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小林秀雄『近代絵画』/抽象絵画

2014年08月22日 20時02分59秒 | 美術/絵画原論、絵画理論、絵画技法
2014年8月22日-1
小林秀雄『近代絵画』/抽象絵画


 岡崎乾二郎(柄谷行人ほか 2002/4,『必読書150』: 16)の討議での発言に、次のような箇所があった。小林秀雄の『近代絵画』を話題にしているところである。

  「小林秀雄の『近代絵画』〔略〕〔は、〕確かに論としてはヒントしか書かれていないんですが、発展させればクレメント・グリーンバーグからさらに現代のロザリンド・クラウスの議論に通じる論点までがそこにはある。なぜそういう射程の深さがあったかと言うと、〔略〕 読むべき基本文献を読んでいたからですね。グリーンバーグやらクラウスと共通の出発点をきちんと押さえていた。」
(岡崎乾二郎:柄谷行人ほか 2002/4,『必読書150』: 16)。

 また、

   「小林をわれわれが批判しようとするときには、それ相当の覚悟がいる。せめて小林と同じくらいは美術や音楽に触れていないとどうしようもない。」
(岡崎乾二郎:柄谷行人ほか 2002/4,『必読書150』: 17)。

 この、『必読書150』は、2003年5月28日に読了していたことも忘れていたし、内容は何も覚えていない。それはさておき、小林秀雄の『近代絵画』の「ボードレール」、「ゴッホ」、「ルノアール」、そして「ピカソ」などをざっと読んで、以下にいくつか抜き書きする。

  「近代絵画の運動とは、根本のところから言えば、画家が、扱う主題の権威から、強制から、逃れて、いかにして絵画の自主性また或は独立性を創り出そうかという烈しい工夫の歴史を言うのである。」
(小林秀雄 1958/4: 11)。

  「ボードレールは、〔略〕そのドラクロア論のなかで、私流の要約だが、彼はこういう意味のことを言っている。〔略〕 ドラクロアの絵を〔略〕何を描いているのか解らぬくらい離れて絵を見てみ給え。忽ちドラクロアの色彩の魔術というものが諸君の眼に明らかになるだろう。この場合諸君の眼に映じた純粋な色彩の魅力は、絵の主題の面白さとは全くその源泉を異にしたものであって、絵に近寄って見て、絵の主題が了解出来ても、主題はこの色彩の魅力に何物も加えず、又、この魅力から何ものをも奪う事が出来ぬ、と諸君は感ずるであろう。この主題と無関係な色彩の調和こそ、画家の思想の精髄なのである。思想といっても、これはもちろん常識的な意味でのあれこれの思想を言うのではない。諸君を夢みさせ、考えさせる色彩の力を言うのである。」
(小林秀雄 1958/4: 12頁)。

  「画家にとって、自然とは、これと全く異なる絵画という一秩序を創り出すように促す機縁、素材の統一ない累積なのである。徹底的に考えれば、自然のうちには線も色もない。線も色も画家が創り出すものだ。」
(小林秀雄 1958/4: 13頁)。

 きちんと、近代絵画の考え方が書かれている。
 日本にアンフォルメル旋風を起こしたというタピエが来日したのは1956年で、1958年の二年前ということになる。

 ルノアールの考え方の中心には、art に対立する métier という観念がある、と言っている。

  「「métier は美術の基礎だ」「絵画は指物師と同じ métier である」とルノアールが言う時、 彼の目に見えていたものは、観念的にはどうにもならぬ画家の眼や手の構造、或は顔料の特質などに密着した画家の基本的な技術が、師匠から弟子、又師匠になった弟子から新しい弟子へと伝えられ、練磨されて行く驚くほど長い時の経過、無数の無名の個性の発明や工夫を摂取して生きてゆく伝統の命の深さなのであった。絵画の本当の生命は其処にあるので、この重要さに比べれば、或る絵画が、作者がルノアールであるから、ルノアール的であるという様な事は大した問題ではない。」
(小林秀雄 1958/4: 176-177頁)。

  「métierを極めて、ヴェラスケスは、métierを超える。其処にどんな思想が現れて来るかと言うと、画面に「繊巧 フィネス」「魅惑 シャルム」とが現れて来る、とルノアールは言う。それは、作者の筆で絵が愛撫されている感じとなって現れる、それがゴッホにはない、と言うのである。」
(小林秀雄 1958/4: 177頁)。

 しかし、アクリル絵具が出てから数十年、また様々なメディウムがある。métierで何を指しているのか、わからない。

  「わかり方にもいろいろあるが、言葉という記号による整理が、わかるという意識には一番有効だからだ。だが、わからないといくら言ってみても無駄であった事は、人々はすでに思い知っているところである。風景は印象派の見たように見えてきたし、ピカソ風の造形は、実用的意匠のあらゆる処で行われる様になっている。私達は、わからぬ物に次第に説得されてきた。意識は、頑固に首を振ったが、無意識は、新しい形の伝達するものを次第々々に受納れて来たのである。その点では、モネもピカソも預言者であった。」
(小林秀雄 1958/4: 206頁)。

  「セザンヌもルノアールもドガも絵画の批評や理論に対して露骨な嫌悪を示している。ビカソも例外ではない。キュービスムの理論などは、ナンセンスとは言わないまでも、単なる文学に過ぎない、と言っている。併し、 言葉の力というものは、おそらく画家たちが考えているより遥かに強いものだろう。〔略〕言葉の力から逃れ去る事は出来まい。〔略〕言葉と離別して、近代絵画の道が、どんなに純粋な色や線の魅力を現すに到ろうとも、全く沈黙した色や線が現れるという事はない筈である。 そんなものに、画家の意識も、絵を見る人の意識も堪えられるものではない。色はやはり何かを語りかけて来るだろう。線は線の意味を伝達するだろう。」
(小林秀雄 1958/4: 207頁)。

  「彼〔ピカソ〕の言う様に、抽象芸術などというものはないかも知れない。だが、抽象という言葉の意味のとり様で、芸術とはすべて抽象的なものである、とも言えるだろう。もし抽象という言葉を、具体という言葉に対立する概念を現す、という、その本来の意味にとるならば、 合成的な、混合したものから、本質的なもの、特徴的なものだけ分化して抽き出すという事になるわけだから、私達は凡そ認識を働かそうとすれば、抽象の機能に頼らざるを得まい。従って芸術意欲の赴くところ、抽象化の作用は必至である。近代絵画が、絵画の自律性というものの価値を目がけて発展したという事も、 審美的機能の分化を徹底させようという希いの結果に他ならない。通常の感覚、様々な観念や感情やの混合した感覚とは異なった、純化された感覚を、印象派以来、画家達が急速に追求する様になったという事も、彼等が、 感性的感覚、具体的感覚から逃れて、抽象的感覚と呼ぶべきものへ赴いた事に他ならない。」
(小林秀雄 1958/4: 262-263頁)。


□ 文献 □
[か]
柄谷行人・ 浅田彰・岡崎乾二郎・ 奥泉光・島田雅彦・絓秀実・渡辺直美.2002/4/21.必読書150.221pp.太田出版.[本体価格1,200円+税][B20020516][Rh20030528]

[こ]
小林秀雄.1958/4/15.近代繪畫.300+3pp.人文書院.[定價2800圓 地方價2900圓][ob][一部Rh20140819]