川塵録

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西郷隆盛の沖永良部島流謫

2024年08月15日 | 旅行記
西郷隆盛は、3度、南の島に流された。流謫。

最初は、奄美大島。これは罪を犯した、というよりも、安政の大獄から逃げるため。菊池源吾って偽名を使って、幕府の目を免れるため。現地妻・愛加那を娶って、子どもも産んだ。

二度目・三度目は、徳之島→沖永良部島。奄美大島から九州に戻った4か月後くらいに、君主・島津久光を「ジゴロ(田舎者)」呼ばわりしたりして、逆ギレされて。

徳之島は3か月くらい、そこから沖永良部島に。沖永良部島には2年くらい。格子の、座敷牢。最初の数ヶ月は、風雨に吹きざらしの座敷牢。


そこでフィラリアにやられて睾丸が膨らんで、死ぬまで治らなかった。

その沖永良部島。

当時は、琉球は外国なので、日本の最南端。ほぼ。物理的には、その南の与論島の方が最南端ですが、与論島は、小さすぎて、役人がいないので、流刑にするには適さない。管理の目が届かないから。

  • 沖永良部島:95平方km(日本23位、現人口1.2万人)
  • 与論島:20平方キロ(日本66位、現人口5000人)

要するに、西郷隆盛は、日本最南端の地で、2年、流刑に遭った。

これが、西郷をして、「死人」「死んだ人」「異界の人」たらしめた。現世の出世とか名誉とかを超越する人生観を身に着けた。

沖永良部島が、日本ほぼ最南端、っていうのは、先日、沖永良部島に行って、改めて理解できました。

日本の最果てに、働き盛りに、2年間、幽閉される。

俗世の塵埃から、2年も、一番遠いところにいた。

この経験が、西郷をして、世俗を超越する、鉄の価値観を身に着けさせた。

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こういう、「沖永良部の経験が、西郷の人生の転記であった」という見方をするのは、橋川文三と渡辺京二。

私も沖永良部島に足を運んで、さもありなん、と思いました。
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