臨済宗南禅寺派圓通寺

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白 隠 禅 師 ―その人柄― (1) はんにゃの会 2017年12月号より

2017-11-13 | zen lecture

 *  500年に一度の禅匠

「駿河(静岡県)には過ぎたるもの二つあり。富士のお山に原(沼津市)の白隠」といわれました。その白隠慧鶴(1685~1768)は500年に一度の禅僧といわれ、江戸時代中期に低迷していた臨済宗を復興した禅匠です。

栄西禅師をはじめとして中国から伝えられた禅は24派があり、そのうち22派が臨済宗です。その中で今日、日本の臨済禅はすべて大応国師(1235~1308)が伝え白隠禅師につながる一派のみです。大応国師(1235~1308)につづく大灯国師、関山慧玄の名前をとってこれを「応灯関の禅」と呼びます。

大応国師の家風は「一機、瞥(べつ)を転じれば閃電猶遅し:ひとたび横をにらめば、稲妻よりも早い」といわれました。大灯国師から17代後の白隠は禅の修行体系を構築するにあたり、大灯国師の『大灯録』をそのベースにしました。日本には尼僧堂を含め41の専門道場があります。その規則や修行体系は詳細にきめられていますが、すべて白隠が整理し弟子たちに伝えたものです。白隠は500年に一度のすぐれた教育者であったといえるでしょう。

 

*  修行時代

白隠は11歳の時に母に連れられて寺参りをしました。そのとき地獄絵を見てたいへん怖がり母親の胸に抱きついて泣いたといいます。このことが起因となって15歳で松蔭寺の単嶺祖伝和尚に入門しました。その後祖伝和尚がなくなりましたので、白隠は師匠を求めて諸国を行脚しました。当時の禅修行は一つの寺に長くとどまるのではなく、師を求めて諸国を遍歴するのが通例でした。

白隠は24歳のとき越後(新潟)の英岩寺で性徹和尚の講座を聴講しました。英岩寺では日夜寺裏の墓所で坐禅に励みました。夜明けに遠くの寺の梵鐘の音をきいて白隠は悟りが開けました。「この三百年間で自分のように痛快な悟りを得たものはいないだろう」とまわりの人たちに言いました。そのときの白隠は高慢な気持ちがあって、まだ本物の悟りではありません。このとき白隠のそばに信州(長野)から来た雲水がいました。彼は白隠に言いました。

「飯山に正受老人(道鏡慧端1642~1721)という方がおられる。この方は無難禅師(1603~1676)に法をつがれた方だ。遠くから教えを求めて来る雲水があるが、その指導はたいへん厳しい。一度、師を訪ねてみなさい」と。禅では「法縁」ということを大切にします。白隠にとってこの雲水との「法縁」がなければその後の白隠はないと言って過言ではありません。白隠は早速、飯山の正受老人を訪ねました。

あの雲水の言った通りその指導は熾烈でした。禅修行では師匠が弟子を褒めることはありません。逆に弟子をけなすことは度々です。正受老人も正にそのようでした。

ある日、白隠は他の雲水と共に托鉢へ行きました。托鉢はたいせつな禅の修行です。各家々を廻り米や金銭の寄進を受けます。白隠がある家の前に立ったとき、何を勘違いしたのかその家の老婆が白隠の頭をめがけて棍棒で一撃したのです。白隠は気絶しました。周りの人たちが心配して白隠を介抱しました。そのおかげで白隠は昏睡状態から目を覚まし立ち上がることができました。そのとき白隠は師匠からもらっていた公案(禅問答)は雲が晴れるように解けました。喜び勇んで白隠は正受老人のもとへ帰って、見事に公案を透過することができました。これは正受老人の元へ来て八か月後のことです。そこで正式に白隠は正受老人によって悟りを認められました。

*  白隠の悟り

白隠は自ら36回悟ったと言っています。白隠は500年に一度のすぐれた禅匠ですから36回も悟ることができたのでしょう。白隠は24歳のとき性徹和尚のもとで遠方の梵鐘を聴いて悟ったのが初めての悟りで、正受老人の元で修行していたとき托鉢に出たとき老婆に竹箒で頭をたたかれて悟ったのが大きな悟りでした。その後26歳で故郷の松蔭寺にもどりましたが、32歳までは各地の禅匠を訪ねて行脚しました。42歳のとき『法華経』の「譬喩品」を読んでいるときその奥深さを悟り、以前この経を軽んじたことを反省しました。この後、白隠の心境が大解脱の域に達したと伝えられます。禅では「悟後の修行」といって、悟った後の修行がたいせつとされます。

白隠は35歳のとき初めて雲水のために講座を開き、36歳のころから多くの雲水が集まるようになり、東奔西走、80歳を過ぎてからも精力的に請われればどこにでも赴き講座を開きました。禅は「教外別伝」をモットーにします。師匠から受け継いだ法:ダーマをそのまま弟子に心から心へと伝えるのでそのように言います。それなのにどうして白隠はカナ法語を書いたり、各地で講座を開いたりしたのでしょうか。

前述のとおり白隠は一般人に禅を布教することに力を注ぎました。その代表作が「坐禅和讃」です。本来、禅は以心伝心なのだけれども、そのことを踏まえて縁の遠い方にも縁のある人にもこのような和讃を通して仏陀の教えに縁を結んでいただき、悟りの岸に近づいていていただきたいとの白隠の思いでしょう。白隠の道を求める気持ち(上求菩提)はそのまま一般民衆への布教(下化衆生)なのです。

悟りを開くことができない私たちでも、白隠禅師の教え、仏陀の教えを深く信じることはできます。「坐禅和讃」には「一たび耳にふるるとき讃嘆随喜する人は福を得ること限りなし」とあります。そのような人は悟りが開けたと同じだということです。これを法悦と呼びます。その心境は大きな悟りを得た人も、一般信者も同じだと説いているのです。これは画期的な教えです。

 *  清貧の生活

雲水が集まってくるようになったとはいえ松蔭寺の貧乏は相変わらずです。ある日の斎座(昼食)に冷たい汁がそえてあった。白隠がその汁椀をのぞくとその中に虫がおよいでいたので典座(炊事係)を呼んでそのことを叱責しました。

典座はこのように言いました。

「醤油に虫がわいていました。殺すのはかわいそうで別に毒にはならないと思ったので水を加えてお汁にしました」

白隠は言いました。

「それなら新しい醤油はないのか」

典座は言いました。

「この寺は貧乏で新しい醤油を買うことはできません。それで醤油屋に行ったら腐って捨てようとしている醤油があったので、それを貰ってきました」と。

また、あるとき雲水が典座寮(台所)に何やら焦げた匂いのする土鍋があることに気が付きました。他の者に聞くとお師匠さんの鍋だというので、そっと開けてみると真っ黒な焦げ飯が入っていました。その雲水が白隠にたずねました。

「これは何ですか」と

白隠はこたえました。

「これはお前たちが食べ残したものじゃ。もったいないので炊きなおしてわしが食べておる」と。

 

*  寺子屋の先生

32歳の11月、白隠は父親の病を見舞うため松蔭寺にもどり、翌年正月住職になりました。34歳で妙心寺第一座(師家)となり、正確にはこれより白隠と号しました。名は慧鶴、鵠林とも号します。35歳のころから修行者がくるようになったのですが、それまでは寺子屋の先生でした。寺子屋は当時の小学校です。近所の子供たちが寺の和尚に読み書きソロバンを習いました。前花園大学教授芳澤勝弘先生(1945~)によれば白隠の寺子屋先生ぶりはこのような様子です。

白隠は材木屋の息子には台帳の書き方を教え、宿屋の娘には帳簿の書き方を教えました。当時は「寺子屋で勉強するよりは家業の手伝いをしなさい」という時代でした。これはそのことを見越した指導です。親たちは「帳簿の書き方を教えてくれるのなら寺子屋へいきなさい」といったでしょう。これは白隠の実践的な相手に応じた説法だということができます。

 *白隠の弟子

白隠に参禅した弟子は僧侶と一般をあわせて1300人ほどです。嗣法:印可の弟子は50人ほどです。その中に「おさつ」という女性がありました。彼女は白隠の親戚筋に当たり16歳で縁づいたものの45歳で未亡人となり、その後、父親に従って白隠に参禅するようになりました。何と彼女は日を置かずして白隠の最初の印可を受けました。

ある日、おさつの孫娘がなくなりました。おさつは孫娘のがん桶にすがりついて泣きました。

近所の人が言いました。

「おさつさんは白隠和尚のところで坐禅をしているのでしょう。それなのにどうしてそのようにがん桶にすがりついて泣くのですか」と。

おさつは言いました。

「これは真珠の涙です」と。

坐禅をしたら涙が出なくなるのではない、悲しいときには悲しいと、おさつは言いたかったのでしょう。

白隠67歳のとき、備前:岡山の宝福寺からの帰り、京都妙心寺塔頭養源院で『碧巌録』の提唱をしました。このときにはおしのびで皇族、貴族方の聴講もありました。そのとき浪人大橋の娘が貧乏の故、遊女に売られていたと聞き、白隠はその娘をあわれんで得度を受けさせ弟子にしました。その名を恵林といいます。

だれかに遊女の身請けをしてもらわなければ尼にはなれません。その身請け金はだれが出したのでしょうか。記録にはありませんが、それは白隠が支払ったに違いありません。今日、日本では人身売買はありませんが、そのような時代、身売りされた女性の不幸はいかばかりであったことでしょうか。そのような不幸な人の救済はむずかしいのだけれども、恵林尼のような例は究極の救済といえます。ちなみに、白隠には、おさつや恵林尼を含めて女性の弟子が6人ほど知られています。人数としてはけっして多くはありませんが、6人とも立派な禅者になっています。

またこのとき絵師の池大雅(1723~1776)と縁があり知友となり、また師弟の間となりました。その後、池大雅は夫婦で白隠の住職する松蔭寺の近く浮島ヶ原に庵をむすび、三年間そこに住みました。池大雅が如何に白隠を慕っていたかが分かります。

 *白隠の功績

白隠の功績で重要なことは大きく二つあります。一つは禅修行体系の確立です。最初に述べましたようにそれまで道場における規則、雲水の指導方法などを体系化しました。その詳しいところは専門書を見ていただくとして、二つ目には禅の一般市民への布教です。それまで禅修行をする人は貴族や武家といった特別な地位の人たちだったのですが、白隠の弟子には近所のおばあちゃん、あるいは石工職人もいたのです。その点がそれまでの禅匠とは違ったところです。一般の人も白隠のもとで悟りを開いきました。

 庵原というところに平四郎という石工がありました。ある日、平四郎はお不動さんの石像を山の中の滝つぼのそばに安置しました。滝つぼにおちる珠をおどらせているような水の泡を見ていると、30センチメートルいって消えるのもあれば60~90センチメートル、あるいは2~4メートルいって消えるのもある。世間の無常はすべてこれらの泡のようなものだと悟り、いてもたってもいられなくなりました。以前、沢水禅師の法語を(お寺の和尚に)読んでもらったのを思い出しました。「勇猛な修行者はすぐに覚ることができるが、怠け者は気の遠くなるほどの時間を経なければ悟ることはできない」と。

 それで家に帰って風呂場の戸を閉め、背筋を伸ばして一心不乱に坐禅をした。最初のうちは妄想がおき、これと格闘しました。するとついに三昧の境地に至ったのです。朝が明けるとスズメが家のまわりを飛びまわり鳴くのを聴きました。自分の感覚はなくなっていて、目の玉が飛び出して地上に落ちているのを見ました。次の瞬間、爪の際が痛いのを感じ、両目は元の位置に戻って手足の感覚も戻っていました。

 そのようにして三日間、坐り続けた。三日目の朝、顔を洗って庭樹を見ると以前の様子とはまったく違って見えました。近くの寺の和尚にそのことを話したが何も言われませんでした。そこで白隠禅師に会ってみたいと思い、籠にのって峠を越えたところで小浦の風景を見ました。そのとき初めて「世の中の様子は成仏の姿だ」と分かりました。そうして白隠に会って参禅し、いくつかの公案を透過しました。 

白隠禅師『臘八示衆』「第五夜」より現代語訳

 ダルマ大師 彫刻;卓洲禅師  画:吉富大箴和尚

●坐禅会 毎週土曜日午前6:25~8:00 久留米市宮の陣町大杜1577-1圓通寺 初心者歓迎 参加費無料 詳細は電話でお問い合わせください。℡0942-34-0350

初回参加のみ千円。二回目以降つづけていただければ無料です。お休みのお知らせ。

●学校やクラブなど団体研修 坐禅申し込み随時うけたまわります。出張も致します。費用はご希望に応じます。宿泊はありません。出張講座もいたします。

 

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