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シングルマザーの子育て、子供の留学、DIY、ボクシング、MBA挑戦、そして世界へ!

ミスター・ティース

2009年06月19日 | ミネソタ回顧録(Life in Minnesota)
ミネソタに留学するまでアメリカと言えばロスやサンフランシスコ、ニューヨークといった大都会しかイメージがなくミネソタを留学先に選んだのもアナウンサーなどがしゃべるいわゆる米語の標準語地域で綺麗な発音が覚えられるということと、治安が良いという2つの理由からで一体ミネソタがどんなところなのか全く見当がつきませんでした。

成田で親に別れを告げいよいよミネアポリス・セントポール空港で入国審査をうける時、これぞアメリカ!というような2メートルはあろうかという巨大な担当官に定型通りの
「ミネソタへ来た目的は?」
という質問をされドキドキしながら
「I came here to study」
と答えました。私のパスポートに目をやったままその答えに黙って深くうなずき、それからパスポートを私に渡しながらこう言いました。


「Minnesota is so cold,but people are so warm」
(ミネソタはとても寒いけれども人々はとても温かいよ)

その言葉は私の胸に深く響き、そしてその言葉は留学を終えて帰国する際あの担当官が言っていたことは本当だったなとつくづく思うことになるのです。



アメリカでは本当に多くの人に助けられ、教えられ、親切にされ、愛されました。
そんな中で通っていたケンブリッジハイスクールの先生であるMr.Theisは忘れることのできない人の一人です。

Mr.Theisはアメリカ史の先生でしたが町の留学生コーディネーターのような仕事も率先してやっており日本の姉妹校から短期で学生が来たりするとツアーの引率をしたり生徒全員に名前入りの高校のフットボールTシャツなどを作ってプレゼントしたりと忙しくも献身的に動き回っていました。

見た目はいわゆるメタボリックで、背も低く、頭はバーコードとどこか親しみやすい感じでした。一卵性の双子の兄弟がいて二人で並ぶとかなり笑いを誘いました。後にわたしと一緒にアパート暮しをすることになる大親友のアンのお父さんでもありいつまでも私のことを本当に気遣い娘のようにかわいがってくれました。

ただ、授業では超早口でおやじギャク連発でまわりの生徒はいつも「あ~、また始まったぜ」みたいな感じでペンを転がして呆れるばかり、それでも一向にかまわず先生は毎回ギャグを連発しては一人でボケてガハハ!と大きな声で笑ってました。

時々私がわかっているかを教室の中で名指しで確認するのですがそれがまた恥ずかしく私がへんてこな回答をするとそっちの答えの方ににみんなが大うけするので先生はだんだん私をダシにするようになりました。

結局先生の早口のギャグも授業も最後までさっぱりわからずでしたが先生は私には簡単な問題を別に作ってくれて「S子はこれができればAをあげるから」と毎期末毎に言ってくれました。

「日本に留学してる娘のアンが帰ってくるからS子に会わせたい」と聞き私は二つ返事でOKしました。家にも招待してもらって食事をごちそうになったりミネソタの家にはどこの家にも地下室があますがそこに置いてあるビリヤードをしたりしました。奥さんもとても親切な人でそれ以来私に会う度手を握ったりハグをして迎えてくれました。

アンにはピーターという弟がいてアメリカ人にしてはかなりシャイですが超イケ面で頭もよくフットボールのスター選手でしかも超美人の彼女がいつも一緒にいてとても近寄りがたかったのを覚えています。向こうがシャイだとこっちから話しかけるきっかけも作れず結局最後まで挨拶程度の会話しかかわしませんでした。

先生ご夫婦は子供に恵まれなかったのか二人は養子でした。アンもピーターもブロンドの白人ですがアメリカでは養子の子供を持つことはよくあることで教会などへ行くと白人夫婦が黒人、韓国人、インド人など子供全員の国籍が異なる子供を養子にしていることもありこれには私もいささかびっくりしました。
そんな訳でアンも自分が養子だということは子供のころから知っておりそんな話も「I am adopted」(私は養子です。)と普通に話してくれました。

留学を終えて日本に帰国してから何度かミネソタに里帰りしましたが10年前フロリダでのフィットネスコンファレンスに3日間参加した時アメリカが初めてというインストラクター仲間のI川ちゃんの希望もあり、コンファレンスを終わった後ミネソタへ一緒に行きアンやオストロム家(お父さん、お母さん)に滞在しました。

夜二人になった時アンからピーターの状況について知らされました。アンは「S子、私は敬虔なカトリックのクリスチャンで神様も信じているし、今まで真面目に生きてきた。でも今はピーターのことが信じられない。どうしたらいいのかわからない」と繰り返されたピーターの裏切りについて、また堕ちていくピーターについて本当に苦しんでいました。またそのことでどれだけ先生や奥さんが苦しんでいるかを知りその心情を察するや本当にいたたまれない気持ちになりました。

「とてもいい先生なのにどうしてそんな苦しい思いをしなければいけないの!」

初めてミネソタへ来たI川ちゃんの為に先生は私たちをわざわざアメリカで一番大きいショッピングモールへ連れて行ってくれました。私はピーターのことを聞いたことは黙っていましたがその車中で先生がいつもの冗談めいた口ぶりで「二人は今日はどこへ泊るんだい?」と聞いてきました。私たちの回答を聞く間もなく「M子(I川ちゃんの名前)、ボーイフレンドはいるかい?自分にはピーターという息子がいてセントポールに住んでいるから今日そこに泊っちゃわないかい?ハハハ!泊まるなら自分がうまくやるよ。」と悪ぶった口調で言いました。先生はありとあらゆる手をピーターに対して尽くしてきてそれでもその気持ちは届かず息子のピーターと接点が持てるなら、どんなことでも例え恥ずかしいことを言ってでも、それが無理でも何にでもすがりたい心情だったんだと思います。

車の中でI川ちゃんが疲れて寝た頃、私と先生は私が留学していた頃の思い出話を始めました。そんな話をする中で「私はあんまり勉強はしなかったから。。」と照れくさそうに話をしたら先生ははっきりとした口調でこう言いました。

「But,you learned people」

この言葉は一言では訳せません。
なぜならlearnの中には学んだこと、経験したこと、見たこと、触れたこと、辛かったこと、楽しかったこといろんな意味が含まれるからです。そしてpeopleの中にはオストロム家族やその親戚、学校の友達、先生、町の人達いろんな人達がいるからです。そのことを先生は本当によく理解してくれていたのです。この時の私は自分自身必死になって乗り越えようと思って生きている時でしたがこの言葉を聞いてこうした人達に感謝するためにも頑張って生きていかなければいけないと思いました。

私はこの言葉をも一生忘れないと思います。


それから数年後私は再び5歳と6歳になった子供たちを連れてミネソタを訪れました。アンにも会いたかったけど仕事が忙しいとのことで会えませんでした。

先生はちょうどその時日本からの短期交換留学生が来ていたということで昔のようにいろんなイベントを企画しており私には通訳として同行してほしいと依頼があったので会うことができました。アンに会うことができなかったのでピーターのことは聞けませんでしたが先生は昔のように英語もロクにわからないでポカンとしている交換留学生に向って早口でギャグを連発してました。私はただ「S子!はい、訳して、訳して」って言われてもすべるだけだよ~と思いながら、、、。もっともらしく「意味不明なギャクです。」と説明しちゃってました。

そう、そしていつの頃からか気がついていました。先生がこうして道化のように振る舞い、みんなを笑わせようとするのは苦しいことや辛いことを振り払うためなんだなと。

例えくだらないギャクでも私は先生にいつまでも言い続けてほしいなと思います。



2001年8月Mr.Theis&奥さんとケンブリッジハイスクールのカフェテリアで

ひたすら。。。パンチ

2009年06月19日 | BOXING
100年に一度と言われる不況の中で私の勤める会社も例外に漏れずここ数カ月2週に一度3連休になっています。
自動車の売り上げは大幅に落ち込んでいますが特に若者の顧客が減っているそうです。若者の嗜好がコミニケーションツールに意向してきているという記事もありましたが一方で軽自動車の売り上げは好調のようです。


明日はお休みなので今日は思いっきりやるぞ~
って着くなりだんだん。。。だんだん人が増えてきて今日はすごくたくさんの人が練習に来てました
お友達になったレディースのMるちゃんも、M瀬さんも頑張ってました


私は今日もトレーナーのK藤さんにボディやフックの細かいところを教えていただきました
すごく丁寧に教えていただいてとてもわかりやすかったです
がんばろ~




↑左側、6年生のお子さんのお父さんであるKさん、めちゃめちゃ動きが軽快でとてもお父さんには見えません

お子さんもひとりで一生懸命練習しながらお父さんがリングで頑張っている姿を見てました

私もこの夏しっかり絞って病気をする前まで戻したい。