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生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

炉心溶融は、地震で?、津波で?

2011年09月09日 11時45分16秒 | 生命生物生活哲学
2011年9月9日-1
炉心溶融は、地震で?、津波で?

 2011年3月11日14:46、(気象庁の最終採用の尺度でマグニチュード9.0の)地震発生。
 2011年9月8日18:55からのNHKの番組、サイエンスZEROは、「原子炉で何が起きていたのか~炉心溶融・水素爆発の真相に迫る」の開始18分後で、下記のような表が提示された。(ただし、「メルトダウン」→「Melt down」に、「メルトスルー」→「Melt through」に、「国」→「政府」に、変更した。)それぞれの事件が始まった時刻が、それぞれの模擬計算〔シミュレーション〕プログラムで算出された結果を示している。

           炉心溶融    圧力容器破損
           Melt down   Melt through
 サムソン      17:03     19:37
 政府(メルコア)  18:00ごろ   20:00ごろ
 東京電力(マープ) 18:46ごろ    5:46ごろ

 東京電力のマープでは、圧力容器破損が他と較べてかなり遅い。入力する数値が異なるのか、計算ブログラムの違いなのか。(入力数値や設定パラメータなどを含めて作動する)計算システムは、(システムとしては)どれも間違っていて、しかし計算結果の数値としては、たまたま当たらずとも遠からず、かもしれない。
 ともあれ、サムソンによる数値計算からなのか、5cmの穴が開いて、溶融した燃料が格納容器へと落ちたという説を唱えている。

 しかし問題は、NHKとしては、14:52:33に非常用冷却装置が起動し(と推定し)、「その後、急激な冷却を防ぐために、午後3時3分〔15:03:02〕に、主導でIC〔非常用冷却装置〕を停止しました。、
このときは原子炉の温度や
冷温停止ができると考えられていました。
ところが、午後
津波によって事態が一変します。

(二ノ方壽東京工業大学教授も?、サムソン SAMPSONというプログラムを使ったエネルギー総合工学研究所の内藤正則部長も?)、津波(という必要条件または十分条件)でこれらの事象(出来事)が起きたとしていることである。圧力容器の下部の映像が出ていたが、まさに所狭しと様々な装置が装備されていて、広瀬隆氏のいう槍衾〔やりぶすま〕状態である。そのような配管などとそれらが破損するということは、プログラムに取り入れられているのだろうか?
 番組では、地震で配管などか破損して、非常冷却装置が作動しなくなったという説は取り上げられていなかった。この説のほうが当たっているのかどうかは、今後の事故対策として重要な点である。
 しかしそうやって事故対策を加えても、またもや、(核分裂型)原発推進者たちには想定外のことが起きて、放射能汚染となるかもしれない。
 安心な生活をするには、核分裂型原子炉は即時に停止するほかない。

 さて、燃料交換するために、圧力容器は蓋が外せるようになっていて、その間はシリコンゴムがパッキンとして使われ、ボルトで締められて圧力が保たれるようになっているとのこと。水素が発生して(想定外に)圧力が高まり、また温度が上昇すると、ボルトが押し上げられ、またシリコンゴムが熱で劣化し、圧力容器の蓋のところで隙間ができて、そこから放射性物質が(水素も)漏れたという説を唱えていた。


帰納法、演繹法、アブダクション(仮説法、仮設法)

2011年09月02日 21時29分43秒 | 生命生物生活哲学
2011年9月2日-5
帰納法、演繹法、アブダクション(仮説法、仮設法)

 「二分法のモノサシからの脱却を求めて:鼎談 林知己夫+千葉康則+難波寛次」という記事が、TASC機関誌『談』1981年初夏号に載っているらしい(その抜刷りから引用した)。

  「難波 〔略〕川喜田二郎さんがKJ法を始めたときに、もともとギリシア哲学にはリダクション(帰納法)とディダクション(演繹法)とアブダクション(仮説法)の三つがあったのに、前の二つは残ったけれどアブダクションが忘れられてしまった。という意味のことを書いていました。〔略〕ほとんどの漢方薬の素材が黄帝の時代に開発されていたというんですね。〔略〕試行錯誤もあっただろうけれども、アブダクションか何か、別の思考法があって、相当量の薬草をわっと大づかみにする方法があったのじゃないかという気がしたのです。〔略〕
 林 〔略〕たとえばデータ解析をやっていて、これはおかしい、何か抜けてる、もっと別な分析法を考えなきゃいけないと気がつく。気がつくようなデータ解析をやらないと名人とはいえない。」(5頁)。

 渡辺慧もアブダクションについて論じていた。
 少し前からは、アブダクションが注目されているようだ。


[Y]
米盛裕二.2007.アブダクション:仮説と発見の論理.255+5pp.勁草書房.[B20071014, y2,940]


シンポジウム:原発災害をめぐる学者の社会的責任

2011年08月27日 00時40分59秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月27日-1
シンポジウム:原発災害をめぐる学者の社会的責任

 島薗進氏のTwitter
http://twitter.com/#!/Shimazono/status/104355935379656704
に、

  「日本学術会議哲学委員会主催シンポ 「原発災害をめぐる学者の社会的責任??科学と科学を超えるもの」。9/18、13~17時。東京大学法文2号館1番大教室。shimazono.spinavi.net/?p=247#more-247 科学の限界を自覚し科学では応じきれない領域につき、どう学術的に情報発信するのかを問う。」

とある。
 日本学術会議ではなく、日本学術会議哲学委員会の主催である。日本学術会議の家頁には掲載されていないようである。
 だれか、文字起こしして掲載してくれるといいのだが。
 
 また、
  「日本学術会議哲学委シンポ9/18「原発災害をめぐる学者の社会的責任」。挨拶、野家啓一(東北大副学長・哲学)、報告:唐木英明(学術会議副会長)、小林傳司(阪大・科学史)、押川正毅(東大・物理学)、鬼頭秀一(東大・環境倫理)、島薗進(東大・宗教学)、司会:金井淑子(立正大・倫理学)。」

とある。

 また、
  「HRN「国と東京電力…意見書」http://hrn.or.jp/activity/20110817houshasenn.pdf ロシアの「チェルノブイリ事故被害住民の社会的保護に関する法律」等を参照、「少なくとも自然放射線をのぞく年間被ばく量が1mSvを超える地域については、政府が住民・地域について積極的な対策を講ずる責務がある」と。」

 「福島第一原子力発電所事故に伴う住民の健康・環境・生活破壊
  に対して、国と東京電力がとるべき措置に関する意見書
  2011 年 8 月 17 日
  特定非営利活動法人ヒューマンライツ・ナウ震災プロジェクト」
http://hrn.or.jp/activity/20110817houshasenn.pdf



イデオロギーの定義

2011年08月26日 22時45分49秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月25日-1
イデオロギーの定義

  「啓蒙主義的な意味でいう「批評」criticisimは、外部の、おそらくは「超越的な」視点から、状況のどこに歪みがあるかを解きあかすことで成立する。いっぼう「批判」critiqueは、内側から主体の経験にもぐりこみ、主体の現在の状況をこえたところにある「有意義な」経験を引きだそうとする言説形式である。たとえば、いまいる無数の男女に、数学の知識を身につけることは、すぐれた文化的目標であると、たかみにたって教示するのが「批評」クリティシズムである。これに対し、もし数学の知識が給料袋の厚みにすぐにはねかえってくるようなら、誰もが数学の知識を競って身につけようとするだろうと認識するのが「批判」クリティックである。」(13頁)。

  「批評。物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること」(大辞泉)
  「批判。物事に検討を加えて、判定・評価すること。」(大辞泉)

 「批判的」という語感は良くないように思うが、「たかみにたって教示する」のは、「批判」よりは、「批評」という語が会うような気がする。critiqueに「論評」はどうだろうか? commentとはまた違うのだろうが。うーむ。

 
  「意味の多様性を示唆するために、近年、いろいろなところで見受けられるイデオロギー定義のいくつかを、思いつくかぎり、ざっと列挙してみよう??

 (a)社会生活における意味や記号や価値の生産過程。
 (b)特定の社会集団もしくは社会階級に固有の観念の総体。
 (c)支配的政治秩序を正当化するのに貢献する観念。
 (d)支配的政治秩序を正当化するのに貢献する偽りの観念。
 (e)体系的に歪曲されたコミュニケーション。
 (f)主体に立場をさしだすもの。
 (g)社会的利害に動機づけられた思考形式。
 (h)同一化思考。
 (i)社会的に必要なイリュージョン。
 (j)ディスクールと権力の結合体。
 (k)意識的社会行為者が、自分の世界を意味づけるときの媒体。
 (l)行為へと促す信念の集合。
 (m)言語的現実と現象的現実との混同。
 (n)記号の閉域。
 (0)個人が個人と社会構造との関係を生きるときに必要な媒体。
 (p)社会生活を自然な現実に変換する手続き。」(18-19頁)。

 (g)は、(c)と(d)とは、共存しない、と述べている。こんなにいろいろな意味があれば、あるいは使われ方をされているならば、「イデオロギー」の語は無意味であろう。少なくとも、しかじかの意味で使うとか言わなければならない。

 「社会政治的イデオロギー」として限定して、その特徴づけをするのがよいだろう。
 →Bungeの社会政治的イデオロギーの特徴づけを見よ。
http://pub.ne.jp/1trinity7/?entry_id=3507629


[E]
イーグルトン,テリー.〔Terry Eagleton〕1991.(大橋洋一訳 1996.3).イデオロギーとは何か.423pp.平凡社.[B990604]



東京電力の経済力による日本社会の支配、東電破綻処理

2011年08月25日 00時23分48秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月25日-1
東京電力の経済力による日本社会の支配、東電破綻処理

 「現職経産官僚が緊急提言
 古賀茂明(2011年05月11日)「東電破綻処理と日本の電力産業の再生のシナリオ」」

という記事が、『現代ビジネス』の
http://gendai.ismedia.jp/articles/print/4128

に掲載されている。
 これまでの問題点と具体的な処理策が書かれている。

 東京電力はその経済力によって、政・官・財・学・報道(マスコミ)の分野に支配力を発揮してきたし、今もしていると言う。



岩上安身トークカフェ in 帯広(8月28日)

2011年08月24日 11時35分23秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月24日-9
岩上安身トークカフェ in 帯広(8月28日)


 原子力資料情報室 西尾 漠氏による、「知らされない福島」 講演会を開催した、

  「北海道帯広市周辺の人が集まって、多様な情報をもとに、自覚的、批判的に判断していこうという基本的にゆるい会です。」
http://tokachinet.blogspot.com/

という、十勝ネット市民の会の網所は、

 十勝ネット市民の会
http://tokachinet.blogspot.com/

となっている。
 実はその講演会に申し込んで受け付けてもらったのに、8月23日は今日だと思っていたら、今朝感違いに気がついた。残念。また、会に迷惑をかけてしまった。で、「十勝ネット市民の会」を検索すると、その講演会は、

  「Ustreamで中継を予定しています。
   Youtubeにも録画をあげる予定です。」

とのことである。

 そして、フリー・ジャーナリスト(自由記者)の岩上安身氏が来て、

 岩上安身トークカフェ in 帯広(8月28日)
http://iwakamiyasumi.com/archives/11417
http://tokachinet.blogspot.com/

の案内によれば、

  「十勝ネット市民の会は、【岩上安身トークカフェ in 帯広 】をサポートしています。皆様の参加をお待ちしています。

【日 時】2011年8月28日(日)
  トークカフェ: 13時00分~15時00分(開場 12時30分)
  懇親会: 16時00分~18時00分
【場 所】
  北海道帯広市西22条南6丁目6-2
  帯広の森市民農園サラダ館
【内 容】
  「未曾有の原発震災、その後をどう生きるか」」
http://iwakamiyasumi.com/archives/11417

があることがわかった。
 参加申込みは、
http://iwakamiyasumi.com/archives/11417

からできる。

http://iwakamiyasumi.com/archives/2264
では、 トークカフェ参加費は2000円で、懇親会費は(2000円ではなく)3000円となっている。
 また、
  「【岩上安身トークカフェ in 帯広】このイベントは終了しました。」
となっているが、申込期限は8月26日となっていて、参加申込みの受付は可能のようである。

 ところがどうも、こちらはトークカフェは14:00からとかなっていたりして、古くて、

http://iwakamiyasumi.com/archives/11417
の方が、最新のようである。結局、上記の
http://iwakamiyasumi.com/archives/11417

の記載が、正しいようである。









バクテリアで除染 <放射性セシウム→バリウム>?

2011年08月21日 00時25分45秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月21日-1
バクテリアで除染 <放射性セシウム→バリウム>?

 福島民報によれば、

 「バクテリアの除染に効果 飯舘の水田、線量が大幅低下
 南相馬市、飯舘村で微生物を活用した除染実験に取り組んでいる田崎和江金沢大名誉教授(67)は2日、放射性物質を取り込む糸状菌のバクテリアを発見した同村長泥の水田の放射線量が大幅に下がったと発表した。南相馬市役所を訪問し、桜井勝延市長に報告した。
 水田の表面は毎時30マイクロシーベルトの高い放射線量だったが、7月28日には1桁台に下がっていた。水田では無害のバリウムが確認されており、田崎名誉教授はバクテリアの代謝によって放射性セシウムがバリウムに変わったとみている。」
http://www.47news.jp/localnews/hukushima/2011/08/post_20110803104741.html

とある。
 これは、バクテリア生物体による、
  放射性セシウム→バリウム
という、いわゆる生体内核変換なのであろうか?
 
 検索すると、良く似た実験結果は、すでに論文発表されているという。

  「微生物によって放射性のセシウムが安定性のバリウムの変化するという報告は、これが初めてではありません。凝集系核科学の国際学会(ICCF)でも度々発表しているロシアのVladimir I. Vysotskii博士(以降、ヴィソツキー博士と呼びます)が、これと良く似た実験結果を論文として発表されているのです。」
http://amateur-lenr.blogspot.com/

 「環境保健クライテリア 107」のバリウムという項の記述によれば、

  「トマトや大豆も、土壌中のバリウムを濃縮することで知られており、その生物濃縮係数*は2~20の範囲である。」
http://www.nihs.go.jp/hse/ehc/sum1/ehc107.html#2

とのこと。

 なお、
  「E-Cat〔エネルギー触媒器〕の発電費用は、1キロワット時当たり1セント(約1円)と主張されて〔略〕
 原材料はニッケルパウダーの加工品、秘密の触媒と水素です。加工と触媒にかかる費用も原材料費の10%以下と言われて」
http://amateur-lenr.blogspot.com/
いるらしい。
 また、
  「E-Catに用いられた技術は非常に安全です。簡単に遮蔽できる程度のガンマ線しか観測されておらず、放射性廃棄物も出ません。」
http://amateur-lenr.blogspot.com/
という。
 ロッシ氏のエネルギー触媒器(Energy Catalyzer)は、鉛で覆われているようだが、ガンマ線が出るからということなのか。



大本営発表、良質の情報を探し出す

2011年08月20日 23時33分29秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月20日-3
大本営発表、良質の情報を探し出す

 今回の福島第一原発事故をきっかけとして、日本社会の様々な欠陥または不具合が明らかになった。
 マスコミによる報道はその一つである。

  「「大本営発表」体質とは、情報の意図的な隠蔽や歪曲や操作のことです。うそ、ごまかしのことです。〔略〕情報の隠蔽や歪曲をされたら、情報の有効活用どころの話ではないのです。〔略〕
 わが国では、今なお政治家や官僚、大企業を中心に「大本営発表」体質が色濃く残っています。彼らは都合の悪い情報は平気で隠したり、うそをついて知らん顔です。
 そうでなければ、薬害エイズ事件など起こりません。金融機関が倒産してはじめて、不良債権の額は公表された数字の十倍あっただの、巨額の簿外債務があっただの、粉飾決算だっただのといったうそが次から次へと明らかになる様は、敗戦後に「大本営発表」がいかに大うそであったかが明らかとなった構図と同じです。
 人は誰でも都合の悪いことはなんとかそれを隠蔽したいと思うものです。これは洋の東西を問わず変わりません。ですから、隠蔽がしにくいように、それが割に合わないように、厳しい監視と罰則のシステムが社会には必要なのです。またこれが確立してはじめて民主主義社会と言えるのです。〔略〕
 本来ならマスコミも重要な監視役なのですが、これが意外に当てにならないのです。記者クラブで公的機関から流された情報をうのみにして流すだけで、情報の歪曲や操作に一役買っているだけ、ということも少なくありません。
 また、いろいろな思惑から報道が差し控えられることもあります。」(中山治 1999『「ひとり勝ち社会」を生きぬく勉強法』: 35-36頁)。

 では、そのような日本社会で、どうすれば質の良い情報を得ることができるのか。

  「日本社会の「大本営発表」体質を打ち破って、活用度の高い良質の情報を探し出すにはどうしたらよいでしょうか。それには、非公式なメディアと外国メディアを上手に活用することです。これは公式メディアを活用するなということではなく、わが国の公式メディアの発表する情報を外国メディアや非公式メディアからの情報で厳しくチェックしろ、ということです。
 私が公式メディアと呼んでいるものは、記者クラブに所属するメディアのことであり、新聞とテレビのことです。非公式メディアとは、記者クラブからは締め出されているメディアであり、週刊誌や月刊誌がその主なものです。それ以外に、書物や口コミ、インターネットもそれに入ります。」(中山治 1999『「ひとり勝ち社会」を生きぬく勉強法』: 37頁)。


 
[N]
中山治.1999.「ひとり勝ち社会」を生きぬく勉強法:勝ちぬくためにどう知力をつけるか.227pp.洋泉社.[B000124, y1,500]


養老孟司『バカの壁』

2011年08月20日 10時39分43秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月20日-1
養老孟司『バカの壁』

 昨日読んだ、養老孟司『バカの壁』の個体は、奥付けに「2004年4月10日 54刷」とあり、丁度一年前の「2003年4月10日 発行」とあった。かなりの発行部数になるだろう。
 当方の解釈装置あるいは感性が、著者とはだいぶ異なるからだろうか、感銘を受けた箇所は無かった。
 下記の『武士に二言はない』の箇所については、皆目理解できなかった。

  「もし、現代人に、「人は変わる」ということだけをたたき込んだら何が起るかというと、「きのう金を借りたのは俺じゃない」と、都合のいい解釈をするだけです。〔略〕
 人間は変わるが、言葉は変わらない。情報は不変だから、約束は絶対の存在のはずです。」

 約束とか情報は、AさんとBさんが取り交わしたものである。
 情報を不変だとみなすのは、それに関わる人どうしでの了解事項である。
 ところが、万物流転(少なくともそのような定式化は、人の作りもの)ゆえに、人という物は変わるのならば、

  約束(t1)=約束(A(t1)、B(t1))
 [時点t1での約束は、時点時点t1でのAと、時点時点t1でのBとの間に取り交わされた約束である]

  約束(t2)=約束(A(t2)、B(t2))
 [時点t2での約束は、時点t2でのAと、時点t2でのBとの間に取り交わされた約束である]

 ところが、「人は変わる」を、たとえばわれわれの物質的構成は変化しているから、たとえば身体を構成している細胞たちは、異なっていっているから、人としても異なっているとすると、

  A(t1) = A(t2) ではなく、かつ、
  B(t1) = B(t2) ではない

となるとすると、昨日のBが、昨日のAに1兆円貸したとしても、現在のBは昨日のBではなく、かつ、現在のAは昨日のAではないのだから、たとえ貸したまたは借りたとかの記憶が現在のAとBに残っているとしても、別人に借りたまたは貸したということになるから、債務関係は無いことになる。
 情報を担っているのは、人であるから、人の(なんらかの)同一性が無ければ、情報の同一性も保証されない。「違う人に貸したんじゃないの?」と言われて、証文を見せても、「それは<昔のわたし>で今のわたしじゃない、<昔のわたし>と<今のわたし>は人として違います。<昔のわたし>に金を返してもらってください。」と言われるかもしれない。また、貸した方自身も変化しているから、今は貸している者ではなくなるが、請求者の資格が無いとするのが妥当だろう。
 これが会社間での貸し借りでも同等である。社長などの構成員が変わっても、会社の同一性を保っているのは、そのように見なすことを定めている法律などを保証している人どうしでの契約や契約の有効性を担保している制度である。
 情報とは、物体の模様 patternが、それは情報だ(という種類に属する)とみなされてその内容が解読されて(解読が可能なのは、人の二者どうしで共通する取り決めが存在するからである。たとえば古代文字についての解読では、間接的だが、そのような仮定があるから、可能である。)、具体的な情報内容となる。
 結局、力は人の同一性とその意思に帰着する。
 
 ところで、

  「温暖化でいえば、事実として言えるのは、近年、地球の平均気温が年々上昇している、ということです。」(養老 2003.4.『バカの壁』24頁)。

とあるが、はたして、「年々上昇」したであろうか? 「年々上昇」を、「地球各地の平均気温の値が毎年増加した」と解釈すると、そうとは限らないだろう。
 しかしそもそも、「平均気温」とは統計的な作りものであるから、事実 factというよりは、

  「全球平均気温は、上昇傾向にある」

という命題は本当 trueである、とするべきことである(「上昇傾向」としておけば、或る年に下がってもよい。たとえば5年移動平均で単調増加していればよい。こうすれば、反確証されにくくて良い)。すると、気温とはなにか、特に「地球平均気温」とは、実際の計算では何をもとにしているのか、が問題となる。
 ところで、IPCC第4報告で採用された模擬計算の元となった各地の気温測定値(と測定条件)や使われた(いくつの?)モデルは、公表されたのであろうか?


 
[Y]
養老孟司.2003.4.バカの壁.204pp.新潮新書.
 

イデオロギーと歴史記述

2011年08月19日 13時57分12秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月19日-2
イデオロギーと歴史記述

 イデオロギーの定義または、或る主張がイデオロギー的かどうかの基準はどうなのだろうか。
 下記は、「「イデオロギー」とはなにか」と題した文からの引用である。実証主義への批判であるようだ。

  「われわれは思考する存在なのだ。たとえば、正義とはなにか、国家の目的、歴史の意味はなにか、といった問題についてわれわれはいろいろと考えをめぐらさずにはいられない。われわれの思考は他の実在と同様、実在するものである。しかし、それを追求して行く者だけが理解できるのだ。ここには原理的な意味での「認識の汚染」はない。あるのはその思考が深遠か浅薄か、高貴か低劣か、独自のものか他に依拠したものか、中庸かファナティックか、善か悪か、という区別である。そして、それ自体不確かなこうした区別の方が、あらゆるレヴェルの差を平均化せざるをえないイデオロギーの概念よりは、思想家の価値を明らかにするには役立つ。もちろん、悪しき思考、虚偽、無内容な思想、もったいぶった弁舌を、内容の充実したものに対比して「イデオロギー的」と呼ぶことにはやぶさかでない。しかし、そのような区別をするなら、もっと正確な言いまわしを用いられるようおすすめする。」
(マン 『歴史論II:尺度と価値』132頁)。

 アーサー・ダント〔Danto ダントォ?〕の『物語としての歴史』の見解はどうなのか。

 
[D]
ダント,A.C. 1965, 1966.(河本英夫訳,1989)物語としての歴史.390pp.国文社.[B000919, y4200]
 
[M]
マン,ゴーロ. 1961.(加藤二郎・宮野悦義訳,1973)歴史論II:尺度と価値.189+vi pp.法政大学出版局.[B740304, y950]


佐々木力(2000)『科学技術と現代政治』

2011年08月18日 17時58分06秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月18日-1
佐々木力(2000)『科学技術と現代政治』

 佐々木力(2000)『科学技術と現代政治』は、まったくの積ん読状態のままだったが、昨日の夕方、一部を読んだ。

 この本についてのAmazonでのカスタマーレビューは1件あり、その評価段階は星一つで、「とてつもなくイデオロギー的に偏向した思想喧伝本で」、「2章以外は読むに堪える内容がありません」と評している。
http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E6%8A%80%E8%A1%93%E3%81%A8%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%94%BF%E6%B2%BB-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8-%E5%8A%9B/dp/4480058524

 さて、

  「現代日本の原子力政策はより適切には「国策民営」体制(原子力委員会の藤家洋一委員長代理の言葉)として規定されえます。国家が政策の基本的枠組みを決め、実際に政策を遂行するのは、民間の巨大な電力産業各社および今回事故を起こしたJCOなどの原子力関連資本なのです。このことをとらえることなくして、現行政策策定の「無責任さ」の根源を理解することはできません。現代日本「原子力帝国」は、「国策民営」路線として実行されているのです。」(佐々木力 2000: 127-128頁)。

と、国策民営体制と捉えている。

 JCO事故を受けて、

  「核燃料サイクル開発機構の都甲泰正理事長は、十一月十五日に開かれた原子力長期計画策定会議の席上、「新エネルギーも含めてエネルギー政策全般を見直して、原子力なしで何とかなるのかという議論を深めてもらいたい」と発言し、出席者を驚かせたといいます(朝日新聞、十二月二日朝刊)。〔略〕そして、通産省の諮問機関である総合エネルギー調査会の茅陽一会長も「これからは原子力がない場合の絵も描いて、選択肢を示す必要はあると思う」と述べています(同前)。」(佐々木力 2000: 127-128頁)。

と、一時は(一部で?)見直し論が出たようである。

 第三章の第3節は、原発推進の問題点が明瞭に書かれており、また示唆的である。その前では、1999年9月30日に起きた東海村JCO事故に関連して、佐々木氏は「私はかねてより原子力推進論者の言い分が「原子力神話」と呼ぶべき虚構にすぎないことを明言しておりました」と述べている。
 
 佐々木力(2000)『科学技術と現代政治』の第三章は、「脱原子力への道と現代日本政治の技術政策」(113~170頁)である。その第3節(128~147頁)は、
  1 支配権力の政策の論理構成と方向
  2 脱原子力運動の岐路
となっている。
 
 佐々木力氏は『科学技術と現代政治』の130頁以降で、「現代日本の行政権力が原子力推進路線を走り続ける理由」を、「簡明に整理して点検して」いる。
  1. 近い将来の経済成長にとってエネルギーの右肩上がりの増大が必要であり、そのためには、原子力発電の継続のみならず、原発の増設も必須だと考えられていること。(130頁)
  2. 原子力は地球温暖化を抑止する「クリーン」なエネルギーだということ。(131頁)
  3. 放射線の人への悪影響はごく軽微であり、リスクは無視できるほどだということ。(132頁)

  「 第三に、原子力推進論者は、原子力の必要性を訴える際に、放射線の人への悪影響がごく軽微であり、リスクは無視できるほどだ、と主張いたします。たとえば、自動車事故や飛行機事故のことは無視し、原子力に伴う事故のことで大騒ぎをするのはおかしいではないか、というような議論を大まじめにいたします。統計上の数値を持ち出して〝科学性〟を装ったりもします。これは科学史上「統計の嘘」と言われる虚偽論法の一種ですが、素人はついだまされてしまいかねません。換言すれば、統計はさまざまなコンテクストを前提にして初めて十全な意味をもつからです〔なお、チェルノブイリ事故から十四年経過し、ロシア当局は、事故処理にあたった作業員のうち、五万五千人以上が死亡し、その多数が将来を悲観しての自殺であったという驚くべき事実を発表した。朝日新聞、二〇〇〇年四月二十一・二十七日朝刊〕。また、炭酸ガスを放置し、自然放射線を浴びて、原子力に伴う放射線についてだけうるさく言うのは問題だ、といった異論を立てたりもいたします。」(佐々木力 2000: 132頁)。

 また、

  「ゴフマンは、プルトニウムの発見者シーボーグらとマンハッタン計画にかかわった経験をもつ物理化学者でした。戦後は医学研究に転身しますが、放射線の影響に関しては、明確に〝ある〟という見解を打ち出していたポーリングらよりは楽天的にとらえておりました。それで、原子力推進論の当局者たちは彼におおいに期待していたのですが、ゴフマンが懸命の研究の末、出した結論は、低線量の放射線の影響は過小評価されすぎており、実際には従来の定説より二十倍ほど大きい、というものでした。この結論に対して、原子力推進機関は、ゴフマンヘの批判を執拗にやったり、研究予算を削減したりの報復行為に出ます。ゴフマンは、こうして自分の研究所の辞職を余儀なくされます。ゴフマン日く、「政府は真理を求めない。〔……〕誠実さは彼らの欲するところではない」。(佐々木力 2000: 134頁)。

 
[S]
佐々木力.2000.6.科学技術と現代政治.233+v pp.筑摩書房.[B001130, y660]


実験と虚験、モデルと計算

2011年08月17日 11時00分52秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月17日-2
実験と虚験、モデルと計算

 コンピュータ・シミュレーションを、「模擬実験」と呼ぶ人がいるが、「思考実験 thought experiment」と同様に、実験ではなく、(あえて名付ければ)虚験である。つまり、数値計算自体は当然ながら、現実と照合しているわけではない。(数値計算する際の問題はさておき、)その計算の元となる模倣モデル simulation model のたとえば予測上の信頼性は、そのモデルがどのような種類と程度で確証されているか、つまり現実と照合されているか、に関わる。

 下記は、池田清彦(1996.5)の「実証実験が不可能な科学的安全性とは何か」という節(あるいは章?)からの引用である。

  「巨大科学技術における安全性もまた、実は厳密には実験により実証されているわけではない。それはあくまでもシミュレーションにすぎない。たとえば、原子力発電所の安全性を実験により確かめるためには、実際に事故を起こさせて放射能がもれるかどうか確かめてみればよい。しかし、もし現実に放射能がもれてしまえは大事故になるから、そんなことは恐ろしくてできない。そこで水素を燃やすなどのシミュレーション実験を行〔な〕ったり、コンピュータで事故確率の計算を行〔な〕ったりして、科学的に安全だと言っているわけである。
 耐震性もまた、実際の地震を起こして確かめているわけではない。震動実験を行〔な〕ったとしても、それは安全性を実証しているわけでなく、安全に関する理論により安全性を予測しているにすぎない。最大の問題は、安全性に関する理論は未来に起こる地震の規模や手抜き工事の確率を予測できないところにある。だから事故が起きたとき、理論は多くの場合、事故は理論的予測の将外の問題であるとして、反証を免れようとする。しかし、よく考えてみれば、実際に事故が起きたときに反証を免れる安全性理論とは何か。それは「大地震が起きなければ安全です」と言っているに等しい。
 科学的安全性とは、実は安全を保障するものではなく、巨大土建事業にゴーサインを出すための装置のひとつにすぎないことを阪神大震災は見事に暴いてみせた。それでもニッポンは、科学的に安全な高速道路や新幹線や原発をこの先もずっと作り続けるつもりなのか。」(池田清彦 1996『科学教の迷信』: 96-97頁)。[この文章の初出は、『図書新聞』1995年4月8日号だと、217頁の「初出一覧」にある。]

 
[I]
池田清彦.1996.5.科学教の迷信.220pp.洋泉社.[B960609, Rh960611, y1900]


田中角栄(1972)『日本列島改造論』で原発推進に言及?

2011年08月17日 10時35分07秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月17日-1
田中角栄(1972)『日本列島改造論』で原発推進に言及?

 一週間程前、田中角栄(1972)『日本列島改造論』に原発推進のことが書いてあるかな、と思ってちょっと探したが、書いてないと思った。

 朝日新聞2011年8月17日3面の「原発国家 田中角栄編 下 自立奪った電源三法」という記事では、この『日本列島改造論』(確か、ゴーストライター〔代作者〕は誰だかがいたという話があった)で、「原発推進にも言及している」として、下記を引用している。

  「地元は潤すものが少なくて、公害だけが残るというのが言い分だ。地域社会の福祉に貢献するような発電所づくりを考えないといけない」

 しかし、ここでの「発電所づくり」は原発だけを指していると解釈できるのだろうか? この文章は何頁目にあるのだろうか? 

 なお、『時局シリーズ 第六集 あすの暮らしを守る?? 原子力発電:その魅力と安全性』という42頁の冊子が、ある。奥付けは昭和56年〔1981年〕7月31日発行(100円)となっている。
 その最後の「むすび」では、

  「すでに原子力発電は技術的に確立し、少量のウランで大量のエネルギーを出し、発電コストも石油火力の半分という利点があります。自動車事故では年間一万人の人が死んでいますが、原子力の事故で死んだ人は過去に一人もいないのです。しかし、より安全性の向上に努めることで、原子力発電の発展を期したいと思います。」(自由民主党広報委員会出版局.1981.7『原子力発電 その魅力と安全性』:41-42頁)。

 「チェルノブイリでは多数の死者が出たが、福島原発事故では死者はゼロです」とか、言った人が一人以上いたと記憶する。
 
[J]
自由民主党広報委員会出版局(編).1981.7.時局シリーズ 第6集 あすの暮らしを守る?:原子力発電 その魅力と安全性.42pp.自由民主党広報委員会出版局発行.[y100][表紙、中表紙、そして奥付で記載されている表題が少しずつ異なる。[(どこで?)1981.11.12入手。]


[T]
田中角栄.1972.日本列島改造論.vi+219pp.日刊工業新聞社.[y500]


炭素排出権取引

2011年08月15日 13時49分37秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月15日-3
炭素排出権取引

  「市場原理主義者は、市場は環境保護問題を処理〔take care of〕できるという神話を流布してきた。あなた、『炭素排出権 carbon credits』を買えば、汚染するのは自由ですよ、というわけだ。なぜ、環境的犯罪についてのこの考えを、日常的犯罪へと一般化しないのか? 『血液排出権 blood credits』を発行することによって、血液排出権を買うことができる限りと同量に多くの殺人を犯すことが、購買者はできるようになるではないか? しかしながら、すでにこの考えは市場化されてしまった。すなわち、どのマフィアも、このような契約にならどれでも、手頃な料金で署名するだろう。」(Bunge, Mario. 2008, "Political Philosophy", p.284)[20110815試訳]。

 (ただし、この文章の前後に見られる、Bunge氏の京都議定書と国連の気候変化〔変動〕に関する政府間パネル(IPCC)についての評価は、うぶ(naive)すぎると思う。)

 
 炭素排出権取引は、実質的に二酸化炭素などの温室効果ガスの排出量を減少させるとは思えない。商売人には金儲けの機会であるが、詐欺になるだけだろう。
 (ところで、もし二酸化炭素濃度の上昇が問題であるのなら、たとえば縄文杉を燃やせば、それだけの分、濃度が増えることになる。二酸化炭素濃度の分布はすぐにほとんど一様になるらしいが、少しの濃度の地理的差異がそれなりの効果を気象に対して及ぼすのでなければ、たいして問題は無いだろう。少なくとも、毎年1兆円規模と言われる予算を他の緊急の問題、たとえば放射能消滅方法の研究とその科学技術の開発に回すべきだろう。)

 さて、武田邦彦氏の「温暖化で日本がふたたび孤児にならないように」
http://takedanet.com/2011/01/post_5a9d.html
の一部を引用しておきたい。

===
  「地球温暖化で言えば、京都議定書で「実質CO2削減」をしているのは日本だけで、それが日本ではまったく報道されなかったことや、なぜ、地球温暖化や生物多様性の環境問題の提案をしたアメリカが、今では両方にほとんど参加しなくなったか、などの報道は一切、行〔な〕われていない。

でも、新聞を批判していても仕方がないので、ここ1年の温暖化に関する世界の動きを紹介しておきたい

・・・・・・・・・

1) 2009年11月 温暖化防止の急先鋒だったオーストラリア議会が温暖化防止法案を「否決」

2) 2009年12月 フランス議会が温暖化防止法案を「否決」

3) 2009年6月 アメリカ下院が温暖化防止法案を可決したが、その後上院で審議もできず(アメリカでは上院が国家的な方針を決める)。下院も地球温暖化特設委員会を解散

4) 2010年11月 カナダ、地球温暖化法案を上院が「否決」。

5) 2010年  アメリカ唯一の炭素取引所として2004年から営業を開始していたシカゴ気候取引所が閉鎖を決定(炭素トンあたり5セントに下がり、1年近く取引ゼロに陥った)

6) 2010年12月にメキシコでおこなれた地球温暖化の国際会議には、アメリカから閣僚級も出席しなかった(1年前のCOP15ではオバマ大統領、クリントン国務長官が出席)

7) 2009年11月に起こった「温暖化データねつ造暴露事件」でIPCCの報告書などが報告していた元資料の内、5400件がずさんな引用だったことが判明した。

・・・・・・・・・

少し前まで毎日のように報道していた地球温暖化のことだから、報道に誤りがあれば直ちに修正していくのが新聞の読者や視聴者の方を向いている事になる。

しかし2010年5月に行われた日本学術会議のシンポジウムでの大新聞記者の発言のように「いまさら訂正できない」という雰囲気だ。

新聞が事実を報道できないのは確かだから、それを批判しても仕方がない。それは日本人がまだ新聞という報道方法を持つだけの「職業人の誇り」をもてない。

でも、IPCCのデータに大きな誤りがあり(多くは故意)、これまでの味方を修正しなければならないことを事実を知りたい人は知っておく必要があるだろう」
http://takedanet.com/2011/01/post_5a9d.html

===
 
 ところで、核分裂型原子力発電という放射性物質を放出するような事故については、『リスク』論や費用便益分析といった考え方、あるいは少なくともこれらの考え方だけでは、問題があると思う。