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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されないのか 第21回

2015年05月06日 | 日記

へブル人への手紙の著者は、救われた者が、信仰から離れていくことについて特別な警告を繰り返しています。へブル人への手紙10章23節からの聖句は、「一度救われたらその救いは永久に続くもので、誰もその救いをくつがえすことができない」と主張する人たちの立場を混乱させます。そこでは、「また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け」るべきことについて警告しています。その後に、クリスチャンの集まりから離れて誘惑に陥る人たちについて勧告が与えられています。これは明確に、信仰から離れていく者たちに対する警告です。そして、この手紙の著者は、この警告の対象に自分自身も含んでいるのです。

彼は「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう」(へブル10:26~29)。ここで描写されているのは、真理に対する理解と知識を持っていたのに、故意に罪を犯し続け、背信した人々です。救われた人でも、滅亡に陥る可能性がないのなら、神様の偉大な使徒がなぜこのような警告をはっきりと残したのでしょうか?

     

へブル人への手紙6章4~6節で、私たちは別の恐るべき言葉を見ることができます。「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である」。

新しく生まれる経験をした後に、神様に逆らい、キリストを否定して聖霊を捨てた者たちを、植物にたとえて「無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう」(ヘブル6:8)と言いました。これほど激しい描写があるでしょうか。この聖句で警告されている人は、自分の選択と決定に従って、神様の影響力の外側に自分自身を置いた者です。従ってそのような人は、不従順を繰り返し、キリストを十字架に釘付け続ける限り、救われることはできません。