読書感想232 銃口
著者 三浦綾子
生没年 1922年~1999年
連載年 1990年1月~1993年8月
月刊誌「本の窓」
出版年 1994年
出版社 小学館
☆☆感想☆☆
昭和の始め、大正天皇の御大喪の時から終戦後の数年の時期までが、この小説の扱う時代になっている。そして舞台は北海道の旭川、幌志内から満州、朝鮮に及ぶ。それは主人公の北森勇太の小学校3年生の時期から始まる。北森勇太は軍国主義的で天皇崇拝を骨の髄まで叩き込むことを旨とした教師に、ご大喪について書いた綴り方で厳しい叱責を受ける。寒い日だったので、思い出すと「足が冷たくなります」と書いたことに、教師はなぜ深い悲しみを表現しないのかと怒ったのだ。ご真影を飾ってある奉安殿の掃除も写真に尻を向けてしてはいけないとか厳しい訓導を受ける。その後、4年生になって、優しく、自由主義的な坂部先生に担任が変わる。その坂部先生の教え方に感銘を受けた北森勇太は小学校の教師を目指す。そして師範学校を卒業して炭鉱の町に赴任する。そんなある日、同じく小学校教師になっていた同級生の中原芳子に誘われて、札幌の綴り方連盟の会合に出席したことから、北森勇太の人生は暗転する。治安維持法違反の罪に問われ7か月も拘禁され、その後不起訴になり保護観察処分となったが、小学校を依願退職させられていたのだ。天職と考えていた職場を奪われ、また同時期に警察に拘留されていた坂部先生が亡くなったことや、どこでも赤の扱いで働くことができず、満州に行くことを考えていた矢先に召集令状が来て満州に行くことになる。
この北海道綴り方連盟事件は実際にあった事件で、80人ぐらいの教師が治安維持法違反の罪で取り調べを受け、教職から追放されたそうだ。それはすべて秘密裡に行われ、新聞に公表されなかったという。
また、朝鮮人の抗日パルチザンの言葉として語られる日本の悪逆非道な仕打ちが、今では虚偽のプロパガンダだと暴露されているものもある。それを真実のごとく小説の中で取り上げるのは、良心的な日本人の朝鮮人に対する贖罪意識のなせるわざなのだろう。キリスト教徒であり、戦争によって国家によって苦しめられたという意識が強いほど、悪逆非道の日本というフレーズに飲み込まれてしまうのかもしれない。著者がこの小説を書いた時代の日本人の一億総懺悔の雰囲気が伝わってくる。
朝鮮人抗日パルチザンの言葉を一部引用してみよう。
「日本の非道は限りもありません。村々を焼打し、教会に人々を押しこめて焼き殺し、神社参拝は押しつける。国語は取り上げる。名前は変えさせる、強制連行された男たちは過酷な扱いによって、どれほど非業の死を遂げたのか。日本の道路、ダムの下には、殺された同胞の骨が数多く埋もれていると聞いています。彼らは女性を凌辱し、街を歩いていた女や、赤ん坊に乳を飲ませている若い母親、老人の手を引く孫娘を遮二無二、軍の慰安所にぶちこんだではないですか。」
朝鮮半島において村々を焼打ちしたり、教会に人々を押し込めて焼き殺したという話は聞いたことがない。国語を取り上げるということも戦争中に公的機関で日本語を義務化したことだし、強制連行云々は、1944年9月から始まった朝鮮人に対する労務動員、つまり徴用を言い換えているわけである。強制連行という言葉を選択すると、奴隷のような労働現場が思い浮かぶ。徴用といえば、戦時徴用で日本人も動員されている。日本軍が無理やり拉致したという従軍慰安婦の話はすでに破綻している。名前を変えさせたというのも戸籍整備のためで、日本名に変えることを強制していなかった。朝鮮名のままの人もいたが、自発的に日本名に変えた人が多かったということだ。
小説は影響力が大きいので、政治的なプロパガンダに気をつけなければならないし、事実関係を綿密に調べる努力も必要だと痛感した。小学校の授業の様子や生き生きした子供たちのようすなどとても面白かったので、ちょっと残念だった。
三浦綾子の小説なのでキリスト教信仰についてもいろいろ書いてある。登場人物も信仰を持っている人と、理解できない人の会話もあるが、著者には申し訳ないが、そのまま深入りせずに読み飛ばした。