8月最後の日、中一の甥と「シンゴジラ」を観にいった。
そもそもゴジラ映画(以下、「ゴジラ」)とともに生きてきた私。
だが正直、裏切られることの方が多かった(なので「ゴジラ」を見放していた時期が複数期間あり、すべてを観たわけではない)。
今回は、2014年のハリウッド版「ゴジラ」を受けての本家日本版(庵野監督)。
実際、今回のは評判がいい。
なのであえて映画館で観たいと思っていた。
8月とはいえ平日の昼なので、客席には空きが多い。
昔の「ゴジラ」と違って子どもはほとんどいない。
なぜか女性客が多かった(平日の昼間だから?)。
さて「ゴジラ」の一貫した構成は、ゴジラが都市を襲い、それに対して人間側がどう反撃するかというもの。
今回は、ゴジラヘの対応(不測の事態)にどういう法的根拠にもとづいて対処すべきかという、政治的シミュレーションから出発しているのが面白い(痛烈な揶揄ともとれる)。
過去の「ゴジラ」ではその過程が省略されていた。
こういう視点が、大人にも受けている理由だろう(逆に子どもが少ない理由)。
それと自衛隊の全面協力(これは以前からだが)によって、ゴジラと直接対決する準主役が自衛隊になることも協力し甲斐があろう(ゴジラと他の怪獣とのバトルが主題になると、存在感が激減する)。
初作「ゴジラ」(1954年)へのオマージュが散見されたもの、オールドファンの心をくすぐる。
品川の八ツ山橋陸橋の横を驀進する映像。ゴジラ研究者が”大戸島”出身。
そしてゴジラはかつて電車を襲うのが定番になっていたのに、今回はなんと電車がゴジラを襲った。
電車のこのような活用は相手がゴジラだからだろう。
それとエンディングで流れるモノラルの音楽も1954年版の音源。
ゴジラが通り過ぎた後に放射能が撒き散らされるのは本来当然なのだが、これも今まであまり問題視されてこなかった。
今回はまさに原発事故を彷彿させるように、その問題も取り上げられた(ただご都合主義的扱いになったが)。
実際、「ゴジラ」は、その設定からして核技術の問題と切り離せない。
ただ、「ゴジラ」は政治的メッセージが主題の映画ではなく、あくまで娯楽としての怪獣映画のカリスマであるべきだ。
もちろん後者に傾きすぎて子どもだましの正義の味方になってしまった過去の失敗は繰り返せない。
映画としては、暴れるゴジラを、最後に人間が倒さねばならない。
だが、それが人間側の知恵と技術の勝利という人間礼賛では許されないのが「ゴジラ」たるべき。
ゴジラは、荒ぶる神(呉爾羅)なのだから、それを鎮めるには人間側のなんらかの犠牲・贖罪が必要なのだ。
ゴジラは人間の業が具現化したものだから。
少なくとも私は、それがあってはじめて「ゴジラ」に深い感銘を受ける。
「ゴジラ」は「トレマーズ」(人間の知恵と爆薬で撃破。計4作。これも好きだが)とは違う。