今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

不倶戴天井のアイツと2回の遭遇

2024年04月25日 | 生活

この寛容な私でも断固共存を拒否する、すなわち”不倶戴天井”(天井を共有できない)のアイツとなんと4月で2回も遭遇してしまった。

名古屋宅内で黒ゴキブリと。

その姿を見ると、例え就寝直前であっても、全身の血が逆流して、とにかくソイツを家から追い出すことが最優先となる(殺すことが目的でない)。

春の4月に2回とは、今までにない高頻度。

いったいどうしたことか。

黒ゴキブリは、外からの侵入者(屋内で繁殖するのは飲食店の調理場にいる茶バネゴキブリ)
2回とも見たのはワンルームの居間とは別の台所・バストイレのある空間だった(我がワンルームには別空間がある)。

奴らの侵入経路は、まずは堂々と玄関のドア。
次いで開け放たれた窓(翔んで入ってくる)。
今の時期、これらを開けっぱなしにはしていない。

すると残りは、排水口。
流しと浴室の洗面台・洗い場の排水口には、蓋状の覆いを被せてある。
唯一口を開けっぱなしにしているのは浴槽内の排水口。
週末帰京している数日間は、浴槽が不使用となるので、そこの排水溝を伝って入り込むことが可能だ。
奴らが浴槽内側の壁面を登れるのかは疑問だが、ここの浴槽は年数が経っていることもあって、それなりに細かい傷もあろう。

ということで、まずは浴槽の栓をすることにした。
ついでにドラッグストアで、従来の殺虫剤に代る、事前に空間に噴霧してゴキブリを駆除する無煙駆除剤なる新製品を購入した。
これを帰京前に噴霧してみる。

とにかく二度とアイツに逢いたくない。

 

 

 


人間存在の分かれ道

2024年04月23日 | パワー・スピリチュアル

人間の在り方そのものの岐路がある。

動物としての人間(サピエンス)を超越し、よりハイレベルの存在になるか、
その逆に、動物性に負けて、人間より下のレベルに落ちていくか。

この論議を仏教に備わって入ってきた六道思想(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)で論じてみる。

人間を超越したハイレベルな存在とは、人が「」になること。
天とは、仏教でいう天部すなわち、神道やヒンズー教のような多神教的神のレベル。
実際、日本の神道では、すでに歴史的人物が神になっている(菅原道真、徳川家康)。
天部(神)は、人間の限界を超えたパワーを備え、物事を思い通りにできる。
ただ、神話の神々がそうであるように、自己であることの執着・限界があって、それなりに欲があり、他の神と揉めたり、人間が信仰しないと気分を害す。
すなわち、菩薩や如来の域には達していない。

個人的には、人間が一挙に菩薩や如来になるのは無理なので、まずは来世に一歩前進の天部なることを目指して現世を生きればいいのではないかと思っている。
そのためには人間性を向上させる必要があり、私がスピリチュアルに目覚めたのもこの理由。

それに対して、人間性を高めるどころか、もったいないこと(せっかく人間に生まれたの)に逆方向の在り方を進む人がいる。
動物由来の欲を満たすことを人生の目標とした在り方は、畜生の道。
子孫や財産を増やす生き方もこれに該当し、それなりに満足・幸せになれるが、我欲の満足でしかない。
さらにその欲に支配されひたすら飢えた(欲が満たされない)状態になった在り方は畜生より劣る餓鬼の道で、こちらは飢えに苦しみながら生きる哀れな存在。
最悪なのは、それのために平気で悪事をするような地獄の道。

注意してほしいのは、一見人間的に見えるが、やたらと人を悪意で見て、憎悪/軽蔑する人たち。
本人は正義の道を進んでいるつもりだろうが、これは人間より一段劣る修羅の道。

日本人の多くが、自民党政府に批判的ながらも、野党の支持に向かわないのは、野党の人たちってなんか修羅的だから。
修羅の成れの果ては、かつての連合赤軍やオウム真理教、イスラム国(IS)、北朝鮮の政権。

多くの日本人はもとより真っ当な人間レベルだから修羅に権力を託そうとはしない。
人間ならば愛と信頼がベースになっている。
憎悪と不信がベース(マルクスレーニン主義者の基本メンタルもこれ)の修羅とそこが違っている。


謎の肩の痛み

2024年04月21日 | 健康

実は、3月あたりからずっと、両肩の原因不明の痛みに襲われていた。

いわゆる五十肩のような関節部の痛みではなく、そこから離れた筋肉の痛みだ。
それなら筋肉の使いすぎによるもののはずだが、両肩の筋肉を酷使した覚えがない。

まずは消炎鎮痛剤を塗ったが効かないので、より確実にと両肩に湿布を貼った。
すると一晩で湿布下の皮膚がただれてしまい(今までこんなことはなかった)、
触ると出血までするようになった。

その間も痛みは治らず、両腕が肩から上にあがらない状態。

一番困るのは原因不明な事で、当時読んでいた本の影響で、これは”生き霊”の仕業かと疑う。
ただ人から恨まれる筋合いもその相手も思い浮かばない(基本、他者と距離をとっているので)。

当時、あちこちの寺社や史跡を巡っていたので、現地の死霊や地縛霊も疑ったが、それらの地ではきちんと敬意を込めて参拝している(しかも彼らにはそのような力はないらしい)。
また”心霊スポット”に足を運んでもいない。

唯一思い当たるとすれば、”霊が見える”現象の図入り論文が発刊されたタイミングと一致するのだが、それなら目撃現場を歩き回った昨年の方が憑かれていいはず。

かように”霊障”と解釈することも難しい
※:これに加えて左足首の上に出血した傷があることに最近気づいた。いわゆる”カマイタチ”とは傷口の状態が違うが、これも心当たりがない(ズボンの中の部分なので外から切られることは考えにくい。

幸い、最近になって、やっと痛みが引き始め、肩も動くようになった。


ライスを食べる作法の問題

2024年04月20日 | 作法

ある館内のレストランで、パスタ単品の昼食を摂っていた(私にはライス付きの昼食は多すぎるため)。
ふと周囲を見渡すと、私以外の人はほとんどライス付きの料理を食べていて、そのほぼ全員、箸で食べている。
フォークより使い慣れた箸の方が、ご飯を適量摘むのに適しているので理解できる※。
※:昔は、こういうシーンではナイフとフォークだけで、しかもフォークの背側にナイフを使ってライスを乗っけて食べるのが”正しい”とされていた。フォークの腹でなく背側を使うのはヨーロッパでも(ナプキンを首から下げた時代の)前時代的所作。

ところがその中の幾人かは、ライスの皿を手に持って食べている。
皿を手に持って食べる行為は”洋食”としてはマナー違反になる(手を添えるだけならよい)。
ある女性は、サラダの小皿を手に持って箸で食べていた(和食なら問題ない行為)。

ではそれ以外の人たちはというと、卓上のライスの皿に顔を近づけていって箸で食べていた。
これは”犬喰い”(人間の食べ方ではない)というキツい和食のマナー違反である。

すなわち、ライスを食べる時、洋食か和食かのどちらかのマナー違反を余儀なくされるジレンマ状況になっている。

そもそも”洋食”にはパンの代わりの位置としてのライスは存在しない。
すなわち白米を”ご飯”として専用皿に盛って出すこと自体が、正当な食事(洋食、和食)には存在しない。

白米を”ご飯”すなわち主食として食べるのであれば、飯碗に盛ればいい。
そうするとその瞬間、おかずが洋食メニューであっても、”和食”(のバリエーション)になる。
すなわち、飯碗を手に持って、おかずを箸でつついて食べればよい。
実際、家庭ではこうやって食べているはず。

言い換えれば、現実的に白米+洋食のおかずという和洋折衷なのだから、さらに店側が箸まで提供しているのだから、形式だけの”洋食”にこだわることはかえって不適合となる。

飯飯+箸+平皿に洋食のおかずにすれば、和食のマナーの範囲内で対応できるから(和食でも大きな平皿を手に取って食べるのはNG)。


予想される地震は南海トラフだけか

2024年04月19日 | 防災・安全

今回の愛媛の地震の震源は南海トラフの深層部だから、広い意味で南海トラフ領域の地震といえる。

台湾の地震も南海トラフの延長上(フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界)である。

実際、人々は”すわ南海トラフ地震”と色めき立ったが、予想されている南海トラフ(東海・東南海・南海地震の震源域)の動きは見られない。

言い換えれば、なんでも「南海トラフ」に結びつけようとするのは、それしか頭にないからだ。

東日本大震災の前、”東海地震”しか人々の頭にない時に、私が「南海トラフ」の危険性を主張したら、一笑にふされたことがあった。

人々の地震に対する意識ってそんな程度(マスコミ依存)である。

例えば、今回の震源域は、日本最大の活断層である”中央構造線”の近く(南側)であり、それにストレスを与えているかもしれない、と考えられないだろうか。
和歌山〜四国を貫通する中央構造線に沿って震度2ー3の地震が一定の頻度で起き始めていることに注目している人はいないようだ。
※追記:記事をアップした2日後の4月21日朝、中央構造線沿いの紀伊水道でM3(=震度)の地震が発生。さらに同日21時の遠州灘(伊良湖岬沖)の地震(M4.2)も中央構造線沿い。かように中央構造線沿いに震源が東進している。

今後起きる地震は「南海トラフと首都直下の2つだけ」(マスコミがこの2つしか扱わないから)と思い込んでいる人たちに対して、熊本地震・能登半島地震などが、その思いが間違っていることを証明しているのだが、思い込みの強さは簡単には改善できない(しかも首都直下地震を関東大震災をもたらした相模トラフの地震と勘違いしている人もいる)

内閣府の中央防災会議がどのような地震を想定しているかは『防災白書』で公開されている(ネットで閲覧できる)のだが、それを無視しているマスコミに情報支配されている人は、居住自治体のハザードマップすら見ないようだ。
実際、大学で防災のゼミをやっているのだが、今年の受講者17名のうち、居住自治体のハザードマップを私が求めるまで見たことのある学生は1人もいなかった。

本気で(自分の頭で)防災を考えている人がいかに少ないか…


夢を見る心と見せる心

2024年04月14日 | 心理学

ある朝の起床直前、覚醒と睡眠を繰り返し、そろそろ起きようかというまどろみの時、
夢ではなく意識的な夢想(映像表象)をしていたら、
夢想中の走っている自動車が急に勝手に暴走し出した。
その瞬間驚いて目が覚めた。

覚醒時の想像(映像表象)は自我の制御下でなされるが、その制御力は存外強くなく、映像表象力が勝ることがある。

そもそも覚醒時の思考や想像すなわち”想念”も、自我が100%制御しているのだろうか(本人はそう思っている)、
そうかどうか試してみよう。

瞑想にトライするのだ。
まず想念を断ずる強い意思を自我が堅持する。
そうすると簡単に想念は消えるだろうか。
そうなら瞑想は簡単で、誰でも簡単に阿羅漢の”禅定”レベルに達するはず。

ところが実際はそうならずに、想念が勝手に湧いてくる。
そう、想念は”勝手に湧いてくる”のだ
(そもそも覚醒時に入力情報が途絶えると、脳は自らそれを補うメカニズムが存在する)。
夢と同じ原理だ(夢を見るレム睡眠時は脳が覚醒準備状態になっている)。

自我が能動的・主体的に”想念している”と思っているが、実際は自我が想念に引きづられ、それに浸っているのではないか
(対人関係において支配していると思っている側が実はその相手に支配されていることがある)。

さらに”思考”も、自我が思考を動かしいているというより、思考が論理規則を使って自己展開していて、
自我はそれを眺めているだけかも。

私の「心の多重過程モデル」でいうと、夢想も思考も、すなわち想念はシステム2の営為だ。

ということは、システム2自体が、自律運動性を備える想念と、その働きを鑑賞し、あわよくば制御しようとする自我との二重構造になっているようだ。

すなわち、システム2に居座る自我は、夢の受け手であって構成する側ではない。
夢を構成する側は(フロイトが主張するような)システム1(無意識)ではなく、自我以外のシステム2(思念作用主体)だ。
もちろん、夢は(睡眠中の)明晰な意識現象
※:睡眠の種類によってその意識現象に対する自我の関わりが異なる。上例のような浅いノンレム睡眠では自我は単なる距離をおいた鑑賞者だが、レム睡眠においては自我は夢に入り込み、巻き込まれる。

高度で創造的な映像・物語構成能力は動物的なシステム1では無理で(ネアンデルタール人以降の)システム2の能力。
意識-無意識二元論に束縛されたフロイトは、無意識側ではない自我とシステム2(意識)とを同一視(混同)した。
自我は意識という情報処理システム内にある(意識そのものではない)、再帰(自己言及)機能で、この自我機能があるからこそ、意識の束縛を離れるシステム3(マインドフルネス)が可能なのだ。

※:私の「心の多重過程モデル」は、心にまつわる一切の二元論バイアス(思考癖)※※から脱するのが目標。
※※:主客二元論、心身二元論、意識-無意識二元論、そして既存の「二重過程モデル」のシステム1-2二元論


他者を見下す人たち

2024年04月10日 | 作法

他者を見下す発言で辞職に至った県知事、機内・県職員へのパワハラ言動が話題になっている国会議員。
いずれも社会的地位が高いものの、作法的には未熟なレベルで止まっている(礼という徳が身についていない)残念な人。

いい歳をした人が尊敬に値しない人格レベルに止まっているのは、何も価値観の変化についていけないという行動規範のズレの問題ではなく、「人格の陶冶」という生涯にわたる成熟課題を放棄してしまった現代人の限界なような気がしている。
※:これにもレベル差があり、儒教は社会性に優れた”聖人”が目標だが、仏教はそのレベルを超越した”如来”が目標。

明治維新で封建的身分制が解消され、戦後に男女平等が規定された。

なのに、未だに対人関係を上下関係とみなし、上の者が下の者を蔑む。

本来の”礼”は、上下関係は認めても、蔑むことは本質的無作法として否定される(これは既述)。

私が気になっているのは、現代の作法家(マナーの先生)たちが、意外に封建的上下関係や不必要なジェンダーを無批判に現代に持ち込もうとしている点。

そもそも作法は、社会的価値の実現が目的である。
すなわち、社会的価値が作法の上位にあって、社会的価値とは別に作法の価値があるのではない。

なので封建時代(的社会的価値)の作法を、そのまま現代の平等を理想とする社会に適用することはあり得ない

私が紹介する小笠原流礼法も、身体動作の普遍的合理性の部分であり、また儒教の礼思想がもっている万人に対する表敬の普遍的価値の部分である。

それに対し、礼法の原典たる『礼記』が、女性は生きている間ずっと男(父、夫、息子)に従えという”三従の徳”を説いても、それは採用しない(小笠原流ではすでに室町時代にこの教えを否定している。ただし江戸時代は公的道徳として採用された)。

作法が価値の実現であるというからには、その作法が前提としている価値観こそ自覚すべきである(私が構築した「作法学」は、作法に含意されている社会的価値観を抽出することを目的としている)

この視点が欠けている”マナーの先生”は、伝統的作法が準拠している社会的価値観に無批判な、
単なる形式主義者(形だけの人)に過ぎない(武家礼法を単なる”故実儀礼”と同一視している歴史家たちも同じレベル)。


英気を養う温泉旅:追記

2024年04月08日 | 温泉

職場の大学で新学期が始まり、土曜は恒例の新入生の遠足を引率。

このように週末まで仕事があったので、日曜から火曜まで2泊の温泉旅
(火曜は午後からずっと会議)。

水曜から本格的に前期授業が始まるので、その英気を養うため。

私が温泉旅をするのは、今回のように仕事に臨むための英気を養う場合と、
仕事を終えて慰労のリフレッシュの場合、
それに論文執筆など仕事に集中するお篭りの場合がある。

結局、理由をつけていつでも行っていることになるが、
言い換えれば、温泉旅にもいろいろな役割・効果があるということだ。

一番の効果は、転地効果も含めた気分転換効果だろう。



以下、翌日追記分
2泊の温泉旅なので、もう少し詳しく記そう(2泊目の風呂上りの宿で打っている)。

選んだ宿は、3日目の帰宅日の午後から会議なので、近場の東濃にした。
東濃でお気に入りの宿といえば、まずは定宿だった中津川のホテル花更紗。
ここを1泊目にした。
ここは泉質(炭酸水素塩)も個性があるが、大浴場が贅沢にも総ヒノキなのが気に入っている(ただし男女入れ替えで他の大浴場はタイル)。
だがここは夕食が私には贅沢すぎるので、あえて素泊まりにし、夕食は隣接の日帰り施設のレストランで天ぷらそば(天ぷらをビールのつまみ)で済ませた。
素泊まりなので、朝食の時刻も寝ていられ、のんびり朝風呂に入って、コーヒーを飲んで、チェックアウト。
素泊まりなら下手なビジネスホテルより安い(もちろん4桁)。
これからは、このパターンでいいと思った。


朝食を抜いたので(私にはよくあること)早めの昼食として、中津川駅前の「五十番」という店で、”中津川のソウルフード”とされるこの店特製の「焼きそば」(”白太焼きそば”というべき)を食べる(500円)。
私以外の男性客は皆「大盛り」(+200円で倍増!)を頼むので、「普通」を注文した私にも大盛りが誤って供された(もちろん交換)。
もともと焼きそば好きだから、食べる分には大盛りでもいいのだが、今晩は、ビュッフェバイキングの夕食が待っている(なので本当は、普通の焼きそばでも多すぎるくらい)。

さて、花更紗を10時にチェックアウトして、次の宿のチェックインは15時、すなわち5時間は宿の外で過ごさねばならない(焼きそばも食べた)。
しかもあいにく月曜なので、付近の博物館・図書館は休館日。
だが、花更紗の宿泊者は、チェックアウト日も隣接のクア施設(10時から)が使える。
といっても平日は、バーデゾーンやブールは使えず、風呂とコミックスが並んでいるリラックススペースのみだが、それらだけでも時間は潰せる。
そこでソファに寄りかかって漫画とタブレットの『大菩薩峠』を読んで、午後2時過ぎに次の宿に向かった。


東濃で次のお気に入りの宿である、安宿チェーンの恵那峡国際ホテルは、「高張性」という抜群の温泉の濃さが貴重(皆さんが入っている温泉はたいてい「低張性」)。
それに安宿チェーンのビュッフェバイキングなので、高級感こそないが、量的にも栄養的にも自分でコントロールできるのがいい。

それと、今回初めて「和室」を予約したのだが(今まではツイン)、和室はかなり広く、畳部屋以外にソファとテーブルのゆったりした空間があり、これは”お篭り”(連泊)に使える(連泊すると2泊分が1000円安くなるらしい)。

今まで、客室の狭さがこの宿の欠点がだったのだが、最安の「エコノミーツイン」でなければ、あの濃い温泉と以前よりは内容が向上したビュッフェバイキングで満足できる。
その代わり宿代が5桁に達して”安宿”ではなくなる(宿代そのものは素泊まりの花更紗の方が安い)。

ということで、温泉が目的の今回、総ヒノキの風呂と高張性の湯を堪能した。
しかも間の時間つぶしとして、この順番でよかった。


『大菩薩峠』を読んでみたら

2024年04月06日 | 作品・作家評

世界的長編、中里介山の『大菩薩峠』を2月下旬に読み始めて(→記事)、3月末日現在で、全41巻中21巻を読み終えた。
ちょうどど真ん中。

3月中は「18きっぷ」での6時間の車内読書が5回でき、それ以外での車内読書(国会図書館通い、熱海、高崎往復など)も入れてもこの結果。
言い換えると、電車内以外ではほとんど読まない(優先すべき作業があるから)。

では、この延々と続く物語を読んでどうだったか。
他の短い小説と何か異なる経験をしたか。
途中経過として報告する。

まず、この小説を読み続けること自体は、ちっとも辛くない。
文体が口語(ただし説明が「であります」)で、登場人物のキャラが分かりやすいので、混乱ない。
また、それなりに事件が続発するので、だらけもしない。

ただ机竜之介を含む主人公群(巻を重ねるにつれ増えていく)が、それぞれの理由・目的で日本各地を移動しながら、同じ土地で出くわす毎回の偶然性に、不自然さを禁じ得ない。
が、そこが”物語”のご都合主義が勝るところで、これが現実だったら、主人公群が各地にバラバラになって、彼らが織りなす関わり合い(物語)が終わってしまう。

要するに、これが(作者の嫌う表現ながら)「大衆小説」なので、そのチカラワザで話が続いていく。

ただ、これらの話にどんどん引き込まれて、熱中して読み進めてしまう、という強い引力はない。

結果として、ダラダラ(ゆっくり)読み進めることになる。
となると、世界的長編なだけに、読み進める状態が延々と続く(まだ道半ば)。

小説の中は、登場人物が生きている世界だから、私が読書を再開するたびに、彼らの生が再作動する(小説を読むという行為は、生命のない文字列に生命を吹き込むこと)。
すなわち、私と共に、私に並行して、彼らが生き続けている世界が作動して、まさにパラレルワールドの感じがしてくる。
ただし、私から独立して、彼らが自分らの世界を進展させることはない。

彼らの生は、私が読み出すことで(のみ)進行するのだ。
言い換えれば、私がページを開くまで、彼らの運命は(箱の中の猫の如く)決定されない。

これって、まるで量子論の世界だ。

こんな感覚は、今までの小説の読書にはなかった。
それは、今までの数冊レベルの小説では、私の生と並行するほどの長い時間経験でなかったからだ。


岡崎城に行く

2024年04月04日 | 名古屋周辺

名古屋に来て30有余年。
その間に名古屋城・犬山城・清洲城・小牧城・岐阜城には訪れた。
ところが申し訳ないことに、岡崎城は行かずじまいだった。
しかも岡崎市内の他の名所には行ったのに→岡崎に行く

誰に対して申し訳ないかというと、もちろん神君家康公に対して。

岡崎城は松平氏の本拠地で、家康が生まれた城なのだ(産湯の井戸、胞衣を埋めた跡もある)

ということでまずは岡崎城にと、新年度の授業が始まる1日前で、昨日来の雨も止んで好天でちょうど桜も咲いている今日、
満を持して岡崎城公園だけを目指して、名鉄東岡崎駅に降り立った。


市内の真ん中を東西に流れる乙川(菅生川)の橋を渡って、川べりの道を岡崎城公園まで進む。
公園前の広い河川敷では、ちょうど「桜まつり」の最中で、出店が繰り出している。
考えてみれば平日の昼なのだが、随分と人出が多い(子供は春休み中)。
せっかくなので、薫製フランクフルト(300円)を食べた。

さて、岡崎城公園に入って、石段を登ると城の鎮守である龍城神社があり、その奥に岡崎城の復元天守閣がある(写真)。
桜まつりの一環なのか、周囲の広場では、曲芸やサル回しなどの出し物をやっている。

「三河武士のやかた」との共通券(650円)を買って、まずは岡崎城天守閣に入る。
中では岡崎城の説明だけでなく、岡崎市の歴史や産物の説明・展示もあり、
春休み中の小中学生がたくさん来ている。
最上階に上がると、岡崎市が一望。


ここから園内(城内)を北上し、リニューアルした三河武士のやかた家康館」に入る。
※:実はこの再開を待っていた。
こちらは三河武士と家康に特化した展示で、この館所蔵のオリジナルな歴史的資料なども展示している。
まず強調されているのは、江戸幕府だけでなく、鎌倉幕府・室町幕府も三河武士がバックアップして成立したということ。
まず源頼朝の母がこの地出身で、そのおかげで頼朝はこの地からの支援を受けていたという。
その証拠となるのが、前回訪れた岡崎郊外の瀧山寺

室町幕府を開いた足利氏の一門はこすでにこの三河に展開していて、
この地の今川・細川・吉良・一色・仁木氏らが将軍家を支えた。


そして徳川氏だが、松平家の元康(後の家康)が、なぜ松平をやめて新たに”徳川”と名乗ったのか。
推測するに、松平氏は西三河の土豪(国衆)レベルで、流れは藤原氏。
元康になるまでは三河の一部の支配者レベルだったが、元康になって三河一国を統一した。
すなわち、尾張の織田や駿河の今川らと並ぶ戦国大名になった。
そこで、大名として配下の国衆たちに君臨するには、武家としての正統性が必要。

実は、松平氏の祖・親氏(ちかうじ)は上州新田郡徳川郷(群馬県太田市尾島町)出身の入婿で、
清和源氏(新田氏の分家?)の流れだった。
それを根拠に、入婿の先祖側に立って清和源氏(武家の棟梁家系)としての徳川氏を名乗ったのだろう。
以上は、館内の展示を見ての私の推測。


それにしても家康の半生は壮絶な苦難の連続で、3歳の時実母が離縁されて去り、
その後、6歳から19歳まで織田そして今川氏の人質生活を送り、晴れて一国の大名となってからも、
長年連れ添った(出会いは人質時代)正妻と一番大事な後継・嫡男に死を与えざるを得なかった。
普通だったら感情的に破綻する人生。
後半生(伊賀越え、関ヶ原、大坂夏の陣)も決して安泰でなく、まさに「どうする家康」という試練の連続の人生。
その家康が、270年の安定した江戸時代を作り、東京と名古屋という大都市を作った。
日本史上最もタフで、その部分も含めて、私が最も尊敬する歴史人物だ。

その人物のゆかりの地を、やっと訪れることができた。