鷗外の『安井夫人』が、いい。
5分くらいで読める短編。
書評を見ると、みんな、女の一生とか、男女の人権とか、つまらぬ解釈をしている。
違う。
全然、違う。
醜男・安井息軒の美しい若妻・佐代は、永遠の、未完の、憧れに、死んだ。
蔑まれ嗤われる醜男に、16歳の若さで自ら進んで嫁いだ「岡の小町」佐代は、5人の子どもを育て、幕末の動乱の中、贅沢一つせず、文句を一つ言わず、たくましく、生き抜いた。
勁く、美しく、生き切った。
佐代は、51歳で不運にも病に斃れたが、必ずや、何か遠い未来に、望むところがあっただろう。
佐代には、大きな夢、志があった。尋常ではない望みを抱いていた。
抱いていたからこそ、即物的な、大きな家に住むとか、おめかしをするとかの、望み一切が、「塵芥のごとく」「卑小」すぎて、物足りなかった。
死ぬまで、遠い、遠いところを、美しい目で、でも力強く、見据えていた。
愛する夫とともに、世の中を良くする。少しでも世に貢献する。人々が明るく暮らす。
学があるわけではないので、うまく言語化できないけど、何か、壮大で、高尚な夢に向かって、日々、奮闘していた。
一燈照隅。
佐代は、そんな「未完」の人生を送った。
大きな円の一部になって、嬉々として、前のめりで、死んだ。
永遠の、憧れを抱きつつ、死んだ。
自分一個の幸せとか考えずに、死んだ。
鷗外のこの短編は、西尾幹二『人生について』の、「宿命」の項で、紹介されていた。
与えられた宿命を、粛々と受け止めて、みたいな文脈で紹介されていた。
碩学・西尾幹二のこの分析も、私には物足りない。
もっと大きな、宇宙意志と言おうか、美しいものに、安井夫人・佐代は、喜んで、殉じた。
真・善・美を求める人類のロングジャーニーの、一部になって、次の世代に、美しく、バトンを継いだ。
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そして、江戸明治には、こういう、佐代みたいな、無名の、でも勁く美しい日本人が、たくさん、いた。
その代表である佐代を、鷗外が、いつもの抑えた筆致で、紹介した。
だからこの『安井夫人』は、大正期の執筆当時はいない、勁く、美しい日本人全般への、哀しいレクイエム。
私はそう読んでいる。
そう読んで、鷗外の偉大さを、受け取りたい。
佐代の哀しさと、美しさを、強く受け取りたい。