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生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

美術修行2017年5月10日(水)[画面観覧]:半谷 学〈風の龍:登龍門〉/中之条ビエンナーレ2015

2017年05月10日 10時56分17秒 | 美術修行
2017年5月10日-1
美術修行2017年5月10日(水)[画面観覧]:半谷 学〈風の龍:登龍門〉/中之条ビエンナーレ2015

 この項は、実物拝見ではなく、紙媒体と液晶媒体による美術体験です。

 中之条ビエンナーレ2017のちらしの裏頁にある、参加アーティスト〔→美術者〕の名前のなかに、「半谷 学」が眼についた。その上には、けぶる山森を背景に、ロープウェイのように、羽根が連なっている。いい感じ。誰の作品だろう?。

 「半谷 学」で検索すると、半谷学氏が中之条ビエンナーレ2015で出品したもののようだ。家頁の玄関頁
http://www.hangais.com/art.htm
[受信:2017年5月10日。]
には、ちらしとは異なる角度からのけぶり景色の写真画像が掲載されている。
 また、晴れの日の写真画像
も掲載されている。

http://www.hangais.com/art_web/f/set.htm
[受信:2017年5月10日。]
「風の龍:登龍門 3.0(w)×1.0(h)×300.0(d) M 繊維廃材・鉄・竹・ワイヤーロープ *風による可動式 2015年
中之条ビエンナーレ2015 2015年9月12日(土)~10月12日(月) 道の駅・霊山たけやま 中之条町 群馬県」
とのこと。
 サムネール画像をクリックすると、独立した窓が現われ、nextをクリックすることで、合計9枚の写真画像を見ることができる。

 かつて美術館内や屋外の地上、池上、建物屋上に設置した場合の同様の葉っぱまたは羽根形状の実物を見たことがあるが、空中に設置すると、大きく見えが異なる。もちろん、設置の空間規模が大きく異なる点が大きいのだろう。また、想像するに、現地での環境下では、気分の良いことだろう。



美術修行 読書録20170506 レナード コーレン 2014/6 わびさびを読み解く

2017年05月07日 01時24分05秒 | 美術修行
2017年5月7日-1
美術修行 読書録20170506 レナード コーレン 2014/6 わびさびを読み解く

コーレン,レナード.1994, 2008(内藤ゆき子 訳 2014/6/30).わびさびを読み解く.108pp.ビー・エヌ・エヌ新社.[本体2,000円+税][Koren, Leonard. Wabi-Sabi for Artists, Designers, Poets & Philosophers][Rh20170506][大市中図701.1]

 ★ →「読み解く」と題している。感じ解く、感性で解くということはないのか?。もっとも、英文原題には、「読み解く」は無い。原書本文に、そのような語が出てくるのだろうか?。

 「わびさびは、生命【いのち、とルビ】のはかなさの美的鑑賞である。夏、青々と茂つていた木々が、今、冬空の下で枯れた枝を見せている。豪奢な邸宅の跡に残るものは、ただ雑草と苔が覆う崩れ落ちた土台だけである。わびさびのイメージは、私たち自身の生命に限りがあることを直視させ、存在することの孤独と静かな悲哀を感じさせる。私たちはまた、すべての存在が同じ運命を分かち合っていることを知っているがゆえに、ほろ苦さの入り交じっ
た安堵の気持ちをも抱くのである。」
(レナード コーエン 2014/6、14頁)。

 無常観または無常的感性との関係性は?。

 「利休は、わびさびの雰囲気を伝えるとして、古くから愛称される藤原定家の和歌を挙げている。

  見渡せば花も
  もみぢもなかりけり
  浦のとまやの
  秋の夕暮

(レナード コーエン 2014/6、54-55頁)。

 佐々木健一(2010/9)『日本的感性』は、和歌を調べて日本的感性を探っている。しかし著者自身が述べているように、明確な結論には至っていない。主張したい仮説とその根拠立てというふうには書かれていない。


 ★ わびさびとノスタルジアとの関係性は?。

 「わびさびとは、〔略〕出会うものすべてに感応しながらこの地球の上を軽やかに歩いていくことである。「物質的貧しさ、心の豊かさ」は、わびさびの決まり文句である。言い換えれば、わびさび、成功——富、社会的地位、権力、贅沢——に対する執着を手放して、肩肘張らない生き方を楽しむようにと私たちに語りかける。
 質素なわびさび生活を送るには、ある程度の努力と意志と、ときに厳しい決断が必要である。」
(レナード コーエン 2014/6、59頁)。

 ★ 鍵となる概念。
  ・日常性と非日常性。
  ・物質に囲われた、物的資源を利用する生活と、精神的営み。

 ★ 気づきの美学?。
  →弥勒(マイトレーヤ)やジッドゥ クリシュナムルティの教え(良い訳があまり無いらしい)。

 わびさびと簡潔性 simplicity?、simpleness?。

 「わびさびのシンプルさを言い表すならば、誠実で謙虚で心温かな知性が到達する幽玄の境地とするのがもっともふさわしい。この知性がとる戦略は手立ての削減である。本質を残して削減するが、詩は排除しない。」
(レナード コーエン 2014/6、72頁)。

 ?。知性だって?。感性または情緒ではないのか?。

 「大抵の場合、これは、用いる素材が限定されていることを暗に示している。それはまた、人目を引く特徴を最小限にまで抑えることを意味している。しかし、複数の構成要素をひとつの意味あるものにまとめ上げている目に見えない細胞組織を取り除くことを意味するものではない。それがまた何かの「興趣」、つまりそれを何度も何度も繰り返し眺めずにはいられない気持ちに私たちをさせる「特質」を減らすことを意味するものでもない。」
(レナード コーエン 2014/6、72頁)。

 「デジタル形式では、わびさびが必要とする無限大の繊細さに応えることができない。」
(レナード コーエン 2014/6、78頁)。

 ★ →ヒトの視覚の空間解像度も時間解像度も有限である。たとえば一秒当たりに30駒の静止画面を人が見れば、それは連続し運動しているように見える。また、電光板ニュースは、各発光点が点滅しているだけだが、あたかも「ニュース」という字が移動しているように見てしまう。
 わびさびが必要とするかもしれない繊細さは、有限であろう。
 液晶テレビはピクセル単位で映像を提供している。つまり離散的またはデジタルである。映画やドラマはデジタルの動画だが、連続して見える。そもそも、ヒトの視覚能力東京は関係なく、この覚醒世界は、量子的に運動しているかもしれない。

 中期モダニズムと比較して、わびさびの特徴を列記している。あまり説得性が無い。
 文中に出てくる「空」とか「無」とはどんなものなのか定義または説明が無い。そのため、この人の立論がわからない。
 ファンキーな[funkyの主な意味は、「おじけづいた、おびえている、憂うつな、落ち込んだ、臆病な」とか、また「一風かわった、いかす、いやなにおいのする、悪臭のする」(http://ejje.weblio.jp/content/funky)とかだが、ここでは〈憂うつな〉であろうか?]わびさびの一例の写真が6頁に掲載されている。目立つのは、頭付き釘であろう丸い形状のもの10個(の分布)である。註の部分の92頁には、京都で最も古い旅館の「美的信条は、主人の話によれば2つのゆるぎないわびさびに似た原則に要約」されて、
  ・〈い〉: 部屋の中ではいかなる物も目立たせるな
  ・〈ろ〉: 古いというだけで尊ぶな
とある。頭付き釘は白黒写真の紙印刷では目立つが、〈い〉の美的信条とはどういう関係または適用の仕方になるのか?。
 同じ写真には(わたしには)次いで目立つ流木が写っている。流木は生きているときの木のときよりは古いし、色形からも古く見えるが、〈ろ〉の美的信条との関係はどうなるのだろうか?。


□ 文献

佐々木健一.2010/9/**.日本的感性 触覚とずらしの構造.中央公論新社[中公新書].302pp.[903円][B201*/*、][Rh2015?*]

美術修行 読書録2017年5月6日:三瀬夏之介・池田学 2011/6 現代アートの行方

2017年05月06日 15時35分34秒 | 美術修行
2017年5月6日-1
美術修行 読書録2017年5月6日:三瀬夏之介・池田学 2011/6 現代アートの行方

三瀬夏之介・池田学[・は×の代用].2011/6/10.現代アートの行方.123pp.羽鳥書店[はとり文庫].[本体価格700円+税][B20170328、756円。][Rh20170330]

 面白いと思ったのは、次の箇所だけであった[が、とつづく。→「本日さきほど、」以降を見よ]。

 「〔三瀬夏之介〕「先生、芸術って何ですか?」って本当にバカみたいに直球のボールを投げたら、高階〔秀爾〕先生が即座に「世界観の拡張です」と答えられたんです。」
(三瀬夏之介・池田学 2011/6、113頁)。

 高階秀爾氏の答えは、大風呂敷で包んだといった答えである。日本画の定義ではない。正しくは correctly または 精確には precisely 、「世界観の拡張の手段または方法または実践の一つです」といったところか。

 「何ですか?」の問いは、定義を訊ねているとすれば、
   芸術=【定義】=世界観の拡張
となる。左辺の言葉または事項と、右辺の言葉または事項の、両辺が等しくなければならない。

 書き換えれば、
  い: 芸術ならば、それは世界観の拡張である。 [芸術→世界観の拡張]
  ろ: 世界観の拡張ならば、芸術である。    [世界観の拡張→芸術]
の両者が成り立たねばならない。つまり、どちらからも導出されることである。

 あるいはむしろ、そのときの芸術的活動の文脈または質問の文脈に応じて、芸術の性質についての本質 essence または本質的性質 essentialistic property の一つを強調したものであろう。

 日本画を、

  地球人のうちの或る種類の人々
   (「日本人」とは何か?、アイヌ人やギリヤーク人(→ニヴフ人)や琉球人、系譜では縄文人か弥生人か混血も含めて両方の子孫たちか、杣人など、を含めるのか、の問題が生じる。あるいは日本国籍を持つ人とするか、)
による絵画と定義するか、

  膠といった或る種類の接着材の使用で定義するか(アートグルーや木工ボンドは?)、

  あるいは、岩絵具といった絵具の種類で定義するか(顔彩や水干絵具だけとか、水彩絵具と水晶末だけの場合は?)、

線引きは、現実にジェッソや水彩絵具やアクリル絵具を使って日本画と称する人がいるので、無理である。
 数年前か、名古屋での創画展では、数ミリの厚さの(牛の?)皮だけを全面に貼り付けたものが、受賞作品だった。

 すると、絵具などの材料ではなく、「日本的」または「日本美的」でもって、定義するのは一方法である。
 しかし、これもまた、論争になる。たとえば、わびさびは、日本的美意識だとしても、そのうちの一つである。新しい日本絵画をめざすとすると、わびさびの心または美意識の批判的継承、または全面的否認をすることになる。

 結局、「日本人」と自称する各自が、それぞれなりに考えた「これこそ日本的」と思うことを、絵画に仕立てるほかない。



 本日さきほど、目次の「日本画についてどう思う?[夏→池]」を見て、頁を繰ってみた。

 「〔三瀬夏之介〕 日本画のいちばんオーソドックスな描き方というのは、モチーフをスケッチして、たくさん情報を集めて、小下絵つくって、小下絵をいろいろ動かして考えながら、大下絵つくって、それをさらに転写して、骨描きして、下地をつくって、岩絵具をのせて、さらにそれを丁寧に、何層も何層も重ねてっていうお手順がいろいろあって。」
(三瀬夏之介・池田学 2011/6、67頁)。

 これは、たとえば美術系大学で使われる日本画(と称する)教科書に述べられている、使う絵具の種類と製作手順の紹介である。
 
 「〔三瀬夏之介〕そのやり方
  〔=オーソドックスな[オーソドックスとは、広辞苑によれば、正統的な。「伝統的な教義・学説・方法論を受けついだ」とある。]日本画の描き方。〕
って、僕、日本画の話だけでなくて、現在の日本のうまくいかなくなった構造そのものだと思うんですよ。みんなが、ある一つの理想に向かってググググッと突き進んでいって、どれかが一つでも外れてしまうと壊れちゃう。そのやり方は下手すると、完全にこの日本では行き詰まりを見せている。〔略〕
 だから僕は、日本画という言葉をさまざまに考えながら変えていきたいと思うんです。」
(三瀬夏之介・池田学 2011/6、68頁)。

「〔三瀬夏之介〕「日本」と言う言葉は、多様性を一つにくくってしまうような非常に乱暴な言葉だなと感じます。〔略〕
日本画を逆手にとって、様々な日本や多中心な日本をとらえなおせる道具になるんじゃないかと。赤坂憲雄先生という〔略〕民俗学者が〔略〕「いくつもの日本」を唱えています。」
(三瀬夏之介・池田学 2011/6、68-69頁)。


 さてでは、絵画活動または絵画的実践はどうなのか?。
  「〔三瀬夏之介〕今年開催されるジパング展(日本橋髙島屋、2011年6月1日—20日、以降大阪・京都を巡回)」
(三瀬夏之介・池田学 2011/6、67頁)。
とあった。二、三日前に、高橋龍太郎 2016/10『現代美術コレクター』を読んだときには、ジパング展は見ていないと思った。
 三瀬夏之介氏の作品は、名古屋の中京大学構内や、最近では京都市立美術館別館での個展を見たので、「三瀬夏之介」でブログ内検索をすると、下記の一件だけが出てきた。

 ジパング展(の巡回展)を見ていたのだった。大阪でだったとは。
 (したがって、東京での展示は配置と照明条件は違うだろうから、また異なった見えになっていただろう。しかしおそらく、出品作品が同一物であるならば、感想はそれほど違わないと思う。最小主義的 mimalistic な作品では、出品作品本体の配置環境と照明条件の設定で、異なる作品だとも言える。)


===== ↓は、ブログの再録である。
[http://blog.goo.ne.jp/1trinity7/s/ジパング展(受信:2017年5月6日。)]
[このブログの文中での、「??」は、ブログを ぷらら から引っ越したときの文字化けである。「—」か「——」であろう。]
[きつい文言は〔略〕しました。]

美術修行2010年9月7日(水)
2011年09月09日 14時22分51秒 | 美術/絵画

2011年9月9日-2
美術修行2010年9月7日(水)

 ジパング展??31人の気鋭作家が切り開く、現代日本のアートシーン。??/大阪髙島屋7階グランドホール/800円。
 総じて、(新奇性無しの)幼稚。〔略〕多くの作品が、具体的対象を(絵画的深みの出ないような仕方で)線描的に描いているもの。たとえば絵画物体の質感ではなく、ほとんど概念的な提示内容だから、つまらないのだろう。
 町田久美は、見飽きた。概念的一点勝負だからか。(照明が暗すぎるのもあって、)画面が小さすぎるのか。
 なんとか見られるのは、会田誠「大山椒魚」。一部の様式美。
 山口晃「歌謡ショウ圖」の左端に直角に配置した壁に横長の鏡がある(そうやって絵の左半分を対称的に稼いでいるのだろう)。それを左方へと覗くと、この部屋と次の部屋の鏡像が見える。その景は、ひとときだけ、面白いかもしれない。
 束芋「にっぽんのちっちゃい台所」のアニメーションのビデオ画面は、小さ過ぎ。一人が正面に立つと他の者は見られない。面白さは無かった。国立新美術センターだったかで見たのとは、だいぶ違う。
 三瀬夏之介「だから僕はこの一瞬を永遠のものにしてみせる」は大きいだけ。(丁寧に見えるようにしたゆえに?、)新奇性も工夫も無し。

 それこそ概念的に総括して、新しい作品へと奮起してほしい。

美術修行 読書録20170504:高橋龍太郎.2016/10 現代美術コレクター

2017年05月06日 00時01分12秒 | 美術修行
2017年5月5日-4
美術修行 読書録20170504:高橋龍太郎.2016/10 現代美術コレクター


[た]
高橋龍太郎.2016/10/20.現代美術コレクター.口絵16+173pp.講談社[現代新書].[本体800円(税別)][Rh20170504][大市中図707.9]


 ネオテニー?。ネオテニーの使い方が正しいとしても、それになぞらえるたりのはおかしい。括り方としても、わからない。


 「現代アートは、どう見たらいいのかということ自体を問う闘いそのものだ。現代アートは、「分かろう」として持っている知識にとらわれると、つまり既成概念にとらわれると、本質が見えなくなってしまう。故に〔略〕マインドフルネスのあり方で臨めば、これまで地球上に存在していなかった見たことのない美を感じられるのである。」
(高橋龍太郎 2016/10、42頁)。

 「コンセプト」とは何なのか、日本語で定義し、この人の解釈での訳語を提示し、解説してほしいところである。
 「現代アートは、どう見たらいいのかということ自体を問う」のであれば、展覧される色と形をどう観るのか、の見方を論じるべきでる。伝統やパロディや構図の借用とといったことではなくて、ましてやあれこれの解釈ではない。

 「風神雷神図と「美しい肌」とは、一見相関がないように見えるが、手の構え、気配、風の流れ等、会田誠が風神雷神図を意識したことは容易に読み取れる。」
(高橋龍太郎 2016/10、44頁)。

 また、会田誠 1995『美しい旗』についてあれこれ述べているが、そのような解釈が成立するようにはとても見えない。

 〈見立て〉を日本の美術の本質的なこととしているようだ。見立てとは、別のものに、置き換えるとか、なぞらえるということで、形式や内容について類似性などを適用することである。だから、間接的受容であり、また知的反応である。色形への直接的受け取りではない。

 絵画製作にあたっては、技法や構図といった技術的なことをかんがえることはあるかもしれない。しかし(或る環境のもとで存在している)作品の受容者または作品との相互作用者は、なんらの思考なく、直接に作品のいわば本題である色形に反応すること、これが絵画の定義からして、本質である。

 なぞらえや本歌取りは、自分の作品を先人の作品へとなんらかの様式でつなげることであって、結局は独創的なことではない。
 琳派の系譜にしても、各作者の美意識によって洗練された作品ができるだろうが、新たな独創性にはつながらない。
 この本では、矛盾するか対立するようなことを、曲げてつなげた主張をしている。


 「日本人の意識の中には、美は個人の中に限ってあるのではなく、一つの美が生まれるとそれを共有の財産として、作家達と受け手である鑑賞者たちが合わせて伝えていくと言う意識が強い。」
(高橋龍太郎 2016/10、45頁)。

 まずは、各個人において美は生まれたり発見される。それが、ある共同体または繋がり体の構成員に共有される。誤解を招くような言い方である。→「美は個人の中にとどまらず」とすべきか。しかし、下記を読むと、美の成立は日本では共同体において成立するように書いている。

 「欧米では、独自性が尊ばれるが、日本では、共同体が評価し続けることで初めて美が成立するのである。美は、一人の作家、一つの作品として限定して独立するのではなく、共同体の中で活かされていく。」
(高橋龍太郎 2016/10、45-46頁)。

 独自性と美は対立しない。むしろ、新しい、つまりそれまでには無かった、とりわけ独自の感性によって作られた作品が尊ばれるのは、美意識の向かうところである。西欧でも、評価はなんらかの共同体で行なわれる。【→歴史記述の問題】
 欧米と日本での差異は結局何だと主張しているのだろうか?。日本では、独自性が尊ばれないということなのか?。

 ミラー ニューロンにしろ、そのほかのことにしろ、システムで考えるべきである。

 「人類は類的存在だと言われる。これは単独でしか〔→単独では、の間違いだろう〕生きていけないことを指し示している。」
(高橋龍太郎 2016/10、47頁)。

 主張の論拠や根拠立てが、間違っているか薄弱である。議論の仕方と事実的事柄の出し方が、妥当ではないか不明である。

 「鈴木大拙は、一九三八年の『禅と日本文化』の中で〔略〕語っている。
「非均衡性・非対称性・一角性・貧乏性・さび・わび・その他、日本の芸術および文化の最も著しい特性となる同種の観念は、みなすべて『多即一、一即多』という禅の真理を中心から認識するところに発する」」
(高橋龍太郎 2016/10、51頁)。

 →わび、さび、の検討。「わび」や「さび」が日本の美的感性だとすることに反対の意見は、誰だったかな?。


 日本現代アートの背景に息づく美意識の鍵語は、
  ネオテニー
  職人的技巧
  なぞらえ(ミラー ニューロンの働き)
  貧
  一瞬の美
としている(高橋龍太郎 2016/10、53頁)。

 →造形的動き、→生命的?、問題意識では?。


 国立新美術館は、 art center であって、美術博物館 art museum ではないようになったのは、どういう経緯からなのだろう?。単に日展などの美術団体展の要望によるもの?。

  「活動内容は複数の公募展の同時並行開催と、新聞社などの主催の大規模企画展のための会場貸しとされ、美術品コレクションや学芸員は置かない方針だった。
しかしこれに対して、公募団体側も国側も新美術館を通して何を実現したいのか、という展望や戦略がないまま、箱の建設のみを進めていたという、ハード面のみの重視に対する批判もある[3]。
〔略〕
 外国から美術品を借りる際に、受け入れる学芸員が必要なことや、独自の展覧会も開催すべきだとの指摘を受け、数名の学芸員を置くことになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/国立新美術館[受信:2017年5月5日。]

美術修行 読書録20170505:笹沼俊樹 2013/7 現代美術コレクションの楽しみ

2017年05月05日 23時00分05秒 | 美術修行
2017年5月5日-3
美術修行 読書録20170505:笹沼俊樹 2013/7 現代美術コレクションの楽しみ

美術修行2017年5月5日-3
読書録20170505

[さ]
笹沼俊樹.2013/7/25.現代美術コレクションの楽しみ 商社マン・コレクターからのニューヨーク便り.4+171pp.三元社.[本体1800円+税][Rh20170505][大市中図707.9]


 この書は、商社に勤めた給料生活者が、ニューヨークやパリなどでの美術収集者(コレクター)として、美術の勉強、画廊とのかけひき、オノサト トシノブ や白髪一雄の作品についての日本と外国との 評価の差異が書かれていて、貴重である。
 塗り絵画や線描き絵画の価格を決めるのは、美術館学芸員と美術収集者が、美術館での展覧会開催での評価づけと有名画廊を介した美術館と術収集者による購買(を通じた価格づけ)だということである。
 日本では、地方自治体の美術館は自治体の借金財政のためか、美術作品の購買予算はほとんどが零である。


 「1987年12月5日。〔略〕ジョエル〔 シャピロ〕の個展まで3ヶ月以上もあるのに、〔ポーラ・クーパー画廊のなかに〕運び込まれた作品はすべて売約済み。〔略〕
 この頃、アメリカでは、一ヶ月半ほどの前の10月19日に発生したニューヨーク株式市場の大暴落「ブラック・マンデー」後、株から逃げた投資資金が不動産や絵画に向かい始めた時期だった。
 美術市場が活況を呈してくると、欧米の富裕層コレクターや画廊と緊密な関係を築いているコレクターなどが、画商の周辺に群がってくる。これらの枠の外に置かれているコレクターなどは目もくれられない。」
(笹沼俊樹 2013/7、117頁)。

 「ニューヨークで評価を取った画商は、作品を売ることにのみ埋没しない。絶えず、市場で作家をどのようにに育成し、どのように価値を創出するかに、細心の注意を払っている。
 一方、顧客も大切にしている。上質の作品に至っては、前もって、上得意の信頼できる富裕層コレクターに密かに見せて、予約を取ってしまう。作品は人目にさらされることなく、消えてゆく。」
(笹沼俊樹 2013/7、118頁)。


 「ジョエルは二作品を差し出すことで、「形状、色彩、素材、それぞれの特性が見事に絶妙なバランスをとったとき、生気がその作品に宿るのだ」ということを実物で、なんとなく教示しているように思えた。」
(笹沼俊樹 2013/7、124頁)。

 上記の二つの作品とは、
  a.変形五角形の鮮やかな青の油絵具(下層には白や黄が塗られている)が塗られた木製の作品
  b.それを原型にして鉄で抜いた真っ黒に塗装された作品

である。
 二者は、形はほぼ同一(木製の方は、側面の木の貼り合わせ部分に、ごく細い隙間がある)である。
 木製か鉄製かは、その表面への塗りが厚ければ、わからないだろう。たとえば発泡スチロールを黒く塗れば、重々しい鉄製かと感じる。
 大きく異なるのは、鮮やかな青か、真っ黒か、である。これが、二者の見えの違いの大部分であろう。笹沼俊樹氏は、その変五角形と相まった鮮やかな青が好みだったのだろう。


 「海外でオノサトの作品を所有しているコレクター〔略〕の最大公約数は、「我々の文化圏では表現しえないものを見事に描き出している。」〔略〕「現在100人の受賞作品で、欧米作家が制作したものは、“強さの主張”だったり、“色彩の強調”、そして、“理性を強調”したものが多い。しかし、日本人作家の作品を見ていると、何か政治に問いかけるようなもの、そして不思議にも、心が和むようなものを感じるのですよ」
(笹沼俊樹 2013/7、150頁)。

 「行動開始のための判断基準が自分自身の眼ではなく、価格や欧米の評価だとしたら、この主体性のなさに、やりきれなさを感じる。」
(笹沼俊樹 2013/7、159頁)。


美術修行2017年4月29日(月)-2:山下克彦展(最終日報)/スペース御蔵跡/日本橋(最終日報)

2017年05月05日 11時08分15秒 | 美術修行
2017年5月5日-2
美術修行2017年4月29日(月)-2:山下克彦展(最終日報)/スペース御蔵跡/日本橋






































↑:山下克彦氏の作品は持ち去られたようです。付着した絵具が少し残っていました。



風間虹樹は、上の景色を光絵画しました。下の四つ、だよん。











 山下克彦展に復帰します。












 またまた、風間虹樹は、上の絵画景観 pictural landscape の一つを光絵画しました。下の二つ、だよん。介入(的製造)絵画 intervening (made) pictures になるのでしょうか?。







 山下克彦展に復帰。





















美術修行2017年4月17日(月)-6:魑魅魍魎、deva、elmentals、天使 angles、精霊、

2017年05月01日 00時11分34秒 | 美術修行
2017年5月1日-1
美術修行2017年4月17日(月)-6:魑魅魍魎、deva、elmentals、天使 angles、精霊、




 魑魅魍魎の魑魅を、「すだま」とも読むというのは、北村きちろう展 — 魑魅 —/ギャラリー白のは、展の案内葉書にSUDAMAとルビがあったので、作者に訊いて知った。

  「魑魅魍魎(ちみもうりょう)とは、山の怪物や川の怪物。様々な化け物、妖怪変化。魑魅は山の怪、魍魎は川の怪であり[1]、一般には山河すべての怪として魑魅魍魎の名で用いられることが多い[2]。なお、古くから「みのり」と言う名でも通っている。これは実る鬼と言う意味で古くから地方で使われている。

  「魑魅とは、山林の異気(瘴気)から生ずるという怪物のことと言われている。顔は人間、体は獣の姿をしていて、人を迷わせる。平安時代中期の辞書『和名類聚抄』ではスダマという和名の鬼の一種とされ、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では山の神とされる[3]。

魍魎は山川や木石の精霊とされる。山・水・木・石などあらゆる自然物の精気から生じ、人を化かす。また、死者を食べるとも言われ、姿かたちは幼児に似ていて、2本足で立ち、赤黒色の皮膚をして、目は赤く、耳は長く、美しい髪と人に似た声をしている。これらの外見は鬼を思わせる。『和漢三才図会』では水神、古代中国の書『春秋左氏伝』では水沢の神とされる[3]。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/魑魅魍魎#.E9.AD.91.E9.AD.85[受信:2017年4月30日。]


 Benjamin Creme (1922/12/5 - 2016/10/24) さんの絵画には、デーヴァを描いたものがある。

 Solar Angel
http://www.siriusart.org/litho-solarangel.html

 Flame-Coloured Deva
http://www.lapdonline.org/paintings_and_prints_c_/content_basic_view/51886




 一つの記述または計測の軸の対極または、互いに排他的に二つの部類 category として、
  a. 自然主義 naturalism
  b. 超自然主義 supernaturalism
を設定できる。

 物質界で覚醒している意識が観測可能な世界は、つまりヒトの各自の自己意識が焦点化または感覚ないし知覚している対象(とそれらから構成した知覚世界)は、多くの人にとっては、神智学やトランスヒマラヤ密教による分類によれば、濃密物質体または濃密物質界である。
 現代物理学は、

 オッカムの剃刀的な方針では、存在者を増やしたくないことになるが、実際に存在するならば、認めるほかはない。
 そこで、現行の物理学では検出または確認できない存在者を、いかにして存在することを確証または反確証するのかの問題となる。

 一つの突破口は、ヒトの意識の問題である。夢の世界(トランスヒマラヤ密教ではアストラル界 astral plane)で目覚めているときの記憶を、物質界に焦点を当てているときの世界で想起できる記憶としてもたらさればよい。



 存在者の分類として、
 (哲学での)自然主義は、

美術修行2017年4月25日(火)-4:日本絵画とは何だろう?

2017年04月27日 00時25分09秒 | 美術修行
2017年4月27日-1
美術修行2017年4月25日(火)-4:日本絵画とは何だろう?

 日本画の定義はなんだろうか?
 接着剤で分類するならば、
  a. 接着剤として、膠を使う ...... 膠彩画または膠絵
  b. 接着剤として、アラビアガムを使う ...... 水彩画またはアラビアガム絵
  c. 接着剤として、アクリル樹脂を使う ...... アクリル彩画またはアクリル絵
  d. 接着剤として、乾性油を使う ...... 油彩画または油絵

 膠と岩絵具(今では新岩絵具)は対となって使われる。しかし、岩絵具を乾性油で接着してもよい。
 接着剤の種類と絵具の種類は固定してはいない。
 また、「日本画」の支持体は、多くは和紙が使われるが、絹布や木板も古くから使われてきた。皮を支持体にすることもできる。
 麻画布に岩絵具を接着することも見かける。最近知ったが、東山魁夷?は、キャンバスを使ったとのこと。
 
 
 現在では、絵具の種類と接着剤の種類による分類は合致しない。
 
 日本画は、ローマ字でNohongaとされる場合がある。
  Japanese-style painting
  Japanese painting
と英訳される場合がある。
 フェロノサの本ではJapanese-style paintingとしたらしい。
 「日本画 Japanese painting」は、兵庫県立美術館の美術情報センターの書架にあった。

 抽象絵画との関係はどうなるのか?。