融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

明日は礼拝です

2016年08月06日 | 礼拝のご案内

 明日8月7日(日)は、平和聖日の礼拝です。午前9時から教会学校、午前10時15分から讃美歌練習、午前10時30分から礼拝が始まります。メッセージは「未来のために歩んでいた」、讃美歌は「私たちを生かす」(今月の歌)、「こすずめも、くじらも」、「このこどもたちが」です。礼拝後は、祈りの一時、お茶の一時があります。ご興味のある方は、どなたでもご参加ください。

 ここ浜坂でも、暑い日が続いています。そんな中でも、子どもたちは元気に遊んでいます。若いということは、素晴らしいことですね。この若い人たちを死地へと追いやり、その人生を台無しにしてしまっても何とも思わない高齢者にはなりたくないものだと思います。

 少子高齢化と叫ばれていますが、高齢者がしっかりしていないと、ただでさ少ない子どもが死地へと追いやられてしまう状況を感じます。威勢の良いことは言うけれども、自分は決して死地など行かない、そんな高齢者にはなりたくないものです。若い人たちには未来があり、次代を切り開く宝です。戦争の道具にして良いはずがありません。

 それはそうと、芝刈りをサボってしまい、草ボーボーです。「ネコの額」菜園も草ボーボーです。暑いし、蚊に刺されるし、とにかく大変ですが、逃げずに月曜日には取りかかろうかなと思います。

 

 


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「愛しているから懲らしめていた」

2016年08月06日 | 聖書のお話

「愛しているから懲らしめていた」 コリントの信徒への手紙一 4章14~21節

 パウロは、コリントの教会が派閥争いをしているのを厳しく批判しました。派閥争いに疑問を感じない側にすれば、「恥をかかされた」ということになります。けれども、パウロの批判は、「愛する自分の子ども」に対するような批判であって、相手を打ち倒して、そのままにしておくような批判ではありませんでした。それは、悪い点を厳しく咎められた故に打ち倒されてしまった子どもの手を取って引き起こし、愛情をもって養育する父親のようなイメージとして伝えています。パウロは、自らのことをコリントの教会の「父親」的立場にあると自覚していました。それは、父権制社会にあるような権威的なものを指すのではなく、子どもの養育に対する責任をもった存在という意味です。

 パウロは、「教師のような存在が1万人いるとしても、父親のように親身になれる存在はいないものだ。」と言っています。その通り、パウロは子どもの養育に責任をもっている、愛に基づいた父親のような存在であり続けようとしています。教会は、人の都合に合わせた人間的な信仰を育て養う場所ではなく、イエスさんの愛の教えによって悔い改め、イエスさんの十字架の愛を宣べ伝えようとする人々の集まりであると教えられています。愛がある故に、愛しているから懲らしめることができるのではないでしょうか。愛のない懲らしめなど、あり得ません。愛のある懲らしめとは、懲らしめた後に手を取って引き起こして、愛情をもって支え導くことです。

 


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今日は広島に原爆が投下された日

2016年08月06日 | 日記

 今日、8月6日は、広島に原爆が投下された日です。当時、広島の人口は、およそ35万人で、一般市民がおよそ29万人だったということです。多くの一般市民を殺すことを承知の上で、非人道的兵器が投下されました。「それが戦争です。」という言葉が聞こえて来そうです。

 原爆投下後、アメリカ軍は広島を訪れ、被爆の状況や被爆者について調査しました。被爆によって苦しみ、死んで行く人を治療するのではなく、データーを収集していきました。敗戦を迎え、傷つき倒れている人たちは、てっきり治療を受けさせてくれるものと思ったのではないでしょうか。しかし、受けたのは治療ではなく、データー収集のための調査でした。辛辣な言い方をすれば、人体実験です。

 あれから71年が経ち、日本も憲法違反の武力行使容認に前のめりになっています。広い意味で核兵器を使用する側に立とうとしています。広島、長崎に原爆を投下され、核兵器の非人道性、悲惨さを身をもって体験させられた国として、今度は核兵器を使用する側に立とうとしています。

 自分が受けた痛みを、他者に与えて良いものだろうかと考えること、それが「知性」というものではないかと思ったりもします。日本は、71年前から、耐えがたきを耐えて、一線を越えないように「知性的」な歩みを続けて来たのではないかと思います。しかし、最近は「反知性主義」が台頭し、国民が益々、反知性へと扇動されているのではないかという気がしています。

 自分が受けた痛みを思い起こし、耐えがたきを耐えて他者に同じような痛みを負わせないようにする、それこそが「日本人の心」というものではないかと思ったりもしますし、考えつくところの戦争の抑止につながるのではないかと思います。

 このままで良いのか、いつ声を上げるのか、色々なことが厳しく問われている今日、「広島の日」であるように思わされます。

 

*原爆の写真を貼り付けようとしたのですが、あまりにも凄惨なので、できませんでした。それぞれが「原爆」というようなキーワードで検索して御覧になってください。

 


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