SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されないのか 第28回 (この項最終回)

2015年05月13日 | 日記

  

先ほど紹介した例話を、間違って理解することがないように、もう少し詳細に説明したいと思います。救助を受けるために、彼が縄をしっかりつかんでいなければらなかったことは、私たちが私たちの行為によって救いを獲得しなければならないという意味でしょうか?絶対に違います。彼は縄を自ら作ることができません。ただ舟から投げられた縄をつかんでいただけのことです。そして、彼自身の力によらず他の力によって引かれて行った事実を覚えてください。彼は単にその力に協力しただけでした。彼がしたことは、ただ縄をつかんでいることだけでした。彼が安全に引かれていくためにはそのようにしなければなりませんでした。

縄をつかむということは、クリスチャンとして私たちがキリストに対する信仰を告白して、そのお方に引き続き従っていくことを表します。そのお方にしっかりつながり、従順の実を結ばなければなりません。それがキリストに従う私たちの果たすべき役割です。キリストは、決して私たちを追い払うことをなさいません。そのお方から私たちを分離させる方法はただ一つ、それは、私たち自身がそのお方から離れ去ってしまうことです。私たちには、それが可能な、自由意志と選択権が与えられています。私たちがクリスチャンになったからといって、私たちの自由意志がなくなるわけではありません。

私たちがクリスチャンとして生活している間に、私たちはいつでも昔に戻ることを決心して、天国と天の事物の代わりに、この世の事物を選択することができます。私たちは、イエス・キリストを私たちの救い主として信じる信仰を通してのみ救われます。「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4:12)。

 

しかし私たちは、私たちの良い行いによって信仰を証しできます。それはそのお方に対する愛の表現です。神様の戒めを守り、正しい行いをすることは、ただ私たちの心の中に聖霊がおられる結果です。そしてその結果が、豊かな聖霊の実となって表れます。私たちは救われるためではなく、救われたゆえに行いが表れるようになります。私たちは、心を尽くして主を愛するので、そのお方に喜んで服従したいと願うようになります。私たちはイエス様から投げられた救いの縄を、決して手離さないでしょう。私たちは私たちの唯一の望みであるキリストに、引き続き堅く従っていかなければなりません。

「霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである」(ヤコブ2:26)。

             救いは取り消されないのか 最終回