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《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

(宮城県産稲藁→)新潟県での牛糞堆肥の放射性物質の検査結果

2011年08月15日 00時48分28秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月15日-1
(宮城県産稲藁→)新潟県での牛糞堆肥の放射性物質の検査結果

 朝日新聞2011年8月14日34面に、「牛ふん堆肥 基準超セシウム 新潟県でも検出」という記事がある。
 農場9か所から国の基準値400ベクレルを超えるセシウムを検出した、とあるが、3,760ベクレル/kgという最高値以外の値は記載されていない。
 そこで、検索すると、新潟県庁による検査結果が見つかった。

 検査結果を整形して引用する。
 放射性ヨウ素はいずれからも検出されていない。
 放射性セシウムでは、最高値の上位の3市では、
  胎内市  3,760~1,280 Bq/kg
  長岡市  1,230~42 Bq/kg
  新発田市 1,100~260 Bq/kg

 調査された宮城県産の汚染稲わらを給与した農場18か所とは、これで全数ということだろうか。
 農場1か所につき一つの値のようだが、牛ふん堆肥の標本(サンプル)は、どういう取り方をしたのだろうか。


===http://www.pref.niigata.lg.jp/chikusan/1313100126117.html

  「県内産牛ふん堆肥の放射性物質の検査結果について
    2011年08月13日
 県内の肉牛農家で、宮城県産の汚染稲わらを給与した農場18か所及びその農場から搬出した牛ふんを使用していた堆肥製造所8か所の牛ふん堆肥について、新潟県が放射性物質を検査したところ、結果は別紙のとおりです。
 県では、暫定許容値を超えた農場9か所に対して、引き続き、糞尿・堆肥の移動の自粛を要請しました。


検   査   結   果 (単位:ベクレル/kg)
   No. 所在地        検査結果
               放射性セシウム  放射性ヨウ素
農場
   1 関川村  8月12日  1,100 ※    検出されず
   2 村上市  8月12日   240      検出されず
   3 胎内市  8月12日  3,760 ※    検出されず
   4 胎内市  8月12日  1,280 ※    検出されず
   5 新発田市 8月12日  1,100 ※    検出されず
   6 新発田市 8月12日   730 ※    検出されず
   7 新発田市 8月12日   260      検出されず
   8 阿賀野市 8月12日   200      検出されず
   9 新潟市  8月12日  検出されず    検出されず
   10 三条市  8月12日   410 ※    検出されず
   11 長岡市  8月11日   42      検出されず
   12 長岡市  8月11日   500 ※    検出されず
   13 長岡市  8月11日   360      検出されず
   14 長岡市  8月11日  1,230 ※    検出されず
   15 小千谷市 8月11日   340      検出されず
   16 小千谷市 8月11日   900 ※    検出されず
   17 小千谷市 8月11日   35      検出されず
   18 佐渡市  8月11日  検出されず    検出されず
堆肥製造所
   1 村上市 8月12日   検出されず    検出されず
   2 胎内市 8月12日    330      検出されず
   3 新発田市 8月12日   10      検出されず
   4 新発田市 8月12日  検出されず    検出されず
   5 阿賀野市 8月12日  検出されず    検出されず
   6 長岡市 8月11日    300      検出されず
   7 小千谷市 8月11日   58      検出されず
   8 津南町 8月11日    96      検出されず

※ 農林水産省が示した下記の暫定許容値を超えたもの
農林水産省が示した肥料等の暫定許容値
    放射性セシウム 400ベクレル/kg 〔略〕」
http://www.pref.niigata.lg.jp/chikusan/1313100126117.html

===


高田松原の松の薪から放射性セシウム

2011年08月14日 00時15分43秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月14日-1
高田松原の松の薪から放射性セシウム

  「京都で拒否された被災松、夜空焦がす 陸前高田で迎え火
  (朝日新聞) 2011年08月08日 22時09分

 東日本大震災の津波になぎ倒された岩手県陸前高田市の景勝地「高田松原」の松でつくった薪をたく、お盆の迎え火が8日、同市矢作町であり、夜空を焦がした。被災者らの願いを記した薪は京都の伝統行事「五山送り火」の大文字で燃やされるはずだったが、放射能汚染を不安視する根拠のない声に押されて中止になった」
http://news.goo.ne.jp/topstories/nation/729/068f568fb8bc6767eb42f6874eef8960.html

 「放射能汚染を不安視する根拠のない声」とある。しかし、この薪が放射能汚染されていない、という根拠はあるのだろうか? 下記の簡易検査にもとづいていたのかもしれない。

 
  「薪を提供した福井県坂井市のNPO法人「ふくい災害ボランティアネット」の東角操代表(53)は、「復興の力になればと始めた活動が、思いもよらぬ事態になって……」と、頭を抱えた。

 薪の売り上げを復興支援に充てる計画で、5月に陸前高田市で松を回収。6月から1袋(約20本入り)1000円で販売していた。薪は1本ずつ簡易検査したが、放射能は検出されなかったという。」
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110813-OYO1T00211.htm?from=hochi


 この簡易検査とはどういうものだったのか? 

  「薪の検査結果は12日午後2時頃、依頼していた京都市内の検査会社の担当者から京都市に伝えられた。市長室で聞いた門川大作市長は、想定外の結果に「えっ」と絶句。薪の使用中止をその場で決断したという。」
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110813-OYO1T00211.htm?from=hochi


  「今回、薪の表皮から検出された放射性セシウムの数値は、コメや肉などの暫定規制値(1キロ・グラムあたり500ベクレル)の約2倍だが、専門家は、送り火への使用に関して、安全面では全く問題がないと指摘する。安斎育郎・立命館大名誉教授(放射線防護学)は「食品などの規制値は、食べ続けた場合に体内に蓄積する放射性物質の影響を想定している。木に触ったり、燃やして拡散した灰を吸い込んだりしたとしても、影響は計算する気にもならないほど低いレベル。京都市は、風評被害を広めないよう、健康に問題ないレベルであることを正しく情報発信すべきだ」とする。」
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110813-OYO1T00211.htm?from=hochi

 
 どんなに微量であれ、放射性セシウムを故意にまき散らすことはやめよう。「燃やして拡散した灰を吸い込んだりしたとしても、影響は計算する気にもならないほど低いレベル」という根拠はなんだろうか? どういう意味で「風評被害」だと言うのか? ごく微量だから、というのだろうか? その薪を触ったり、山の燃やし場の近くで見守る人が、放射性セシウムを吸い込む可能性はあるのではないか?
 
 
  「岩手県花巻市で育った京都市在住の宗教学者、山折哲雄さん(80)の話「昨日、花巻に行ってきたが、現地の人は京都の態度に非常に怒っていた。今回、薪の使用を中止したことで、風評被害を鎮める絶好のチャンスを逃した。京都の歴史に残る汚点で、非常に情けない。お盆に送り火を行うという意味を、もう一度考え直すべきだ」(2011年8月13日 読売新聞)」
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110813-OYO1T00211.htm?from=hochi

 これも、どういう意味で「風評被害」だと言うのか? 京都市長は市民の健康を優先したのであって、正しい選択である。善意は、四方八方に迷惑をかけることがある。
 しかし、元は原発事故を東京電力が防げなかったことである。放射性廃棄物を人の生活環境に排出し、国民どうしを対立させるようにした責任は東京電力にある。

 どれくらいの放射性セシウムが検出されたのか?

  「京都の「五山送り火」で、東日本大震災の津波になぎ倒された岩手県陸前高田市の松でできた薪(まき)を燃やす計画について、京都市は12日、中止すると発表した。市が取り寄せた薪500本の放射能検査をした結果、放射性セシウムが検出されたとし、「計画は、放射性物質が含まれていないことを前提にしていた。断念せざるを得ない」と説明した。〔略〕

   薪は、市の要請で協力した福井県のボランティア団体などが500本を集め、11日に京都市役所に運んだ後、市が民間の検査機関に依頼。検査は、すべての薪の表皮と内側を一部削り取り、それぞれ一塊にして調べた。その結果、表皮のみ1キログラムあたり1130ベクレルの放射性セシウムが検出されたという。」
http://www.asahi.com/national/update/0812/OSK201108120098.html

  500本の薪の表皮から  1,130 Bq/kg の放射性セシウムを検出
  (京都市役所が依頼した民間の検査機関による。2011年8月11日か12日に検査したと推定される。発表は8月12日)

 
  「 当初、大文字保存会が単独で送り火で燃やす計画だったが、放射能汚染を懸念する声が京都市などに寄せられ、断念。すると、「風評被害を助長する」などの批判が市に殺到し、門川大作市長が別のまき約500本を取り寄せて燃やすことを五山すべての保存会に要請し、いずれも了承していた。
 〔略〕
 国際放射線防護委員会の主委員会委員、丹羽太貫・京都大名誉教授(放射線生物学)は「仮に表皮を1キロ食べ、全て体に吸収されたとしても取るに足らない線量」と指摘した上で、「意味のないクリーンさを求めた今回の判断は被災地の方々の気持ちを踏みにじるものだ」と指摘する。

 また、安斎育郎・立命館大名誉教授(放射線防護学)は「五山の送り火は伝統的神事という性格を持つ。放射能がけがれのようにとらえられたのではないか。今回の件は科学の問題ではなく、文化の問題となっている。解決も文化的に行うべきで、犠牲者への追悼のセレモニーをやった方がいい」と提案する。」(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110812k0000e040090000c.html

 この放射能は、自然界にもとからあったものではない。
 朝日新聞[北海道版]2011年8月13日1面に、

  「薪全体の濃度相当低いはず
 山崎秀夫・近畿大学教授(環境解析学)の話
 1キログラムあたり約1千ベクレルという値は一見大きく見えるが、表皮だけを集めて測っているため、薪全体の濃度はこれよりかなり低いはずだ。もし500本の薪全体がこの濃度だとしても、燃やして二次汚染が問題になる量ではない。」(朝日新聞2011年8月13日1面)。

 朝日新聞2011年8月13日の35面には、二人の言が掲載されている。一人は内海博司京都大学名誉教授(放射線生物学)で、

  「検出された放射性物質の量なら健康には影響しない。〔京都〕市は「送り火の意味を踏まえ、検出されたが実行する」と言って欲しかった。市は京都の名誉をおとしめるとともに、被災地の風評被害を助長させた」(朝日新聞2011年8月13日35面)。

と言っている。放射線生物学分野の人の言は、概して要注意なのかもしれない。
 「出た以上 中止妥当」と言うもう一人の人の言は、下記の通り。


 「神戸大大学院の山内知也教授(放射線計測学)の話
 福島第一原発から離れた場所の薪からこれだけの濃度の放射性物質が出たのに驚いた。検出前には「薪の使用とりやめは過剰反応」とも考えていたが、放射性物質が出た以上、汚染拡大を防ぐための使用中止は妥当だ。薪の燃焼後の濃縮濃度がわからないため、健康への影響は不明だが、この問題を、被災地のがれきを処理する際に放射性物質の有無を調べるきっかけにして欲しい。」(朝日新聞2011年8月13日35面)。

 この山内知也氏の言うことが、妥当だと思う。
 
 今後の検討のために下記を引用しておこう。
 
 「チェルノブイリやスリーマイルではガンは増えていない、という御用学者や害説委員のデマに反論する。彼らがあげるデータはこれ http://bit.ly/feZnID
なるほどチェルノブイリの86年から94年までは白血病増えていない。 http://twitpic.com/4dxqp5

しかしいくら探しても94年以降のデータが見あたらない。放射線の影響を見るのに8年目までしかデータがないのはオカシイ。
そしてこの記事。「第13回(2006年度)読売国際協力賞 日本チェルノブイリ連帯基金」

読売新聞が表彰した活動にこう書いてある。「事故後、ベラルーシ国内では小児甲状腺がんが72倍に増えた。」「一方、原発事故と白血病の因果関係を科学的に証明するのは難しいが、事故後の調査で、2歳以下の乳幼児の白血病が異常に多くなったことがわかっている。」

読売だけでなくNHKも同じ2006年に「汚された大地で~チェルノブイリ 20年後の真実~」というNスペをやった。癌死と事故の因果関係を否定するIAEAレポートを批判していたのではないか。

スリーマイルもそうだ。原発事故大国アメリカは、公式にはスリーマイル事故での健康被害を否定している。しかしノースカロライナ大学のスティーブン・ウィング氏は、「事故から18年を経て原発の風下にいた住民の肺がんや白血病の羅患率は風上の住民より2-10倍高い」と。時事通信
 〔略〕

 今では「日本の規制は厳しすぎる」とコメントしている丹羽太貫氏(京大名誉教授・新薬開発会社社長)も、9年前はこんなことを発表していた。http://bit.ly/eJ6dmh
広島の被爆者が明らかに癌発症率高いこと。放射線が直接癌を作るだけでなく、間接原因にもなる と。
 〔略〕
 
水道水の基準値が3月17日に30倍緩くなった件。
「WHOのアクションレベル3000Bq/Lに比べれば、10倍も厳しい」という議論あり。しかし、これは「これを超えたら除染が必要」というSOSの値。WHO非常時の水道水100Bq/L(1年間限定)に比べても、3倍緩い

WHOレベル6(最高レベル)の3000Bq/Lは、その水を飲まないと死んでしまうのなら、飲まないより飲んだ方が良い ということ。自分たちの水道水を、そんなものと比較したいのか。

WHOやIAEAも原子力推進の立場だから鵜呑みには出来ないが、せめて非常時の100Bq/L(1年間限定)以下にすべき。それも首都圏も非常事態であると宣言した上で だ。説明もナシにWHO非常時の3倍に緩和 というのやはり非道い。」
http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-date-20110329.html


放射性セシウムの流通

2011年08月13日 17時42分03秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月13日-2
放射性セシウムの流通


 時事ドットコムによれば、

  「堆肥から規制値上回るセシウム=新潟

 新潟県は13日、長岡市など県内9カ所の農場で、牛ふん原料の堆肥から国の暫定規制値を上回る最大1キロ当たり3760ベクレルの放射性セシウムを検出したと発表した。高濃度のセシウムを含む疑いがある宮城県産稲わらが原因とみられる。県はこれらの農場に対し、ふん尿や堆肥を運び出さないよう要請した。(2011/08/13-16:54)」
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011081300221

 
 島根県からも検出されている。朝日新聞[北海道版]2011年8月13日34面によれば、

  「島根県は11日、宮城県産の稲わらを与えられた牛のふんや尿を原料とした堆肥(たいひ)の一部から、国の暫定基準値(1キロあたり400ベクレル)を超える放射性セシウムが検出されたと発表した。基準値を超えた堆肥は出荷されていないという。

 島根県は国の指示を受け、同県雲南市のJA雲南の6肥育センターと、同県奥出雲町農業公社などが運営する3堆肥センターを調査。頓原肥育センターで1082.7ベクレル、横田堆肥センターで556.8ベクレルを検出した。残り7カ所のうち5カ所は基準値を下回る152.2~346.7ベクレルで、2カ所は検出されなかった。県は基準値を下回った堆肥も含めて出荷しないよう求めている。」(asahi.com関西)
http://www.asahi.com/kansai/kouiki/OSK201108120055.html

 
 したがって、

  宮城県産稲わらに含まれた放射性セシウムを元として、

 →新潟県長岡市など県内9カ所の農場での牛糞原料の堆肥から
    3,760 Bq(ベクレル)/kg(キログラム)の放射性セシウムを検出
    (2011年8月13日、新潟県庁の発表)

 →島根県雲南市6肥育センターと出雲町の3肥育センターでの牛糞尿原料の堆肥から、
   頓原肥育センターで   1,082.7 Bq/kg
   横田堆肥センターで   556.8 Bq/kg
   5か所で         152.2-346.7 Bq/kgの放射性セシウムを検出
   2か所で         検出せず
    (2011年8月11日、島根県庁の発表)

となる。
 北海道新聞の記事
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/307155.html
にもとづくと、

   宮城県産の稲わら
  →浜中町肉牛牧場は6月上旬、宮城県涌谷町から稲わらを4.8トン購入し、うち1トンを使用した

   稲わらから、1,886 Bq/kgの放射性セシウムを検出
   (国の暫定基準値は牧草換算で300 Bq/kg)

  →稲わらを与えられて汚染の疑いがある牛53頭
  →4頭分の肉約330キロが浜中町のスーパーで販売された
   9頭が東京都の食肉処理場で処理された
   2頭が青森県の食肉処理場で処理された
    (2011年7月22日、北海道庁の発表)



北海道電力泊原発3号機の非安全性

2011年08月13日 17時03分43秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月13日-1
北海道電力泊原発3号機の非安全性


 北海道の泊村に立地している、北海道電力泊原発3号機は、営業運転再開へと手続きが進んでいる。

 「安全委 傍聴者から怒号も

北海道電力泊原発3号機の営業運転再開について、原子力安全委員会は〔2011年08月〕11日、経済産業省原子力安全・保安院が報告した「安全基準上の問題はない」との最終検査結果を事実上了承した。傍聴者から「丸投げではないのか」などと怒号が飛び、班目春樹委員長が議事を打ち切る一幕があった。〔略〕
2011年08月11日」
http://www.47news.jp/movie/general_politics_economy/post_4807/」
 
  「北海道電力の泊原発3号機は、営業運転への移行に向けて、「海江田万里経済産業相が10日夜、北海道の高橋はるみ知事に、地元の意向を考慮する考えを伝えていたことが11日分かった。これを受け、高橋知事は道議会や泊村などと意見調整し地元の見解を取りまとめ、国へ回答する方針。」
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20110811dde007040042000c.html

 
 さて、付近での活断層の存在が指摘されている。

  「  2011年08月07日
 ■「泊沖に活断層」改めて存在指摘
 ■渡辺・東洋大教授

 北海道電力泊原発(泊村)の沖合に長大な活断層があると指摘している東洋大の渡辺満久教授(変動地形学)が6日夜、札幌市内で講演した。泊周辺の海岸段丘などの地形写真を示して、「近くに海底活断層があることを示す地震性の隆起だ」と改めて指摘。この地域での活断層の存在を否定している北電に対し、「この特徴的地形を考慮しないのはなぜなのか」と疑問をなげかけた。

 渡辺教授はさらに、原発立地にあたっての「活断層評価のずさんさ」とともに、地震や津波の「予測研究の限界」も指摘。「原発災害という人災で、想定外という言葉が使われているのは責任逃れ。確率が低いからと想定しなかっただけで、最大規模のものが起きることを前提に安全審査をすべきだ」と主張した。〔略〕」
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000001108080011

 
 また、朝日新聞2010年5月13日[道内]29面に、「泊原発近くの「黒松内低地断層帯」 北海道電力見解より大規模」
という記事がある。

  「〔略〕調査した産総研の活断層・地震研究センターの杉山雄一主幹研究員は「マグニチュード(M)7・5級の地震がいつ起きてもおかしくない」と指摘する。〔略〕

  北電の泊原発の耐震安全性評価報告書については、経済産業省原子力安全・保安院と内閣府の原子力安全委員会が妥当性を審査中だが、同断層帯を耐震安全性を評価する際の「検討用地震」には加えていない。
 北電はすでにこの調査結果を把握しているが、「保安院や安全委の審査を踏まえて適切に対応したい」(広報部)とするだけで、泊原発の耐震安全性への影響や、同断層帯を検討用地震に加えるかどうかについて具体的な言及を避けた。

原発耐震評価 揺らぐ信頼性
 黒松内低地断層帯が太平洋の海底まで達する規模だったことが判明したことで、原発の耐震安全性評価の信頼性が揺らぎ始めた。
 活断層研究者らによると、この断層帯が太平洋に達しているのではないかとの指摘はかねてあったが、北電は「陸域内で途切れる」との見解を取り続けた。
 北電の見解への疑問が顕在化したのは原子力安全委での審査。09年7月に東大大学院の池田安隆准教授ら活断層の専門家が「太平洋の内浦湾の海底につながる可能性がある」とするなど、問題点が繰り返し指摘された。ただ、原子力安全・保安院は「すでに結論が出ている」と北電の見解を追認するだけだった。〔略〕」

 
 福島第一原発事故に関連した審査と同様に、泊原発についても、原子力安全委での審査がいかに杜撰であるかがわかる。
 武田邦彦氏は、泊原発の再開について、下記のように述べている。
 

  「北海道、泊原発の再開:科学的にはNO

北海道の泊原発の再開が問題になっています。でも、あまりに簡単なことですが、科学的には完全にNOです。

1) 震度6の地震で青森県東通原発から、石川県志賀原発まで、すべての原発が100%の確率で破壊された(破壊=地震が終わっても数ヶ月以上、立ち上がれない破壊)、

2) 特に、東通、福島第一、茨城第二は、全電源を失った。たまたま福島原発だけが爆発に至っただけで技術的には、同じ危険があった、

3) 泊原発に震度5以上の地震が来る可能性がある、

4) 東日本の原発の安全性をすべて間違った原子力安全委員会、経産省保安院に安全を審査する能力はない。

実にハッキリしています。再開は技術的にはとうてい無理です。しかも、未だに「救命ボート」も準備されていませんし、住民の避難訓練もされていません。」
http://takedanet.com/2011/08/post_1a18.html


市川定夫氏「自然放射線と人工放射線のちがい」など

2011年08月11日 12時12分33秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月11日-2
市川定夫氏「自然放射線と人工放射線のちがい」など

 目に見えないが、或る現象があり(たとえば乾板の模様 patternが変化した)、その変化の原因として何かが当たった、つまり何かが作用を及ぼしていることが原因であると推定され、その原因をあれこれ考えて実験などで確定する。通常は、それは機械、つまり物理的メカニズム(これも推定なのだが)を通して、確認 confirmされる。
 目に見えず、また、すでに知られている物理的力または作用以外による影響があるかもしれない。放射性物質の作用は目に見えない。既存の検出器(ガイガー、シンチレーション、半導体)では、検出出来ない生物体への作用があるかもしれない。
 一つは生物体自身に現われる影響を測ることである。(生物相といった、生物の種類(の変化)を指標とする場合は、生物指標 bioindicatorである。)
 大昔、ムラサキツユクサの突然変異によって、原発周辺に見られる影響を調べていたと記憶する市川定夫氏のその後の研究はどうなったのだろうか、と思って或る会合で聞いてみたが、知っている人はいなかった。
 
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-626.html
に、「市川定夫」というカテゴリーがあったので、下記を知った。
 
 [動画]自然放射線と人工放射線のちがい / 市川定夫氏
http://www.youtube.com/watch?v=IV4N63urYjQ

 
 【必見】「天然放射能と人工放射能の違い」を進化の過程を踏まえて教える、人気予備校講師レベルのわかりやすい講義……「放射能はいらない」【文字おこし3】
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65745462.html

 市川定夫氏の放射性セシウム体内濃縮の講義が、かゆいところに手が届きすぎる!……放射能はいらない【動画&文字おこし2】
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65745186.html

 輸入食品に含まれる放射能について解説……ドキュメンタリー「放射能はいらない」【動画&文字おこし1】
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65744745.html


児玉龍彦氏証言「放射線の健康への影響」

2011年08月11日 10時01分58秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月11日-1
児玉龍彦氏証言「放射線の健康への影響」

 『週刊朝日』2011年8月19日号132頁の「居並ぶ国会議員を硬直させた児玉龍彦東大教授の魂の叫び」という記事で知った。
 2011年7月27日の衆議院厚生労働委員会で、「放射線の健康への影響」について、児玉龍彦東京大学アイソトープセンター長が証言した。

 「放射線の健康への影響」児玉龍彦氏(内容完全書き出し)衆議院厚生労働委員会7/27
は、
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-626.html

 上記では、動画も見ることができる。

 注目した箇所を引用する(句読点を追加したり、漢字をひらかなに変更したりした)。

  「われわれが放射線障害をみる時には、総量をみます。
 それでは東京電力と政府は一体今回の福島原発の総量がどれくらいであるか、はっきりした報告は全くされておりません。
 そこで私どもはアイソトープセンターのいろいろな知識をもとに計算してみますと、まず、熱量からの計算では広島原爆の29.6個分に相当するものが漏出しております。ウラン換算では20個分の物が漏出していると換算されます。

 さらに恐るべきことには、これまでの知見で原爆による放射線の残存量と原発から放出された者の放射線の残存量は
一年に至って原爆が1000分の一程度に低下するのに対して、原発からの放射線汚染物は10分の一程度にしかならない。
 つまり、今回の福島原発の問題はチェルノブイリと同様、原爆数十個分に相当する量と、原爆汚染よりもずっと多量の残存物を放出したということが、まず考える前提になります。
 そうしますと、われわれシステム生物学というシステム論的にものを見るやり方でやっているんですが、現行の総量が少ない場合にはある人にかかる濃度だけを見ればいいのです。しかしながら、総量が非常に膨大にありますと、
これは粒子です。粒子の拡散は非線形という科学になりまして、われわれの流体力学の計算でも最も難しいことになりますが、核燃料というのは要するに砂粒みたいなものが合成樹脂みたいな物の中に埋め込まれています。これがメルトダウンして放出するとなると、細かい粒子が沢山放出されるようになります。
 そうしたものが出てまいりますと、どういうようなことが起こるかが、今回の稲藁の問題です。
 たとえば、
  岩手のふじわら町(藤沢町)では稲藁57000ベクレル/kg
  宮城県のおおさき17000ベクレル/kg
  南相馬市10万6千ベクレル/kg
  白河市97000ベクレル/kg
  岩手(茨城の高萩市?)64000ベクレル/kg
ということで、この数字というのは決して同心円上にはいかない。どこでどういうふうに落ちているかは、
その時の天候、それから、その物質がたとえば水を吸い上げたかどうか……」
[http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-626.htmlから、句読点や段落などの表記を改変]

 続いて、内部被曝の過程と影響のメカニズムが説明される。

  「内部被曝がどのように起きるかという問題を説明させていただきます。
 内部被曝というものの一番大きな問題は癌です。癌がなぜ起こるかというとDNAの切断を行ないます。ただし、ご存じのとおりDNAというのは二重らせんですから、二重らせんの時は非常に安定的です。
 これが、細胞分裂をする時には二重らせんが一本になって、2倍になり4本になります。この過程のところがものすごく危険です。
 そのために、妊婦の胎児、それから幼い子ども、成長期の増殖が盛んな細胞に対しては、放射線障害は非常な危険をもちます。
 さらに大人においても増殖が盛んな細胞、たとえば放射性物質を与えると、髪の毛、それから貧血、それから腸管上皮の、これらはいずれも増殖分裂が盛んな細胞でして、そういうところが、放射線障害のイロハになります。
 それで私どもが内部に与えた場合に具体的に起こるので知っている事例を上げます。

 これは実際には一つの遺伝子の変異では癌は起こりません。最初の放射線のヒットが起こった後にもう1個の別の要因で癌の変異が起こるということ。これはドライバーミューテーションとかパッセンジャーミューテーションとか細かいことになりますが、それは参考の文献を後ろに付けてありますので、それを後で、チェルノブイリの場合やセシウムの場合を挙げてありますのでそれを見ていただきますが、まず一番有名なのはα線です。
 プルトニウムを飲んでも大丈夫という東大教授がいるというのを聞いて、私はびっくりしましたが、α線はもっとも危険な物質であります。
 それは、トロトラスト肝障害というので私ども肝臓医はすごくよく知っております。ようするに内部被曝というのは、先ほどから一般的に何ミリシーベルトという形で言われていますが、そういうものは全く意味がありません。
 I131は甲状腺に集まります。
 トロトラストは肝臓に集まります。
 セシウムは尿管上皮、膀胱に集まります。
 これらの体内の集積点をみなければ、全身をいくらホールボディースキャンやっても全く意味がありません。

 トロトラストの場合の、このちょっと小さい数字なんで大きい方は後で見て欲しいんですが、これは実際に、トロトラストというのは造影剤でして、1890年からドイツで用いられ1930年ごろからは日本でも用いられましたが、その後20~30年経つと肝臓がんが25%から30%に起こるという事がわかってまいりました。
 最初のが出てくるまで20年というのは何故かというと、最初にこのトロトラスト、α線核種なんですが、α線は近隣の細胞を傷害します、その時に一番やられるのはP53という遺伝子です。われわれは今ゲノム科学というので、人の遺伝子、全部配列を知っていますが、一人の人間と別の人間は大体300万箇所違います。
 ですから人間同じとしてやるような処理は今日では全く意味がありません。
 いわゆるパーソナライズド・メディスンというやり方で、放射線の内部障害をみる時も、どの遺伝子がやられて、どういう風な変化が起こっているかという事をみるということが、原則的な考え方として大事です。
 トロトラストの場合は第一段階ではP53の遺伝子がやられて、それに次ぐ第二第三の変異が起こるのが20~30年後かかり、そこで肝臓がんや白血病が起こってくるということが証明されております。

 次にヨウ素131。
 これヨウ素はみなさんご存じのとおり甲状腺に集まりますが、甲状腺への集積は成長期の甲状腺形成期が最も特徴的であり、小児に起こります。
 しかしながら1991年に最初ウクライナの学者が「甲状腺がんが多発している」というときに、日本やアメリカの研究者はネイチャーに「これは因果関係が分からない」ということを投稿しております。何故そんなことを言ったかというと1986年以前のデータがないから、統計学的に有意だということを言えないということです。
 しかし、統計学的に有意だということがわかったのは、先ほども長瀧先生からお話しがありましたが20年後です。20年後に何がわかったかというと、86年から起こったピークが消えたために、これは過去のデータが無くても因果関係がある、ということがエビデンス〔evidence 証拠、根拠〕になった。
 ですから、疫学的証明というのは非常に難しくて、全部の事例が終わるまで大体証明できないです。

 ですから今 我々に求められている「子どもを守る」という観点からは全く違った方法が求められます。
 そこで今行なわれているのは、ここには国立のバイオアッセイ研究センターという化学物質の効果をみる福島昭治先生という方が、ずっとチェルノブイリの尿路系に集まる物を検討されていまして、福島先生たちがウクライナの医師と相談、集めて、500例以上の、前立腺肥大の時に手術をしますと、膀胱もとれてきます。
 これをみまして検索したところ、高濃度汚染地区、尿中に6ベクレル/?という微量ですが、その地域ではP53の変異が非常に増えていて、しかも、増殖性の前癌状態、われわれからみますとP38というMAPキナーゼと、NF-κB(エヌエフ・カッパー・ビー)というシグナルが活性化されているんですが、それによる増殖性の膀胱炎というのが必発でありまして、かなりの率に上皮内のがんができているという事が報告されております。
 それで、この量に愕然といたしましたのは、福島の母親の母乳から2~13ベクレル、7名で検出されているという事が既に報告されている事であります」
[http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-626.htmlから、句読点や段落などの表記を改変]

 
 統計学では平均値(たとえば被曝総量の指標と見ることができる)をまず問題にするが、各個人についての医学ならば、具体的に、内部被曝してたとえばα線やβ線を出す核種が、たとえば膀胱上皮にどれだけ集積しているのか、というように、身体のどこにどれだけの量でどのような悪影響を及ぼす物が <分布しているのか> を調べることになるだろう。

 児玉龍彦氏は、南相馬に毎週末除染に行ったとのことである。で、たとえば放射能汚染物は東京に持ち帰っているが、法律違反なのだそうである。
 
 最後は、

  「7万人の人が自宅を離れてさまよっている時に、国会は一体何をやっているのですか」

という訴えの言葉でしめくくられている。
 『週刊朝日』2011年8月19日号の記事でも訴えておられる。

  「どこの党が議員立法などで迅速に動くのか、国民は注視すべきです」(『週刊朝日』2011年8月19日号、132頁)。



コモナー『科学と人類の生存』から

2011年08月06日 23時19分36秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月6日-5
バリー・コモナー『科学と人類の生存』から


  「たとえばライナス・ポーリング
が、核爆発によって生じる放射性炭素が、あらゆる生物学的な現象に重大な関係をもっているこ
とを最初に指摘したさいに、彼は政府筋の専門家によって激しい攻撃をうけた。しかし、政府の
研究機関が、ポーリングの計算を詳細に検討した結果、まもなくこの論争はおさまった。という
のは、彼らが得た解答がポーリングの結果と実際上一致していたからであった。
 論争は科学にとって、別に新しいものでもない。対立する見解に断を下すのに利用しうるデー
タが十分でない場合、論争が起こるのはあたりまえである。その対策は、より多くのデータを手
に入れることである。放射性降下物に関する論争は、降下物の放射能の分布と、それがもたらす
影響に関するより多くの情報が必要であることをあきらかにした点で有益であった。以前には秘
密であった原子力委員会のリポートを一般の科学者が利用し得るようになってはじめて、降下物
についての資料の収集が極めて不完全であったことがあきらかになった。核実験地点近くでの試
料収集はかなりよく行なわれていたが、アメリカおよび世界の他の地域についてほ、きわめてば
らばらな測定しか行なわれていなかった。」(コモナー 1966: : 122-123頁)。

 データの公開と公平な態度は、議論の収束に役立つかもしれない。
 
 以下は、閾値とその基準が他の要因で変更されるということの関連である。

  「降下物に関する論争の一部は残っ
た。つまり、その議論は放射能の許容量の基準を決めるところに集中した。放射性降下物の議論
がはじめて起きたころ、放射能の基準として存在していたのは、工業用の放射能防御のためにき
められたものだけであった。大陸全体および全国民が被爆〔→被曝〕するような情況の場合に、その基準を
そのまま直ちに適応するわけにはいかない。この理由ならびに降下物にもとづく放射能のレベル
が産業でみられる場合よりもはるかに低いことから、どんな基準を適用するべきかについて意見

の一致がみられなかった。
 特に重要な欠陥は、放射能が生物にあたえる害作用について明確に説明する理論がないことで
あった。ある説では、このように極めて低いレベルの放射能の場合は、被爆〔→被曝〕によってうける永久
的な傷害作用から生体組織を保護すれば、もとのように回復するとしていた。このアプローチ
は、被爆〔→被曝〕量がある値を越すことによって、もしも何らかの生物学的な傷害が(結果的に)起こるな
           いきち
らば、それを基準とした"閾値"という概念を導入する。この場合、うけてもかまわないような
被爆〔→被曝〕量の基準は、単にそれを実験動物による実験や、事件によって被爆〔→被曝〕した人々についての観測
データから決定される"閾値"よりも低くおくことによって、かなりたやすくきめることができ
る。
 これに対して、放射線障害についてのもうひとつの概念??比例理論??では、"閾値"なる
ものは存在しないとし、いかに少量の放射線被爆〔→被曝〕量が増大しても、それから起こる生物学的な障
害の危険はその被爆〔→被曝〕量に比例して増大するとした。この場合には許容被爆〔→被曝〕量のスタンダードをき
める絶対的な方法は存在しない。つまり、どんな量の被爆〔→被曝〕も何らかの程度は有害であるとみなさ
ねばならない。
 いろいろな分野の科学者がこの論争の解決に決定的な役割をはたしてきた。主として放射性降
下物の問題に関連して、遺伝学者は低レベルの放射能によって起こる遺伝効果を明らかにするた
めの詳細な実験を行なった。放射線病理学者は、低い放射能レベルによって起こる組織障害につ

いて実験を行なった。その結果、放射能障害の比例理論が、放射能基準を考えるにあたっては、
もっとも合理的な指標となることが、今日ではおおむね一般の一致をみることとなった。アメリ
カの行政機関である、連邦放射能協議会によって採用された基準は、この結論にもとづいている
のである。
 もし放射能被爆〔→被曝〕量が、いかにわずかでも増大すれば、それに応じて、医学的に好ましくない危
険が増大し、放射能の"安全レベル"というものが考えられないとすると、どのようにして許容
し得る放射線量をきめたらよいであろうか。この判断のためには、あたえられる放射線量に関連
して生ずる危険性と、そのみかえりとして得られるであろう利益とのバランスが問題となる。連
邦放射能協議会は、一九六〇年に、この立場をはっきりと採用した。すなわち、
  「もしも……放射線防御に注意をはらうことなく、利益のみを考えて、ほしいままに放射能
  を利用したならば、その結果おこる生物学的な危険性はきわめて大きいものと考えねばなら
  ないであろう。この危険を零にするためには、実際上いかなる放射能の利用も行なえなくな
  り、それによって得られるいろいろな利益も失うことになる。したがって最大限の利用と、
  危険を零にすることの間の、何らかのバランス点をきめることが必要となる。放射能防御の
  基準をきめるにあたっては、危険性と利益とのバランスは、医学的、社会的、経済的、政治
  的、その他のファクターによって決定される。そのようにしてきめられたバランスは、厳密

  な数式のみにもとづいてつくられるものでなくて、世間一般がみとめる判断によって行なわ
れねばならない」。
 しかしながら、このようなスタンダードを実際に降下物の問題に適用する場合には、かなりの
混乱が起こっている。
 一九六二年にアメリカとソ連が行なった大気圏中の核実験の結果、ミルク中のヨウ素一三一含
量が、いくつかの州において、連邦放射能協議会によってきめられた防御活動を必要とするレベ
ルまで上昇したが、そのときに各地方の保健官庁はそれぞれが各自勝手な尺度を採用していた。
ユタ、ウィスコンシン、ミネソタでは州の保健部は農家に対して、ミルクが人間の口にはいらな
いうちにヨウ素一三一が安全な量まで崩壊する時間がたつように、新しいミルクをしばらく市場
に出さないように要求した。
 しかしこの処置はアメリカの保健厚生教育省長官(同時に彼は連邦放射能協議会の会長でもあ
る)によって反対された。彼は協議会の放射能被爆の基準は "平常の平和時の条件"のもとでの
み適用できるものであるとのべ、さらに、これらの条件は核実験の場合は成り立たないとした。
この解釈は、核実験は、協議会が行なったもとの計算にくみこまれていた "社会的、経済的、政
治的および他の因子" にふくまれていない別の因子をつくっていることを意味したものである。
この長官の言葉は、彼の見解によれば、国家にとっての核実験の価値は、ヨウ素一三一によって

うけるであろう危険性がたしかに増加することを単に意味するだけである。このことは、一見技
術的なことと思われる環境汚染の問題が、科学の領域をこえてひろがっていったことをはっきり
と示す例である。」(コモナー 1966: 125-129頁)。

 汚染水放出、平田オリザ氏、米要請、発言撤回、など。
 
[C]
コモナー,B.1966.(安部喜也・半谷高久訳,1971.10)科学と人類の生存:生態学者が警告する明日の世界.198pp.講談社.


チェルノブイリ事故についての司馬遼太郎氏の言

2011年08月06日 22時20分27秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月6日-4
チェルノブイリ事故についての司馬遼太郎氏の言


  「ソ連のチェルノブイリの原子炉が壊れまして「死の灰が各
地で降って大騒ぎになっておりますが、これは、「地球は一
つなんだな」という認識を世界じゅうに植えつけた点で、歴
史的な事件だと思います。ソ連の原子炉付近で被曝された方
にとってはお気の毒ですけれども、遠く離れた日本にまでジ
ェット気流に運ばれて、少しは灰が降ってきました。平凡な
ことですが、人間というのはショックが与えられなければ、
自分の思想が変わらないようにできているものです。〔略〕

               自分のところの技術がまず
かったわけではないとか、被害はたいしたことないんだとか、
〔略〕
                   あの事件に関する
限り、地球上で外国はソ連だけになってしまったのです。つ
まり、ソ連政府のこの事件についての対応方法が、非常に自国
中心、あるいは秘密主義で、自国の人民にもあまり教えてい
ない。そして外国の被害については謝ろうともしないし、実
情を非常にフランクに発表するということをしない。ご迷惑
をかけました、実はこういう事情です、こういう結果があっ
たのです、被害はこれだけです、皆さんにきっとご迷惑が及
んでいると思います、という態度をとって、ソ連は初めて外
国でなくなるのです.。
 隠している限りは、自分は地球でただ一つの外国であると
言い続けているのと同じなんです。これはソ連の悪口ではあ
りませんが、ただ一つソ連を残すほか??この事件に限って
いえば??、世界じゅうは一つだという認識が広まりつつあ
る。その点では不幸中の大きな幸いだったし、どうも地球と
いうものは将来その方向にいくのだろうという感じです。」
(司馬遼太郎 1986.9『世界』492号 31-32頁)。

 「外国である」という言があまり理解できないが、この伝でいけば、東京電力や原子力(安全・)不安院(たちあがれ日本の片山虎之助参院幹事長による
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201107/2011073100134
)や原子力安全委員会や日本政府は、日本国民にとって、外国ということになるだろう。結局外国とは、相手のこと(ここでは福島周辺の住民や日本国民)を親身に考えないという意味か。
 海洋の放射能汚染について、日本政府は謝ったのだろうか? 「近藤昭一環境副大臣は29日、放射能汚染水の海への放出を事前に伝えなかったことについて、「韓国国民に不安を抱かせた」と謝罪した」
http://atmc-tokyo.com/radiation/924/
とのことだが、これは「事前に伝えなかったことについて」謝罪したのであって、放射能汚染水の海への放出自体については、謝ったのではないということなのだろうか。

 「世界じゅうは一つだという認識」というのもあまり理解できないが、少なくともその中身あるいは立場が問題である。

[S]
司馬遼太郎.1986.9.樹木と人.世界 (492): 31-45頁.


コモナー『科学と人類の生存』

2011年08月06日 21時37分45秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月6日-3
コモナー『科学と人類の生存』

 バリー・コモナーの『科学と人類の生存』に、放射能汚染の話があった。

  「この〔1965年11月晩の〕大停電の一カ月後に、〔略〕ユタ州のソルトレークシティ
近くで、大停電とならんで現代の科学技術の業績を傷つけることになった手ぬかりの記念碑とも
いうべき出来ごとが起こった。
 ユタ州のワシントン郡で、九人の子供が甲状腺に異常な瘤ができたために入院した。この瘤が
果たして、甲状腺腫、良性またほ悪性のおできといった甲状腺炎の発病なのかどうかの検査を受
けるために入院したのである。この子供たちは十五年前に、近くのネヴァダ原子爆発実験場から
の降下物中に含まれた、放射性ヨードの放射能にさらされていた。この甲状腺の瘤の発生範囲
が、統計的に意味のあるものかどうか、またその場合でも、瘤の原因が果たして降下物によるも
のかどうか、判明するには多少の時間を必要とするだろう。

 しかし、その結果がどうであれ、衛生官庁がこれら子供たちの健康におよぼす降下物の影響に
ついて、注意せざるをえなくなっているという事実だけでも、重要なことである。
 子供たちが病院に運びこまれるに至った出来ごとの「連鎖」は、一九五〇年代にA・E・C(ア
メリカ原子力委員会)が長期におよぶ一連の核爆発を、ネヴァダ実験場で開始したときにはじま
った。そのときは「これらの核爆発は、実験場の外側に住んでいる住民の健康にたいして、短期
のあるいは長期にわたっていかなる害をも与えることはない」という確信のもとに始められたの
である。
 ところが、しばしば隣接地域に流れ出た降下物の雲の中には、ヨウ素一三一という放射性同位
体の粒子があった。そして、この雲がユタ州の牧場の上を通過するとき、落下したヨウ素一三一
は牧草にふりかかった。しかし、きわめて広い範囲にちらばったために、野外で行なった放射能
測定では、警戒すべき値を示すことはなかった。
 ところが、牧場の乳牛が、この牧草を食べ、その結果、キノコ雲の中でできてユタ州の牧場に
流れてきたヨウ素一三一は、乳牛の体内にはいり込み、ついで、ミルクを通じて子供たちの体の
中にはいり、甲状腺に集積して、いちじるしく高い濃度を示すようになったのである。そこに蓄
積されたヨウ素一三一は、二、三週間にわたって放射能を出した。放射能が甲状腺の細胞を通過
することによって、たとえきわめてわずかずつであっても変異を起こし、その効果が積み重なっ
て、数年たった後に発病するに至ったと考えられる。
 合衆国の北東部地域で起こったさきの大停電と同様に、この場合もーつの連鎖反応である。停
電の連鎖反応が数分しかかからなかったのに対して、ヨウ素一三一の反応は、何日も、ある意味
では何年もかかって起こった。しかし二つの場合とも、何が起こったのかについて、われわれが
理解できないうちに、ことが進行して、被害が発生してしまったのである。
 現代科学とそれがつくり出す巨大な産業は、人類の自然に対する理解の成果を意味している。
科学的な知識は、われわれが自然の力を制御しようとする場合、もっともすぐれた道しるべであ
る。そして、この点についてはすばらしい成功をおさめている。この成功こそ、われわれに電気
の驚異や、核爆弾のおそるべき力を与えているのである。
 一方、大停電とか、ユタ州での子供の甲状腺の問題は、科学の輝かしい成果に、一つの小さ
な、しかし深刻な影を投げかけている。われわれは、新しい電力システムや新型爆弾がもたらす
結果を、何もかも知るというわけにはいかないのであろうか? われわれは、科学が与えた巨大
な新しい力を、真の意味で支配しているのであろうか? それとも、科学はわれわれの手におえ
なくなってゆくのであろうか?」(コモナー『科学と人類の生存』: 15-17頁)。

 最後のところのあたり。現在では、「科学」という言葉で大括りの議論をしても実りはないだろう。様々な側面を分析し統合する必要がある。
 しかし、「「これらの核爆発は、実験場の外側に住んでいる住民の健康にたいして、短期のあるいは長期にわたっていかなる害をも与えることはない」という確信のもとに始められ」て、「きわめて広い範囲にちらばったために、野外で行なった放射能測定では、警戒すべき値を示すことはなかった」のに、被害が生じたことは、だいぶ前(1966年)からわかっていたということである。


[C]
コモナー,B.1966.(安部喜也・半谷高久訳,1971.10)科学と人類の生存:生態学者が警告する明日の世界.198pp.講談社.



美浜原発2号機事故日誌より

2011年08月06日 11時05分28秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月6日-2
美浜原発2号機事故日誌より

 『月刊ちいきとうそう』1991年4月号、通巻244号(ロシナンテ社)の特集は、「原発いらないくらしを求めて」である。
 その裏表紙からは、特別付録「美浜原発2号機事故日誌」となっていて、

  「2月11日 美浜原発2号機事故、海へ一年分の放射能。二次冷却水通じ七〇〇万ベクレル、細管破損も最大級。
 美浜原発2号機の事故で、関西電力は一〇日、二次系冷却水に含まれて海に出た放射能量は約七〇〇万ベクレル(推定)と発表した。美浜1、2号機の八九年度一年間の総排出量に当たる。〔略〕
 2月12日 美浜原発2号機事故、放射能漏れ確認後も運転。ECCS作動30分前、手順違反の疑いも。〔略〕
 2月13日 美浜原発2号機事故、金属栓破損の可能性。〔略〕加圧器逃がし弁作動せず。〔略〕米・スリーマイルアイランド原発事故でも加圧器逃がし弁が作動しなかったことが大事故につながっており、安全管理が十分だったか改めて論議を呼びそうだ。〔略〕
 2月14日 〔略〕原因調査を進めている関西電力は十三日、破損した細管一本を確認したと発表した。この細管は、これまでの定期検査では全く異常が認められなかった「健全管」。安全とみられていた細管が運転中に突然破損し、大量の一次冷却水漏れ、ECCSの作動という大事故を引き起こしたわけで、他の全国十六基の加圧水型軽水炉の安全性、定期点検のあり方にも大きな疑問を投げかけ眼ことになった。〔略〕
 2月16日 〔略〕「ギロチン破断」といわれる細管損傷〔略〕の〔略〕同様の事故は、米・ノースアナ原発1号機(八七年七月)があるだけ。通産省などは「日本ではありえない」としてきただけに、原子力行政の信頼性が揺らぐことになりそう。」(『月刊ちいきとうそう』1991年4月号、通巻244号、裏表紙とその裏頁)。

とある。
 その後の日誌記事では、色々の不具合が判明している。たとえば、
  「二系統ある加圧器逃がし弁2系統とも作動せず」
  「主蒸気隔離弁も故障」
  「原子炉内の温度沸騰寸前に」
とか、である。

 美浜原発2号機の廃止に向けた株主運動も行なわれていたようだ。

  「3月9日 関西の市民グループ「脱原発へ! 関電株主行動の会」は、六月の関西電力の株主総会に向け、議案を出すのに必要な三万株の株主を集めて、美浜原発2号機の廃止などを求める議案を提出する方針を、九日までに決めた。」(『月刊ちいきとうそう』1991年4月号、通巻244号、表表紙の裏頁)。

 美浜原発2号機は、今どうなっているのかと思って検索すると、産経新聞による下記の記事があった。


  「関電、美浜原発2号機の「40年超運転」を申請 地元は「国の新基準が条件」
2011.7.22 21:13
 〔略〕

 関西電力は22日、来年7月に運転開始から40年目を迎える美浜原子力発電所2号機(福井県美浜町、出力50万キロワット)の運転を延長するため、「高経年化技術評価」などの報告書を国に申請した。だが県は、高経年化を踏まえた安全審査基準や対策を国が示さない限り運転継続を認めないと表明。今後の焦点は、国が新たな審査基準を示すかどうかに移る。

 関電は報告書で美浜2号機の運転期間を60年と仮定。現在の保全作業に加え、一部の機器に追加策を講じることで、40年目以降も機器の健全性は確保できるとした。さらに東京電力の福島第1原発事故を含めた国内外のから、評価に反映すべき新たな事項が見つかった場合は、速やかに評価の見直しを行〔な〕う方針を明らかにした。」
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110722/biz11072221150029-n1.htm

とある。
 「40年目以降も機器の健全性は確保できると」という「健全性」とはどういう健全性なのか。

 『月刊ちいきとうそう』1991年4月号の44頁に、1990年11月6日付けの中国新聞からの記事の複製がある。長野県議会でのことである。

  「放射性廃棄物拒否条例の否決 傍聴の住民「納得できぬ」 今後も運動を続行
 高レベル放射性廃棄物の持ち込みを拒否する全国初の県条例は五日の臨時県会で、自民、民社県民連合が反対し否決された。」

とある。


エネルギーの定義、dark energy、エーテル、reality

2011年08月06日 10時08分48秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月6日-1
エネルギーの定義、dark energy、エーテル、reality

 
  「エネルギーを一言で定義するならば、他の物体に対して有効な作用を及ぼす能力である。」(高木 1992: 73頁)。

 語源となったギリシャ語の(原語の読みをカタカナ表記した)エネルゲイアは、「仕事をする能力」(高木 1992: 73頁)ということである。
 では、物体が無いところには、エネルギーは存在しないのか? また、物体の定義はなんだろうか? 

 さて、エネルギーの種々の形態として、

  位置エネルギー
  運動エネルギー
  熱エネルギー
  電気エネルギー
  磁気エネルギー
  化学エネルギー
  光子のエネルギー(→?光エネルギー)
  質量エネルギー(核エネルギー)

が、挙げられている(高木 1992: 74-87頁)。これで分類カテゴリーとして枚挙されているのだろうか。また、これらのカテゴリーは同水準にあるのだろうか。位置エネルギーと運動エネルギーとで、力学エネルギーと称するとのことである。

  「近代の物理学の歴史は、エネルギー概念の拡張の歴史といってもよい」(高木 1992: 76頁)。

 ウィキペディアによれば、

  「エネルギー(独 Energie)は、物理学を中心に、自然科学全般で取り扱われる物理量であり、ある系が潜在的に持っている、外部に対して行うことができる仕事量のことである。エネルギーという語はドイツ語のEnergieが日本語に持ち込まれたもので、その語源となったギリシア語の?νέργεια energeiaは「仕事」を意味する単語?ργον ergonに前置詞enをつけた?νεργός energosに由来する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC

 「前置詞en」の意味は、な~に?
 また、

  「ある系が他の系に対して仕事をした場合、仕事をした系のエネルギーが仕事をした分だけ減少する。一方、仕事をされた系はその分だけエネルギーを得て、仕事をされる前よりも行うことができる仕事量が増加する。また、熱や光といった形態で仕事を介さずに系から系へ直接エネルギーが移動することもある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC

と、物体ではなく、「系」という言葉を使っている。
 そして、エネルギーの分類は、

 「
 ・力学的エネルギー(機械的エネルギー)
  ・運動エネルギー
  ・位置エネルギー(ポテンシャル、ポテンシャルエネルギー)
   ・(重力による位置エネルギー)
   ・弾性エネルギー
 ・化学エネルギー
  ・イオン化エネルギー
 ・原子核エネルギー
 ・熱エネルギー
 ・光エネルギー
 ・電気エネルギー
 ・静止エネルギー
 ・音エネルギー
 ・ダークエネルギー
 ・情報エネルギー

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC

となっている。ここでは、運動エネルギーと位置エネルギーの上位に力学的エネルギーがあり、他と並立されている。高木(1992)の分類目録に無いのは、静止エネルギー、音エネルギー、ダークエネルギー、情報エネルギーの四つであり、質量エネルギーは原子核エネルギーとなっている。ダークエネルギーは、質量エネルギーになるのだろうか? 質量とはなんだろう?

 ウィキペディアによれば、

  「ダークエネルギーは一般相対論の宇宙定数 (Λ) で表される真空のエネルギーではないか、と考える人々も多く、実際、これはダークエネルギーに対する最も単純な説明である。宇宙定数は、時間や宇宙膨張によらず宇宙全体に存在する一様密度のダークエネルギーと解釈できるからである。これはアインシュタインによって導入された形式のダークエネルギーであり、我々の現在までの観測と矛盾しない。ダークエネルギーがこのような形をとるとすると、これはダークエネルギーが宇宙の持つ基本的な特徴であることを示すことになる。これとは別に、ダークエネルギーはある種の動力学的な場が粒子的に励起したものとして生まれるとする考え方もあり、クインテセンスと呼ばれている。クインテセンスは空間と時間に応じて変化する点で宇宙定数とは異なっている。クインテセンスは物質のように互いに集まって構造を作るといったことがないように、非常に軽くなければならない(大きなコンプトン波長を持つ)。今のところクインテセンスが存在する証拠は得られていないが、存在の否定もされていない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC#.E3.83.80.E3.83.BC.E3.82.AF.E3.82.A8.E3.83.8D.E3.83.AB.E3.82.AE.E3.83.BC.E3.81.AE.E6.AD.A3.E4.BD.93

とある。
 かつてエーテルという名称で媒体として仮定され、(オッカムの剃刀的に?)否定された(あるいは必要としないで理論的にやっていける?)ものと、このクインテセンスの関係はどうなのだろう? 
 
 科学基礎論学会2009年度講演会(於 大阪市立大学)
http://phsc.jp/conference.html
で、佐藤正典氏による「エーテル再考」という講演があったが、質疑応答で某先生は全否定的に批判していた。
 
 神智学やトランスヒマラヤ密教といった秘教での「エーテル物質」とは、どういう関係になるのか? 

 ウィキペディアの「エーテル体」によれば、

  「最外層の身体である物質体(肉体)を形作るものであることから、「形成体」、生命を維持するものであることから「生命体」とも呼ばれる。〔略〕
 ルドルフ・シュタイナーによればエーテル体は鉱物にはないが、植物と動物と人間にはあると言う。エーテル体がなければ体の形は崩壊するとされ、死によって、体からエーテル体が分離することによって、肉体の崩壊が始まるという。」

とある。
 シュタイナー説では、鉱物にはエーテル体は無いということらしいが、少なくとも鉱物結晶は形態を備えていると言えるから、そして、肉体的(あるいは物理的)形態を形成するのがエーテル物質であるならば、結晶にエーテル体は有るということになるのではないか? あるいは、鉱物を構成する物質は、エーテル体がなくても、鉱物の形態はいったん形成されれば、崩れないということなのか? つまり、形態維持にはエーテル体は不要なのか? では、結晶のエーテル体以外の物質体 physical body(固体・液体・気体状態の肉体)が成長するとき、エーテル物質の作用は必要としないのか?

  「いかなる形態についても、その「下に立つ substanding」エーテル質料 etheric substanceの型は、二つの要因に依存する。〔略〕
   基本的に、四つの〔自然〕王国は、プラーナ的生命をそれぞれ、エーテル質料の四つの水準のうちの或る一つまたは他の水準から引き寄せる〔取り出すdraw〕〔略〕。
   鉱物王国は、界1〔=第4エーテル。気体状態の一つ上の界(むしろ、亜界 subplane)〕から維持される。」(Bailey, A.A.『Telepathy and the Etheric Vehicle 遠隔感応とエーテル的媒体〔乗り物〕』: 153)。[20110806試訳]

 上記からすれば、鉱物はエーテル物質の最下位の(気体の方に近い)亜界からエネルギーをdrawすることによって維持されている is sutained。それは、鉱物がエーテル体を持つ、あるいは備えているということとは異なるのか? やはり、エーテル体を持つまたは備えているということではないか? 

  「奇妙にも、人間王国においては(そして人間王国にのみ)、現在、エーテル体は四つのすべての型のエーテル質料〔エーテル的物質 etheric substance〕から構成されている。」(Bailey, A.A.『Telepathy and the Etheric Vehicle 』: 153)。[20110806試訳]

 「人間王国は、界4〔第1エーテル亜界〕から維持されている」が、それは当初の状態で、

  「進化が進むにつれて、すべての王国の間に確立〔創立〕された、相互に作用する一つの発散〔放射〕 an inter-acting emanation があり、これ〔当初の状態〕は自動的に変化した。この「秘教的な発散する変化 esoteric emanation change」が、大昔に、動物-人間 animal-manを産み出したのである。」(Bailey, A.A. 1950『Telepathy and the Etheric Vehicle』: 153)。[20110806試訳]

 う~む、あちこちの用語がよくわからん。

 ところで、今では内容を覚えていない、池田清彦(1998)『科学とオカルト―際限なき「コントロール願望」のゆくえ』(PHP新書)を参照したいところだが、手元に無い。
 「BOOK」データベースによれば、この本について、

  「19世紀、錬金術などの秘術でしかなかった「オカルト」は「再現可能性」と「客観性」という二つの公共性を獲得して「科学」になった。」
http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%A8%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E2%80%95%E9%9A%9B%E9%99%90%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%80%8C%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%A1%98%E6%9C%9B%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%82%86%E3%81%8F%E3%81%88-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%B1%A0%E7%94%B0-%E6%B8%85%E5%BD%A6/dp/4569604439

とある。

 ところで、わたし<現在の>世界の状態を経験することができるのだろうか? 少なくとも、経験内容を言語化するとき、すでにそれは過去に関する(なにかが変形された transformed)記憶である。『経験(内容)』は、どこにいってしまったのか? <今>は、無いのか? 現実を経験する、あるいは観測するとはなんだろうか? 
 公理として、

  現実(または現実性) realityは、相対的である。

を設けることにしよう。ここから、たとえば、(<現実に>存在するとして)或る幽霊個体にとっては、他の幽霊個体がもっとも現実的な存在者であろう、ということになる。


[A]
Bailey, Alice A. 1950. Telepathy and the Etheric Vehicle. xi+219pp. Lucis Publishing Company.

ベイリー,アリス.(AABライブラリー(東以和美・土方三羊)訳 2010.6))テレパシーとエーテル体.254pp.AABライブラリー.[y1,800+税]

[T]
高木隆司.1992.1.物理学:新世紀を生きる人達のために.iv+200pp.海遊舎.


原子力発電

2011年08月05日 23時50分51秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月5日-1
原子力発電

  「フナムシが 生き生きと 原子力発電」

 30数年ほどの昔だったか、ラヂオから何回かこのような感じの俳句?を聞いて、この俳人はいったいなんじゃ?、と不愉快に思ったものである。電力会社の広告だったと思う。原子力発電所の近くでは、温排水のおかげでイキイキとしているのか? フナムシの生き生き度が、原子力発電所付近と離れたところでは異なることがどうやってわかるのか? この(著名な)俳人の直感なのか、あるいは注文に応じた創作なのか。

 核分裂型原子力発電は、放射性廃棄物の問題だけからでも、採用すべきものではない。私企業である東京電力は、放射性物質という有害物を大気中にまき散らし、海中にも故意に捨てて汚染するという公害を起こしたのである。

 さて、高木隆司(1992)『物理学:新世紀を生きる人達のために』という教科書に、「原子力発電の問題点」と題した一節がある。

  「原子力発電には,二つの大きな問題がある。一つは発電所の事故,もう一つは廃棄物の処理である。〔略〕
 発電所の設計時には,種々の事故を予想して,その対策をたててある(文
献5参照)。そのような,あまり深刻でない事故を設計基準事象とよぶ。一
方,この基準をこえる事故はシビアアクシデントとよばれる(まだ訳語がな
いようである)。ところで,シビアアクシデントは,過去に2回起きた。1
回はアメリカのスリーマイル島発電所の事故(1979年),もう1回はソビエ
トのチェルノブイリ発電所の事故(1986年)である。
 チェルノブイリ発電所事故以来,事故対策の基本的な考え方として,確率
論的安全基準を採用するようになった。これは,
 (1)人間の活動にはつねにリスクがともなう。
 (2)リスクの確率が公衆に受容される。
という二つの前提から出発している。ところで,リスクを評価するには,シ
ビアアクシデントのさいに,設備,燃料,核反応生成物がどのような挙動を
するかという問題を研究する必要がある。このような研究は,まだ発達して
いない。原子力技術は,まだ研究の初期段階といえるのである。
 一方,そもそも原子力は人間の能力で扱えるしろものではない,という指
摘をする研究者グループもある。
 原子力発電所の建設が推進される理由は,発電コストが低いことである。
ところで,発電コストという指標が,じつはあいまいなのである。実際,コ
ストの計算法は,アメリカと日本で次のように異なる。
 アメリカの統計の取り方は,過去1年間の実経費をもとにする。それによ
れば,1986年には,原子力発電のコストは3.77セント/kW,石炭火力発電
のコストは3.16セント/kWであり,石炭火力発電のほうが安かった。
 一方,日本の統計の取り方は,いま発電所を建設してとれる採算をもとに
する。この方法で,1988年の原子力発電のコストは9円/kW,石炭火力発
電のコストは10円/kWであり,原子力のほうが安く計算された。なお,石
油火力発電と石炭火力発電とは,ほぼ同じコストがかかる。
 ただし,上記の原子力発電のコスト計算には,廃棄物処理や取り壊しの費
用が入っていない。なぜなら,廃棄物処理や取り壊しの技術は,まだ確立さ
れていないので,コストの計算ができないのである。〔略〕
 本書は物理学の教科書であるということから,原子力発電の是非に対する
筆者の考えを述べることはさけたい。〔略〕
◆問3 原子力発電所が近所にできるとき,事故の確率がどの程度小さければ認
めてもよいと思うか。」(高木 1992: 152-153頁)。

 この問3での過酷事故の確率はゼロにしたい。事故が起きる可能性は、元から絶つのが一番心配が無く、ストレス原因となる可能性を絶てて、心の健康に良い。世代間倫理を持ち出すまでもない。

 
 核分裂による発電では、「同位元素の235Uに,中性子(記号nで表す)を当て」(高木 1992: 80頁)ると、
  「235U + n → 分裂核 + (235Uの1gあたり 8.36x10^10 J)」(高木 1992: 80頁)
となる。「そのさいの質量エネルギーの減少が、熱エネルギーに変換される」(高木 1992: 80頁)。

 核融合反応では、二重水素をDとし、三重水素をTとして、
  「D + D → 3He + n + (1 mol(4g)あたり3.16x10^11 J)
   T + D → 4He + n + (1 mol(5g)あたり17.0x10^11 J)」(高木 1992: 80頁)。

 
  「原子力発電の燃料である235Uは,
同じ質量の石油や石炭に比べて,桁違いに多くのエネルギーを出す。しか
し,そのエネルギーの内訳は,分裂した核がもつ熱エネルギーが84%,中
性子の熱エネルギーが2.5%,γ線のエネルギーが9%,β線(電子)のエネ
ルギーが3.5%,その他が1%である。すなわち,原子炉は,エネルギー源
であると同時に,γ線やβ線という放射線の源でもある。廃棄物処理の技
術は将来に先送りされ,事故の危険もあることが,しばしば議論の対象にな
っている。」(高木 1992: 87頁)。

 核廃棄物の問題を指摘している。

  「核融合は,〔略〕まだ成功していな
い。〔略〕原子核
は正の電荷をもっていて,互いに強く反発する。この反発力に逆らって多数
の原子核どうしを近づけるには,原子核にそれ以上の力を加えるか,あるい
は高いスピードを与えなければならない。これが難しくて,まだ成功してい
ないのである。しかし,核融合の生成物はクリーンであるし,燃料である重
水素は海水から生産されるので,地球上で遍在しないという大きなメリット
がある。これは,ぜひ実現させなければならない。」(高木 1992: 88頁)。

 上記での核融合は、熱核融合であろう。
 冷融合 cold fusion的な触媒技術で解決できるのではないか?
 そして(想像を逞しくすれば)生物体もまた、ナノメートルの大きさでの化学的制御をして元素転換をしているのかもしれない(この点について、どれほどの根拠または実験データがあるのか、検討せよ)。



[T]
高木隆司.1992.1.物理学:新世紀を生きる人達のために.iv+200pp.海遊舎.[B960419, y2060]


(核分裂型)原発をとめよう

2011年08月04日 23時52分15秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月4日-8
(核分裂型)原発をとめよう

 原発をとめよう。


 脱原発入門講座:
http://www.geocities.jp/tobosaku/kouza/index.html

 柏崎刈羽科学者の会 「福島原発震災」をどう見るか-私たちの見解 その3
http://blog.livedoor.jp/shumon1/archives/51267146.html#

 
 泊原発の廃炉をめざす会:
http://nonuke-h.greenwebs.net/tomarihairo/index.html

 脱原発北海道ネットワーク:
http://nonuke-h.greenwebs.net/index.html


Ernst Haeckelを批判するA.R. Wallace

2011年08月02日 01時09分39秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月2日-1
Ernst Haeckelを批判するA.R. Wallace

 A.R. Wallace(ウォーレス、ウォレス、ワラス)は、一元論者 monistのErnst Haeckelを批判している。
 この部分に関する限り、Wallaceの説得力は無い。
 単純な構造を持つ存在者(たとえば等質的な水晶)から複雑な構造を持つ存在者(異質的な生物体)までを、根拠を持って分類することはできない。
 複雑性または複雑度をどう定義できるのか?


#############################################

 生物によつて示される現象は、不可思議で変化窮りなく、生物の有する能力は、単に機械的、物理
的若しくは化学的法則の下にある諸物質のそれに比して遥に超越するが故に、生物学者は、これ等諸
現象の根底に伏在する原因「生命」を捕へて、これに科学的術語をもつて正確な定義を下さうとした
のであるが、その労は常に無効に終つたのであつた。チエムバース百科辞典に於いて、一学者はこれ
を要約して「連続、調律、自由」の三語に帰したのであるが、これは真に近いとはいへ、未だ以つて
説明し得たとは言へぬのである。ハーバート・スペンサーは、更にこれを解釈して、「並行的または
連続的に起る雑駁なる内的変化が相一致して、外界の境遇や結果に対して相順応すること」とした。
しかし、この定義は余りに術語的で且つ抽象的であるから、一般読者に対しては殆ど何等の意義をも
成さぬのである。
 次に記述する定義は、比較的完全なものと言へるのであるから、これは生物一般の重要な特徴を要
約したものであるとも言へるのである。
 ??生命とは、主として空気、水及びその中に溶解される諸物質を用ひて複雑なる構造を有する組

 
  織体を造り、且つこれに各々一定の形状と官能とを具備せしむるものである。そして、これ等の
  組織体は、間断なく老廃に陥ると共に、その内部に於ける液体や瓦斯体の循環によつて常に補修
  されるのである。彼等はまた己と同形のものを生殖して、幼年、壮年、老年の各状態を通過した
  後、斃死して再び元の原素に復帰するのであるが、既に己と同様な個体を連綿として続生遺留す
  るが故に、凡そ外界の境遇の許す限り、一種不死不滅の性を有するが如きものなのである。
 ここに列挙したところの特徴は、動植物以外の物質には決して見られぬものであつて、結晶体の如
きは、一定の形状を具ふる外は、少しも生物に似た点がないのである。即ち結晶体は、必ず常に或る
単純な原素若しくは化合物の周種の分子が集合してなるものであつて、一結晶体の各部は、相等しい
ものであるが、生物体はこれと異り、これを構成する各部は、皆な相異り、異種雑多の分子が相共同
して複雑な構造組織をなしてゐるのである。
 現今でも、一般人民間には、「石も生長す」とか、「総ての物質は皆な生く」とか、或ひは.「無機
物と下級有生物との間には区別すべき様なし」等の言を信じてゐるものがあるのであるが、これに対
しては、学術上何等の憑拠〔=根拠〕はないのである。しかし、「生命は単に化学作用や電気作用や各種の物理
作用によつて動かされた物質のー状態である」といふ意見は、恐らく現代大多数の科学者によって広

 
く信用されるところであつて、「一元論といふ名の下に唯一の科学的見解だとされてゐるが、これに
反して、生命は独立別種のものであつて、死物や無機物間に働くところの各種の法則を離れて、別に
一種の内住的指導カの存在を証するものである」といふ意見は、非科学的な旧式迷信の一に属すると
して排斥されてゐるのである。
 有名なドイツの生物学者エルンスト・へツケル氏は、その近者「宇宙の謎」に於いて、次のやうに
言つているのである。
「意識といふ特種の現象は、デユボア・レーモン氏や二元論者が唱導する如く、全く超越的の問題で
はなく、却つて私が三十三年前に論証した如く生理的の問題である。故に畢竟するにこれには物理学
と化学の現象中に帰着しなければならない」(マツケーブ氏訳六五頁)
「実在の二要素(物質やエーテル)は死物でもなければ、単に外力によつて動かされるものでもない。
却つて感覚と意志とを具有してゐるものである(勿論仮令、最低度のものに過ぎぬとしても)。そし
て、この二者は、共に凝集を好み、この傾向に赴き、圧屈を嫌つて、これを避けるのである。云々」
(同七八頁)
 この二句に於いて、我々は既にヘツケル氏の思想が自家撞着であることを見るのである。前句に於


いて、氏は意識を以つて単に物理と化学の現象に過ぎずとなし、後句に於いては、物質やエーテルは
共に感覚と意志とを具へると説いてゐる。そして、同書第六四頁に於いては、「物質の原子が具有す
る感覚や意志の初歩的心理状態は非意識的である」と説いた。
 かくの如く物質やエーテルは感覚や意志を有して、努力し反抗するの性ほ具へるものであるが、非
意識的であるといふ氏の立場は、殆ど我々の了解に苦しむところである。氏は更に進んで、左の如く
言つてゐる。
「私はゲーテと共に、物質は精神なくしては存在しまた働き得ず、精神も亦物質なにくしては存在し活
動し得ぬものであると主張する。私はスピノーザの純然明瞭な一元論を固く支持する。即ち物質や精
     エツセンス  サブスタンス
神は全宇宙の精華即ち宇宙的実在の二箇の基礎的固有性であつて、甲は無限に拡張した実在を表して
エネルギーとも称して感受し、また思考する実在を表すのである。云々」(同八頁)
 この点に於いて、我々はまた新しい自家撞着を発見する。即ち「思考する無限の実在は、非自覚的
である」といふことである。そして、氏は、この理を進めて、終に、「総ての意識自覚の起原である
セルソール
細胞の霊は、それ自身非意識的である」といふ論をたてて熱心にこれを反復している。
 極端に独断的で専断的なへツケル氏の言論が、諸方面の多数読者に対して莫大な勢カを有すること

 
は事実であるが、一般の読者は、人が一科の学術に卓越した権威である時は、その人の言論は他科の
学術問題に対しても等しく権威である安全な指導者であると誤信するものである。思ふに、ヘツケル
氏が自家の専門である生物学的知識の領域を離れ、剰へ科学の範囲外に逸して、徒に「無限」とか「劫
久」とか、不熟の問題に指を染めるのは、科学的の方法でないばかりでなく、また、実に拙劣な哲学
だと評すべきである。
 へツケル教授が、神学者輩の独断説を嫌忌するのは我々も亦同感である。癖に神学者が萬有のうち
                           マインド
その背後、またはその周囲にあつて、そのカである不可思議な心意の性質に関して、敢て絶対的知識
を有するが如く誇示するのは、我々の賛成し得ぬところである。しかしまた、へツケル氏の如く、独
断的に否定し、若しくは独断的に己が知識を誇張するのは我々の亦取らぬところであり、特に氏が生
命それ自身の性質に関して己が無識を蔽はんがために、ことさらに卓絶した知識を装ふの風があるの
は甚だ忌むべきことである。氏は、栄養、同化、発育等の各種難問題を解決しようとする企画を全然
回避してゐるが、私は本書で特に鳥類と昆虫類に就いて最も明瞭にこれを詳論しようと思ふ。ヴァイ
スマン教授の言の如く、有機体を構成する無限に異なる諸材料が「常に適所に配置され、適時に会し
て細胞を現出する」その原因や機制に至つては、従来提出された総ゆる遺伝論の学説には、毫もこれ

 
に触れたものはなく、殊に宇宙の謎を解釈するなどと揚言して、我々の前に現れ出たへツケル氏でさ
へ一言もこれには言及してゐないのである。」(A.R.ウオレス『生物の世界』4-9頁)。

#############################################

[W]
ウオレス,A.R. (赤木春之訳 初版1942.7、二版発行1944.3(2000部) )生物の世界.[20+]474pp.東江堂.[定価参円 特別行為税担当額金二十銭 合計定価三円二十銭]