『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

読書感想232  銃口

2018-04-30 20:05:50 | 小説(日本)

 

銃口 (上)(小学館文庫)

読書感想232  銃口

著者     三浦綾子

生没年    1922年~1999年

連載年    1990年1月~1993年8月 

月刊誌「本の窓」

出版年    1994年

出版社    小学館

☆☆感想☆☆

昭和の始め、大正天皇の御大喪の時から終戦後の数年の時期までが、この小説の扱う時代になっている。そして舞台は北海道の旭川、幌志内から満州、朝鮮に及ぶ。それは主人公の北森勇太の小学校3年生の時期から始まる。北森勇太は軍国主義的で天皇崇拝を骨の髄まで叩き込むことを旨とした教師に、ご大喪について書いた綴り方で厳しい叱責を受ける。寒い日だったので、思い出すと「足が冷たくなります」と書いたことに、教師はなぜ深い悲しみを表現しないのかと怒ったのだ。ご真影を飾ってある奉安殿の掃除も写真に尻を向けてしてはいけないとか厳しい訓導を受ける。その後、4年生になって、優しく、自由主義的な坂部先生に担任が変わる。その坂部先生の教え方に感銘を受けた北森勇太は小学校の教師を目指す。そして師範学校を卒業して炭鉱の町に赴任する。そんなある日、同じく小学校教師になっていた同級生の中原芳子に誘われて、札幌の綴り方連盟の会合に出席したことから、北森勇太の人生は暗転する。治安維持法違反の罪に問われ7か月も拘禁され、その後不起訴になり保護観察処分となったが、小学校を依願退職させられていたのだ。天職と考えていた職場を奪われ、また同時期に警察に拘留されていた坂部先生が亡くなったことや、どこでも赤の扱いで働くことができず、満州に行くことを考えていた矢先に召集令状が来て満州に行くことになる。

この北海道綴り方連盟事件は実際にあった事件で、80人ぐらいの教師が治安維持法違反の罪で取り調べを受け、教職から追放されたそうだ。それはすべて秘密裡に行われ、新聞に公表されなかったという。

また、朝鮮人の抗日パルチザンの言葉として語られる日本の悪逆非道な仕打ちが、今では虚偽のプロパガンダだと暴露されているものもある。それを真実のごとく小説の中で取り上げるのは、良心的な日本人の朝鮮人に対する贖罪意識のなせるわざなのだろう。キリスト教徒であり、戦争によって国家によって苦しめられたという意識が強いほど、悪逆非道の日本というフレーズに飲み込まれてしまうのかもしれない。著者がこの小説を書いた時代の日本人の一億総懺悔の雰囲気が伝わってくる。

朝鮮人抗日パルチザンの言葉を一部引用してみよう。

「日本の非道は限りもありません。村々を焼打し、教会に人々を押しこめて焼き殺し、神社参拝は押しつける。国語は取り上げる。名前は変えさせる、強制連行された男たちは過酷な扱いによって、どれほど非業の死を遂げたのか。日本の道路、ダムの下には、殺された同胞の骨が数多く埋もれていると聞いています。彼らは女性を凌辱し、街を歩いていた女や、赤ん坊に乳を飲ませている若い母親、老人の手を引く孫娘を遮二無二、軍の慰安所にぶちこんだではないですか。」

朝鮮半島において村々を焼打ちしたり、教会に人々を押し込めて焼き殺したという話は聞いたことがない。国語を取り上げるということも戦争中に公的機関で日本語を義務化したことだし、強制連行云々は、1944年9月から始まった朝鮮人に対する労務動員、つまり徴用を言い換えているわけである。強制連行という言葉を選択すると、奴隷のような労働現場が思い浮かぶ。徴用といえば、戦時徴用で日本人も動員されている。日本軍が無理やり拉致したという従軍慰安婦の話はすでに破綻している。名前を変えさせたというのも戸籍整備のためで、日本名に変えることを強制していなかった。朝鮮名のままの人もいたが、自発的に日本名に変えた人が多かったということだ。

小説は影響力が大きいので、政治的なプロパガンダに気をつけなければならないし、事実関係を綿密に調べる努力も必要だと痛感した。小学校の授業の様子や生き生きした子供たちのようすなどとても面白かったので、ちょっと残念だった。

三浦綾子の小説なのでキリスト教信仰についてもいろいろ書いてある。登場人物も信仰を持っている人と、理解できない人の会話もあるが、著者には申し訳ないが、そのまま深入りせずに読み飛ばした。


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読書感想231  回廊封鎖

2018-04-24 22:26:31 | 小説(日本)

 回廊封鎖

 読書感想231  回廊封鎖

著者      佐々木譲

生年      1950年

出版年     2012年

出版社    (株)集英社

☆感想☆☆

プロローグは老夫婦が列車に飛び込む自殺のシーンから始まる。次の場面では電車の前に突き落とされた他殺体の現場。そして高層集合住宅の屋上からぶら下げられていた死体。二つの他殺体の共通項は同じ紅鶴というサラ金にかつて勤めていたこと。紅鶴という悪名高い消費者金融は既に清算されていて現在は存在していない。借りた人は多重債務者となりほとんど自己破産に追い込まれ家庭も崩壊し、さらに自殺した者も出た。紅鶴は高利の貸付で暴利をむさぼり、その利益のほとんどを海外の創業者の息子と娘の会社に移した。貸金業対策法の一部が改正施行された後、大量の過払い利息返還訴訟を受けて破綻した。創業者も亡くなった。しかし、紅鶴には資金が残っておらず、被害者が過払い分の返還訴訟を起こしてもお金が戻ってくることはなかった。警察は、二つの殺人事件と紅鶴の関係に焦点を絞る。一方、創業者の長男は紅鶴の巨額の資金で香港の映画産業に投資して成功を収めていた。その創業者の長男の愛人の女優の映画が、東京の映画祭で上映されることになる。

時代劇で言えば天誅を下すというのが犯人グループの動機だし、復讐できれば死んでもいいという常軌を逸した感覚、つまり狂気がもっと描かれると、リアリティが出たかなと思う。性格もよくまともな生活をおくっている彼らからは狂気があまり感じられない。同情の余地がないのは殺される方で、殺す方はそこまで思い詰めたうえに殺しの代償も支払っているので同情してしまう。犯罪に手を染めたことで彼らがどんどんすごみが出てくるはずで、犯罪小説としてそれが見たかった。

 
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読書感想230  熊を放つ

2018-04-14 15:56:32 | 小説(海外)

熊を放つ〈下〉 (中公文庫)

読書感想230  熊を放つ

著者      ジョン・アーヴィング

生年      1942年

出身地     米国 ニューハンプシャー州

出版年     1968年

翻訳者     村上春樹

邦訳出版年   1986年(昭和61年)

邦訳出版社   中央公論社

☆☆感想☆☆

一人称で語られていく物語。一人はグラフ。もう一人はジギー。ふたりはウィーンの市庁舎公園のベンチでお昼時にいつも見かけていたが話をしたことはなかった。大学生の二人はオートバイの店で初めて話して、意気投合。ジギ―の獣とよぶ旧型のいかついバイクに乗って山を越えてイタリアへ行くことにした。山に向かう前に、まずウィーンのシェーンブルン宮のはずれにあるヒーツィング動物園によった。それから山へ向かった。川で鱒を釣ったり、山の中で野宿したりする。ツーリングの語り部はグラフ。ツーリング中に出会った人は、ふとっちょのカルロッタ、魚釣り監視員の夫婦ギッペル氏とフラウ・フライナ、旅館を経営している叔母さんの所に行くガレンと叔母さん、そして養蜂家のケフ。ジギ―がノートに綴っていたのが、獣というオートバイと戦争中の父と母のこと、そしてオートバイを愛するナチスの隊長のこと。そして夜な夜な夜警にいじめられるヒーツィング動物園の動物たちのこと。

二人のすることもノートの記述もほとんどファンタジーのようで、どこまでが現実なのか判然としないが、会話が軽妙でツーリング愛と友情は伝わってくる。ツーリングは時代や国ような枷からの自由の象徴だし、動物の解放も同じ文脈だ。 


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