内田樹の初めての単著。
彼の思想のエッセンスが詰まっている。
以下2つに象徴される「ためらい」こそが知性である、というもの。
自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」(p.349)
「私は知性というものを『自分が誤り得ること』についての査定能力に基づいて判断することにしている。」
私が、Twitter よりブログを好むのも、この「ためらい」をTwitter の短さでは表現できないから。
ためらいを表現するには、言葉を慎重に紡ぐ必要があるから。
端的には、Twitter では知性は表現できない。知識は表現できても。
だから、本当に「知性的である」ことを望む者は、Twitter 界隈には生息しないのではないか。少なくとも。Twitter を主戦場とは絶対にしない。
だから私は「Twitter を主戦場としている人」は信用しない。
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ちなみに、紀藤正樹先生とか鈴木エイト氏の主張には、「ためらい」の欠片も見えない。
人は政治的になると、ためらいを示さなくなる。
政治性というのはある意味党派性であって、それは排他性と攻撃性である。
「ためらい」を示す者は、政治的な攻撃性を示すことができない。
ま、これは普通の/二流の政治家の話であって、本来的な、理想的な、一流の政治家ってのは、ためらいを示しつつ、いい政治をするのかもしれませんが、、、
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私のこのブログの開設当初は、内田樹本の書評ばかりを書いていた。それくらい内田樹に傾倒していた。
その内田の本をまた読んで、ああ、いいタイトルの、内田のエッセンスが詰まったような本があったなと思って、『ためらいの倫理学』を思い出しました。
内田童貞の方にはお勧めします。私も再読しようかな、、、