ゆっくり行きましょう

気ままに生活してるシニアの残日録

中村隆英「昭和史(上)1926-45」を読む(4/4)

2024年06月27日 | 読書

(承前)

第四章 「大東亜共栄圏」の夢

1 緒戦の勝利

  • 開戦後、日本軍はマレー半島全土、シンガポール、フィリピン、ニュウーギニア、ソロモン群島、ビルマ、ジャワ、スマトラ、ソロモン群島の広大な領域を占領下に収めた、しかし政府にとっての問題は、緒戦の勝利ののち、その後の戦争指導の計画がほとんどなかったことである
    コメント
    これほどの破竹の勢いで東南アジアや南洋諸島を占領できた日本軍がなぜ、中国で何年もてこずっているのか、それは、敵に回した米英が中国を支援していたこと、共産軍が中国を支援していたことが大きいだろう、緒戦勝利後の計画がなかったのは5.15事件や2.26事件を起こした青年将校らと共通するものがある
  • ミッドウェイ海戦に敗退し、太平洋の制空権を失ったことを当時の軍部は政府に対してもひた隠しにしたのである、政府もこれによって戦局が一転したという深刻な意識は持っていなかったように思われる
    コメント
    都合の悪いことは開示しないというのは今でも同じでしょう、新聞は何をやっていたのか、アメリカのラジオニュースくらいまだ聞けたでしょう

2 「絶対国防圏」の崩壊

  • 東条内閣が太平洋戦争において果たした役割については、ほぼ次のように考えることができるであろう、としてかなりの字数を費やして著者の見解を述べている、おおざっぱに言えば、彼は軍人政治家としての信念を持っていなかった、例えば開戦回避、開戦後の戦争の見通しなどについて。そして、世界情勢や敵対国に対する知識もなく、強気一辺倒で国民の生活や生命を犠牲にした
    コメント
    東条のことは十分に研究したことがないので著者の見立てを評価できないが、別の観点から一つ言えることは、東条首相は暗殺や自殺ではなく、平和的手続きで退任したということだ
  • 東条のような人物を首相にいただかなければならなかったことは、当時の日本の不幸であったが、同時にこのような軍部勢力の台頭を統帥しえなかった政治機構の欠陥を痛感せざるを得ない。太平洋戦争はおそらく避けられたものであったが、軍部とこれに結び付いた官僚の政策決定が戦争をもたらしたことは否定できない
    コメント
    天皇に東条を首相候補として推挙したのは内大臣の木戸幸一、明治の元勲木戸孝允の孫であり、その罪は大きいと思う、太平洋戦争は避けられたという見解には同意できない、「軍部とそれに結び付いた官僚」との表現があるが、軍部も官僚である、陸軍大臣、海軍大臣、陸軍省、海軍省がありそこに属する戦争指導者は皆官僚であった、内閣と官僚が国を滅ぼしたと言える

3 小磯内閣とフィリピン決戦論

  • 小磯は首相となると同時に、何らかの形で作戦用兵(統帥)に関与できるようにしてほしいと陸軍に要望したが拒否された。軍部の統帥権意識はこの期に及んでも強烈で、陸軍出身の小磯にも例外を認めようとはしなかった
    コメント
    陸軍という官僚組織の暴走であろう、官僚が大臣の意向に従わないのは陸軍や海軍以外に外務省でもあったし、昭和憲法になった今でもある、官僚、すなわち学校成績が優秀なだけの者というのは国際情勢を見る眼がなく、外国と交渉する能力など全くない、日本の民間企業がさえないのも経営者、社員、組織運営が官僚化しているからだ、すなわち横並び、前例踏襲、事なかれ主義、会議や資料作りに時間をかけるなど

4 敗戦

  • 6月22日の御前会議では天皇自ら時局収拾の発言をし、鈴木首相、米内海相、東郷外相らは、ソ連を通じて戦争の終結の斡旋させる方針を述べ、陸海軍もあえて反対せず、極秘裏にソ連を通じて和平交渉を行うことが決定された
    コメント
    独ソ戦でドイツが破れ、ヒトラーが5月8日に自決し、ベルリンがソ連軍に降伏したにも関わらず、ソ連に和平交渉の斡旋をたのむという外交音痴ぶりが悲しい
  • 終戦に際し、8月9日午後12時近くから翌10日午前2時まで開催された御前会議で、ポツダム宣言受諾か否かで意見がまとまらず、鈴木首相が天皇の決断を要請し、天皇が受諾の意見を述べ、10日午前7時15分に発電された、アメリカの回答は「日本の国家統治はsubject to連合国司令官」となっており、陸軍内部の戦争継続を叫ぶ中堅将校らの勢いは激しくなった、阿南陸相を押し立ててクーデターを行い、天皇を軟禁し、あくまで戦争継続しようとする陸軍省部の動きが激しくなった、阿南も突き上げられて、14日朝、梅津参謀総長と協議したが、梅津は宮城内に兵を動かすことを否認し、次いで全面反対したため、阿南もこの計画を断念した
  • 天皇の敗戦の詔勅案が14日午前の閣議で決定されると、夕方、陸軍省軍務局の畑中健二少佐、竹下正彦中佐らは、あくまで戦争を継続するために近衛師団によって宮城を占拠することを考え、同日夜、森武赳師団長に蹶起を要請したが、これを拒否されると、拳銃をもって師団長を射殺し、師団長の偽の命令によって宮城を交通遮断して詔勅の録音盤を捜索した、しかし、東部軍司令官宮田中静壱大将が、自ら手兵を率いて宮城に入って鎮圧し、計画は失敗に終わった、この事件を起こした責任者らは翌日自殺し、15日未明、阿南陸相も割腹自殺した、こうして15日正午に予定通り天皇の放送が行われ戦争が終結した
    コメント
    あわやという宮廷クーデター未遂があったとは。人間というのは思い詰めると何をやるかわからない怖い面を有しているのがわかる、根拠なき強気一辺倒がとんでもない結果を招く可能性があったことを物語っている、後先考えない強硬一辺倒はどうしても声がでかく、勢いがあるので、人の心を動かしてしまう危険性があることを我々は教訓とすべきだろう
  • これ以降も戦争継続を叫ぶ陸海軍の飛行隊は盛んに東京上空でビラをまき、アメリカ軍が進駐するならば一戦を交えると叫んで、状況は必ずしも穏やかではなかったが、皇族が天皇の命を奉じて各地方におもむいて、説得し、ようやくその勢いは衰えた。

5 太平洋戦争期の経済

  • 開戦とともに強化された統制のもとで、ソ連型の中央指令による計画経済の体制に近い状況になっていたが、それは戦争のための生産が急増したことを意味していなかった、緒戦が順調すぎたため軍部も政府も軍需生産の拡大に真剣な努力をしていなかったのである
    コメント
    円高により国外に工場を移転させるのは、有事のことを考えると大変危険だと思った。造船業、鉄鋼業、自動車産業、航空機産業など軍需品も生産可能にする工場は国内になければいけないでしょう、その他民間の雇用創出の観点からも円安は工場の国内回帰や海外企業の工場誘致を促す国策といえるでしょう、円安のデメリットばかり強調する最近の新聞論調は経済音痴、安全保障音痴のミスリードと言えるでしょう、もっとも工場だけ国内にあっても生産を簡単に増大できるわけではないが、ワクチンなども含め民族生存維持のための最低限のものは国内製造を目指すべきでしょう

6 戦争下の社会と生活
7 太平洋戦争とは何だったのか

  • 第1次大戦後のヴェルサイユ体制は、19世紀以来の帝国主義の時代の終結の宣言したものだが、この時の世界秩序は英・仏・米を中心とする連合国の主流にとって有利でありそれ以外の国、独・日・伊にとっては不満があった、連合国は植民地などを「持てる国」であり、それ以外の国は「持たざる国」であった、その二つの陣営が戦ったのが第2次大戦だった
    コメント
    持たざる国の不満があったことはそうでしょうけど、さらに、戦勝国が敗戦国ドイツに過大な賠償金を課したことも第2次大戦の原因でしょう
  • 第2次大戦はこの世界の帝国主義の秩序を打破するきっかけとなり、帝国主義的支配の終焉をもたらした、それは歴史の皮肉とも、弁証法的帰結ともいうことができる
    コメント
    その通りでしょう、そういう意味で、世界は多大な犠牲を出して、帝国主義を終わらせたと言えるでしょう、そして植民地を失った国家の没落がそこから始まったとも言えるのではないか
  • 戦時日本の軍部をファシスト集団としてとらえる考えがあるが、日本の戦時体制とドイツ、イタリア、あるいはソ連の戦時体制とは大きな相違があった、明治憲法のもとでは首相兼陸相の東条でさえ統帥に関与できなかった、立法府の力が低下し行政府の力が強まり国民生活を統制した、そして行政府のうちで一番最強の力を発揮して国家の命運を左右したのが陸軍だった、その陸軍も官僚の一部であった、大臣や局長などその立場を離れればその力は失われた、今も昔も変わらない日本型官僚制下の決定機構は、課長ないし課長補佐クラスが政策の立案にあたり、上位者に承認をもらい、やがて政府の決定になる、日本の運命を決める和戦の岐路においてもそのシステムは同様であった、それはヒトラーのドイツ、チャーチルのイギリス、ルーズヴェルトのアメリカ、スターリンのソ連とも異なっていた、すべての機構に優先する独裁者のいないファシズムがあるだろうか
    コメント
    中村教授の見解に全面的に同意する、戦時日本はファシズム国家ではなかった、教授の説明を読めば明らかである、軍部も官僚であった、官僚は当時も今も学業成績優秀なだけの人たちであるが、その人たちに国家の命運が握られているのが日本の不幸であろう、その官僚と協力して、適切な方向に国を持っていくのは政治家だろう、そのどちらを非難ばかりしていても事態は改善されまい、理論ばかりに走らず、かといって情緒や感情に流されず、常に多様な選択肢や考え方を検討し、あとは為政者に現実的な判断をしてもらうしかない
    この過程における新聞の果たす役割が大きいが残念ながら彼らは多様な考えを国民に提示することなく、自社が正しいと信ずる考えで紙面を作成し、国民をその方向に誘導することに熱心である、新聞社が主張することが正しくなかったことは戦前戦後とも少なくない

いろいろ勉強になった本でした

(完)


中村隆英「昭和史(上)1926-45」を読む(3/4)

2024年06月24日 | 読書

(承前)

4 第二次近衛内閣-新体制と三国同盟

  • 近衛は1938年以来の新党計画が再燃し、「新体制運動」に深入りし始め、1940年に強力な挙国政治体制ないし新体制樹立のために微力を尽くしたいと声明した、右翼・左翼を問わず、現状打破を標榜する革新勢力を取り込んで新しい政治組織を作り上げる青写真を持った、東京帝大の政治学担当教授矢部貞治が新体制関係文書の多くを作った、7月に入って各政党は相次いで解散し、陸軍の軍務局長の武藤章らはこの動きを利用した
    コメント
    政党政治や経済、戦争が行き詰まると革新的な挙国一致体制に期待したくなる、新聞はこの危険性をいつも国民に警告する役割があると思う、そして国民に人気があるが無能な人をトップに担ぎ本人もその気になる、国民に人気がある政治家やタレントなどは一番危険だろう、また、東大の政治担当の教授がいかにばかげたことに協力してきたかがわかる、肩書だけでその人の言うことを信じてはいけないという教訓である
  • 1939年8月に、近衛は新体制準備会を作り、新体制の定義をした、それは何度読んでみても、わかったようでわからないが、当時の雰囲気だけはよく伝えられている、この原文は東京帝国大学の矢部貞治の筆になるものであった
    コメント
    物事を難しくしか説明できない大学教授、結局、世界情勢を見る能力がなく、わけのわからない文書を書いて国民をミスリードしただけだった、戦後も世界情勢を理解できず、講和条約締結に際し、非現実的な全面講和を主張した大学教授がいた
  • 10月に大政翼賛会の発足式があった、その性格をめぐり議論があり、平沼騏一郎は後に「翼賛会に入っているものは、軍人でもそうでないものでもアカがいた」と回想している
    コメント
    翼賛会は右翼、左翼、軍人、官僚が支配したことに注意すべきだ、全体主義に右も左もないのだ、官僚も統制経済などの全体主義が好きだ、我々は右翼だけでなく左翼にも官僚にも十分な警戒を怠ってはいけない、その点で戦後の日本メディアがほとんど左傾化しているのは危険な兆候であろう

5 北部仏印進駐と松岡外交

  • 北部仏印への進駐は仏政府と平和進駐で合意したが、現地の佐藤賢了南方軍参謀副長、東京から出張した参謀本部第一部長富永恭次は武力進駐を強行した、太平洋戦争期の陸軍を誤らせたのはこの種の強硬論者が省部の中央に据えられたことも一因であろう
    コメント
    合理的判断ができず、情実判断、根拠なき強硬論、順法意識の欠如、精神論重視・・・今に続く日本の弱点であろう
  • 三国同盟締結に当たり、御前会議では批判的な意見も出た、原嘉道枢密院議長は、アメリカはなお日本を独伊側に加入せしめないためにかなり圧迫を手控えているようだが、同盟締結によりかえって反対の結果を促進する、蒋介石を援助して日本を疲弊させ戦争に耐えられないようにしようと計画する、広田弘毅も質問を重ね、英米の日本に対する態度は極めて悪化するし、そうなれば中国はこの事態を利用するであろうから支那事変の終結はいよいよ困難を来すであろう、これら良識的な批判は、この時期の熱狂的な日独伊枢軸強化論のあらしの中ではもとより小さな響きしか持たなかった、石橋湛山は、三国同盟が発表された後、東洋経済新報の社説で深刻な危機感を表明した
    コメント
    本来新聞が大きく取り上げるべき良識的批判であろうが、「バスに乗り遅れるな」と時代の空気を増幅することしかせず、日本は判断を誤った、石橋湛山は契約締結後に批判しても遅いだろう
  • 松岡は同盟締結に先立ち、在外外交官を全面的に更迭し、霞が関出身の大公使をほとんど召還し、軍人や代議士であったものを登用した、すべての外交を自分の手中に掌握し、曲面の打開を図ろうとしたらしい

6 日米交渉と独ソ開戦

  • 近衛は日米交渉の前途を危ぶみ、松岡の罷免を意図して1941年7月16日に内閣改造を実施した、松岡の伝記作者D・J・ルーは、1890年代の荒荒しく膨張主義的だったアメリカで教育を受けた松岡は、その時代のアメリカがしたことを1940年代に日本が行ってもアメリカは理解すると考えたが、アメリカは昔日のアメリカではなかった、と書いている
  • 近衛の政治責任について、若い時から現状打破的な志向を抱いていたが首相としては日本の進路をもてあそんだ形となった、内政面では政党政治を破壊して大政翼賛会を作り、軍部の内政支配の道を拓いた、中国との戦争において「蒋介石を対手とせず」声明を発し、果てしない長期戦にみちびき、東亜新秩序声明を発して対外関係を悪化させ、松岡を外相にして三国同盟を締結した。
    コメント
    国民に人気があった人が必ずしも有能な人物ではない、という教訓を日本人は学び取るべきであろう

7 日中戦争期の社会と文化

  • 日中戦争以後、思想統制は公然化した、喜劇や芸能の面でも政府の統制の網は覆いかぶされた、文部省は学生の映画、演劇観覧は土日に限る、ダンスホールの営業は禁止など
    コメント
    目の前に重要事項が現れると他が全く見えなくなり、思い詰めて、反対意見を力で押しつぶすか無視する、今でもこの思想統制は同じではないか、例えば、環境問題やLGBTについて異なる意見を表明しようものなら袋叩きにする、新聞はこういう風潮こそ国民を危険に陥れるものとして多様な考えを政府や国民に紹介すべきだが先頭に立って「時代の空気」を増幅している

8 日中戦争期の経済

  • やがて大政翼賛会に結実する新体制運動が近衛を中心に始められたとき、経済新体議論が巻き起こる、朝日新聞社の論説委員であった笠信太郎が「日本経済の再編成」という書物で世に問うて以来、注目を惹いていた、この時企画院が本格的に取り上げたために、政府と財界を二分する大問題となった、笠によれば戦時下の企業は膨大な戦時消耗ために増産第一でなければならない、この発想は企画院の注目するところとなった、当時の商工大臣小林一三は革新官僚の総帥だった商工次官岸信介に辞表提出を求める大問題となった、こののち、企画院にはアカがいるということで捜査の手が伸びたが笠は朝日の欧州特派員としてあわただしくベルリンに赴任してかろうじて検挙を免れた
  • 農業についても、興味深い事件がある、1939年にコメ不足が深刻化し、40年産のコメからコメの流通を政府が統制するようになり、コメは配給制になった、41年からは農水省を中心に「食糧管理制度」が実施され、小作農からも政府が買い上げ、生産奨励金の交付などが行われ、その食管制度は幾多の変遷を経て今日まで存続している

9 開戦への途

  • アメリカはモーゲンソー財務長官が作成した強硬な10項目を日本に提示することを決心し、25日夕方には、大統領、ハル国務長官らの会議が開かれ、この提案を行うときは、対日開戦を決意しなければならないが、アメリカに多大の危険を招かぬように配慮しつつ、日本にまず攻撃をさせるように仕向けることが合意された
    コメント
    白人のずる賢いところが存分に出ている、石原莞爾が秀才か天才か知らないが、満州事変のやり方を見れば、まだまだ幼い青二才でしかないだろう

(続く)


中村隆英「昭和史(上)1926-45」を読む(2/4)

2024年06月22日 | 読書

(承前)

第二章「非常時」から「準戦時」へ

1 1931年(昭和6年)秋

  • 橋本欣五郎らが計画したクーデターは決行前に発覚して憲兵隊に阻止されたが(10月事件)、若槻首相は事件の首謀者を正式に処分することなしにうやむやにした
    コメント
    秀才官僚上がりの若槻の罪は大きい、満州事変時に関東軍が独断で朝鮮軍を動かしたことも事後承認し、10月事件も不問に付した、若槻のような秀才タイプの人間はルール破りをする人たちや、ならず者国家、独裁者に対抗できないのが現実だ

2 最後の政党内閣
3 「非常時」日本の実態

  • 国際連盟との関係が悪化する中で、関東軍はそれまで手をつけずにいた長城東側の熱河省に兵を進め、1933年1月、小さな武力衝突にかこつけて長城線を越えて山海関に侵入した、中国側との小競り合いの末、さらに同年4月からは中国本土に侵入し、5月、北京、天津を望むところまで到達し、やっと塘沽停戦協定によって兵をおさめた
    コメント
    関東軍が適当な理由をつけて中国本土に侵入したように書いているが、熱河地域は満州の国土だし、中国軍が日本の「長城内には手を出さない」という和平方針を逆手にとって、長城から度重なる攻撃があったため、防衛上仕方なく一時的に掃討のために侵入しただけではないか
  • 満州国建国後、満州では満州国における経済建設大綱が決定されたが、このプランは国家による強力な経済統制の実験を意味していた、重要産業について原則1企業しか存在を認めず、国家統制のもとに置き、計画的に発展を図る、資本主義経済や自由主義経済に対する批判の思想が、官僚や軍人の中にまでみなぎっていた、満州国はまさに格好の実験場であった
    コメント
    軍部の幹部は当時の秀才が集まった日本の英知であったが、やりたいことは国家統制だ、陸軍も海軍も官僚であり、官僚はいまも昔も国家統制を理想と考えている思い上がりがある、日本の学校秀才の限界であろう

4 景気回復下の社会と思想

  • 満州事変以降の日本の新聞紙上では、時局を憂うる真剣な論説も掲載されていたが、一般読者の目を惹くのは、満州・上海の戦況であり、ジュネーブにおける名誉の孤立の謳歌であり、近づく日ソ未来戦という陸軍のキャンペーン、社会面では軍国主義美談とセンセーショナルなエロ・グロ事件、凶悪な共産党活動の当局による摘発、右翼テロ実行者の志士仁人扱いであった。昭和6年秋からの1、2年の間に、日本の社会状況はなだれを打つように右側に移動したのである、この時代と反対に社会状況が急激に左側に移動したのが昭和20年8月からの1年あまりであった。
    コメント
    いろいろ示唆に富む記述である、戦後の急激な左傾化については、今に至るまでずっと続いているのではないか、そして極端から極端に日本社会が乗っている平面が傾きを変えると、それは結局次の災いを日本にもたらすと強く懸念する。極端な愛国主義もいけないが極端な平和主義も非常に危うい、戦前の幣原外交を見れば明らかだ。また、メディアは戦前も戦後も冷静な議論を呼びかけるのではなく、時代の空気を増幅し拡声するだけだった
  • 5.15事件のその後は、被告に対する社会一般からの好意的世論は想像以上のものであり、軍人に対する判決は軽く、逆に3名の被告に死刑を求刑した山本主任検察官のもとには抗議が殺到し、論告を承認した山田法務局長には辞職を余儀なくされた、財閥や政党に対する当時の社会的反感が、テロの実行者に対する同情を呼び起こしたのである。
    コメント
    安倍元首相暗殺事件被告に対する裁判が非常に懸念される、拘留中の犯人に差し入れが多く寄せられているし、暗殺犯をたたえるような映画を紙面で紹介した常識のない新聞もあった、目的が手段を正当化するようになれば再び同様な事件は起こるであろうし、それはかつて来た道につながるであろう、新聞が本当に戦前の報道姿勢を反省しているかどうか試されるだろうが・・・・

5 2.26事件

  • 広田外相のもとで積み重ねられてきた日中関係の改善も、1935年6月以降、当時の天津軍の行った一連の行動によってふたたび悪化に向かった、天津軍は親日的な天津の新聞社長が暗殺されたことをきっかけにして中国官憲と強硬に交渉し華北一帯の中国政府軍の撤退を要求した、関東軍は中国側が日本人を侮辱したという理由で、同様の要求をし、これを承認させた
    コメント
    日本軍が現地のちょっとしたことをきっかけに不当な要求をしたように書かれているが、たったそれだけのことで日本軍は支那政府に軍の撤退を要請したのではく、そこに至るまでに塘沽停戦協定を無視して反日的な武力事件、武力挑発を繰り返していたのである、日本側の対応の原因を作ったのは中国側にあると言える(中村粲)
  • 梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定が締結されると、支那駐屯軍は華北を第二の満州としようとする野望に燃えていた、これら一連の経緯を考えるとき、日中戦争の直接の起源は1935年以降にあったと言わなければならない
    コメント
    日本側が一方的に悪いような書き方しかしていない、冀東政権は日本の支援があったが、支那軍閥の長年にわたる北支への搾取政策に対する民衆の反抗と日本・満州への依存によってその窮地から脱しようとする強烈な要求からなる自治願望もあったこと(中村粲)も書くべきである
  • 2.26事件とその後の軍部の姿勢に対しては、当然批判が展開されたが、軍ににらまれることを恐れるために、その表現はとかく微温的であった、はっきりと軍部批判の声を上げた者に、東大経済学部の河合栄次郎教授や東洋経済の石橋湛山ら自由主義者の言一群があったが、全体とすれば、その声が大きくなかった
  • 広田内閣において、日独防共協定が締結された、「盟邦」ドイツという言葉がジャーナリズムにあふれた
    コメント
    それ以外にも、広田内閣において、軍部大臣現役武官制の復活という、あとに禍根を残す極めて重大な決定がなされたことが書いてほしかった

第三章 軍服と軍刀の時代

1 日中戦争の勃発

  • 盧溝橋で昭和12年7月7日の夜(10時40分ころ)、日本軍が数発の射撃を受けた、牟田口連隊長は所属大隊を現地に急行させ、当面の中国軍営長に交渉を開始すべき旨を命令した、しかし、その翌朝5時30分頃から、日本軍は中国軍が集結している竜王廟を攻撃し、また、宛平県城に対して砲撃を開始するに至った
    コメント
    最初の攻撃を受けてから7時間、日本側からは一発の応射もしなかったのに竜王廟の中国兵は猛射をしてきた(中村粲)、そのためわが軍は反撃を開始したことが書いてない
  • 事件発生後、陸軍は10日なって居留民保護を目的に派兵を決定し、11日に内地三個師団、朝鮮一個師団、関東軍二個師団派兵準備を提議し同意を得た、この異常な大兵力の派遣が決定されたことが日中戦争のきっかけとなった
    コメント
    大事な点をあまりに簡単に書きすぎだ、我が国は派兵決定、現地停戦協議成立、派兵見送り、中国による協議違反による攻撃、再び派兵決定、停戦協定締結、再び派兵見送り、中国軍による協定違反の攻撃、三たび派兵動員決定、という事件不拡大方針に基づく隠忍自重の態度を取ってきたにもかかわらず、何度も中国側に裏切られてついに派兵に至ったこと(中村粲)をもっと書くべきだろう
  • 事件発生後、11月には駐日ドイツ大使ディルクゼンを通じて日本の穏健な和平案を伝えた、ディルクゼンは和平案を見て、国民政府が面目を失わずに受諾しうるものと考ええた、トラウトマン駐華大使を通じて蒋介石に伝えた(11月5日)
    コメント
    この和平案を見た蒋介石の反応(和平案を無視)が書いていないが、それはブリュッセル会議で列強の干渉を期待していたからだ(中村粲)、しかし列強の干渉への期待は裏切られ、その間に戦況は中国側に不利になり、12月7日になって日本側は和平条件を加重するに至り、交渉決裂を招いた
  • 華北の北支那方面軍が編成され、9月末以降、同地に日本軍の命令通りに動く傀儡政権を設置することを考え始め、12月に中華民国臨時政府が誕生した、方面軍は、華北をこの政府により第二の満州国のように直接支配しようと企図したのであった、華中においても華北に張り合うように、臨時政府を成立させ、この地方の支配を企図したが、華中は列強の権益が強く日本側に一方的な支配は望めなかった

2 戦時国内体制の成立

  • 1937年の議会において、三つの画期的な統制立法が行われた、これにより軍需にかかわる主要工場は陸海軍の管理のもとに置かれることになる、このような経済統制は、背に腹は代えられない緊急な状況のものとで始められたには違いないが、その背景には、貧富の差をもたらし、恐慌の危険を伴う自由経済に対する批判の思想が底流をとして存在し、一部の学者やジャーナリストの間だけではなく、官吏や軍人の間に統制経済を謳歌する雰囲気があったことによって促進された
    コメント
    政治不信や経済不振が著しくなると、何か斬新なもの、現状打破する力のあるものに期待したくなる危険がある、そこに、経済統制をすれば解決すると思わせたのが政治的中立で清新さを装う革新官僚や軍部であった

3 「複雑怪奇」な国際関係

  • 第1次近衛内閣で近衛はドイツとの軍事同盟問題の処理に嫌気がさして退陣した、そのあとの平沼内閣もドイツとの同盟の対象に英仏を含めるかどうかで議論がまとまらない間に、ドイツがソ連と不可侵条約を締結するという背信行為をされ、退陣した
    コメント
    日本はドイツに日中戦争の仲介を頼めるから日独軍事同盟を締結しようとしたり、その後、終戦間際に日ソ中立条約があるからソ連に日米戦争終結の仲介を期待した。このように日本人は相手の底意を見抜く目を持たず、自分に都合よく解釈してしまう欠点があるが、今も同じであろう、他国の悪意や底意を見ようとしないお人よし国家だ、それを鋭く見抜いて注意を喚起するのが新聞の筈だが、彼らにもその能力はないでしょう
  • 1940年3月、南京に汪精衛を中心とする国民政府が樹立される直前、日本は先の「日華協議記録」の範囲をはるかに超える要求をだした
    コメント
    この汪精衛に対する大乗の精神を欠いた交渉で、我が国当事者が道義に基づく日支和平実現に粉骨砕身努力を重ねてきた結果が、背信行為とも受け取られかねない協定として決着したことは、汪精衛が日本に寄せた信頼の深さを思うとき、日本人として面目なき次第と言うほかない(中村粲)、との感想は正しい認識であろう、どうしてこんなことになったのか、日本側の交渉責任者は影佐禎昭陸軍省軍務課長だが一課長の独断でこのような国家間交渉はできないと考えるか、あるいはそれを事実上決定していたのか(当時の首相は阿部信行、陸軍大臣は畑俊六)

(続く)


中村隆英「昭和史(上)1926-45」を読む(1/4)

2024年06月20日 | 読書

中村隆英(たかふさ)著「昭和史(上)1926-45」(東洋経済新報社、1993年)をKindleで読んだ。第20回(1993年度)大佛次郎賞作品。上下合わせて900ページの大作で、電子版を含む累計発行部数は15万部というロングセラー。

中村隆英氏は1925年生まれ、東京大学教授、お茶の水女子大学教授などを歴任、2013年87歳没。昭和改元の前年に生まれ、昭和という時代と伴走した著者ならではの歴史書と言えるので興味を持った。

中村氏は歴史の専門家ではなく、経済学、経済史や経済統計の専門家のようだ、その中で戦間期の経済や占領時の経済・政治などの書籍もあることから、研究していくうちに昭和の歴史全体に興味を持ち本書の出筆に至ったのでしょう

本書の中で関心を持った部分と、それに対して自分のコメントがあるものは書いてみた、従って、本ブログは本書の要約ではない

序章 第一次世界大戦の衝撃

1 社会体制

  • シベリア出兵を侵略目的と書いている
    コメント
    シベリア出兵は大陸の共産主義化を恐れる日本が、ボルシェビキと戦うチェコを応援するためになされたものであり侵略目的ではない、そしていつまでも撤兵しなかったのはアメリカが日本に事前通告なく撤兵したからである、アメリカは大陸の共産主義化を自国に直接脅威を与えるものではないため甘く見、むしろロシア帝政を倒したことで好意的に見ていた、そのため自ら撤兵して日本を世界世論の前に孤立させること企図した(中村粲「大東亜戦争への道」p161)、このような非常に複雑な外交の戦いであった点を書いてない
  • 著者は第1次大戦中及び大戦後、日本が欧州の目の届かないことをいいことに、中国に対して21か条の要求とか北京軍閥に対する西原借款の供与とかアグレッシブな政策が日中関係を取り返しのつかないほど悪化させつつあると記載している
    コメント
    21か条要求については、この時代の要求としては普通のものであり、それを中国の反日宣伝工作に使われた日本外交の敗北であることを半藤一利「昭和史」のブログでも書いたところである

2 時代思潮

  • 原敬の時代は急激な社会構造の変化があった、たくさんの若者たちが、ナショナリストからデモクラットに、デモクラットから社会主義者に、思想的な急変を経験しつつあった、そして、インテリだった若者(学生)は共通して左翼運動に入っていき、多くの場合、労働運動を経て左翼政党の中心になっていくのである、時代潮流が英米型のデモクラシーから社会主義に急転しつつあった
    コメント
    左派が猛威を振るったのは著者が指摘する通り社会構造の変化があったからだが、戦後においては、熱心に勉強する若者ほど左翼思想に染まりやすくなった、なぜなら占領政策によりアカデミズムや新聞社の大勢は左派思想に染まったからだ
  • その反動として、右翼思想活動もまた活発になった、右翼もまた理論武装を必要とした、その代表的論者として北一輝、大川周明、高畠素之らがあげられる

3 原敬の内閣

  • 原敬は、ヴェルサイユ条約締結後の政府や全権に対する批判に対し、「我が国はいま非常に窮地に陥っている、大隈内閣の21か条問題以来、米は日本を第2のドイツとみているとし、さらに朝鮮独立宣言問題が起こり、このような状況の転換が必要だ」と説いた、それは英米との協調路線への転換だ
    コメント
    中国問題について日本外交の稚拙さが欧米からの批判を招いたが、それは今でもそうだ、中国や韓国の宣伝工作に負けて、日本が悪者にされる。慰安婦問題や徴用工問題もそうだ、事実をしっかり主張し、国際世論で敗北を招かない外交が日本に必要でしょう

第一章 ひよわなデモクラシー

1 戦後恐慌の傷跡

  • 1921年のワシントン会議で日本全権の海軍の加藤友三郎は単なる軍人だけではなく、ステーツマンであった。アメリカの建造計画比案を受け入れた。日本は民間工業力や貿易を発展させ、真に国力を充実しなければ戦争はできない、戦費をアメリカからしか調達できない状況では戦争はできないと考えた、単なる軍人の集まりの海軍はこの決定に反発した
    コメント
    加藤友三郎は原敬亡き後、1921年に首相になり、軍拡の縮小、シベリア出兵撤退の決定、再燃していた軍部大臣の現役武官制問題について文官でも支障ないとした、その功績は大きいと言える
  • ワシントン会議の第2の問題は日英同盟の解消である、アメリカの反発で中国に利害を持つ九か国でなる九か国条約を締結せざるを得なかった
    コメント
    この時の全権大使に外務大臣の幣原喜重郎がおり、幣原は日英同盟解消というアメリカの策略を見抜けず、この九か国条約(四か国条約)は平和を求める各国の希望の結晶であり国際平和につながると考え賛成した。アメリカ外交の勝利、日本外交の敗北である、アメリカはこれ以降、強力な同盟国を失った日本を狙い撃ちし始めた

2 第2次護憲運動への道
3 関東大震災と都市化の進展

  • 著者は関東大震災時に朝鮮人虐殺事件があり、犠牲者は当時上海から東京に入り調査した金承学によれば、六千人余名とされている、吉野作造によれば2,711名とされている、と書いている
    コメント
    これについてはいろんな反論が出されている、例えば、一部の朝鮮人も殺人・暴行・砲火・略奪を行ったという警察の記録や新聞の報道があるとか、司法省の記録には自衛団による朝鮮人犠牲者は233人という記録があるとか、震災の翌年に12万人の朝鮮人が日本に渡航しており大虐殺があった翌年にそれほど大勢の渡航があるのも不自然だとの指摘もある。どれが正しいのかわからないが、微妙な問題なのでもっといろんな見解を書くべきではないか
  • 田中義一の対中方針は幣原とは逆で、在留邦人はあくまで現地で保護し、日本の権益を確保するという強硬な姿勢に終始した、そのために、政府は5月28日山東半島に、やがて済南に一個師団派遣を声明した
    コメント
    強硬姿勢というが、海外で生命の危機に瀕した自国民の保護がなぜ強硬姿勢なのか、他国もみなそうしていたではないか、現在でも同じことが起これば幣原のような自国民を見捨てる平和主義は大きな糾弾を受けるでしょう

4 憲政会内閣と政友会内閣

  • 田中上奏文は今日では偽書と断定されているが、国際的に田中首相の評判を落とす結果となったのである
    コメント
    上奏文は、中国が宣伝し、東京裁判でも問題になったが、そもそも日本文はなく、漢文と英文とで書かれたものが出回った、だれが作ったのかは明らかであろう、今にも続く彼の国の策略であり、また、日本のお人よし外交の敗北の実例である

5 左翼運動と軍部革新派

  • 本書で高く評価できるのは、日本共産党の成立と活動、マルクス主義思想の普及が詳しく書かれているところである。ロシアで社会主義革命が起き、その後、その影響が日本にも及び、激しい運動が展開された、その存在がクローズアップされたのは、アカデミズムで、あるいはジャーナリズムの上であり、マルクス主義が時代の寵児となったからである、労農派の改造社がマルクス・エンゲルス全集を発売すると、共産党系の岩波書店などの五社連盟も同じ全集の刊行を企画したが、これは実現しなかった、しかし、世界で初めてのマルクス・エンゲルス全集が同時に2つのグループで企画されたこと自体、当時の若い世代がどれほどマルクス主義に傾斜していたかを示すのに十分だろう、などと書いている
  • さらに、以後、戦時・戦後の官僚や財界人は学生時代にマルクス主義の洗礼を受け、ある程度の理解と共鳴を覚えつつ、それぞれの業務に従事した、やがてその雰囲気は文学や演劇などの方面に浸透していく、築地小劇場は左傾化し、プロレタリア文学が現れ、映画でも左翼的思想を思わせる「傾向映画」が出現したことなどを詳しく書いている
    コメント
    著者がこの時代の左派思想の日本内部への浸透を詳しく書いていることは大きく評価できる、労働運動やマルクス主義に感化された若者が財界、官界、メディア、文学界、演劇界に入っていき、それらの中で左派思想が浸透していったことはその後の日本に大きな影響を与えたし、現在でも続いているでしょう
  • さらに同じ章では、陸軍内部の新動向として、陸軍内部に2つの国家革新・改造を目指すグループがあり、1つは中堅将校、もう一つはもう一世代若い青年将校のグループがあったことを書いている、前者は永田鉄山、小畑俊四郎、岡村寧次(やすじ)、東条英機らで、国家総動員法などの統制体制を目指し、長州閥中心の人事刷新等を目指し、後者は社会思想に影響され、国家革新思想に染まっていく、いずれも後に昭和の前半の日本を大きく動かしたことを書いている
    コメント
    いずれのグループも国家統制かラディカルな社会変革を目指すという全体主義の思想に染まっているところが問題であろう

6 世界恐慌下の経済

  • 中村教授は、「関東軍の謀略」の項で、石原莞爾や板垣征四郎の当時の所論を紹介して、満州の事態を兵力の発動によって打開しようとしたことを述べている、石原の「わが国の正当なる既得権益擁護のため、かつ、支那民衆のため遂に断固たる処置を強制せらるる日のあることを覚悟」しなければならない、など
    コメント
    半藤氏と同じ所論を展開しているが、半藤氏の本を読んだ時と同じ感想を持った、すなわち、満州事変はそのような面もあるが、事変に至るまでに日本が正当に獲得した満洲の権益について、中国が革命外交などにより無効化し、日本人入植者、居住民に対する日常的な嫌がらせ、虐殺など(南京事件、済南事件など)で多くの犠牲が出たにもかかわらず何の対抗措置をとらない日本政府(幣原外相)に現地の日本人は見放された思いをした。その穏健な日本政府に中国は感謝するどころか見下し、さらに中国全域で日本人に対するテロ、殺人事件が急増し、満洲でも同様であった、それでも日本政府は善隣外交路線を変えず現地の訴えを黙殺した、このため現地人は満洲の治安維持をしている関東軍に訴えるようになった、リットン報告書でも満洲における日本権益の正当性や、その権益を中華民国が組織的に不法行為を含む行いによって脅かしていることを認定している、本書は事変に至るこういった経緯についてほとんど触れていない、さらに言えば、満州事変をもたらした日本に対する他国からの圧迫など(例えばブロック経済体制の構築など)もきちんと記載すべきである

(続く)


高階秀爾「カラー版名画を見る眼Ⅰ(油彩画誕生からマネまで)」を読む(追記あり)

2024年06月09日 | 読書

2024/6/9 追記

本日のNHK「日曜美術館」で、高階秀爾氏の「カラー版名画を見る眼」を取り上げ、氏がこの本について語る番組をやっていた、氏がどういう人かテレビで見る貴重な機会となり有意義だった。来週の日曜日に再放送があるし、NHK+(プラス)でも見れるので、興味がある方はご覧ください

2024/3/15 当初投稿

高階秀爾「カラー版名画を見る眼Ⅰ(油彩画誕生からマネまで)」を読んだ。昨年、同じ本のⅡ(印象派からピカソまで)を読んでよかったのでⅠの方も読んでみたくなった(Ⅱの読書感想ブログはこちら)。著者の説明によれば、この本を2冊に分けたのは、歴史的に見てファン・アイクからマネまでの400年のあいだに、西欧絵画はその輝かしい歴史のひとつのサイクルが新しく始まって、そして終わったと言いえるように思われたからであり、マネの後、19世紀後半から、また新しい別のサイクルが始まって今日に至っているからだという。

高階氏は昭和7年生まれ、大学で美術史を研究し、パリに留学、文部技官、東大教授、国立西洋美術館館長などを経て、現在、大原美術館館長となっている。

Ⅰの時と同じように、本書で取り上げている15名の画家の名前と生国、年令、生きた期間を書いておこう。国は現在の国に置き換えているものもある。

  1. ファン・アイク(フランドル地方、1390-1441、51才)
  2. ボッティチェルリ(伊、1444-1510、66才)
  3. レオナルド・ダ・ビンチ(伊、1452-1519、67才)
  4. ラファエルロ(伊、1483-1520、37才)
  5. デューラー(独、1471-1528、57才)
  6. ベラスケス(スペイン、1599-1660、61才)
  7. レンブラント(蘭、1606-1669、63才)
  8. プーサン(仏、1594-1665、71才)
  9. フェルメール(蘭、1632-1675、43才)
  10. ワトー(仏、1684-1721、37才)
  11. ゴヤ(スペイン、1746-1828、82才)
  12. ドラクロワ(仏、1798-1863、65才)
  13. ターナー(英、1775-1851、76才)
  14. クールベ(仏、1819-1877、58才)
  15. マネ(仏、1832-1883、51才)

本書を読み終わって改めて高階氏の絵画に関する見識に感心した。本書は新書版のわずか200ページちょっとのボリュームであるけど、氏が選んだ15名の画家たちが描いた絵の専門的なポイント、歴史的背景などを簡潔にわかりやすく説明されていて非常に勉強になった。次からまた絵を観るのが楽しみになった。

難しいこともわかりやすく説明できてこそ本当の専門家だと思う。難しいことを難しくしか説明できない人は、その難しいことを本当は理解していないからだろう。そういう意味で本書での高階氏の説明に改めて感心した。

さて、今回は、氏の解説で参考になった点からいくつか取り上げて以下に書いてみた。

ラファエルロ

聖母マリアの服装は、教義上特別な意味がある場合を除き、普通は赤い上衣に青いマントを羽織ることになっている

デューラー

人間の身体の四性論、人間の身体の中には血液、胆汁、粘液、黒胆汁の四種類の液体が流れており、黒胆汁の多い人は憂鬱質になり、内向的、消極的で孤独を好むあまり歓迎されない性質とされていた。それが15世紀後半から大きく変わって、多くの優れた人間はみな憂鬱質であるとされるようになった。少なくとも知的活動や芸術的創造に向いていると考えられるようになった。ただ、社交的で活発な多血質と正反対の性格である憂鬱質の人間に世俗的な成功は望めない、人々には認められずに、ただ一人、自己の創造の道を歩むというのが創造的芸術家の運命である。ミケランジェロは「憂鬱こそはわが心の友」と言っている。

レンブラント

彼の人生は明暗ふたつの部分にはっきりと分けられる、地位も名声もあった華やかな前半と失意と貧困の後半、彼の絵もそれに応じて著しく変化した

ゴヤ

彼は1792年ころから次第に聴力を失い、遂には完全に耳が聞こえなくなってしまった。それまで外面的なものに向けられてきたゴヤの目が、人間の心の内部に向けられるようになったのは、それからのことである。

ドラクロワ

彼はロマン派絵画の代表的存在とみなされ、当時新古典派主義の理想美を追求するため先例の模倣のみをこととする形式的な「アカデミズム」から激しい非難や攻撃を受けた。彼が正式にアカデミーの会員になったのは十数年も待たされた挙句、死のわずか5年前であった、しかし歴史の歩みは個性美を主張したドラクロワの美学の勝利を語っている。

クールベ

クールベの作品は当時の市民社会を告発するような社会主義的作品であり、思想的に急進派であったが、画家としてはルネサンス以来の絵画の表現技法を集大成してそれを徹底的に応用した伝統派であった。

マネ

彼の「オランピア」はルネサンス以来の西洋絵画に真っ向から疑問を突き付けた、すなわち西洋400年の歴史に対する反逆だった、彼の絵は全く平面的な装飾性を持ったトランプの絵模様みたいで、この二次元的表現は、対象の奥行や厚み、丸みを表そうとしたルネサンス以来の写実主義的表現と正反対のものであった、それでいて絵に立体感があるのは彼の鋭い色彩感覚のため、マネ以降、近代絵画は三次元的表現の否定と平面性の強調という方向に進む

とても勉強になった。


Bill Perkins「Die with Zero」を読む

2024年05月26日 | 読書

Kindleで「Die with Zero」(Bill Perkins)を読んだ、今回は英語の勉強もかねて、原書で読んでみた。Kindleで読めば、わからない英単語や文章は該当部分を指でタッチしたり範囲指定すればたちどころに翻訳してくれるので大いに助かる。英語は大部分が初級英語程度で読みやすかった。

この本は人生をどう考えて生きるべきか、特にお金の使い方に焦点を当てて書いたものである、アマゾンのレビュー数も多いし、書店でも日本語に翻訳をしたものが山積みされているので結構人気があるのでしょう、そんなこともあって読んでみようと思った。

著者がこの本を通じて主張していることは、

  • 本のタイトル通り、死ぬ時までには全部のお金を使え、ということだ、お金を使うとは、何らかの体験をするということだ、それは自分の人生に意味をもたらし、素晴らしい思い出を作る、死の間際に自分の人生は素晴らしかったと振り返ることができるということだ
  • 一方、死んでお金をいっぱい残すということは、自分のエネルギーの使い方を間違えた、必要以上に働きすぎた、時間の使い方を間違えたということだ

こう言われると、人々はいろんな疑問がわいてくるだろう、主な疑問とそれについて著者の回答を要約すると次のようになる

  • 人々は老後に金が枯渇することを恐れて長く働き、多めに貯金をする、そのお金が枯渇するリスクにどう対応するのか
    著者の助言
    それが心配なら生存生命保険(income annuities)に加入する、長生きしたら保険金が出る生命保険だ
  • 死んで子供に金を残してやりたい
    著者の助言
    子供には彼らが本当に必要とするときに金を贈与すべきだ、あなたが死んでからでは遅い
  • 死んで有意義な寄付をしたい
    著者の助言
    寄付をしたいなら今すぐ寄付をすべきだ、金を必要としている人に今、寄付すべきだ

これ以外にもいろんな関連する助言があるので読んでいて面白い。あなたの貯金や投資残高のピークはリタイア前であり、あなたの健康のピークもリタイア前である、あなたの健康状態や財政状態、仕事とのバランスを常に考えて、人生の行動の判断をすべきだ、リタイアしてから人生楽しみたいと考えても往々にして遅い、それゆえお金を多く残して死ぬことになる、それは自分の時間の浪費であり、有意義で楽しい体験をする機会の放棄である

なかなかユニークな考えだと思ったが、自分はこれを半分くらいは実践できているとも思った。そして本書を読んで驚いたのは、著者が多分アメリカの例だと思うが、死んで多くのお金を残す人が多く、働きすぎの人が多いという指摘だ

一般に米人は借金をしてでも消費している人が多い、リタイアしたら仕事はしない、というイメージがあるが、本書を読む限り、ほとんど日本人と同じメンタリティを持っているということだ、本でも新聞でも日本人の書いたものだけ読んでいてはだめだ、翻訳でも不都合な部分を除外している例もあるから要注意だ

読む価値はある本だと思った

なお、著者のウィリアム・O・パーキンス3世(1969年2月、米国生まれ)は、本書の中で自分の経歴も書いているが、Wikipediaによれば、アメリカのヘッジファンドマネージャー、映画プロデューサー、作家、ハイステークスポーカープレイヤー。 2023年時点で約5億ドルの資産を運用するエネルギー取引ヘッジファンド、スカイラーキャピタルを運用、と出ている

 


宮下奈都「羊と鋼の森」を読む

2024年05月09日 | 読書

宮下奈都著「羊と鋼の森」(文春文庫)をKindleで読んだ。この小説は2015年に刊行され、2016年の本屋大賞を受賞した。

この小説は、調律師をモチーフにした仕事小説であり、主人公の外村(とむら)青年の成長物語である。全然音楽の下地がない外村が、ある日学校の体育館にあるピアノの調律に訪れた板鳥氏の調律を見て衝撃を受け、卒業後、調律の学校に通い、板鳥の勤務する楽器店の調律師になり、周りの先輩たちを見ながら、成長していく物語である。

主人公の外村は幼いころ北海道の山間の集落の中で育った、そして家の近くの牧場で羊が飼われていたことを見てきた。本書の題名「羊と鋼の森」の羊はフェルトの材料、鋼は弦の材料、そして森は外村が育ち、羊が育ってきたところ、というわけだ。

本書を読むまで、ピアノが音を出す仕組みなど詳しく知らなかった。鍵盤を押すと、鍵盤に連動しているハンマーが鋼の弦を打ち、音が鳴る。ハンマーは羊毛を固めたフェルトでできている。ピアノには88の鍵盤があり、それぞれに1本から3本の鋼の弦が張られている、ということも知らなかった。

本書を読んで知ったこと、感じたことなどを書いてみたい

  • 最初のほうで上司の調律師の柳と外村が、木の名前の話をし、柳が自分は木の名前など全然知らないが、外村は木の名前だけでなく花の名前も知ってだろう、それはかっこいい、言う場面がある。昔読んだ坂東真理子「女性の品格」(文春文庫)の中で、日本は自然に恵まれた国で、昔から日本人は多くの花や木を愛でてきた、「万葉集」や「古今和歌集」、「枕草子」や「源氏物語」の中には花や木が歌われ、描かれてきたが、現代の日本人はこれらの花や木を知らなくなってきている。そうした木や花の名前を知っているということは、自然をいとおしむ態度につながり、自然を丁寧に観察しているといってよいでしょう、と述べている、これを思いだした。
  • 小説の中で、上司の調律師の秋野がどうして調律師になったか話すところがある、彼は、以前はピアニストを目指していたが、あきらめて調律師になったという、そして、外村が担当することになった双子の姉妹もそろってピアノを弾くが、妹は途中でメンタルな理由で弾けなくなり、最後は調律師を目指すという、そのような経歴の人が多いのかなと思った。それはいいことだと思う。最近テレビで「さよならマエストロ」というドラマがあり、その中でマエストロ役の西島秀俊が、指揮者になる人は演奏者の気持ちがわかっていなければならない、何か楽器が弾けなければその気持ちもわからない、と言っていたように思う、そういう意味で調律師もピアニストの気持ちや苦労がわかる人がなるというのはいいことだと思った
  • ピアノというのは精密な楽器だということがよく分かった、家庭にあるピアノ、コンサートホールにあるピアノ、結婚披露宴をやるレストランにあるピアノなど、置かれた状況、気象条件など音に影響するいろんな要因を考えて調律しないといい音は出ないというのがよく分かった
  • ピアノコンサートを聴きに行く場面があり、上司の秋野がステージに向かって右側に座っている理由が出てくる。私もピアニストの手元が見える左側がいい席だと思っていたし、実際に公演に行っても大体左側の席に多くの観客が座っている、ところが、この小説では、むしろ音に集中するためピアニストが見えないほうが良い、ピアノの大屋根の向きを考えても、音は右手側に伸びると考えるのが自然だ、と外村が考える場面がある。なるほどそういうものかと思った
  • 調律師が客の要望を聞き、理解するのはなかなか難しいということがよく分かった、お客さんが、くっきりした音がいい、とか、丸い音がいいとか、その目指す音は人によって感覚が違うので言葉だけで理解するのは難しい、確かにそういうものだろう
  • ピアノの音は調律によって変わるが、椅子の高さでも変わること、したがって、調律をするときはお客さんに一度椅子に座って弾いてもらって高さを調整してから調律するという、また、ピアノの脚のキャスターの向きによっても音が変わることが出てくる、実に微妙なものだ
  • 上司の板鳥さんが、調律で一番大切なものは、との問いに、「お客さんでしょう」と答えるのは意味深である、確かにそうかもしれない、外村は小説の中で何回か客から、もう来ないでいいとか他の調律師に交代させられている、これはショックだろう、それがなぜなのか小説の中では明らかにされない

調律師の仕事に関して忘れられないのは、むかし、辻井伸行のピアノコンサートに行った時のことだ。コンサートで、突然、ピアノ弾いていた辻井伸行が演奏を中止して、「これは僕の音ではありませんのでこれ以上演奏できません」と言って退場してしまったことだ。観客はみんな呆然として、どうなるのだと驚いた。そのあとどうなったかは覚えていないが、多分、休憩になり、その間に調律師が調律をやり直して、また演奏したのだと思う。本当にびっくりした経験だ。

また、最近でもあったのだが、ピアノの公演に行ってホールに入ると、舞台上で調律師が調律をしている時がある。ということは、調律後の音を確認せずに本番の演奏を始めるということだが、本書を読むと、そんなことがあり得るのかと感じた。そういえば、辻井伸行のケースも確か本番直前まで調律をしていたように思う。調律師が忙しすぎる人気の調律師なのか、何か事情があるのでしょうが、あまり美しい姿でないことは確かだ。

さて、この小説だが、クラシック音楽に興味のある人には読む価値が大きい本であると思うが、純粋に小説として読むと、ストーリーが単調なように感じた。読んでいって意外な展開もなければどんでん返しもない、色恋沙汰も全然ない、もう少し話に起伏があったほうが読んでいて面白いだろうと感じた。


坂口安吾「堕落論」を読む

2024年05月08日 | 読書

坂口安吾(1906年〈明治39年〉~1955年〈昭和30年〉、48才没)の「堕落論」(青空文庫)をKindleで読んでみた。無料。名前は知っていたがどういう小説を書いているのかは知らなかった、今回読もうと思ったきっかけは忘れたが、興味を持った。

堕落論は終戦直後の1946年(昭和21年)4月に発表されたもので、わすか14ページのエッセー(評論)である。ウィキペディアによれば、「堕落論」は、終戦後の暗澹たる世相の中で戦時中の倫理や人間の実相を見つめ直し、〈堕ちきること〉を考察して、敗戦に打ちのめされていた日本人に大きな影響を与えた、とある。

読んで安吾が主張していることやその感想を書いてみたい

  • 農村社会の不合理さ、理不尽さ、農村の耐乏生活、排他性、独特のずるさなど、農村は文化の担い手などにはなりようがない
  • そしてその耐乏、忍苦の精神が合理性を無視し、戦時中は兵器は発達せず、兵隊は耐乏の兵隊で、便利の機会は渇望されず、肉体の酷使耐乏が謳歌されて、無残極まる大敗北となっている
    コメント
    排他性は農村だけでなく、あらゆる集団であったでしょう。合理的発想より精神論を振りかざすのは確かに日本人の欠点でしょう、合理的判断ができずに情緒的な感情で意思決定すれば、仮に再び戦争になったらまた負けるでしょう

  • 天皇の尊厳などは常に利用者の道具に過ぎず、真に実在したためしはない、昔から最も天皇を冒涜する者が、最も天皇を崇拝していた
  • 藤原氏や将軍家がなぜ天皇を必要としたか、それは自らを神と称して絶対の尊厳を人民に要求するのは不可能だからだ、この戦争(大東亜戦争)がそうではないか
  • 昨年の8月15日、閣下の命令だから忍びがたきを忍んで負けよう、それは嘘だ、我ら国民は戦争をやめたくて仕方なかったのではないか、天皇の命令など欺瞞だ
  • われわれ国民は天皇を利用することには狎れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している、そして人間の、人性の、正しい姿を失ったのである
    コメント
    天皇を権威として利用してきた歴史という指摘はその通りでしょう、その結果、人間としての正しい姿を失った、という点はちょっとピンとこないが、それは以下で

  • 人間の、また人性の正しい姿とはなんぞや。欲するところを素直に欲し、嫌な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ
  • 好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎとり、赤裸々な心になろう、そこから自我と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる
  • 日本国民諸君、私は諸君に日本人、及び日本自体の堕落を叫ぶ、日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ
  • 私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、死して日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺制のカラクリにみちた「健全なる道義」から堕落することによって、真実の人間へ復帰しなければならない
    コメント
    安吾が主張する「堕落しろ」というのは現実を支配している封建的発想から自由になれということでしょう。一方、つい先日読んだ「日本文化防衛論」で、三島由紀夫は、人間性の無制限な解放は必ず政治体制の崩壊と秩序の破壊に帰することは自明である、と述べているが(p132)、安吾はそれでも良いから不合理な古い制度などは全部破壊してしまえと極論を言っているのだろう

  • 人間の真実の生活とは、常にただこの個の対立の生活の中に存しておる、この生活は世界連邦論だの共産主義などというものがいかように逆立ちしても、どうもなしえるものでもない。
  • 我々の為し得ることは、ただ、少しずつ良くなれ、ということで、人間の堕落の限界は案外、その程度しか有り得ない。人間は無限に墜ちきれるほど堅牢な精神に恵まれていない。
    コメント
    安吾の「堕落せよ」との主張は極論で過激に見えるが、実は常識的なものだと思った。ただ、人間の堕落の限界をあまり重く考えていないようだが、共産主義者などがそれを悪用して、三島の主張するような事態を引き起こす可能性は高いだろう

いろいろ研究すると面白い作家かもしれない、と感じた。

 

 


筒井清忠「戦前日本のポピュリズム、日米戦争への道」を読む(その3・完)(追記あり)

2024年05月04日 | 読書

2024/5/4追記

現在放送中の朝ドラ「虎に翼」で、寅子の父直言が「共亜事件」という政財界を揺るがした疑獄事件で逮捕され裁判にかけられる。いろいろあって被告人は全員無罪となったが、裁判官が「無罪となったのは証拠不十分ではなく、疑惑そのものが全く存在しなかったためだ」と説明する場面があった。

この事件のモデルは「帝人事件」である、事件がでっち上げであったことが筒井清忠氏の本に書いてあった(下記の一番上の記載参照)。同様な記述は昨年読んだ北岡伸一氏の「日本の近現代」にもあり、その時もブログで取りあげた(こちら参照)。

自分が書いたブログで取り上げた事件がテレビで放映されたので、記念にその旨追記した。なお、寅子のモデルとなった三淵嘉子さんの父親の武藤貞雄さんは、この帝人事件とは無関係でありテレビのだけのフィクションである。

以下、2023/11/19当初投稿

(承前)

  • 時事新報が報道した帝人事件は、その後各メディアが大きく取り上げ、政治家・官僚が16名も逮捕・起訴され、斉藤内閣は総辞職した。たが、この時も明確な証拠を示しての報道ではなかった。その結果、裁判では全員無罪となった。裁判官は、この判決は証拠不十分で無罪になったのではなく、全くの犯罪の事実がなかったことによる無罪であり、この点間違えの無いようにされたいと語った。無罪判決が出ると新聞は、政界腐敗と批判して内閣崩壊までさせた反省もなく、検察批判に転じた。こうしてこの事件は政党、財界の腐敗を印象づけ、正義派官僚の存在をクローズアップさせた事件として記憶に残るものになった。
    (コメント)最近では慰安婦強制連行報道が典型だ。根拠があやふやな本を頼りに大騒ぎし、日本及び日本人の名誉を大きく傷つけ、日韓関係を無用に悪化させた。
  • 1939年に欧州で第二次大戦が始まり、ドイツの勝利が続くと、例えば大阪朝日は連日のように独伊の優勢とイギリスの劣勢を論じた、7月13日には「大転換必至の我が外交、日独伊連携・現状打破外交へ」と題し、「世界大変革の大渦の真っ只中に東亜の現状打破とその新秩序建設に向かって長期推進せんとする日本と、欧州の再建に向かって現状打破の大業に邁進しつつある独伊とが、世界新秩序偉業の前にその関係をいよいよ緊密化して行くのは必然の姿である」と論じた。
    (コメント)世界情勢を見る目がないのは戦後も同じではないか。
  • ドイツの大勝に煽られて、バスに乗り遅れるなという大衆の興奮があったが、この「バスに乗り遅れるな」という言葉を初出は朝日新聞(1945年6月2日)のようだ。
    (コメント)新聞社が何かキャンペーンのように大げさに報道し、1つの方向性や空気を作り出したら、「何かおかしくないか、違った見方は無いのか」と思うべきでしょう。最近のガザのパレスチナ人がかわいそうだと言う報道もそうだ。

この本の最後で著者は以下の様に述べている。

大衆運動の結果、普通選挙が実施され、大衆の代表としての二大政党制が成立した後、新聞は、二大政党制を積極的に支援し育成しようとしなかった。政治家の腐敗、スキャンダルを大々的に報道し、大衆に政党不信を植え付けた。この結果、新聞・知識人は、より清新と観られた近衛文麿・新体制や軍部に現状打破勢力として期待をしていくことになるのである。しかし、この既成政党批判と清新な力への渇仰が招いたのは、結局は大政翼賛会という名の政党政治の崩壊と無極化であった。戦前のポピュリズムが招いた国内政治における最後のものは大政翼賛会だったのである。

では戦後も続くこのような傾向をどうして改善していけば良いのか、著者は、読者自身に考えてもらいたいとしながらも、その基礎となるのは清沢洌が説いたように日本のメディアの知的向上であり、その前提としての統計など正確な資料報道の重視であると説く。そして、メディアに対して批判・攻撃をするばかりでなく、よいメディアを育てていくのも、政党政治を育てるのと同じく国民がなさねばならぬことだという認識が広く必要であろう、と締めくくった。

著者の言うとおりだろう。ネットでは新聞論調に左右されない多様な意見が出てきているのは良い傾向だ。また、AMラジオの朝のニュース番組でも新聞論調とは異なる中道路線の番組があり、これも多様性の観点から良いことだ。新聞やテレビで世の中の空気が1つの方向に傾くのが一番危険だと思う。ここに新聞再生のヒントがあるのではないか。

(完)


三島由紀夫「文化防衛論」を読む(3/3)

2024年05月04日 | 読書

(承前)

学生とのティーチ・イン(三島の講演、その後の質疑)

  • 日本ではどういう危険があるかというご質問だったと思いますが、それは政治体制の危険じゃないと思います、つまり日本人の民族性というものだと思います、日本人の民族性は、ご承知の通り振り子のように、こっちの端へ行くとまたこっちの端へ行く傾向があるので、それをこっちの端へ行かないように、いまいろいろ平和憲法なりがチェックしているわけです、戦前のような形で容易には起こりえないというふうに私は考えております
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    極端から極端に振れるブレの大きさは日本人の民族性かどうかわからないが、非常に危険であることは間違いないと思う、しかし、三島の「平和憲法がチェックしている」とか「戦前のような形で容易には起こりえない」との考えは甘いと思う、平和憲法自体が極端な発想であり、憲法制定当時と最近の日本の周辺環境、世界情勢があまりに違い過ぎるということを大部分の日本人はもう気付いている、変われないのは・・・
  • 共産社会に階級がないというのは全くの迷信である、日本では社会主義者も共産主義者もみんな軽井沢にプール付きの別荘を持っている、そして日本にはどういう階級がありますか、会社の社長だって昔の三井、三菱に較べれば自分の自由なんて一つもありゃしない、こういう人たちの家に行ってみましても、昔だったら召使い何十人といたがいまは二三人だ、私は階級差というものの甚だしい例をヨーロッパでたくさん見てきたが日本では無階級に近い
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    その通りでしょう、三島のいうとおり今の日本には欧米のような格差もないし、2.26事件当時の貧困はないでしょう
  • 戦争ではいつも共産党はそうなんです、ソ連に限らずこういう国は熟柿作戦と申しまして、柿がまだ熟さないうちには決して自分でもいで食べようとしない、熟して落ちかかってきたときに手を出してポッともぎ取って食べる、上海で戦後、市民は戦争に飽き飽きしていて、平和を求めていた、もう平和さえくれれば何でもいいやという心境になっていた、そこに人民解放軍が呼びかけてきた
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    戦後の日本も同じでしょう、国民が厭戦気分になってきたところに、正義の味方米軍が来て、悪い日本人を処刑し、日本人に贖罪意識を植え付け、保守派を一掃した、そしてその隙に左派思想が学校、マスコミに入り込み、或は自ら転向して検閲などの占領政策に協力し、それが固定化した
  • 軍隊は栄誉のために死ぬという大きな特徴を持っているので、それがないと傭兵になってしまう。やはり何かのために死ぬということが大事である、それが私がかなり抽象的な「文化防衛論」で述べたことです、結局文化を守るために死ぬのであり、その文化の象徴が天皇の役割ということなのです。
    コメント
    国のため死ねるかという質問にNoと答える人の比率が多い国の一つが日本となって久しい、これは国家権力や愛国心を敵視し、自由が何にもまして大事だと主張してきた左派マスコミ報道が影響してるでしょう
  • 私は、言論と日本刀は同じもので、何千何万人相手でも、俺一人だというのが言論だと思うのです、一人の人間を多勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて暴力という、日本で言論だと称されているものは、あれは暴力
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    その通りだ、特定の代議士の非違をあげつらって社説で何度も非難する新聞があるが、こういう冷静さを失った紙面作りは批判を通り越して暴力でしょう。わが国新聞は、ジャニーズ問題の報道姿勢をみても、とても言論などと偉そうに言えるものではないだろう

果たし得てない約束

  • 25年前に私が憎んだものは、多少形は変えはしたが、いまも相変わらずしぶとく生きながらえている、生きながらえているどころか、おどろくべき繁殖能力で日本全体に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善という畏るべきパチルスである、こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終るだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった、おどろくべきことには、日本は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである、政治も、経済も、社会も、文化ですら
    コメント
    その通りでしょう、そしてそれは今も続いている。それにもっとも貢献しているのがメディア、学者でしょう、更に自民党も戦後体制から脱却するのをとっくの昔に放棄し、安易に流れ、選挙の前になると保守的ポーズを取るだけの無責任政党になりはてた、全員が戦後体制利得者となり、現状変更を拒み、やがて国を滅ぼすでしょう
  • 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない、このままいったら日本はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする、日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目のない、ある経済的大国が極東の一角に残るであろう、それでも良いと思っている人たちと私は口をきくきになれない
    コメント
    あまりに有名な一節。これを打破するのは、新聞・テレビなどの左派思想に洗脳されていないネット世代が社会の大部分を占めるようになった時だと思う、彼らが左に傾きすぎた日本を健全な中道路線に戻し、自由と平和の維持に積極的に貢献する責任ある国家「日本」を作ってくれるでしょう。明治維新も戦後の復興も若い人たちがやった、今の日本もきっと若い人たちが再生してくれるだろう

(完)