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デ某の「ひょっこりポンポン山」

腎がんのメモリー、海外旅行記、吾輩も猫である、人生の棚卸しなど。

あの胸が岬のように…

2022-06-12 11:57:28 | 名残の季節
 先夜BSPで放送された「あの胸が岬のように遠かった ~河野裕子と生きた青春~」。私は 歌人の端くれの端くれ、歌人を名乗るのは羞かしい輩ながら、或る種の "ときめき" をもって番組を視ました。彼女の夫君 永田和宏の原作であり、下敷きになるのは 後に発見された彼女の膨大な日記です。
       ※ このブログ記を読む代りに? 後日 記した最後にある【補遺】をお読み頂いても、と存じます。

    

 語られたメッセージは『これは私たちの青春の証しである。他に生き方があったわけではなく このようにしか私たちは生きられなかったのだ』。小椋佳 "孤高の鷹"『誰のようにも生きられず誰のようにと生きもせず』を想い、あの時代の青春は 多かれ少なかれ誰であれそうだ! と思いました。

 歌人 河野裕子は 大学在学中に「桜花の記憶」で角川短歌賞を受賞。タイトルは 受賞五十首の一首『夕闇の桜花の記憶と重なりてはじめて聴きし日の君が血のおと』に由来します。なお エッセイ「桜花の記憶」は 彼女の亡くなった2012年に出版され 長女の歌人 永田紅が "あとがき" を記しました。

    

 永田和宏は一度も遺影に手を合わさず納骨もしていない由。「自分は河野裕子にふさわしかったのか」と未だ自問しているのか...。「歌に私は泣くだらう」など河野裕子に関わる書を幾冊上梓しても、彼女に注がれる愛情は彼女の死後12年を経てなお生身!のまま永田和宏の中に存在するのか...。

      

 二人は学生時代に短歌の縁で出遭い、永田和宏が "一目惚れ" しました。交際は今熊野のレストラン「らんぶる」※から始まります。ともに先輩の初デートのダシとして「らんぶる」に同行していました。後にわかりますが、このとき河野裕子も『永田さんを一目で好きになった』のでした。
    ※「らんぶる」は祇園にあるレストラン、当時は今熊野に? 当時も今も 私は行ったことはありませんが...。

 河野裕子は 或る "重大な秘密" (後記)を抱えつつ交際が始まります。その当時の彼女が詠んだ歌は『ブラウスの中まで明るき初夏の日にけぶれるごときわが乳房あり』。けぶれるごとき乳房! 彼女のそんな心境(情念?)とは裏腹に彼の思いと生理と行動は ちぐはぐに逡巡していました。

    

 『あの胸が岬のように遠かった。畜生!いつまでおれの少年』。彼は 自身の心情に気づきつつ 行動に移れません。たとえ彼女の思いを朧に知っていても、心はいつも近くにリアルにあっても、彼女の胸は遠い岬のように霞む。そこに少年から男への不様!が 霞むことなく明瞭にありました。

 そこを一歩も出ない中で河野裕子が詠んだ歌『たとえば君 ガサッっと落ち葉すくふやうに私をさらって行ってはくれぬか』。後に教科書にも載り 歌人 河野裕子の名を一躍 広めた歌は、少年を残し煮え切らない永田和宏への挑発であり、少年ならぬもう一人の男への訣別でもありました。
      
    

 2010年夏、河野裕子の命がつきます。その数日前、彼女の歌を永田和宏が口述筆記しました。『長生きして欲しいと誰彼数えつつ つひにはあなたひとりを数ふ』。やがて彼女の死から一年が経ち 遺品整理に赴いた彼女の実家で 段ボール箱に収められた膨大な日記、手紙が見つかりました。

    

 『何が書かれているのか知るのが怖く』て読むことができなかった日記。漸く読む気になったのは2019年秋のことでした、『こんなにドキドキするとは何事か!』と思いつつ...。彼が "怖い" と思ったことは、彼女の存命中から気になっていたこととニア・イコールだったのかもしれません。

 日記は 大学入学から結婚までの6年間、三十数冊に上りました。ページごと刃物で切り取られた箇所も幾つかありました。永田和宏が気になった男... 仮に「N」と呼んだ人物は、彼女と同じ短歌の師 宮柊二の門弟です。日記を辿りNを探す光景は恰も謎解きのドラマを見るかのようでした。

    

 日記には『永田さんとNさんが心の裡で揉みあっている』『Nさん。胸の奥がひきちぎれるほど... 』etc. その頃、永田和宏と河野裕子は夕暮れの京都の路地で!ダンスを踊ったりしていた時期でもありました。当時、彼が詠んだ歌は『夕闇を忍びてのぼる煙青くわが十代は駆けて去り行く

    
         再現ドラマには寧ろ不思議なリアリティがあり ふたりが踊るシーンに心騒ぎました。

 彼はかなり早い時期に気づき始めていました、彼女の中に別の世界があることを。それがNであり宮柊二の弟子として将来を嘱望された歌人であることを。屋島で開かれた歌会で彼女はNの「ひたひたとした愛情」を感じています。感じたまま… 日記はその数日間に36ページが費やされていました。

 『私 おかしいのかもしれない。私の中に何かを生みつけられたみたい』。彼には『どうしたらいいの。二人を好きになった。一緒にいたい、あなたと、あの人とも』。日記には『言ってはならないことを言ってしまった。なんという愚かさ』『優しく抱かれるより張り倒されたほうが良かった』。

    

 河野裕子『陽に透かし葉脈くらきを見つめをり 二人のひとを愛してしまへり』。永田和宏は「君には残酷かもしれんけど、どっちか選べ」と言い『動こうとしないおまえの ずぶ濡れの髪 ずぶ濡れの肩 いじっぱり』と詠む。人を愛するということは斯くも一途で独りよがりでなければならぬのか。

 奥深く秘匿された日記。永田は「見られたくない、知られたくないこともある。それも含めて書き残すことが自分の務めだと思った」「もしあの日記を知らなかったら今の幸せを本当には実感できなかったと思う」「こんな風に生きた人間がいたことをいつまでも人々に憶えていてほしいのだ」と。

    

 1968.2.3 二人は生涯初めての口づけをします。読むのが(書くのも)気恥ずかしいかもしれませんが…。
 「人間だと思った。あたたかくやわらかく湿っていて 歯と歯が触れあって 舌が濡れていて つくづく人間だと思う。それが情けなかった。惨めだと思った。あなたが憎い。あなたを一生憎む」
 「口づけはもっと美しいものだと思っていた。花びらに触れるみたいに冷んやりしていて すべすべしているものだと思っていた。くやしかった」。

 そう言いつつその日から「たくさんの昼と夜を抱きあって過ごした」「人のいない所を探してはもぐりこんだ」。「子どもは産める?」。彼女「あなたの好きなだけ何人でも生んであげる」。

    

 日記は 日記だからこそ過激にならずにはいません。
 「Nという人。私のすべてをがんじがらめにした人。でも待ってくれる人はひとりで良かった」。
 永田については「苦しくて息ができないほど首を吸われる。私を強い力でもぎとろうとする。私を犯そうとする時、この人はなぜこんなに美しく曇りない眼と唇をもっているのだろう」。


 1970.2.15 永田和宏は京大大学院(理学部)に不合格。その時期、河野裕子に請われ彼女の両親に結婚の意思を伝えます。様々なことが混乱していたのか 彼は睡眠薬で自死をはかります。一命はとりとめますが、彼女には何も言いません。彼は大学に留年し、彼女は出身地の中学教員になります。

        今日、私は あのひとと結ばれた… 若葉の枝をさしかわす雑木林の枯れ葉の上(河野裕子)
    

 日記に「来ないの。生理が来ないの」「現実とはどうしても思えなかった」彼には 手紙を書きます。
 「あなたも あなたの父も おそらく生んでほしくないと言うだろうと思います。でもそれでは 子どもが余りにかわいそうです。私が 不憫だと思ってやらなければ 誰がこの子をかわいそうだと思ってくれるでしょう」「私にはわかるのです。私のからだのなかで大きくなりかけているこの子に 未来永劫に けして抗うことができず 抱くこともできないだろうということが、わかるのです」


 「私が逝かせてしまった者。私が逝かせてしまった。私がそうしたのだ。他の誰でもない。一生、一日として忘れはしない」「あの短い夏の初めの日々。私の宿したものは生ではなかったのだ。それは死でしかなかった」「死は私のからだの中で眠っていた。安らかで愛おしい哀しみだったのだ」。

    

 「河野裕子」を私は「コウノユウコ」と呼んでいました。TVで「カワノユウコ」と語られることに違和感を覚えるほど私の中では「コウノユウコ」でした。彼女の歌の師 宮柊二もまた「コウノユウコ」と呼び、彼女は『カワノユウコと呼んでほしいのは十年来のささやかな願い』と記しています。

 "N" も河野裕子と同じ宮柊二の門弟ですから、Nも「コウノユウコ」と呼んでいたような気がします。それが永田和宏と河野裕子に対する Nの "ささやかな抗い" であったような気がしてなりません。そして 敢えて言えば この書と番組こそ 永田和宏の "ささやかな抗い" であったのだと思います。


    
      二人が歌いながら踊った「さよならはダンスの後に」… 鼻メガネの倍賞千恵子さんが素敵です。

【補遺】
 この番組にも その原作にも 内容にも "公開" することに対しても 様々なご意見がおありかと思います。
 論理的に認めがたい、日記の公開への違和感あるいは生理的嫌悪、そもそも短歌に無関心…各人各様かもしれません。
 前回ブログのコメ欄最後に 沙羅さんのコメントがあります。敢えて返信を控え "一つの見解" としてお読み頂きたく存じます。
  

【補遺の補遺】… 2022.10.31 記
 なぜか この項に繰り返しアクセスがあるのは "短歌" "河野裕子" "永田和宏" の検索から?
 とはいえ たぶん 殆どが "河野裕子" からだと思う。それだけインパクトのある歌であり存在なのでしょう。
 私も彼女に惹かれます。惹かれますが 少し斜めに惹かれていそうです。どうにもまっすぐにはならない!


【補遺の補遺のホイ】… 2022.12.15 記
   TV放映から暫くして この書を読み さるところにレビューを書きました。
   このブログ記と重なりますが 関心がおありでしたらお読みください、長い!ですけどね(笑)
 

 1960年代終り~1970年代初めの青春 in Kyoto
永田和宏「あの胸が岬のように遠かった~河野裕子との青春」(2022.3新潮社刊)
永田和宏(1947~)と妻河野裕子(1947~2010.8.12)の”短歌と青春”が綴られた書です。
永田は細胞生物学の分野で40代初めに京大教授となる一流の研究者ではあります。
しかし超一流とは言い難く その分野で脚光を浴びるほどの成果はあげてもいません。
二人とも宮中歌会始選者、朝日・毎日の歌壇選者、著名な歌人として知られています。
尤も 永田は一貫して!河野裕子の短歌に及ばない、とは私の印象です。
その負い目か愛かリスペクトか 永田は一貫して!河野裕子を”書”に著しています。
この書は 二人が出会う1967年頃から結婚までの数年間が描かれ
まさに我々とほぼ同じ学生時代、同じ京都を舞台として青春が描かれ綴られています。


  
     【左】河野裕子の実家にて結納の儀の頃

 青春まで!の永田和宏
永田の祖父 嘉七は俳句を嗜み 妻の死に詠んだ句は 『仏より柩の重き雪の葬』。
寒村における土葬… 私の祖父の葬儀を思いました。
農協勤務の祖父が詠んだ『五十年ひたすら妻の墓洗ふ』は 後の永田和宏に重なります。
幼くして母を亡くした永田和宏は 間もなく父が迎えた継母のもとで思春期を迎えます。
妹が『よくグレないものだ』と思うほど辛辣な継母に けして反抗しない思春期を送りました。
両親の愛情いっぱいに育った河野裕子には 永田の青春は『余りに不憫』に思われ、
『お母さんはどんなひと?』と問う河野に 永田が答えた『眼は二つある』に激しく涙します。
永田の一首… 「あんたさえ居なければ」とう継母の言葉 消したき言葉は消せざる言葉


 河野裕子の日記・手紙の発見から
この書を世に出すきっかけは 河野の死後に発見された膨大な日記と書簡の束でした。
『何が書かれているのか知るのが怖く』て読むことができなかった日記ながら
『こんなにドキドキするとは何事か!』と思いつつ読み…書でもTV番組でも公開します。
歌人はじめ多くの人は 彼が妻の日記や手紙を公表することに疑問を抱いていました。
それを承知しつつ 永田は 彼女の日記や手紙をそのまま出す以上
『少しでも脚色があってはならないし伏せる部分があってはならない』こととし、
『それは河野裕子への私の責任の取り方でもある』 と肚をきめて綴り 上梓します。
『私たちの青春の証しとなっていれば嬉しいことであり、この書を出す意味でもある』 とも。
正直なところ”引き”ますが、河野裕子を軸に動いた永田家の真髄ではありましょう。
それは 歌人であり出版社を営む息子の永田淳(同大英文)も河野裕子について数冊著し
娘である歌人の永田紅(京大農)も同じく母親についての著があることにも表れています。


 ちょっとズルイ!?
永田が書に記している一節 『鏡の中の世界は 絶対に三次元の世界にはなり得ない』
『鏡の中では左右反対に映るのに なぜ上下反対には映らないのか』(1967.11.25)
書では触れていませんが 明らかに朝永振一郎の随筆「鏡の中の世界」から引いています。
ノーベル賞を受賞した朝永振一郎のこの書を私も同じ時期に読み よく憶えていますから。
出典に触れず ご自身が思ったことのように書くのは ちょっとズルイ!と思いました(笑)
永田はその疑問への答を書いていませんが、朝永さんは随筆に答も書いています。
「左右はもちろん、上下も反対(逆)にはならない。上は上に 下は下に映る」 が答です。
人間が頭の中で左右を逆にしているのであり、鏡には 右は右、左は左に映っている、と。


 蛇足ながら…
自ら『不様な青春の記録です』と記す永田の書。
父親は西陣の織物の営業でしばしば上京します(定宿は青島旅館、青島幸雄の実家)。
こうした縁?が永田には多く、高校時代に塾で親しくなった女生徒の一人は河野澄子さん。
一時は松本サリン事件の容疑者とされた河野義行氏の妻で サリンの最初の被害者です。
永田は河野裕子と同じ姓だとは思ったが、後に塾で親しかった女性と判り驚いています。


 二人の出会い
二人が学生時代に出会った”京大短歌会”、河野は京女ながら大学を越える短歌会でした。
永田が忘れた出来事も 河野裕子の日記に当時の永田について克明に記されています。
河野にとって永田が「気になる存在」すなわち永田に恋心を抱いていたということでしょう。
「ひとひらのレモンをきみは遠い昼の花火のようにまわしていたが」(永田和宏)
学生時代 喫茶店で紅茶を飲む河野裕子の様子を歌にしたのは永田の河野への恋心?
読みながら まぶしい!と言うより羞かしくなる!恋する二人の日々は割愛します。
なぜ割愛するのか… 羞かしくなるどころではない赤裸々な青春が更に綴られていますから。


 河野裕子「二人のひとを愛してしまへり」
河野は 永田に惹かれる一方、短歌で師事する宮柊二門下のN氏にも惹かれていました。
「陽にすかし葉脈くらきを見つめをり二人のひとを愛してしまへり」(河野裕子)
河野日記には 『私 おかしいのかもしれない。私の中に何かを生みつけられたみたい』
『どうしたらいいの。二人を好きになった。一緒にいたい、あなたともあの人とも』と。
永田も知っていることであったようですが 河野の日記で生々しい詳細を知り改めて驚きます。
「あの胸が岬のように遠かった 畜生!いつまで俺の少年」(永田和宏)


 出発と挫折と…
河野裕子は大学四回生の時(1969) 「桜花の記憶」で角川短歌賞を受賞、脚光を浴びます。
河野は短歌を続けつつ 大学を出ると郷里(滋賀県草津)の中学校の国語教員になります。
永田は大学院~研究者への道をめざしますが、京大も東大も院試に落ち留年を決めます。
『骨も砕けるほど抱きしめられ しないやすい草みたいに限りなく奪われてしまった』(河野日記)
そうした日々を河野は歌集「桜の記憶」で
「夕闇の桜花の記憶と重なりて初めて聴きし日の君が血の音」と詠んでいます。
永田がこの時期に詠んだ歌には 恋愛に関わる河野との濃淡の差が歴然としています。
「夕闇を忍びてのぼる煙青く我が十代は駆けて去りゆく」(永田和宏)


 二人とも死にそこねた青春
1960~70年代にかけて京大理学部は “民青系が強かった” 由。
永田は 京大に進んだ高校の友人が民青で、ノンポリを自認しつつ”三派”とのゲバに出ます。
学生運動も短歌も勉学も総て中途半端な日々、院試におちたことと併せて河野ともぎくしゃく…
家庭的には継母との軋轢など”八方塞がり”の心境で睡眠薬自殺を図ります(1970.2)。
※ 睡眠薬自殺の成功(致死)率は10%程度で、長く眠るため救命される例が大半の由。
救命され未遂となりますが、永田の家族が総て伏せ河野も亡くなるまで知らない事実でした。
しかし 実は河野裕子も自殺未遂となったであろう歌があります。
「死にそこねし夏ありしことも恥ならず踏めば落梅の核みな白し」(1971.12.)
歌人とは斯くも壮絶な青春の先にあるものでしょうか…。


 哀しみのきはまるときに呼ばむ名もなし
二人のセックスも赤裸々に綴られています。
『きょう私はあのひとと結ばれた』との日記はTVでも紹介されました。
『息ができないほど首を吸われる。私を強い力でもぎとろうとする。私を犯そうとする』
やがて 『来ないの。生理が来ないの』。そして1970年5月、河野は堕胎手術を受けます。
『医師が最後に仰った、産みなさいよ の一言が何の余地もなくたった一つのほんとう…』
『私が不憫だと思ってやらなければ、誰がこの子を可哀想だと思ってくれるでしょう』。
彼女が詠んだ歌は「誰のものにもあらざるその子 哀しみのきはまるときに呼ばむ名もなし」。


 誰のようにも生きられず 誰のようにと生きもせず
河野裕子の第一歌集「森のように獣のように」の “あとがき”に 『私の青春の証』 と記し
『他にも生き方があったのではなく、このようにしか私は生きられなかったのである。
悔いだらけの青春… もう一度生まれても今まで生きて来たのと同じ青春を選ぶだろう』
小椋佳の歌「孤高の鷹」をご存じでしょうか?
『誰のようにも生きられず誰のようにと生きもせず』の詞が河野の短歌に重なりました。


 最期の息
河野裕子の絶筆は、娘さんが口述筆記した歌ですから まさに “最期の息”の籠る歌。
「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」。
この歌に添えられた永田和弘の歌は
「知らぬまま逝ってしまった きみを捨て死なうとしたこと 死にそこねたこと」。
やがて永田和宏が虹をわたる日、
天上で迎える河野裕子とともに お互いに 「自死しそこねた日」 を語りあうのでしょうか。


  最後まで読んでくださった方に心から感謝申し上げます。
  最後まで読まれなかった方 … またのお越しをお待ち申し上げます 
                            デ某拝


  
 

過去ログ目次一覧】
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吾輩も猫である~80 http://blog.goo.ne.jp/00003193/e/dce7073c79b759aa9bc0707e4cf68e12
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人生の棚卸し http://blog.goo.ne.jp/00003193/e/ddab58eb8da23a114e2001749326f1f1
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9 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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コメントしますが (pukariko)
2022-06-13 15:09:58
こんにちは。
この番組、私も一瞬見ようかなと思ったけど、やっぱりやめたのでした。
なんか見るだけで疲れそう、正直こういうのはもう要らんわというか・・・

>日記の公開への違和感あるいは生理的嫌悪、そもそも短歌に無関心…

そうそう、これ全部当てはまります。
一番違和感あるのが日記の公開です。
私は絶対こんなことはされたくないです。
返信する
無言の意志 (Rarudo)
2022-06-14 10:39:52
たまたま見た番組でした。
舞台が京都であったこと、そして時代があのころであったこと、それらが自分の学生時代と重なり興味深く拝見しました。

日記や手紙が自分の死後公開されることは、
普通に考えればこれほど恥ずかしく不快なことはありません。

でも妻も夫もNさんもプロの歌人なんですよね。


刃物で切り取られた箇所が幾つかあったとありました。そこは読まれたくなかったのでしょう。
それはつまり
それ以外の残した部分は人に見られてもいいと思っ
たということではないでしょうか

いやむしろ河野裕子さんは
自分の日記が作品として公開されることを望んでいたような気がします
われわれ一般人とは違い、プロの歌人だった彼女だから
自分の内面を歌に託してさらけだしたい、
それを作品として世に残してほしいと思われたのではないでしょうか

乳がんを告知されてから自分の死を意識し
消し去りたい過去はすべて抹消できたはずです
突然死とちがい、
がんという病気は、ほとんどの場合それができる時間をギフトされています

なのに彼女はそれをしなかった。
膨大な量の日記と手紙をあえて残した・・・

夫である永田和ひろさんは、妻の無言の意志に後押しされ日記の公開に踏み切られたのではないでしょうか
「夫婦のかたち」として「プロ」としてこれはアリだと思うのです

とまあ、これが私の番組をみた感想であります
返信する
Unknown (沙羅)
2022-06-14 12:27:27
デ某さんの記事を読んでから多少の考えの変化がありました。
それはほぼRarudoさんが書かれたことと同じです。
短歌は隠そうとしても自分の内面を映し出してしまいます。
自分が無意識に思っていることまで外に出てしまうことがあります。
若いころから自分が思うことをすべて率直に歌にして出してきた二人だから、私人だけでなく公人だから、一般人とはプライバシーに関する感覚が違うのでしょう。
永田和宏は河野裕子を深く愛していたから、彼女が
真摯に生きたすべてを普通は隠すべき事柄まで知ってほしかったのかもしれません。
そして自分のことも含めこんな愛があったのだ、傷つけあい、もとめ合い、真摯に向き合った日々を形として残したくなったのかもしれません。
と・・理解しました(というより理解しようと努力しました)

しかしながら永田和宏の行動・気持ちを理解することと、それをよしとして認めること・本やドラマを平気で見れるかどうかは別です。
私の一般人としての感覚では故人の日記を公開して、それを本にしてドラマにするのは生理的に受け入れがたいです。
特にこれは男性より女性の方が拒絶反応がきついと思います。
自分が亡くなった後に日記を公開されたらと、自分の立場になって嫌だと感じるからです。
ましてや女性としてもっともセンシティブな事柄まで触れていることは耐えられません。

それとNさんはご存命ではないのだろうと思いました。
もしNさんがご存命ならいくらプロの歌人だとしても 傷つくのでは。
それともNさんも河野裕子を深く愛していたから容認するのでしょうか?
返信する
Re : pukarikoさん「コメントしますが」 (デ某)
2022-06-14 21:15:24
pukarikoさん
コメントありがとうございました

> なんか見るだけで疲れそう、正直こういうのはもう要らんわ…
そう仰りつつコメントお寄せくださって恐縮です

> 違和感 生理的嫌悪 短歌に無関心…全部当てはまります。
> 日記の公開…私は絶対こんなことはされたくない
ごく普通の感覚では概ねそうだと思いますが、短歌にも無関心
短歌のリアリズムをぜひ!ご堪能ください
pukayikoさんらしい鋭い歌が生れそうな気がいたします
返信する
Re : Rarudoさん「無言の意志」 (デ某)
2022-06-14 21:18:05
Rarudoさん
コメントありがとうございます。嬉しく読ませていただきました

> 舞台が京都であったこと…時代があのころであったこと
われらが時代の われらが舞台ですものね

> 普通に考えれば…恥ずかしく不快なこと
> でも妻も夫もNさんもプロの歌人なんですよね。
歌人でも女優さんでも厭だと思う方は厭だと思います
しかし仰るとおり 『切取られた箇所』以外は
読まれること 公開されることを想定されていた、と思います。
そんなエビデンスはなくても そう考えるのが寧ろ自然だと思いました。
日記そのものが既に作品の体裁にあるとも思いましたし
永田和宏さんへの彼女の "最期の挑発" でもあった気がしてなりません。

> 乳がんを告知されてから自分の死を意識し…
> 突然死とちがい、がんは…それができる時間をギフトされています
これは がんを経験した者の多くがもつ感慨ですよね
それが殆ど唯一と言っていい がんの利点であり
河野裕子さんも当然意識されていたことと思います。

> なのに彼女はそれをしなかった。膨大な日記と手紙をあえて残した。
> 永田和和宏さんは、妻の無言の意志に後押しされ公開に踏み切られた…
> 「夫婦のかたち」として「プロ」として これはアリだと思うのです。

そのことについて 長くなりますが 私事を含めて記します。
私は高校時代に厖大な日記を綴りました。
勉強する時間より日記を綴る時間が質・量とも遥かに!
しかし大学に入ってから総て処分しました。
やがて日記も兼ねて読書日記を綴りましたが、これも処分しました。
それらは 大学ノートであったりルーズリーフであったり…。
河野裕子さんの日記が総てハードカバーの同じ様式であったのを見て
「これは日記ではなく作品だ」 だと思いました。
書かれたのは彼女の二十代半ばまでであっても
その日記と手紙が 遺された夫を衝き動かすことは確信されていた、と思います。
それ以上に夫を衝き動かしたのは 切取られたページかもしれませんが…。

Rarudoさん コメントほんとうにありがとうございました
お元気そうでいらっしゃることが何より嬉しかったです
梅雨入りしましたけど くれぐれもお元気でいてくださいね
返信する
Re : 沙羅さん (デ某)
2022-06-14 21:19:57
沙羅さん
こちらへのコメントの追伸 ありがとうございました

> 記事を読んでから多少の考えの変化がありました。
> ほぼRarudoさんが書かれたことと同じです。
沙羅さんがコメントされたのは
私のブログ記以上にRarudoさんのコメントゆえかもしれませんね。

> 短歌は 隠そうとしても自分の内面を映し出し…
> 無意識に思っていることまで外に出てしまう
そう思うと ただでさえ寡作なのに益々詠めなくなりそうです

> 永田和宏は…河野裕子が真摯に生きたすべてを知ってほしかっ…
> 自分のことも含め真摯に向き合った日々を形として残したくなったのかも…
> と ... 理解しました (というより理解しようと努力しました)
そのお気持ちと 「一般人としての感覚」では生理的に受け入れ難いこと
そこにこのことを巡る二つの大きな塊があるように思いました。
でも私は「男性より女性の方が」というようには考えません。
性の相異はお互いに永遠に不可解であり謎でありましょう。

私の考えは本文の最後のパラグラフに記しました。
本当は それ以上は記すべきではないと思いつつ 記すことにしました。
そうすることが誠実な態度だと思い直したからです。

沙羅さんの益々のご活躍 たくさんの短歌を生み出されますことを祈ります
返信する
補遺 (デ某)
2022-06-20 17:57:50
乳がん手術後、河野裕子の心は変調をきたしました。
再発するまでの間「激しい怒りの発作」に見舞われます。
些細なことで延々と夫 永田和宏を罵り、包丁で迫ったり絶望から自殺も考えたり...。
 『この人を殺してわれも死ぬべしと幾たび思ひ 幾たびを泣きし』。
彼は彼女の激しい怒りに ただ寄り添い泣き受け止めるほかありませんでした。
 『あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて』
そして彼は「彼女は本気でぼくを憎んでいた。憎みながら誰よりも愛していた。
 一番心配していたのは、置いていくぼくのことやった。
 この人が女房だったことを改めて誇らしく思う」と記します。

河野裕子は「必ずいつか死ななければならない」と書く一方、がん告知の後
「涙があふれてしかたなかった。かなしい以上に生きたいと思った」と。
手術後、まるで変ってしまった身体の苦しみと共に、癌の転移・再発の不安を抱え、
 『泣いてゐるひまはあらずも一首でも書き得るかぎりは書き写しゆく』
「病気をするまでのわたしには、死はひとごとであり、遠いものであった。
 しかし、今は一日一日が愛おしい。生きている喜びが身にしみる」。

転移の不安は現実となり、死の6ヶ月前、彼と室生寺を再訪ねます。
石段を上り、釈迦如来像に手をあわせます。
「祈る... 祈ることだけがすべてではないか」と。
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Unknown (1948219suisen)
2022-07-01 05:52:41
はじめまして、ではないですが、はじめまして

河野裕子さんは歌人であるとともに女優でもあられました。

一家全員が歌人の永田家のことをサザエさん現象という人もいました。

私生活でありながら、見せる私生活であったと。

だから女優河野裕子は最後までドラチックであらなければならなかったし、永田和宏は最後まで、それを編集、脚色して観客に見せる仕事に徹しなければならなかった。ヒロインの死後も…。

残された河野裕子の日記は、予め彼女の目論んだ彼女の手による台本だったのでしょう。

そして、夫婦のことは語り草となり、この秋には夫婦の像が建てられて完結します。
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Re : 1948.2.19suisenさん (デ某)
2022-07-01 09:26:35
suisenさん
お早うございます。コメントしづらいブログ記にコメントくださりありがとうございました

永田家の "サザエさん" 現象は存じていました。
河野裕子さんの "女優" 説は初めてききました。
かつて道浦母都子さんとお話しした際、
お二人については 語りにくそうでいらっしゃいました。

> 私生活でありながら、見せる私生活であったと。

"見せる" すなわち "表現する" 私生活であったのかもしれませんね。
女優さんと映画監督ご夫妻 ...
小山明子さんと大島渚さん、乙羽信子さんと新藤兼人さんを思いました。
ただ 女優さんが監督さんをリスペクトする以上に
永田さんの河野さんに対するリスペクトが大きかったのですが...。

> 女優河野裕子は最後までドラマチックであらなければならなかったし
> 永田和宏は最後まで、それを編集、脚色して観客に見せる仕事に徹しなければならなかった。

はい。仰るとおりかと思います。
「ヒロインの死後も…」仕事を貫徹された永田さん、つくづく誠実な方だと思います。
ただ科学者としては...と思いますが 僭越なのでそこまで!(笑)

> 残された河野裕子の日記は、予め彼女の目論んだ彼女の手による台本だったのでしょう。

目論んだことだったのか あり得ると想定されたのか ...
台本だったのか 賭け!だったのか ...

> そして、夫婦のことは語り草となり、この秋には夫婦の像が建てられて完結します。

はい。私も語り草に ささやかに一役かいました(笑)
"像" ですか!? ちょっと信じがたいです。
虚像か 実像か ... 謎のままにしておく "台本" だったと思います。
永田さんはちがったのかもしれませんね。
それとも残された永田さんの ささやかなリベンジ でしょうか...。

コメント ほんとうにありがとうございました
お子を思われる歌 ... ルソー「エミール」の一節を思いました。
益々のご活躍をお祈りいたします
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