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《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

形質と述語と発生システム的性質1

2010年06月11日 02時41分05秒 | 生命生物生活哲学
2010年6月11日-1
形質と述語と発生システム的性質1
(「醜い家鴨の仔」の狼藉って、何?)

 三中信宏氏の日録2010年6月1日のところに、

  「「醜い家鴨の仔」の狼藉は止まず ?? 渡辺慧の言う「醜い家鴨の仔の定理」については,すでに『生物系統学』の1-1-3(3)節「醜い家鴨の子の狼藉」(pp. 23-26)で論駁した。しかし,いまだにその「狼藉」ぶりがわかってない人が「家鴨の仔」のファンになるようだ.」(http://cse.niaes.affrc.go.jp/minaka/diary.html;受信:2010年6月11日)

とある。1-1-3(3)節→1.3(3)節だろう。

 さて、「醜い家鴨の仔」の狼藉とは、何だろうか? また、何をどのように論駁したと言うのだろうか?

 『生物系統学』は、どういうわけか宿家にあり、しかもすぐ取り出せた。少し読んでみた。そこでは、渡辺と池田が犯した誤謬の原因は、類似度に基づく分類が出発点とする形質データ行列と、それと見かけが一致する論理学的真偽表〔真理値表〕とを同一視したことだとしている(26頁)。また、「分類対象間の類似度がすべて等しくなるというのは、渡辺の詭弁です」(26頁)と言う。

 渡辺慧は、分類の客観性に関係して、述語の取り方の問題を考えて、その考察にもとづいて、そもそも観測とはどういうことかを考えた。生物体について観測される形質と、われわれがそれを表現するための述語とは異なる。
 しかし、われわれの実践上では、生物体の形質を、観測装置(たとえば人の視覚系)によって観測した結果を経て、われわれの言語体系のなかの述語によって表現するので、それによる偏りが生じているかもしれない。
 というより、そもそも、たとえば赤いといった述語は、見えた内容を表現するわけだから、生物体に赤さという観測結果をもたらす単一の性質と対応しているとは限らない。複合的性質を、一つの述語で示しているかもしれないし、いくつかの述語は、性質として同定した場合は互いに錯綜した関係にあるかもしれない。そこで原子的(atom的)述語というのを、渡辺慧は考えた。

 (言語体系によっては、虹は二色から七色とかと表現する。ただし、人の多くは、可視光線領域の波長を或る精度で区別できる。二色の言葉しか持たない民族の人でも、色は見えている。言語は、あくまで表現に関わることであって、しかも有限数のカテゴリーであり、実際に感じていることを同じ種類と程度に表現しているとは限らない。詳しくは後述。)

 たとえば鳥の羽で、青い金属色に見えるものがある(ところで、孔雀筆というのがあります)。それは、色素によるものではなくて、表面の形態によるもので、構造色である。ピンセットなどでその立体構造をつぶせば、黒くなったりする。metalic blueという述語で、羽の形質を表現する。
 しかし、metalic blueという見えをもたらす羽の表面構造が作り出されるのは、生物体に装備された様々なシステム的メカニズムの作動(と当該発生に関わる環境条件)の結果である(ただし、その環境条件をも整え、発生途上で多少の「事故」があっても頑健的に遂行するのが、種システムである(と仮構したい))。したがって、或る述語で指示される形質は、その多くが、発生システム的形質とは一対一対応しないであろう。

 また、本質主義的に脱線した。
 
 『生物系統学』25頁での(1)の、「「観察されたのはA, Bだけであって、それ以外の「形質」はA, Bの演算結果にすぎないからです」は、そうとも言えるが、そもそも観測することとはどういうことなのかを、渡辺は述語の取り方の問題から考えたのである。したがって、どの生物体も互いに同程度に似ているという結論になるのはおかしい、そのおかしくなる理由を考えると、観測することとはわれわれの主観的判断があるからこそだ、或ることを他よりも重要視するからなのだという結論を、渡辺は述べたのである。また、もっと形質を実在的に考えて、発生システム的形質として捉えれば、単純にはそうも言えない。
 なお、「情報量は増えず」については、わたしの「みにくいアヒルの子の定理・情報版」を見られたい。この情報版は、論理演算のすべての組み合わせを取るのはおかしいという批判が成立しないように、構成されている。

 ところで、或る生物体の脚の或る部位に「刺が無い」と、観測結果を述語表現したとする。「刺が無い」というのは、刺を作り出さなかったというように、実在的にも否定的に受け取れる。しかし、発生システムとしては、いくつかのDNA配列が読み取られて(DNA配列はいわば記憶庫である。)刺ができるところを、RNAが(或る下位システム上で)カスケード構造の上位となるDNA配列が読み取られてないように抑圧的に機能しているのかもしれない。論理的には二重否定的になっていて、「刺が無い」のかもしれない。すると、或る長さのDNA配列を比較してどうのこうの言っても、ある解釈(たとえば「系統的により古い時期に出現した」)が妥当かどうかは、システム的振る舞い、とりわけ制御関係がわからなければ、判断のしようがない。
 また、もっと複雑な制御関係となっているのかもしれない。というのは、発生途上での話だから、いつ、どこで、どの部分がシステム的に相互作用し、あるいは相互作用しないからこそ、或る形質と観測できるものになっているか、時間的関係も含めて、複雑であるかもしれない。

 ところで、複雑度を定義したような著作は無いのだろうか? 
 また、自由度が3.7といった数値があり得るような尺度の定義は無いだろうか?