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読書感想95  弾左衛門とその時代

2013-10-03 23:30:06 | 時事・歴史書

 

読書感想95  弾左衛門とその時代<o:p></o:p>

 

著者     塩見鮮一郎<o:p></o:p>

 

生年     1938<o:p></o:p>

 

出身地    岡山県<o:p></o:p>

 

初版     2008<o:p></o:p>

 

出版社    河出書房新社  (河出文庫)<o:p></o:p>

 

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感想<o:p></o:p>

 

 本書は明治維新で廃止された「弾左衛門」制度と最後の13代弾左衛門(明治時代に弾直樹と改名)について語っている。ポイントは以下のとおり。<o:p></o:p>

 

 の身分は武士の発生と軌を一つにしているという。古墳時代からの皮革精製の仕事と公権力による処刑の手伝いが一緒になったのは平安時代で、鎌倉幕府以降の武家政権の下でも引き継がれた。武士にとって最初に必要だったのは皮革の技術だった。武士との強い関係をもっていたが各地の農村に基盤を置くようになったのは江戸時代に鎖国が始まってからだという。東南アジアから輸入していた皮革が断たれ、国内で作り出す必要が出てきた。牛馬の屠畜は大宝律令のころから禁じられ、自然死した牛馬を加工するしかなかった。死んだ牛馬は捨て場に捨てられ馬頭観音が目印になった。牛馬を解体して皮革を生産するのは、東北では農家が自からしたが、関東以南の地域ではの身分がその仕事を担った。<o:p></o:p>

 

 「弾左衛門」は職掌を表す名称で、武家身分の最下層にされていたが、穢れ意識が強まった時代に武士階級から賎民の身分にうつされた。徳川家康が江戸城の大手門の前にいた矢野氏を「弾左衛門」に採用した。この矢野弾左衛門は江戸時代13代にわたって「弾左衛門」を務めた。屋敷は何度か替わっているが、最後は浅草新町にあった。たえず処刑場の移転と共に屋敷を移転している。浅草新町は小塚原の処刑場に近い。の身分が江戸の中で住むことを許された場所はこの新町だけだった。明治元年には417軒が住んでいた。弾左衛門の屋敷は役所も兼ねていて740坪もあり、お白洲もあり、屋敷の向かいには牢まであった。江戸町奉行は被差別民の裁判と刑の執行を弾左衛門の役所に任せた。弾左衛門の役所は江戸府内だけではなく、関八州その他の土地の被差別民―、猿引(猿回し)、、乞胸(大道芸人)などを支配した。<o:p></o:p>

 

 弾左衛門の財力は、灯芯の江戸での独占販売権、皮革関係の独占権で培われ、「エタ金」と言われた金融業を営むほど巨額になっていた。<o:p></o:p>

 

 幕末に身分引上げを13代弾左衛門は試みている。長州征伐に身分の者を参加させ、銃隊を編成する。その功を認められて、鳥羽伏見の戦いで負けた幕府から13代弾左衛門は平民の身分引上げを申し渡される。3日後に手代65人の身分引上げを願い出て認められる。そして1年間に50万両を献上するので、身分全員の身分引上げ、次に猿引、、乞胸の順番で身分の引き上げを願い出る。幕府の瓦解によって立ち消えになる。これは明治政府によって明治4年に実行された。賎称廃止令(解放令)が廃藩置県と同時期に出されたのだ。<o:p></o:p>

 

 身分制度と結びついていた職業の独占もなくなり、経済的な危機に陥った新町の人々を救ったのも弾直樹だった。アメリカから技術者を呼んで、製靴技術を人々に習得させたのである。だけではなくにも習得したい人に門戸を開けた。弾家の財産はほとんど消尽し、製靴会社の実権も人手に渡るようになった。その晩年の心境を手代が記している。<o:p></o:p>

 

≪今ヤ数百人ノ生徒ハ熟達シテ全国普ク皮革製造所ノ設ケ無キハ無ク、諸靴製造人ニ乏シカラザルヲ見、其志業(初心)ノ貫徹成就セルヲ歓ベリ≫<o:p></o:p>

 

 著者は日本の差別意識の根幹には「清めが汚れに反転する」と述べている。清めた人を疎ましく思うのだと。<o:p></o:p>

 

 幕末から明治にかけて平等への機運が大きくうねっていた時代、まさに革命の時来たりだったのだとよくわかる。弾左衛門が豪商と変わらない財力を持っていたのも驚いたし、その財力を被差別民の経済的な自立のために消尽したのも驚いた。被差別民の棟梁だったのだ。<o:p></o:p>

 

 最新の研究成果も取り入れていて、読み応えのある歴史書である。

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