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シングルマザーの子育て、子供の留学、DIY、ボクシング、MBA挑戦、そして世界へ!

カウントダウン

2011年03月27日 | MBA
4月2日の入学式まで一週間を切りました。



入学式とはJのではなく自分の入学式です。



そして4月3日から開講されるので今できることは全てやっておき、4月2日にスタートを切りたい。



と思っていますが実際は右往左往して完全な準備なんてできてない状態です。



一番のテーマはいかに時間を作るかということに尽きます。



そのためには生活をシンプルにするしかありません。



欲張らないことです。




人生の中でも大きな転機と考えていたこの学位の取得をスタートする前に日本で



こんな大きな災害が起きてしまったということは偶然ではあるかもしれないけれど



逆に大きな力をもらいました。



Q-ちゃんもアメリカへ行ったら日本で起きたことを多くの人に伝えてほしいと思います。



一人一人が世界と繋がり動いていく力がいつか大きなものになると私は信じています。



2011年03月26日 | 政治・経済・ビジネス
日本の原発のニュースを聞き世界各国で原子力発電所にたいする反対運動が起こってる。


特にドイツの反応は早かった。


そして私は日本の高い技術が危機に瀕したという事実を受けこれだけ多くの国々が


うろたえるという事実を目の当たりにした時、


何故日本という国がこれだけ高い技術を生み出してきたのか、


というその理由を得た。


この苦難を乗り越え日本はまた更に世界に誇る、、、


いや、世界の助けとなる


技術を生み出していくと思う。


3月11日を忘れない。

2011年03月23日 | Weblog
会社は薄暗く、エレベータも節電の為に止め、暖房も止め、

トイレの便座もひんやり冷たく、

お湯もストップ。

でも被災してる人たちのことを考えればなんのそのです。

ただ地下のロッカーに行くときにもう一度上まで上がらないでいいように忘れ物をしな

いようにしなくっちゃ。

通行許可をもらっている業者さんにお願いし、先週金曜日に被災してる相馬の工場へ救

援物資をようやく送ることができたようです。

第二弾も予定しています。

従業員の方の家族が見つからない方、すでに被害が確認された方、家屋が倒壊した方、

多くの事実が徐々に明らかになってきています。

大工さんの阿部さんが見つかったようです。

私の会社の相馬事業所の知り合いの大工さん仲間が情報をくれました。

まったく何の関係もないのに調べてみると言ってくれて見つけてくれました。

大変な時なのに。。。。

日本の素晴らしさ。。。人の素晴らしさ。。。日々実感です。



液状化現象

2011年03月22日 | Weblog
被災している人たちから見たら液状化現象といっても命があるだけいいと思うかもしれない。

でもかつて浦安に居住し、海浜病院で二人の子供を産んだ私はその被害が気になる。

そしてその写真を見たとき通常では考えられない被害だった。

一番被害の大きかった今川付近はかつて住んでいたマンションの目と鼻の先。

その付近が液状化現象で地盤が沈下し、家が傾き、マンホールが浮き出している。

液状化した泥をボランティアの人たちで一生懸命運んでいるようだけどとても人手が足りない様子は

ニュースにはなっていないけど事実としてある。

Q-ちゃんや、Jがお世話になった保育園の先生や同級生の子たちもまだまだそこにいるんだと思う。


自分にできること

2011年03月21日 | Weblog
停電の日に家に帰ると子供たちが懐中電灯をこのようにしてありました。



そして今でもこの状態です。


Q-ちゃんは地震以来学校へ行けずストレスピークの中、ここ数日ジムのお手伝いをさせていただきました。

いつもいつ時間が取れるともわからずの状態で会長には面倒を見ていただき本当にありがとうございました。

私は土曜日から毎日「今日はあとから行くね」と言いつつどうしても気持ちが前に行かなくて

ようやく今日13日ぶりにジムへ行きました。

皆が元気にしている姿を見ると何となく家族の安否を確認したような安堵感がありエネルギーをもらって帰りました。


仙台に実家があり親族が被災してる友達、まだ地元の友達の安否が確認できないと言っている銚子の友達、

あちこちから連絡が入りなかなか返事もできずにいます。ごめんなさい。

私ができるのは節電、そしてガソリンを使わないこと、そして募金です。

あとは子供たちを立派に育ててこの日本を立て直し、発展させる一助となれるようにすることです。

ミネソタからは「こんな時だから家族と一緒にいたいでしょう。留学のことはゆっくり考えて。」と連絡があったけど

私も、そしてQ-ちゃんも最初から行かないという答えは無かったと思います。

日本に起きた現実を世界に伝え、その中で自分ができることを見つけてきてほしいと思います。




阿部さん、生きていて。

2011年03月20日 | Weblog
実家を作ってくれた棟梁の阿部さんは引退後福島にある実家の新地へ退いた。


父と母、そして親戚ぐるみでお世話になり長い年月お世話になってきた。

実家の棟上げの日、私はまだ4歳ぐらいだったけど骨組みばかりの家に作業用のライトを照らし

紙皿にお菓子を入れてみんなで楽しくお祝いした日の楽しさを鮮明に覚えている。

父と母はいつも阿部さんがこの家を建ててくれたということを誇りにし、子供たちに

誇らしげに語っていた。

確かに地震が来てもほとんど揺れも感じなかったし頑強な造りであったようだ。

でもそれを本当に知ったのは都市計画道路対象地区で立ち退くために実家を

壊した時だ。

私は自分が育った家が粉々にされるその前に知り合いの大工さんと一緒に行ってもらい

利用できる限りの材料は持ち帰りたいと無理を言った。

私は2畳ほどしかなかった父の書斎兼、母がズボンのすそ直しのパートをするために使っていた作業台の一枚板を

抜いてほしいと頼んだがあまりにも頑強に取り付けられていて根元から取ることはできなかったので丸鋸で切断し

今は私の部屋の机になっている。

それから私の部屋の本棚の板も切ってもらい持ちかえった。

取り壊した後も釘が刺さったままの柱や根太をそれでもいいと大工さんに拝み倒しキャリアに積んで持ち帰った。

粉々になった家の材料をそんなに持ち帰ることはできないとわかっていたけど

それでもこれが全部廃棄されてしまうのかと思うとなんだか辛くて暫くその場にいたのを覚えている。

色んな思い出があの時の自分には蘇っていたと思う。


知り合いの大工さんは実家の造りを「本当にいい仕事をしている」と感嘆していた。

私は幼い時から阿部さんにはそんなに会っていなくても阿部さんが作った家なら大丈夫だと思っていた。

それだけの信頼を阿部さんに対して両親は抱いていたのだろう。

それからも何度も何度も阿部さんは家に来て家族ぐるみのお付き合いをしていたし何かあればすぐリフォームもしてくれた。

私が家を買った時、壊した実家の古材でリビングが覆われていた。雨に濡れて材料が痛むのが嫌で埃臭い古材を暫く

家の中に入れて畳の部屋にブルーシートをひいて仕事から帰ってから自分のベッドの飾りをジグソーを使ってその古材で作ったりしていた。

子供たちからはせっかく新しい家に引っ越したのになんでこんな汚い木材を家に入れるのとヒンシュクを買い、

でも今は子供たちの部屋の本棚となり倉庫となって生きているものもある。


その阿部さんが見つからない。



忘れてた。。

2011年03月20日 | Weblog
地震があった翌週の火曜日、会社にはほとんどの人たちが来れずにいて

社員食堂は機能しなかった中で課に駐在しているある混載業者の男性が

「自分たくさんおにぎり買ってきたんで、、、遅れましたけどホワイトおにぎりです。」と言って

配ってくれた。ほかの業者の男性も電車のダイヤが乱れる中わざわざ寄り道してホワイトデー用のクッキーを買いに行ってくれていたらしい。

そんなみなの心遣いにとても感動していた。

課のお男性からも少し遅れのホワイトデー、いつもなら箱でみなさんにって言ってくれてたけど

今年は一人ひとりに配ってくれてなぜか私だけ吟醸ヌーヴォーと書かれたむき出しの日本酒ボトル。

みんなの笑いを誘ったけどとてもあたたかい空気が流れていた。

いつ電車が止まるかわからない状況の中、本当にありがたかった。

そして今日もジムの人がQ-ちゃんづてにホワイトデーのケーキを渡してくれた。

バレンタインの日は突然の大雪であわてて閉店間際のシャトレーゼまで自転車で行って飛び込んだっけ。

ジムについたら全身ビショビショで練習着もビショビショで練習もできず会長に皆へと言づけることしかできなかった。

印象に残る日だったけどでもそんなことはすっかり忘れていた。

少し遅めのホワイトデーのケーキはいつも以上に心に沁みた。

旦那さんの遺品からホワイトデーの贈り物と思われる指輪が見つかったというニュースを見て

まだまだ痛ましい被害は増えているのだと思い涙が出た。

否応なしに迫る現実

2011年03月19日 | Weblog
会社の工場は相馬市の新地にあり海から1キロ程しかない。


ある電機メーカーに勤めていた叔父と話しているとやはり東北地方に基盤を作っている工場があり

相当な被害を受けていると言う。

ここ数日父といろいろな話をした。

東電に勤めていた父の友人は停電の際のシステムをプログラムしていた人物だったと言う。

その時はまさかそのプログラムを使うと思って作っていなかったという。

しかし、計画停電というその複雑なプログラムはまさに世界のどの国と比べてもまさに神業だと言っていた。

確かに日本を超える経済大国のアメリカでさえニューヨークのすべてが停電になってしまった。

そして原子力発電の研究者の友人から得た情報ではその後の対応はどうあれやはり地震後にストップしたということはすごいことだという。


否応なしに現実は迫ってくる。

淡々と大学院の入学案内が来て、4月3日から授業は始まる。

カリキュラムを見ると正直これだけのものを自分にこなせるのかと思うと汗が出てくる。

Q-ちゃんの留学のため、そして自分の勉強のため、もう待ったはなく池袋へパソコンを買いに行った。

電車が止まってもいいようにリュックをしょって歩きやすい恰好で行った。

帰ってからまずはQ-ちゃんのパソコンのセットアップをし、Jの最新i-podのためi-tuneをアップグレードし、

最後に自分のパソコンのセットアップをした。


この一週間、本当に色んなことを考えた。とても長い一週間だった。

まだまだ被災地の人たちは未来のことを考える状況にはとてもないと思う。


「知は力なり」


日本がこんな状況だから家族とともにいた方がいいならそれでもいいと留学先のお母さんからメールがあった。

私には何の迷いもなかったしQ-ちゃんも迷ってなかったと思う。

日本がこんな状況だからこそこれから先世界を学び、広い視野を持ち、様々な経験をし、大きな人間に育ち

これからの日本を支えていってほしい。

そして何より、日本であったことをたくさん話してそしてアメリカの人たちからも様々な経験を聞いてたくさんの勇気が持てる

強い人間になってきてほしいと思う。


知はたくさんの人を救う。

そう信じて私も頑張りたいと思う。


卒業式

2011年03月18日 | シングルマザーライフ
仕事をほおっておけないという気持ちもあったけど子供たちにとっての親は私だけ。

今まで経験した事のない胸が張り裂けんばかりの思いの卒業式。

合唱の場面で流れる市役所からの停電の放送。空襲警報は知らないけどきっとそんな不安が渦巻いている。

先生からの涙ながらの挨拶。父兄も卒業式なのに髪もボサボサの人が沢山いた。

きっとみんな色んな意味で大変な思いをしているのだろう。

子供達は強い。どんな場面でも笑う事ができる。でもその胸の内にどんな不安を抱えているのだろう。

Q-ちゃんは地震以来学校へ行けず毎日家の中にいてストレスが溜まってきて

私も仕事でイライラが溜まりきつい事を言ってしまうと布団に潜り声を殺して泣いている。

東京がこんな状況なら被災地の人達の不安、ストレスは一体どれほどのものだろう。


帰ってからすぐさま会社の情報を拾うと日経新聞に自分の会社のことがニュースになっていた。

会社に電話をすると上司は朝からエレベーターの動かないビルの階段を何往復もし走りまわっていてつかまらない状況だという。

こんな時に本当に申し訳ない。


地震以来小刻みにしか眠る事が出来ない。

特に停電の夜の時の恐怖感。何度も何度も玄関へ行って戸締りを確認する。

そして節電しなければと思いながらも電気をつけていないと眠ることが出来ない。

私が子供を守らなければとずっと思って生きてきたけど

自分の不甲斐なさが情けない。

怖い。


強いのは子供ばかりではない。戦火をくぐり抜けてきた我々親世代は本当に強いと思う。

父は食べるものがなく生の芋を食べ、結核で何度も吐血し死を目前にし生き抜いた。

いつでも死ぬ覚悟は出来ているのだろう。

自分達が築いてきた会社が揺らいでいても心配しながらも

「なるようにしかならない」

と言いきれる。


そうだ。仕事が無いという不安は何度も味わってきた。

いつの間にか仕事があるのが当たり前になっていたけど

あの頃の気持ちを考えればいつでもスタートラインには立てる筈だ。

不安は人を破壊する。その事を自分は良く知っている。

でも闇はいつか光へ向かう、その事も信じる事が出来る。

母は今まで大切に大切に育ててきた花々のスペースをひっくり返しすでに野菜の種を蒔いたという。

「いざとなれば自給自足よ!」

日本人は素晴らしい。

日本がこんなことになって、あらためて思い知らされた。


現状

2011年03月16日 | Weblog
八戸と相馬にある生産子会社はとんでもないことになっているようだ。

製品の重要な部分を生産しているのでラインが動かないと国内でも海外でも

商品を作る事が出来ない。

特に被害の大きかった相馬に出張していた人は津波に追われながら命からがら車で逃げたということで

昨日ようやくこっちに帰ってきたという。

海外からのFLTは40以上のキャリアが日本向けの貨物についてエンバーゴしているので

これから物資の入手に支障が出てくるのかも知れない。

あちこちから情報を取っているが纏めようにもどこもひっちゃかめっちゃかで正確な情報を得る事が出来ない。

成田空港内のJALの上屋の屋根は崩壊して一時立ち入り禁止になったというし、

現時点でも正確なFLT状況はつかめない。

成田にある会社の委託倉庫の棚からは製品が崩れ落ち検査しなければ出せないし、

毎日余震が来る度何回も外に出て避難しているという。

銀行もシステムがストップして海外から送金を受けても入金が出来ない。

昨日は会社構内にある倉庫の荷物の受け入れもエレベーターが稼動せずマンパワーで4階まで

海外からの受け入れ貨物を運ぶしかなかったと。


4トントラックでも何でもチャーターして救援物資を被災してる子会社へ送りたいから

アレンジして欲しいと上から課に依頼があったがまず地元警察に高速の通行許可を

となければならないし、そもそも運送会社からの情報では現地への乗り入れはできないとのことだった。

何かしたくても何もできない。


2008年の四川の大地震で被災したという中国工場の同胞からも励ましのメールを貰った。

その時は恐怖で1ヶ月間家の中で眠れず外で眠ったという。

香港からも沢山、、。アメリカからも私のアドレスを知らないはずなのにわざわざ聞いて送ってくれた。


みんなからのメールを読むとありがたくて涙が止まらない。