北沢地区の施設や京町通りを見た後、佐渡金銀山へやって来ました。
正式には「相川金銀山」と呼ぶようです。
金が採れる所では銀も採れるので、金銀山。
「佐渡金銀山」とは、主に次の4つの鉱山を総称しています。
西三川砂金山、鶴子(つるし)銀山、新穂(にいぼ)銀山、それと一般的に
佐渡金山と呼んでいる「相川金銀山」。
日本最大の露天掘り跡「道遊の割戸」が右上に見えます。
相川金銀山は、この場所の発見から始まった。
優良鉱脈の一つ「道遊鉱脈」の江戸時代の露天掘りの跡で、
頂上部の裂け目の幅は30m、深さは74mとの事。
側面には坑道の跡がいくつも見える。
下の建物群は、昭和12年頃に建設された破砕場や変電所などの施設。
昭和13年に日華事変が起こり、戦争遂行のために必要となった金。
その増産のため、国はこの相川金銀山に莫大な予算をつぎ込む。
そして昭和15年には、年間1537キロもの金を産出した。
翌年昭和16年に太平洋戦争突入。
この1537キロという量がいかに多いものか、それまでの産出量は
年間せいぜい400キロほどだったので、それの約4倍の量。
江戸時代、貧鉱とされ、相川の海の埋め立てに使っていた鉱石を取り出し、
川に沿って引き上げ、最新の技術で、その貧鉱からも金を取り出したという。
広場に大きな鉱石が飾られている。
この鉱石からは、1t当り10gの金がとれるらしい。
一般的には1t当り3~4gらしいので、いかに良い鉱石か。
石全体の重さは、聞き逃す。
よく盗まれないものだ。
道遊の割戸を背後から眺める。
大きくがけ崩れし、足元には茶褐色の岩石が落ちていた。
江戸時代、相川金銀山で働かされていた流人の事を・・・。
1778年に初めて無宿人60名が江戸から送られて来た。
上陸したのは小木港。
そこから唐丸カゴに乗せられ相川へ。
以来1784名の無宿人や罪人が送られ、水替え人足として過酷な労働に
従事し、それは幕末まで続いた。
1784名のうち悪事を犯した罪人は200名程。
水替え作業はチームワークが大切で、罪人では務まらなかったらしく、
佐渡奉行所から幕府に、罪人は送らないようにと注文がついた。
真っ暗な坑の再奥で、貝殻に入れた油(石見銀山ではサザエの貝殻を使っていたようだ)
の灯りの元、一昼夜交代で働き、油煙と粉塵にまみれた彼らの命ははかなかった。
日本初の西洋式垂直坑道の大立竪坑。
平成元年(1989年)の休山まで使用された。
一番てっぺんには三菱もマークが見える。
1601年からおよそ400年近く、日本の鉱山技術
ガイドさんからは、まだまだ多くの事をお聞きしたが、聞き漏らしたり、
めもるのを忘れたり、あるいは話が難しかったりで、ここに書いたのはごく一部です。
この後、尖閣湾に向かいます。