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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されないのか 第19回

2015年05月04日 | 日記

  5、捨てられる危険

 

使徒パウロは、肉体的な罪の性向を征服出来ないのであれば、結局神様のみ前に立つことができないという事実を、確実に悟っていました。「すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない」(Ⅰコリント9:27)。パウロがここで用いた「失格者」という言葉はとても興味ある言葉です。それはギリシヤ語で『アドキモス』と言って、他の箇所では、「見捨てられる」という意味で用いられています。

第Ⅱコリント13章5節。「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる」。イエス・キリストが見捨てられる(アドキモス)者の心には、キリストがおられないのです。

テトス1章16節。「彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者(アドキモス)である」。神様を信じているといっても、行いが伴わない者たちは忌み嫌われてしまうのです。使徒パウロは、一度救われても、再び罪に捕らわれることを許容してしまうなら、滅びるほかないことを教えています。

 

同じようにパウロは、新生(聖霊による生まれ変わり)の経験をした信者たちが、破滅する可能性があることについても語っています。それは彼らが、主の体をわきまえないで飲み食いするためであると言いました。「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである」(Ⅰコリント11:29)。この人々は教会員であり、救いの経験を共に分かち合ったクリスチャンであったことは確かです。しかしそのような人たちが、どうして裁かれて滅びに直面するのでしょうか?テモテへの第一の手紙5章12節に、それに対する答えがあります。「初めの誓いを無視したという非難を受けねばならないからである」。クリスチャンが「初めの誓いを無視」するなら最後の時に裁かれることがあるというのは、聖書的な、疑う余地のない明白な事実なのです。