を大事にしているようで好感が持てる。これは大切なことでしょう、この業界はかなり人使いが荒く、ブラック業界だと思うが、ここは違うようだ。

おいしく頂き、一休みした後、隣接のお菓子売り場に行ってみた。そんなに広くない売場だが、クッキー、ケーキ、パン、ジャムなどを売っていた。今日は明日の朝食用のパンと、ギフト用のお菓子の詰め合わせを買った。翌朝、さっそくパンを食べたが、特にクロワッサンやスコーンが大変おいしかった。

また来ます


中村隆英「昭和史(上)1926-45」を読む(2/4)

2024年06月22日 | 読書

(承前)

第二章「非常時」から「準戦時」へ

1 1931年(昭和6年)秋

  • 橋本欣五郎らが計画したクーデターは決行前に発覚して憲兵隊に阻止されたが(10月事件)、若槻首相は事件の首謀者を正式に処分することなしにうやむやにした
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    秀才官僚上がりの若槻の罪は大きい、満州事変時に関東軍が独断で朝鮮軍を動かしたことも事後承認し、10月事件も不問に付した、若槻のような秀才タイプの人間はルール破りをする人たちや、ならず者国家、独裁者に対抗できないのが現実だ

2 最後の政党内閣
3 「非常時」日本の実態

  • 国際連盟との関係が悪化する中で、関東軍はそれまで手をつけずにいた長城東側の熱河省に兵を進め、1933年1月、小さな武力衝突にかこつけて長城線を越えて山海関に侵入した、中国側との小競り合いの末、さらに同年4月からは中国本土に侵入し、5月、北京、天津を望むところまで到達し、やっと塘沽停戦協定によって兵をおさめた
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    関東軍が適当な理由をつけて中国本土に侵入したように書いているが、熱河地域は満州の国土だし、中国軍が日本の「長城内には手を出さない」という和平方針を逆手にとって、長城から度重なる攻撃があったため、防衛上仕方なく一時的に掃討のために侵入しただけではないか
  • 満州国建国後、満州では満州国における経済建設大綱が決定されたが、このプランは国家による強力な経済統制の実験を意味していた、重要産業について原則1企業しか存在を認めず、国家統制のもとに置き、計画的に発展を図る、資本主義経済や自由主義経済に対する批判の思想が、官僚や軍人の中にまでみなぎっていた、満州国はまさに格好の実験場であった
    コメント
    軍部の幹部は当時の秀才が集まった日本の英知であったが、やりたいことは国家統制だ、陸軍も海軍も官僚であり、官僚はいまも昔も国家統制を理想と考えている思い上がりがある、日本の学校秀才の限界であろう

4 景気回復下の社会と思想

  • 満州事変以降の日本の新聞紙上では、時局を憂うる真剣な論説も掲載されていたが、一般読者の目を惹くのは、満州・上海の戦況であり、ジュネーブにおける名誉の孤立の謳歌であり、近づく日ソ未来戦という陸軍のキャンペーン、社会面では軍国主義美談とセンセーショナルなエロ・グロ事件、凶悪な共産党活動の当局による摘発、右翼テロ実行者の志士仁人扱いであった。昭和6年秋からの1、2年の間に、日本の社会状況はなだれを打つように右側に移動したのである、この時代と反対に社会状況が急激に左側に移動したのが昭和20年8月からの1年あまりであった。
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    いろいろ示唆に富む記述である、戦後の急激な左傾化については、今に至るまでずっと続いているのではないか、そして極端から極端に日本社会が乗っている平面が傾きを変えると、それは結局次の災いを日本にもたらすと強く懸念する。極端な愛国主義もいけないが極端な平和主義も非常に危うい、戦前の幣原外交を見れば明らかだ。また、メディアは戦前も戦後も冷静な議論を呼びかけるのではなく、時代の空気を増幅し拡声するだけだった
  • 5.15事件のその後は、被告に対する社会一般からの好意的世論は想像以上のものであり、軍人に対する判決は軽く、逆に3名の被告に死刑を求刑した山本主任検察官のもとには抗議が殺到し、論告を承認した山田法務局長には辞職を余儀なくされた、財閥や政党に対する当時の社会的反感が、テロの実行者に対する同情を呼び起こしたのである。
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    安倍元首相暗殺事件被告に対する裁判が非常に懸念される、拘留中の犯人に差し入れが多く寄せられているし、暗殺犯をたたえるような映画を紙面で紹介した常識のない新聞もあった、目的が手段を正当化するようになれば再び同様な事件は起こるであろうし、それはかつて来た道につながるであろう、新聞が本当に戦前の報道姿勢を反省しているかどうか試されるだろうが・・・・

5 2.26事件

  • 広田外相のもとで積み重ねられてきた日中関係の改善も、1935年6月以降、当時の天津軍の行った一連の行動によってふたたび悪化に向かった、天津軍は親日的な天津の新聞社長が暗殺されたことをきっかけにして中国官憲と強硬に交渉し華北一帯の中国政府軍の撤退を要求した、関東軍は中国側が日本人を侮辱したという理由で、同様の要求をし、これを承認させた
    コメント
    日本軍が現地のちょっとしたことをきっかけに不当な要求をしたように書かれているが、たったそれだけのことで日本軍は支那政府に軍の撤退を要請したのではく、そこに至るまでに塘沽停戦協定を無視して反日的な武力事件、武力挑発を繰り返していたのである、日本側の対応の原因を作ったのは中国側にあると言える(中村粲)
  • 梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定が締結されると、支那駐屯軍は華北を第二の満州としようとする野望に燃えていた、これら一連の経緯を考えるとき、日中戦争の直接の起源は1935年以降にあったと言わなければならない
    コメント
    日本側が一方的に悪いような書き方しかしていない、冀東政権は日本の支援があったが、支那軍閥の長年にわたる北支への搾取政策に対する民衆の反抗と日本・満州への依存によってその窮地から脱しようとする強烈な要求からなる自治願望もあったこと(中村粲)も書くべきである
  • 2.26事件とその後の軍部の姿勢に対しては、当然批判が展開されたが、軍ににらまれることを恐れるために、その表現はとかく微温的であった、はっきりと軍部批判の声を上げた者に、東大経済学部の河合栄次郎教授や東洋経済の石橋湛山ら自由主義者の言一群があったが、全体とすれば、その声が大きくなかった
  • 広田内閣において、日独防共協定が締結された、「盟邦」ドイツという言葉がジャーナリズムにあふれた
    コメント
    それ以外にも、広田内閣において、軍部大臣現役武官制の復活という、あとに禍根を残す極めて重大な決定がなされたことが書いてほしかった

第三章 軍服と軍刀の時代

1 日中戦争の勃発

  • 盧溝橋で昭和12年7月7日の夜(10時40分ころ)、日本軍が数発の射撃を受けた、牟田口連隊長は所属大隊を現地に急行させ、当面の中国軍営長に交渉を開始すべき旨を命令した、しかし、その翌朝5時30分頃から、日本軍は中国軍が集結している竜王廟を攻撃し、また、宛平県城に対して砲撃を開始するに至った
    コメント
    最初の攻撃を受けてから7時間、日本側からは一発の応射もしなかったのに竜王廟の中国兵は猛射をしてきた(中村粲)、そのためわが軍は反撃を開始したことが書いてない
  • 事件発生後、陸軍は10日なって居留民保護を目的に派兵を決定し、11日に内地三個師団、朝鮮一個師団、関東軍二個師団派兵準備を提議し同意を得た、この異常な大兵力の派遣が決定されたことが日中戦争のきっかけとなった
    コメント
    大事な点をあまりに簡単に書きすぎだ、我が国は派兵決定、現地停戦協議成立、派兵見送り、中国による協議違反による攻撃、再び派兵決定、停戦協定締結、再び派兵見送り、中国軍による協定違反の攻撃、三たび派兵動員決定、という事件不拡大方針に基づく隠忍自重の態度を取ってきたにもかかわらず、何度も中国側に裏切られてついに派兵に至ったこと(中村粲)をもっと書くべきだろう
  • 事件発生後、11月には駐日ドイツ大使ディルクゼンを通じて日本の穏健な和平案を伝えた、ディルクゼンは和平案を見て、国民政府が面目を失わずに受諾しうるものと考ええた、トラウトマン駐華大使を通じて蒋介石に伝えた(11月5日)
    コメント
    この和平案を見た蒋介石の反応(和平案を無視)が書いていないが、それはブリュッセル会議で列強の干渉を期待していたからだ(中村粲)、しかし列強の干渉への期待は裏切られ、その間に戦況は中国側に不利になり、12月7日になって日本側は和平条件を加重するに至り、交渉決裂を招いた
  • 華北の北支那方面軍が編成され、9月末以降、同地に日本軍の命令通りに動く傀儡政権を設置することを考え始め、12月に中華民国臨時政府が誕生した、方面軍は、華北をこの政府により第二の満州国のように直接支配しようと企図したのであった、華中においても華北に張り合うように、臨時政府を成立させ、この地方の支配を企図したが、華中は列強の権益が強く日本側に一方的な支配は望めなかった

2 戦時国内体制の成立

  • 1937年の議会において、三つの画期的な統制立法が行われた、これにより軍需にかかわる主要工場は陸海軍の管理のもとに置かれることになる、このような経済統制は、背に腹は代えられない緊急な状況のものとで始められたには違いないが、その背景には、貧富の差をもたらし、恐慌の危険を伴う自由経済に対する批判の思想が底流をとして存在し、一部の学者やジャーナリストの間だけではなく、官吏や軍人の間に統制経済を謳歌する雰囲気があったことによって促進された
    コメント
    政治不信や経済不振が著しくなると、何か斬新なもの、現状打破する力のあるものに期待したくなる危険がある、そこに、経済統制をすれば解決すると思わせたのが政治的中立で清新さを装う革新官僚や軍部であった

3 「複雑怪奇」な国際関係

  • 第1次近衛内閣で近衛はドイツとの軍事同盟問題の処理に嫌気がさして退陣した、そのあとの平沼内閣もドイツとの同盟の対象に英仏を含めるかどうかで議論がまとまらない間に、ドイツがソ連と不可侵条約を締結するという背信行為をされ、退陣した
    コメント
    日本はドイツに日中戦争の仲介を頼めるから日独軍事同盟を締結しようとしたり、その後、終戦間際に日ソ中立条約があるからソ連に日米戦争終結の仲介を期待した。このように日本人は相手の底意を見抜く目を持たず、自分に都合よく解釈してしまう欠点があるが、今も同じであろう、他国の悪意や底意を見ようとしないお人よし国家だ、それを鋭く見抜いて注意を喚起するのが新聞の筈だが、彼らにもその能力はないでしょう
  • 1940年3月、南京に汪精衛を中心とする国民政府が樹立される直前、日本は先の「日華協議記録」の範囲をはるかに超える要求をだした
    コメント
    この汪精衛に対する大乗の精神を欠いた交渉で、我が国当事者が道義に基づく日支和平実現に粉骨砕身努力を重ねてきた結果が、背信行為とも受け取られかねない協定として決着したことは、汪精衛が日本に寄せた信頼の深さを思うとき、日本人として面目なき次第と言うほかない(中村粲)、との感想は正しい認識であろう、どうしてこんなことになったのか、日本側の交渉責任者は影佐禎昭陸軍省軍務課長だが一課長の独断でこのような国家間交渉はできないと考えるか、あるいはそれを事実上決定していたのか(当時の首相は阿部信行、陸軍大臣は畑俊六)

(続く)


歌劇「トスカ」をテレビで観た

2024年06月21日 | オペラ・バレエ

テレビで放送していたミラノ・スカラ座2019/20シーズン開幕公演、歌劇「トスカ」を観た、2019年12月の公演で、コロナの蔓延直前の公演だ。

作曲:プッチーニ (1900年、ミラノ初稿版)
演出:ダヴィデ・リーヴェルモル

<出演>

トスカ:アンナ・ネトレプコ
カヴァラドッシ:フランチェスコ・メーリ
スカルピア男爵:ルカ・サルシ
アンジェロッティ:カルロ・チーニ
スポレッタ:カルロ・ボージ
シャローネ:ジュリオ・マストロトターロほか

合唱:ミラノ・スカラ座アカデミー児童合唱団、ミラノ・スカラ座合唱団
管弦楽:ミラノ・スカラ座管弦楽団
指揮:リッカルド・シャイー 
収録:2019年12月7日 ミラノ・スカラ座(イタリア)

公演開始前にはイタリア大統領ご一行が場内に紹介され、スカラ座管弦楽団によるイタリア国歌が演奏された、良いことではないか、日本でも新国立劇場の新シーズン開幕公演では天皇陛下のご来臨を賜り君が代の演奏をやってもらいたいものだ、競馬の天皇賞やサッカーの国際試合でも国歌斉唱はやっているではないか

もっともスカラ座が毎年そうやっているのかは知らないし、演目がトスカだからこそ大統領一行が訪れ、イタリア万歳の国歌を演奏したのかもしれない

この「トスカだから」というところだが、

  • トスカの舞台は17世紀末のローマである、私の愛読する塚本哲也氏の「わが青春のハプスブルク」(文春文庫)によれば、近世に入ってからのイタリアは、フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家の争奪戦の場となり、18世紀以降はハプスブルク家が圧倒的に優勢で、支配権を固めていた
  • フランス革命のあと、ナポレオンが全イタリアを席捲し、18年間もその支配下におかれていたものの、没落後、再びそのほとんどをハプスブルク帝国の配下におかれ、オーストリアの勢力と影響力が広く覆うことになる
  • トスカはこの時代を舞台にしたオペラであり、オーストリアと大いに関係がある、すなわち、フランス革命直後、ナポレオンがイタリアを制圧して帰国後、1799年からオーストリア・ロシア連合軍の反攻が始まり、北イタリア、中部イタリアのほとんどがオーストリアによって奪還された、こういう状況の中での歌姫トスカの6月17日から18日の二日間にわたる物語である
  • ハプスブルク支配下のナポリ警視総監スカルピアはローマにおいてフランス革命を賛美する者たちを弾圧していた、6月17日はマレンゴの戦いの初戦でオーストリア軍がナポレオン軍を圧倒し勝利が確実になったとの伝令が入った日だ、トスカはスカラ座の名ソプラノ歌手で17日夜、オーストリア軍の祝勝オペラを歌う予定だったが、スカルピアは共和主義者をかくまっているトスカの恋人で画家のカラヴァドッシを逮捕、拷問にかけると、心配のあまりトスカは共和主義者の秘密を口走ってしまい、血だらけのカラヴァドッシが出てくると今度は、マレンゴの戦いで最後の瞬間にナポレオン軍が歴史的な勝利を収めたとのニュースが入る、スカルピアは・・・・
  • スカルピア総監はナポリ王国、その背後にあるオーストリア帝国の象徴であり、トスカとカラヴァドッシはイタリア独立派の代表である、トスカは要するに、恋愛悲劇に名を借りた反オーストリアのオペラという性格を持っていたといえないこともない
  • 原作はヴィクトリア・サルドーというフランス劇作家、1877年に当時の名女優サラ・ベルナールのために書いたものである、既にイタリア統一後だが、そのために犠牲になった人たちへの記念碑なのである、それにプッチーニが感激してオペラとして作曲した、フランス人も当時オーストリアに事あるごとに覇を争い、イタリアを応援していたから、イタリアの反オーストリア感情はまたフランスの劇作家の心境でもあったのだろう

ちょっと歴史的経緯の説明が長くなったが、ここでこのオペラを観た感想を書いてみたい

  • タイトルロールのトスカを歌ったのはご存知、アンナ・ネトレプコだ、歌唱力は抜群であった
  • 彼女が出てくる場面のうち、第2幕で、トスカがスカルピアを刺し殺した後、ぼう然としているところの奥に、彼女が着ていた青と赤のドレスと同じ衣装の女性がポーズをとって現れるところがある(上の写真)、これが何を暗示しているのか、この時点ではわからなかった
  • 第3幕の最後にトスカがカラヴァドッシの死亡に愕然とし、投身自殺するところ、この公演では天に召されるように天上に昇華して消えていくという演出であった。この時のトスカの姿だが、上に述べた第2幕でトスカの背後に亡霊のように出てきた同じ衣装を着た女性は、天子か女神であり、最後の悲劇でトスカがそうなる運命であることを暗示したのかなと思った
  • また、この最後のトスカが天に召されて消えていくところは歌舞伎の宙吊りと似ている演出だと思った
  • スカルピアを演じたルカ・サルシ(1975、伊)であるが、実にうまかった、役柄にピッタリの歌手だと思った、歌唱力も抜群であり、いやらしさの出し方などは素晴らしかった、この人は悪役に向いていると思った、特に第1幕フィナーレは舞台演出の壮麗さと彼の歌の迫力がぴったりと一致して素晴らしい歌唱力だと思った

さて、ミラノのスカラ座であるが、

  • 塚本氏の本によれば、スカラ座はハプスブルク家と深い関係がある、すなわち、スカラ座はハプスブルク帝国にあるウィーン国立歌劇場と中が瓜二つであるそうだ、スカラ座の内装もハプスブルク王朝の象徴である白・赤・金の三色が使われている、ウィーン宮廷はイタリア人の建築や絵画、彫刻の才能と香り高い文化には深い敬意と親しみを持っていた、スカラ座の基本設計はイタリア人であり、その影響がウィーンのオペラ劇場にも及んだわけであり、イタリアとハプスブルクの文化交流の象徴ともいえるそうだ、なるほど両国の関係を知ればわかるような気がする
  • 私は一度、スカラ座を訪問したことがある、その時は劇場見学ツアーにも参加したが、バレエも観劇した、演目は「マノン」、フランスのアベ・プレヴォーの小説『マノン・レスコー』を基にしたバレエ、この時の主役マノンはロシアのスヴェトラーナ・ザハーロワ、相手の恋人役を地元イタリアの伊達男として人気ナンバーワンのロベルト・ボッレというこれ以上望めない組み合わせだった、素晴らしい劇場と演技を見せてもらった


(見学ツアーの時に撮影した劇場内)


(自席から撮った写真、平土間の後ろのほうの席だった)


(開演前、オーケストラピットの前で振り返って取った写真)

いろいろ興味の尽きないオペラである