座間コミニティー

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◆より頼んでいるあなたがたには尊い……。

2017年03月01日 16時34分59秒 | 聖書
(Ⅰペテロ二・七)
すべての川が海に注ぐように、すべての喜びは私たちの愛する主に集まる。主の御目は太陽の輝きにまさり、その御顔の麗しさは、いかなる花にもまさる。どのような香りであっても、主の御口の息に比べ得るものはない。ペテロは私たちに、イエスが尊いお方であると告げる。しかしどのように尊いかは語らず、また語ることもできなかった。私たちのうちだれも、言い尽くすことのできない神の賜物の価値を測ることなどできない。ことばをもっては、主イエスがその民にとってどれほど尊い方かを言い表すことはできず、主がその民の満足と幸福のためにどれほど欠くことができない方であるかを、十分説明することはできない。
主にある友よ。主がおられない時に、あなたは豊富な物資の中にあって、激しい飢えの思いをしたことはないか。太陽は輝いていた。しかしキリストはご自身を隠され、全世界はあなたにとって暗黒であった。あなたはこのような経験をしたことはないか。私たちの主がおられなければ、この世界はなんと荒涼たる原野になることだろう。ひとたび主が私たちから姿を隠されるならば、私たちの花園の花はしぼみ、甘美な果実は腐敗し、鳥は歌うことをやめ、あらしは希望をくつがえすであろう。義の太陽が輝きを失うならば、地上の明かりをすべて寄せ集めても、その輝きを作り出すことはできない。主は私たちのたましいの親、光の光、いのちのいのちであられる。愛する友よ。主がおられないならば、あなたはこの世にあって誘惑の心労にどう対処するか。朝目覚めて、一日の戦いに臨もうとする時、もし主がおられないとしたら、あなたはどうするのか。夜疲れ果てて家に帰った時、あなたとキリストとの交わりが閉ざされていたならば、どうするか。
しかし主の御名はほむべきかな。私たちは突き放されず、私たちが主なしに自分で運命を切り開くままにはされない。なぜなら、イエスは決してご自分の民を捨てられないからである。主がおられないならば人生がどのようになるかを覚えて、さらに深くその尊さを知ろうではないか。
 

「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。

2017年03月01日 16時34分14秒 | 聖書

わたしはあなたを助ける」(イザヤ41:14)

ヤコブは能力があり且つ非常に狡猾であった。父親を欺いて、兄エサウの長子の権利を奪い取った。
それを知ったエサウは激怒。ヤコブは身の危険を感じ、追われるように家を出た。

叔父ラバンの家に寄宿する事になるが、ラバンもまた狡猾で、娘の結婚に際してヤコブを欺く。
ラバンに騙されるヤコブ、かつて父親を騙した刈り取りが来た。
20年の歳月、辛い苦しい労働に明け暮れる。

しかし尚もヤコブは、巧妙な方法で家畜をどんどん増やし、ラバンの財産を自分のものにして行く。
どこまでも悪賢い知恵のあるヤコブだ。

こんなヤコブであったが、神は大いなる祝福にあずからせるために、徹底的にヤコブを砕かれた。
時が来て、神から帰郷を告げられ、ラバンの家を出た。

兄エサウが400人を引き連れて向かっていると聞き、恐怖におののく。
自分への復讐、仕返しに違いないと。
ヤボクの渡しで、ヤコブ一人残った時、御使いが来て格闘した。

そして、ヤコブのもものつがいが打たれ、はずされた。今や、もうヤコブは無力。
自力で、どうにも出来ず、もしエサウが攻めて来るなら、殺されるしかない。
ヤコブは全面的に砕かれて、神に拠りすがり祝福を受けた。

エサウはヤコブを見て、彼を抱き口づけして迎えた。
神の前に虫けらとされ、ヤコブは砕かれたが、その時、自分で方策を練るのではなく、今度は、神が全責任を取って下さった。
そこには大きな安堵と満ち足りた平安があった。
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恐れや不安の度に、自分で何とかしようとする。いつまでも不安だ。
恐れるなと言われる神様から来る平安だけが本当に私達を強くする。安心していよう。



今日の聖人の記念日

2017年03月01日 06時42分35秒 | キリスト教

聖ダビッド(ウェールズ)

495/500年-589/601年

 ダビッドは、デヴィという名でも知られている。

 11世紀の伝承によると、カーディガンの貴族の家に生まれ、ヘン・ヴィンヨウで教育を受けた。その後司祭となり、10年間聖書の研究に専心し、12の修道院を設立した。ダビッドは、ウェールズ西南部の修道院の院長となり、エジプトの砂漠の隠修士の生活に倣って、非常に厳しい規則を作った。野菜、パン、水しか口にしないという苦行や沈黙、そして慈善事業によって神への追従に邁進した。

 560年にブレヴィの教会会議に招かれたダビッドは、異端に対する雄弁な説教によって人々を感動させた。そのとき、聖霊が鳩の形で肩にとまったといわれる。そのため絵画には、肩に鳩をとまらせた姿で描かれている。

 ウェールズには彼の名をつけた教会が50以上あり、セント・ダビッドの地の教会は、中世に有名な巡礼地となった。ダビッドはウェールズの守護の聖人とされ、3月1日は同地において彼を記念する祭りが盛大に祝われている。


◆神の憎むもの

2017年03月01日 06時41分36秒 | 聖書

主の憎むものが六つある。
いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。
高ぶる目、偽りの舌、
罪のない者の血を流す手、…… (箴言六16―17)
私たちはどうしたら幸せになれるのでしょうか。現代人は、孤独で不安で生きがいのない生活を続けています。それは、知らず知らずのうちに造り主である神のおきらいになる生活へ入ってしまったからです。そんな生き方から脱出できるなら、すがすがしい祝福された生活が始まります。
神がきらわれ憎まれるものについて、箴言は、七つのことをあげています。その中心的な第一は、高ぶる心です。
自分で高ぶっていると気がつかないほど、私たちはごく自然にといっていいほど高ぶってしまいます。高ぶりこそ、私たちから真実の祝福を奪うものです。
高ぶりの本質は、エゴイズムです。すべてのものをなでぎりにして、自分だけ生きようとします。神を認めず、人を認めようとしません。神はこの愛のないガリガリのエゴイズムをきらい、憎まれます。
高ぶりを克服して、平和で喜びに満ちた充足した生活・生きがいのある価値ある人生を送る秘訣は何でしょうか。神でありながら愛のゆえにへりくだって人となり、死んで私たちを罪と死から救ってくださったイエス・キリストがその秘訣です。よみがえられたこの方は、あなたの喜び・愛・平和となってくださいます。このお方を、このお方の愛を心に受け入れ、このお方で心をいっぱいにするなら、もう高ぶる必要がありません。ありのままで、平和と力に満ちた生きがいのある人生を歩み始めることができます。
「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ五七15)と、神は言われます。
 

◆北風よ、起きよ。南風よ、吹け。

2017年03月01日 06時40分50秒 | 聖書
私の庭に吹き、そのかおりを漂わせておくれ。(雅歌四・一六)
どのようなことであっても、無関心から来る死のような静寂よりはましである。北から来る苦難の風であっても、それが私たちの徳の香りを上げる使命をもっているならば、たましいはそれを喜ぶべきである。「風の中に主はおられなかった」と言うことができない場合を除き、恵みの草木の上に吹くものは、もし厳冬の寒風であっても歓迎すべきである。
この詩の中の花嫁は、しとやかに愛する人の叱責を受け、その愛する人がなんらかの方法で恵みを送ってくれることをひたすら懇願した。彼が訪れる時の特別な方法などについては、少しも指図がましいことを言っていない。彼女は、私たちのような生気のない汚れた静寂に飽きて、自分を奮い立たせるような恵みの訪れを待ちこがれている。しかしまた、彼女は慰めに満ちた暖かい南風、神の愛のほほえみ、贖い主のご臨在の喜びをも求めている。これらはまた、私たちの怠惰な生活を目覚めさせるのに十分な効力をもっている。彼女は二つのうちのいずれか、あるいは二つともを求める。それは自分の庭の香りによって愛する人を楽しませることができると思うからである。
彼女は無為に過ごすことはできなかった。私たちも同様である。主が私たちのつまらない徳を受け入れてくださるということは、なんと身に余ることか。そんなことがあるだろうか。まさに夢のような話である。
私たちは、インマヌエルのみこころをお喜ばせするためには、さばきも死をもいとわない。主イエスの栄光が現れるためならば、私たちの心臓がこなごなにされてもかまわない。
鍛えられていない徳は、花入れの中に眠っている香りのようなものである。しかし偉大な農夫なる方の知恵は、あらゆる出来事を用いて目的を遂げる。主は患難も慰めも共に用いて、信仰、愛、忍耐、希望、喜びなどの美しい花を咲かせてくださるのである。
私たちが、美しい経験を通して、この意味を悟ることができますように。
 

詩篇19篇4-6節

2017年03月01日 06時39分17秒 | 聖書


19:4 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。
19:5 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。



太陽は、勇士のようにその走路を喜び走る。

日が沈むとそこに幕屋が設けられていて、そこに沈む。

神様がそこに幕屋を設けられたからだ、とダビデは語っています。

ダビデは、神様からの言葉がないのに、自然を見て神様の知恵と力を悟り、その偉大さと栄光を称えています。

それはなぜでしょうか。

彼は、主によって信仰を持ち、生かされた者とされているからです。

主に対する信仰が与えられた時、その人にとってすべてのものが新しくされます。

自分の心が新しくされ、新しい命に生かされるということのみではなく、歴史を見ても神の力と導きを知り、自然を見ても、そこに神の偉大さを知り、神を褒め称える者とされるのです。

イエスさまによる救いを通して、神さまとの交わりをいただく時、すべてのことが新しくされるのです。



エレミヤ1章7~8節

2017年03月01日 06時36分27秒 | 聖書


★すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。‐主の御告げ‐」

■O:今日のコラム
エレミヤは、田舎に住む内気で神経の細かい感受性の強い青年でした。神様は、このエレミヤを召されて「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」(エレミヤ書1章5節)と言われました。これは何を意味しているかというと、エレミヤが神様の代理人であるという事を意味しています。神様はエレミヤとともにおられ、エレミヤが神様のために語るという事です。
それは、5節の終わりに「あなたを国々への預言者と定めていた」とあるように、ここに神様の摂理がありました。神様はご自身のご計画を成就させるために、個人や国々の民を選ばれて、召して、権限を与え、能力を与えます。これは、今の時代も私たち信仰を持つ者に繰り返されています。そして、このような神様の業や召しに対して、時に私たちは計り知れない恐れを抱くことがあります。それは神様が示されている事に対して、自分には出来ないという恐れであったり、自分には、神様の期待に応える資格などないと感じる時に恐れが生じます。
例えば、聖書に出てくる神様の使者たちを例に挙げると、アブラハムは、自分には神様の期待に応える資格がないと感じ、恐れました(創世記15章1節)。モーセは燃える柴で神様と会った時に恐れました(出エジプト記3章6節)。イスラエルの民は、その使命のために、敵対する力に立ち向かわなければならない時に恐れました(イザヤ41章10節)。しかし、これらの神様からの召しに対して抱く恐れには、神様は同じ反応で現れてくださいます。「わたしはあなたとともにいる」です。
このみことばは、私たちにとって、なんと力強く、慰めのあるみことばでしょう。私たちには、神様が本当に共にいてくださるんだと思い起こさせる、原動力となるみことばです。このみことばをしっかり掴み、離さず、恐れを打ち破り、主と共に歩んでいきましょう。私たちに必要なこと、それは宣言することです!ことばは神です!神であることばを私たちは今、力強く、大胆に宣言していきましょう!人間が、私に対して何ができましょう。何の恐れも、心配も、疑いも、持つ必要はもうありません!アーメン。

■A:考えてみよう
神様からの問いかけに対して恐れを感じていませんか?神様は決して私たちを見放さず、見捨てないお方であることを信じましょう。

■P:祈り
主よ、あなたが私たちと共にいてくださって、あらゆる問題、あらゆる困難、どのような状況であったとしても、イエス様、あなたが私たちを助けてくださっておられることを信じます。もう恐れる心配をする必要が無いことをありがとうございます!あなたによって恐れの霊は私たちの中からすでに取り去られたと信じます!

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


2月28日(火)のつぶやき

2017年03月01日 01時28分15秒 | キリスト教