融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

「役割」

2018年12月30日 | 聖書のお話

「役割」 ルカによる福音書 2章22~39節

 シメオンというお爺さんは、信仰深く「正しい人」と呼ばれ、聖霊が宿っていたと伝えられています。一方で聖書には、信仰深くて「正しい」と呼ばれている人が必ずしも社会から受け入れられるとは限らないことを伝えています。信仰深いが故に葛藤したり、苦しんだこともあったでしょう。「正しい人」であるが故に人と同調できず、理解されずに涙を流したこともあったでしょう。

 アンナというお婆さんは、早くからやもめとなった女性の預言者であり、断食をしたり祈ったり、神殿を離れることなく昼も夜も神さまに仕えていたと伝えられています。一方で聖書には、やもめや預言者が必ずしも社会から受け入れられるとは限らないことを伝えています。やもめであるが故の生活の困窮があったことでしょう。預言者として正しいことを語ったために、為政者から敵視されたりしたこともあったでしょう。

 シメオンとアンナという二人のご老人は、神さまと人とに仕えながら多くの苦しみを味わいつつも、同時に多くの恵も受けて来た人であったと思います。お二人は、成長したイエスさんが多くの苦しみを味わい、多くの恵を受けることを予見しました。その苦しみと恵が、多くの人々を救うことを知っていました。お二人の役割は、信仰をもって歩みさえすれば、困難や苦しみの中にあっても必ず恵があることを人々に証するということではなかったかと思います。

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日は礼拝です

2018年12月29日 | 礼拝のご案内

 明日12月30日(日)は、歳晩礼拝です。午前9時からの教会学校は、冬休みで年末でもありますのでお休みにしました。午前10時30分から礼拝があります。メッセージは「役割」、讃美歌は「馬槽のなかに」、「今こそ声あげ」、「喜びはむねに」です。礼拝後には、祈りの一時、会堂清掃、お茶の一時あがります。ご興味のある方は、どなたでもご参加ください。

 今週は、クリスマスの諸行事が終わって、ホッとしたのか風邪を引いてしまいました。やっと、元気になり、会堂の清掃、クリスマス仕様の状態を普段の状態に戻しました。クリスマス献金や、その以前に届けられた献金の領収書とかの対応が遅れていて、焦っています。もう、年明けになりそうです。お許しください。

 浜坂のあたりでも、うっすらと雪が降りました。積もってはいませんが、その分、気温が冷たいです。世の中では、仕事納になり、お正月休みに入ろうとしています。色々なことが一時休止となり、一時の平和が訪れる地域もありますが、忘れてはならない人たちのことを忘れないようにしたいものだと思います。

 しばしの休みが訪れようとしていますが、それぞれに新しい年も生きる力が与えられるような休みの過ごし方をしたいものだと思います。

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お役立ち情報

2018年12月29日 | 日記

 お役に立てるのではないかと思い、体験を記したいと思います。寒い地域のことですが、教会などの広い部屋を暖めるのに、開放型の石油(灯油)ストーブを使用しておられるところも多いのではないかと思います。

 浜坂教会も、よく見かけるストーブだと思いますが、コロナのブルーバーナーという大きなストーブを使っています。一台は、ファンで熱風を四方に拡散するものです。このタイプは、ストーブの真上が暑くなりません。もう一台は、ファンの付いていないタイプのもので、熱風が真上に上がって暖かい空気が自然対流して部屋を暖めます。

 それで、何気にストーブの燃焼炎を観察していると、1分間隔ほどで青い燃焼炎が一瞬、赤くなって小さく炎が立ち上がっているのに気がつきました。設定温度を低めにして、燃焼炎を小さくしても症状は変わりませんでした。これは、異常燃焼だと思いました。

 バーナーが壊れたのなら修理に出すしかないと思いつつも、吸入口からゴミが入り、それが燃焼しているのかも知れないと思い、外に面しているナイロンメッシュのフィルターの付いた空気の吸入口にゴミが溜まっていないか目視してみましたが、そこにはゴミは溜まっていませんでした。一応、フィルターはカバーのようになって、手で簡単に取り外せますので外したところ、すぐそこに、更にスポンジのフィルターがありました。

 ところが、そのスポンジのフィルターが経年劣化で朽ち果てて、触っただけでボロボロの粉になって崩れてしまうではありませんか。どうも、崩れた残骸が少しずつ吸い込まれて燃えて、赤色の燃焼炎となっていたのではないかと目星を付けました。それで、朽ち果てたスポンジは、どうせ機能的にも役を果たさないのですから、掃除機で吸い取り、周りも綺麗にゴミを取り除いてみました。

 再点火して様子を見ると、先ほどのように赤色の燃焼は見られず、ブルーの安定した燃焼が続くようになりました。これは、もしかして、もう一台も同じなのではと思い、もう一台も点検したところ、同じように内部のスポンジのフィルターが朽ちて粉のようになっていました。なので、同じように朽ちたスポンジの粉を掃除機で吸い取り、周りも綺麗に掃除しました。

 以上、きっと同じようなタイプのストーブで、外からは見えない内部にあるスポンジ状のフィルターが経年劣化で朽ちているのに気がつかないケースがあるのではないかと思い、点検、交換などの注意喚起の意味でお伝えいたしました。ご自分で簡単に点検できますので、目視、点検の後、お店に相談するなどして、この冬も安全で快適に暖房器具が働いてもらえるように、この情報がお役立ればと思います。

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「身を委ねるイエス」

2018年12月28日 | 聖書のお話

「身を委ねるイエス」 ルカによる福音書 2章8~20節

 クリスマスには、「イエス様はお生まれになりました」というフレーズをよく耳にします。そんな言い方もできるかと思います。一方で、イエスさんは、聖霊の働きを自らの体で受け止めた母マリアと、インマヌエル(「神は我々と共におられる」)という聖書の言葉を実現させるために身を捧げた父ヨセフがあってこそ、「お生まれ」になったことを思うと、より身近な言い方をすれば、イエスさんは母マリアと父ヨセフの信仰によって、苦難を乗り越えて「産んでもらった」という表現がピッタリなのかも知れません。

 イエスさんは赤ちゃんであり、両親に身を委ねるしかない存在でした。同時に、羊飼いたちの訪問を受けたときも、救い主であるのに羊飼いたちに身を委ねるしかなく、反対に祝福される始末でした。けれども、救い主が身を委ねるしかない存在であったという物語は、両親の信仰と苦難をより浮かび上がらせ、羊飼いたちの信仰と救い主の誕生を人々に知らせるという行動をより浮かび上がらせています。信仰を持って自分で道を切り開き、自分で行動するという、救いを信じる人々の姿が生き生きと伝えられて励まされる思いがします。

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

拝読

2018年12月28日 | 日記

 「風」という機関誌が送られて来ました。そこに、懐かしい方が書いた説教が記されていました。私が土佐教会の青年だった頃、伝道師として赴任された後宮先生の説教でした。他に、同信伝道会ニュースレターも送られて来ました。そこにも、後宮先生の講演の内容のようなものが記されていました。

 後宮先生は、私が青年時代に迷いの中にあった時、牧師という道があるのだということを教えてくださいました。その説教は、特別難しいことを語るのではなく、とかく先入観に固まった聖書理解について、こういう考え方もあるよ、こういう見方もあるよ、ということに気づかせてくれるような内容であったと思います。

 そんな、特別にひねった内容ではなく、分かりやすい、ありきたりのことをありきたりに受け止めることができるように語る、あの説教を再び聞いたような気がして、懐かしい思いになりました。私は、押しつけがましいことを言われると反発するタイプですが、後宮先生の言うことは素直に聞くことが出来たように思います。尊敬すると、何でも聞けるものですね。私の数少ない尊敬した人の一人です。

 私は、生まれた時から会衆派教会(組合教会)の伝統を持つ土佐教会に通っていました。両親は熱心なクリスチャンでした(今も熱心なクリスチャンです)。なので、あの自由なアットホームな雰囲気が大好きで、堅苦しいことを押しつけられるのは苦手です。でも、会衆派教会でも時々インテリっぽいのやら、権威主義的な感じのする人もいて、疑問に思ったりする時もあります。これまで、いくつかの教会を見て来た中で感じたのは、保守でない方のバプテスト教会が、何だか私に合っているのかも知れません。

 私は、社会人で献身しました。中途で同志社に入学し、学べるほどの学力も財力もなく、一番合っていると思った農村伝道神学校にお世話になって勉強しました。在学中に色々なことを経験し、十分に勉強したとは言えませんが、一生勉強というつもりで卒業し、試験を受けました。農村伝道神学校には心から感謝しつつも、関わりを持つつもりもなく、かといって同志社の方々とも同じ釜の飯を食った訳でもありませんので、たいした関わりもしていません。

 先日、後宮先生のお父さんが亡くなられたとの報を聞きました。何もできませんが、お祈りはいたします。私の父親も90ウン歳になりましたので、そろそろ心の準備はしておかなければならないと思っています。私も、たいした働きもできないまま、もうこんな歳になったかと思うと、複雑な心境です。

 懐かしい思いと共に、とりとめのないことを頭に浮かんだまま書いてしまいました。だいぶ風邪の方も良くなったようですが、まだ本調子ではないようです。これから、クリスマスの会場片付け、掃除、日曜日の準備や献金のお礼のお手紙や週報発送とありますが、それに年賀状作成もあって、これはまた来年になりそうです。現実直視が怖いです。

 

 

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする