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シングルマザーの子育て、子供の留学、DIY、ボクシング、MBA挑戦、そして世界へ!

マテリアリスティック

2011年02月28日 | ミネソタ回顧録(Life in Minnesota)
ミネソタにいた時、アメリカのお父さんのLarryはよく夜になると私の部屋をノックして

「お茶を飲まないかい?」と少し大げさな程ゆっくりと大きな声で、でも優しく声を掛けてくれた。

キッチンに降りていくとLarryは穏やかに、ゆっくりと湯を沸かし

自分で焼いた茶碗に緑茶のティーバックを入れて私に差し出しながら

その時々で色んな話題を私に投げかけ意見を求めてくる。



ある時「S子、"Materialistic"(物質主義的)であることをどう思うか?」と聞いてきた。

17歳の私には少々難しい質問だったが思春期で色んなことを考えていた自分にとっては面白い質問でもあった。

Larryはアメリカ人はToo materialistic(物欲が大きすぎる)と少々批判的な部分も含め意見を出していたと思う。

そしてMaterialistic過ぎると人はどうなると思うか?ということも聞かれたと思う。

その時自分がどう答えたかは忘れてしまったが自分が週末家を片付けているとふと、そんな事を話し合った事を

思い出した。

Larryはアメリカ人ながら焼き物をとても愛し日本の和の心がわかるアメリカ人だった。

私は時々物が増えてくると自分が身動きできなくなるような感覚に襲われ

大胆に物を捨ててしまう。

ものが沢山あるのは便利だが自分の基本的な考え方や発想、研ぎ澄まされたもの、そして何より

本質的なものが見えなくなるような気がするのだ。

本質的なもの、、、それは何だろう。


私はLarryとVickiに会わなければ自分にとって本当に大切なものはわからなかったかもしれない。

私はたったの1年にも満たない時間の中でこれまでに見た事のない人の愛情の大きさを見せられた。

Larryは私が帰国するまでの間ずっとそうやって私の部屋をノックし続け私をキッチンへ連れ出した。

そしてずっと緑茶を入れ続けてくれ、私に語りかけた。

私の好きな70’Sの音楽がラジオから流れてくると一緒に聞いた。

私が泣いていると背中をさすりずーっとそばにいて涙の理由を聞いてくれた。

そうやって毎日、毎日、本当に毎日、私の答えが無くても私に語りかけ、私を外へ連れ出してくれた。


今の時代はどんな情報でも簡単に手に入れられる。

でも、自分自身の本質に耳を傾ける時間はあるだろうか?

そんな時ふと、今目の前にある当たり前の生活が蜃気楼のように思えてくる。


自分が死ぬ時、「いい家に住めたな」とか「いい車乗れたな」とか思い出すだろうか?

いや、少なくとも自分はそんなこと思い出さないだろうな。


自分が大切に思ってきた人達を思い出すだけできっとタイムオーバーになるだろうな。




スター

2009年08月21日 | ミネソタ回顧録(Life in Minnesota)
昨年、仕事上取引がある会社のイメージキャラクターである
ハンマー投げの室伏宏治選手を迎えての懇親会を
六本木のとあるホテルで行うということで
私の会社からも2名参加が可能とのことで担当課窓口でしかも
かねてから私が室伏選手のファンであるということを知っていた
営業さんが声を掛けてくれました。

もう一人は当時良く仕事の依頼を受けていた海外管理課のS織さんを
お誘いしたところ偶然にも室伏選手ファンということで
パーティ前から二人でワクワク

一緒に記念写真を撮る時にS織さんが隣の席を奪取してくれ
撮影を待つ間隣でジーっと室伏選手の時計を見ていたら
手を見ているのかと思ったらしく

「手?大きいでしょ?」

と話しかけられそドキドキ&めちゃめちゃ緊張しました

S織さんとはその後六本木をぶらぶらして二人で店に入り仕事の話やプライベートの話。。。
彼女はパナマに駐在経験がありそこでサーフィンやゴルフを相当やり込んだとのこと。相当アクティブで男性以上に仕事もできる人です。

夏になったら是非一緒に行きましょうと話していたら春には香港への駐在が決まってまた飛び立って行ってしまいました。



そして、
ミネソタが生んだスターと言えば、、、そう、プリンスです。

ミネソタ2年目の時に後に自分のバンドネームとなる
「PACIFIC CLUB」というクラブに何度か行きましたが
そこで偶然プリンスがお忍びでその店に来ていました。
テーブルの周りにはいかついボディガードを数名立たせ
自分は全く踊らず文字通り女性を侍らせ、その場の雰囲気を楽しんでいるようでした。

ルームメートのアンに「サインもらっておいでよ」と言われこう言えばいいからと
丁寧な言い回しの英語も教えてもらいボディガードに「Mr.Princeのサインをいただきたいのですが・・・」と切り出したら怖そ~な見た目とは裏腹に
「Mr.Princeはプライベートですので申し訳ありませんがサインはお断りさせていただいております」ととてもにこやかにスマートに断れました。
やっぱりミネソタの人は優しいな~と感じたのを覚えています。

その後ミネソタ大学で知り合ったフジコさんという年上の女性の彼氏が
プリンスのあの城でアルバイトしているということで
日本から旅行で来た友達と一緒に日本の新人デュオを装い
プリンスの敷地の中を見学させてもらいました。

まるで国境のようなゲートを抜けるとプリンスの屋敷はやはりお城のようでした。

さすがに自宅は入れませんでしたがスタジオ内を見せてもらいました。

しかし、始終警備が付き写真一枚撮ることができませんでした。



わぉ~!!上の写真から遡ること20年前です



まさにバブル全盛期、、、まっ、でも今の時代も悪くないかな


負が生み出すもの

2009年06月24日 | ミネソタ回顧録(Life in Minnesota)
私がミネソタでとても貴重な体験をして、その後の人生観に大きな影響を与えただろうことについて少し触れてみます。


先日、子供たちの学校公開日がありました。

娘のQ-ちゃんは社会が苦手で一番の課題でした。
ですので私も社会に力を入れるようやり方を変えてみました。
Q-ちゃんは塾をやめてから最終的に主要5科60点以上アップすることができました。特に社会については劇的に改善できました。

勉強方については後日詳しく書きますが、そんな訳で社会の先生が出す問題はかなり難易度も高いということもあり
次回の一番大切な期末テストに向けて攻略するつもりで授業を見に行きました。

30分程見て帰るつもりだったのですが、、、授業は第一次世界大戦のところ、先生は身振り手振り、時には素早く絵も描いて実にテンポよく息つく間もなく授業を進めていきました。そして気がついたら私は先生の授業に引き込まれ最後までいました。

授業の中で先生は戦争の悲惨さをひたすら子供たちに伝えていましたがその中である小説の話をしていました。

戦争で目が潰れ、耳がもげ、口も聞けなくなり、手足もふっとばされ、ダルマのようになり、ただベッドの上でじっと自ら命を絶つこともできず生きているだけの兵士。その兵士が看護婦に対して頭をベッドに打ち付けることでしか伝えることのできなかった自分の意思=モールス信号、それは

「kill me」

のたった一言でした。



ミネソタのハイスクールで私はCHOIRという音楽のクラスを選択していました。
そこではみな机もなく教室に入るとひな壇になった舞台に座って先生の説明を聞いたあとすぐ歌を歌い始めます。

一年の後半に差し掛かった頃だと思います。
今まで仕上げてきた歌を日本で言う老人ホームや教会、障害者施設などあちこちへ行って発表するようになりました。

その中である日とても大きくてきれいな障害者施設へ行きました。
全米の中でもかなり大きな施設だと説明を受けた記憶があります。

私たちはいつものようにゴスペルシンガーのように青いローブをはおって、おそらく舞台となるちょっと薄暗いカフェテリアのようなところに通されました。

そしてひな壇に整列しながら視界に入ってくるものに異常に違和感を感じました。

目の前に座っている人たちは確かに障害者であるということは一目でわかりましたが私が認識している事と何かが違ってました。


中学生の頃「母は枯れ葉剤を浴びた」という本を読み非常に衝撃を覚えました。
ベトナム戦争で枯れ葉剤を浴びた兵士や女たちがやがて子供を授かりその子供を産み落としてみるとベトちゃん、ドクちゃんのように胴体がつながっていたり、手足がない、足が一本しかない、脳がない、、、そんな子供たちがたくさん生まれたそうです。


そして枯れ葉剤を浴びたのはベトナム兵だけではありません。
アメリカ兵もその影響を受けていますしアメリカへ逃れてきたベトナム難民も数多くいます。

歌い始めたものの私は目の前に現実にあの本で見た子供や大人がいることにワナワナと震え始めました。無脳症と言われる要はおでこに目がついた人が叫びながら私たちの方へ向かってきた時、たくさんのチューブにつながれた子を見れば顎から頭のてっぺんまで40、50㎝程の大きさがあり、それに対し体が同じように40、50cmほどしかない人を見た時、当時17歳だった私にはあまりにも信じがたい現実がそこにあったのです。

その日は帰ってからすぐ自分の部屋にこもり、いろんなことを深く考えました。



それから約1年後、高校での留学を終え再び大学へ行くためにミネソタへ戻ってきた私はダウンタウンからほど近い、キャンパスの近くに住み始めました。
田舎で治安がいいと言われているミネアポリスでも絶対一人では歩いてはいけないと言われていましたが確かある日友達との約束で道がわからなくなりダウンタウンに迷い込んでしいました。

そこには酒びんを紙袋で包んでふらふらしている浮浪者がちらほらといましたが私は何故だか怖く感じず彼らを観察していました。
すると、うっかり目が合ってしまい
そのうち一人が近づいてきて私に

「Are you Japanese?」

と聞いてきました。髪はぐちゃぐちゃで髭もぼうぼうでしたがそうしたことを除けばまだまだ精悍な美男子でした。


私は怖々「Yes...」と答えるとその浮浪者は私に握手を求め

「聞いてくれ、、、自分はベトナム戦争に行ったんだ、、。戦争は悲惨なんだよ、、ほんとうに悲惨なんだよ、、、わかるかい、、?何もかも狂わせてしまうんだ、、戦争なんかしちゃいけないんだよ、、、そうだよな?そう思わないか?」

と悲痛な声で泣きながら繰り返し私に訴えてきました。

私は

「Yeah,I think so,too」

と答えました。

その男の人は

「You understand...Thank you...Thank you」
(わかってくれるんだね、、、ありがとう)

と嬉しそうに私の手を握って言いました。

私はその人のごわごわした細長い手のぬくもりを今でも覚えています。

当時1989年、ベトナム戦争が終結してからたった14年しか経っていない頃のことです。

その人は戦争で何を見たのでしょう?何を失くしたのでしょう?どんな恐ろしい現実を、地獄を、見たのでしょう?




社会の先生は授業も終盤に差し掛かる頃、こう生徒達に話しました。

「ざんごうに一人で入って戦い、一日中頭の上を大砲が通り、時には肺を焼く毒ガスがまかれ、あちこちで人の手が飛び、足が飛び、頭が飛び、毒ガスで胸をかきむしって死んでいく姿を見る。そんな恐怖に耐える状況がたった一人穴の中で何日も続いたら人間はどうなると思いますか?」

(生徒)「・・・・・」

「人は・・・・最後には、狂うのです」





ミネソタの冬

2009年06月20日 | ミネソタ回顧録(Life in Minnesota)
ミネソタの冬はとても厳しいです。時にはマイナス30℃にもなりますが空気はとても澄んでいて幻想的な景色も生み出します。

12月のある日お父さんのラリーが
「S子、明日はクリスマスツリーをもらいに行くからね」
と言いました。

当日はみんなで車に乗り込んでいったん友達の家で下りました。
そこで何やらトラックに乗り換えてからまた長い距離を走りました。
車検もない国で何もない田舎の道をお父さんに任せて延々走って行くわけです。
もちろん当時は携帯もない訳ですから車に何か故障でもあったら
マイナス30℃の中でどうやって生き延びるのでしょうか。
今考えるとちょっと怖いです。

当時はそんなことも考えずいつもラリーが連れて行ってくれる所に
ワクワクしながら到着を待っていました。

そうして着いたところが↑こんなところです。
見渡す限りツリーばかりです。そう、これはツリー農家なのです。

恐れ入りました。ツリーを育てることを生業としている人たちがいるとは
本当にびくりしました。それも半端な広さではありません。

4,5メートルもあろうかというツリーもありましたが
さすがに家に入るわけもなく私たちは1.5メートルほどのツリーを
みんなで切り倒して車まで引っ張って運びました。
大変だったけどとても楽しかったことを記憶しています。

私がログハウス作りや手作りに興味を持つようになったのもこうしたことの影響が大きくあったのではないかと思います。



さて、ミネソタの冬に体験したもう一つの驚きの出来事と言えば↓これです。
ミネソタと言えば湖が多くある州としても有名ですが
冬になると湖が1メートルほどの厚さまで凍ります。
そこにドリルで穴を開けてさらに車も乗り入れ、
ひと冬限りの小屋を作り釣りを楽しむのです。

まずは湖に車を乗り入れた時にはびっくりしましたし、
あちこちに小屋が建っているのにもびっくりしました。


↓外から見るとこんな感じです。これが湖の真上です。

この日は確かドリルでもうひとつ湖に穴をあける作業をしていました。
そんな中、掘った穴に落っこちてしまう仲間がいて
みんなで大慌てでひっぱりあげましたがみな「Oh,my god!!!」とか言って大爆笑!なんかお約束といった感じで凍りそうな湖に体を突っ込んだのに
これだけおおらかに爆笑できるのって、なんかアメリカ人てこういうところがいいなぁってその時思いました。



ラリーの一番下の弟のケニーと





ミスター・ティース

2009年06月19日 | ミネソタ回顧録(Life in Minnesota)
ミネソタに留学するまでアメリカと言えばロスやサンフランシスコ、ニューヨークといった大都会しかイメージがなくミネソタを留学先に選んだのもアナウンサーなどがしゃべるいわゆる米語の標準語地域で綺麗な発音が覚えられるということと、治安が良いという2つの理由からで一体ミネソタがどんなところなのか全く見当がつきませんでした。

成田で親に別れを告げいよいよミネアポリス・セントポール空港で入国審査をうける時、これぞアメリカ!というような2メートルはあろうかという巨大な担当官に定型通りの
「ミネソタへ来た目的は?」
という質問をされドキドキしながら
「I came here to study」
と答えました。私のパスポートに目をやったままその答えに黙って深くうなずき、それからパスポートを私に渡しながらこう言いました。


「Minnesota is so cold,but people are so warm」
(ミネソタはとても寒いけれども人々はとても温かいよ)

その言葉は私の胸に深く響き、そしてその言葉は留学を終えて帰国する際あの担当官が言っていたことは本当だったなとつくづく思うことになるのです。



アメリカでは本当に多くの人に助けられ、教えられ、親切にされ、愛されました。
そんな中で通っていたケンブリッジハイスクールの先生であるMr.Theisは忘れることのできない人の一人です。

Mr.Theisはアメリカ史の先生でしたが町の留学生コーディネーターのような仕事も率先してやっており日本の姉妹校から短期で学生が来たりするとツアーの引率をしたり生徒全員に名前入りの高校のフットボールTシャツなどを作ってプレゼントしたりと忙しくも献身的に動き回っていました。

見た目はいわゆるメタボリックで、背も低く、頭はバーコードとどこか親しみやすい感じでした。一卵性の双子の兄弟がいて二人で並ぶとかなり笑いを誘いました。後にわたしと一緒にアパート暮しをすることになる大親友のアンのお父さんでもありいつまでも私のことを本当に気遣い娘のようにかわいがってくれました。

ただ、授業では超早口でおやじギャク連発でまわりの生徒はいつも「あ~、また始まったぜ」みたいな感じでペンを転がして呆れるばかり、それでも一向にかまわず先生は毎回ギャグを連発しては一人でボケてガハハ!と大きな声で笑ってました。

時々私がわかっているかを教室の中で名指しで確認するのですがそれがまた恥ずかしく私がへんてこな回答をするとそっちの答えの方ににみんなが大うけするので先生はだんだん私をダシにするようになりました。

結局先生の早口のギャグも授業も最後までさっぱりわからずでしたが先生は私には簡単な問題を別に作ってくれて「S子はこれができればAをあげるから」と毎期末毎に言ってくれました。

「日本に留学してる娘のアンが帰ってくるからS子に会わせたい」と聞き私は二つ返事でOKしました。家にも招待してもらって食事をごちそうになったりミネソタの家にはどこの家にも地下室があますがそこに置いてあるビリヤードをしたりしました。奥さんもとても親切な人でそれ以来私に会う度手を握ったりハグをして迎えてくれました。

アンにはピーターという弟がいてアメリカ人にしてはかなりシャイですが超イケ面で頭もよくフットボールのスター選手でしかも超美人の彼女がいつも一緒にいてとても近寄りがたかったのを覚えています。向こうがシャイだとこっちから話しかけるきっかけも作れず結局最後まで挨拶程度の会話しかかわしませんでした。

先生ご夫婦は子供に恵まれなかったのか二人は養子でした。アンもピーターもブロンドの白人ですがアメリカでは養子の子供を持つことはよくあることで教会などへ行くと白人夫婦が黒人、韓国人、インド人など子供全員の国籍が異なる子供を養子にしていることもありこれには私もいささかびっくりしました。
そんな訳でアンも自分が養子だということは子供のころから知っておりそんな話も「I am adopted」(私は養子です。)と普通に話してくれました。

留学を終えて日本に帰国してから何度かミネソタに里帰りしましたが10年前フロリダでのフィットネスコンファレンスに3日間参加した時アメリカが初めてというインストラクター仲間のI川ちゃんの希望もあり、コンファレンスを終わった後ミネソタへ一緒に行きアンやオストロム家(お父さん、お母さん)に滞在しました。

夜二人になった時アンからピーターの状況について知らされました。アンは「S子、私は敬虔なカトリックのクリスチャンで神様も信じているし、今まで真面目に生きてきた。でも今はピーターのことが信じられない。どうしたらいいのかわからない」と繰り返されたピーターの裏切りについて、また堕ちていくピーターについて本当に苦しんでいました。またそのことでどれだけ先生や奥さんが苦しんでいるかを知りその心情を察するや本当にいたたまれない気持ちになりました。

「とてもいい先生なのにどうしてそんな苦しい思いをしなければいけないの!」

初めてミネソタへ来たI川ちゃんの為に先生は私たちをわざわざアメリカで一番大きいショッピングモールへ連れて行ってくれました。私はピーターのことを聞いたことは黙っていましたがその車中で先生がいつもの冗談めいた口ぶりで「二人は今日はどこへ泊るんだい?」と聞いてきました。私たちの回答を聞く間もなく「M子(I川ちゃんの名前)、ボーイフレンドはいるかい?自分にはピーターという息子がいてセントポールに住んでいるから今日そこに泊っちゃわないかい?ハハハ!泊まるなら自分がうまくやるよ。」と悪ぶった口調で言いました。先生はありとあらゆる手をピーターに対して尽くしてきてそれでもその気持ちは届かず息子のピーターと接点が持てるなら、どんなことでも例え恥ずかしいことを言ってでも、それが無理でも何にでもすがりたい心情だったんだと思います。

車の中でI川ちゃんが疲れて寝た頃、私と先生は私が留学していた頃の思い出話を始めました。そんな話をする中で「私はあんまり勉強はしなかったから。。」と照れくさそうに話をしたら先生ははっきりとした口調でこう言いました。

「But,you learned people」

この言葉は一言では訳せません。
なぜならlearnの中には学んだこと、経験したこと、見たこと、触れたこと、辛かったこと、楽しかったこといろんな意味が含まれるからです。そしてpeopleの中にはオストロム家族やその親戚、学校の友達、先生、町の人達いろんな人達がいるからです。そのことを先生は本当によく理解してくれていたのです。この時の私は自分自身必死になって乗り越えようと思って生きている時でしたがこの言葉を聞いてこうした人達に感謝するためにも頑張って生きていかなければいけないと思いました。

私はこの言葉をも一生忘れないと思います。


それから数年後私は再び5歳と6歳になった子供たちを連れてミネソタを訪れました。アンにも会いたかったけど仕事が忙しいとのことで会えませんでした。

先生はちょうどその時日本からの短期交換留学生が来ていたということで昔のようにいろんなイベントを企画しており私には通訳として同行してほしいと依頼があったので会うことができました。アンに会うことができなかったのでピーターのことは聞けませんでしたが先生は昔のように英語もロクにわからないでポカンとしている交換留学生に向って早口でギャグを連発してました。私はただ「S子!はい、訳して、訳して」って言われてもすべるだけだよ~と思いながら、、、。もっともらしく「意味不明なギャクです。」と説明しちゃってました。

そう、そしていつの頃からか気がついていました。先生がこうして道化のように振る舞い、みんなを笑わせようとするのは苦しいことや辛いことを振り払うためなんだなと。

例えくだらないギャクでも私は先生にいつまでも言い続けてほしいなと思います。



2001年8月Mr.Theis&奥さんとケンブリッジハイスクールのカフェテリアで

Home Sweet Home

2009年05月26日 | ミネソタ回顧録(Life in Minnesota)
5/26(火)

「Home Sweet Home」

ブログのタイトルにしたこの言葉はアメリカのお母さんVickiの口癖でした。

いつも家に着くとお世辞にもスリムと言えないふくよかな体から大きな腕を家の天井に向かって大袈裟なくらい大きく広げ
"Oh!Home Sweet Home!!"
と歌うように情感たっぷりに言った後、その手で潰れるくらいにぎゅっと私を抱きしめ頬ずりをすると、そんなアメリカ式の愛情表現に慣れていないまだ17だった照れる私を見て嬉しそうに大きな声で笑ってはまた抱きしめたものでした。