座間コミニティー

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◆あなたは、捜し出される者……

2017年03月11日 15時36分25秒 | 聖書
と呼ばれる。(イザヤ六二・一二英訳)
神の卓越した恵みが最も鮮やかに見られるのは、私たちがただ捜されたというだけでなく、私たちが「捜し出された」というところにある。人は、床の上に何かを落として失ったなら、それを捜す。しかし単に捜すだけで、捜し出すことはしない。物が捜し出されるのは、損失が非常に大きい場合であり、さらに忍耐強い捜索がなされる場合である。
私たちはどろ沼の中にいた。貴重な黄金が下水の中に落ちると、人々は寄って来て注意深く山のような汚物をかき回し、その中からついに黄金を見つけ出す。私たちもそのようであった。
別の例で言うならば、私たちは迷路の中に入り込んだようなものである。方々をさまよい、あわれみが福音を携えてきても、私たちをすぐに発見できなかった。あわれみは、私たちを捜し出さなければならなかった。私たちが迷える羊のように全く道に迷い、未知の国にさまよい出たので、曲がりくねって歩き回る私たちの跡を追うことは、良い羊飼いにさえも不可能と思われた。しかし、どのようなものにも征服されない恵みに栄光あれ! 私たちは捜し出された! どのようなやみも汚れも私たちをおおうことができず、私たちは見いだされ、家に連れ帰られた。限りない愛に栄光あれ! 聖霊なる神は私たちを回復された。
神の民のうち、ある人たちの生涯を文章にすることができるとすれば、それは私たちを聖なる驚きで満たすであろう。神が彼らを見いだすために用いられた方法は、実に不思議な驚くべき方法であった。神はその選ばれた者を捜し出すまでは、決して捜索をやめられない。彼らは、今日は捜され、明日は捨てられるというたぐいの人々ではない。彼らは「捜し出される者」と言われる。だれかが捜し出されるとは、無比の恵みである。しかし、私が尋ね出されるとは、実に測り得ない恵みなのである。それは神の主権の愛のゆえであり、今夜、私たちが「捜し出される者」ととなえられることは、私たちの心を驚嘆させ、主への賛美を高らかにあげさせる。
 

「ところが、彼らは気にもかけず、

2017年03月11日 15時35分37秒 | 聖書

ある者は畑に、別の者は商売に出て行き」(マタイ22:5)

王子の結婚披露宴に招かれた客はイスラエルであり、王のしもべは預言者達だ。
キリストの救いにより、神の豊かな祝福にあずかるようにと、最初から準備が何もかも整えられていた。

しかし、彼らは、王の心のこもった招待を気にもかけず、畑に、商売にと出て行き、無視した。
畑や商売など披露宴の後でもできる事だ。
神は、愛を込めてすべてを用意して下さったのに、不要と拒否した。

これはイスラエルだけでなく、私達もどうだろう。仕事、勉強で忙しい、子育てで時間が無い、趣味で多忙、いつも神のための時間がない。
喜びの披露宴に招いて下さっている主のために、一生、時間がないままだろうか。

生活を見ると、時間が無いのではなく、神より多くのものを優先している。
神はあなたを愛して、あなたへの目的をもって創造された。
あなたには、神からの使命があり、あなたへの特別な御心があり、神が望んでおられる生き方がある。

あなたを、今の場所に遣わされたのは神だ。偶然でも、たまたまそこにいるのでもない。
尊いご計画の一環だ。あなたの境遇、使命、あなたの将来を「何もかも整いました。
どうぞ宴会にお出かけください」と、すべて最善のものを神は整えて提供して下さっている。

それを「気にもかけず」神を無視しているだろうか。神に目を向けるなら、溢れるばかりの備えに気づいて行く。 
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招きに答えて行くためには、今している事をやめて行かなければならない。
主の招待にすぐに答えられないのは、何故だろう。
最善の主の備えを感謝し、招きに答えよう。


今日の聖人の記念日

2017年03月11日 08時56分29秒 | キリスト教

聖ソフロニオ司教

560年ごろ-638年

 ダマスコに生まれた。若いころから隠修士となることを望んで、エルサレムの聖テオドシオ(1月11日 参照)の修道院で学び、エジプトに巡礼し、厳しい修行をしながら聖書、哲学を学んだ。

 634年、エルサレムの総大司教に任命されたソフロニオは、当時広まっていた異端モンテレティズム(イエス・キリストが、神の意志と人間の意志の2つを持っていることを否定する説)と戦うため、教皇やコンスタンチノープル司教に手紙を書くなど、正当信仰の擁護に尽力した。

 また、636年にはサラセン人の侵略にあうなど、混乱の中にあったキリスト信者たちを励ました。

 ソフロニオは、多くの困難に遭いながらも、神と人々への愛のために生涯をささげた。



◆知 恵 と 分 別

2017年03月11日 08時55分20秒 | 聖書

摂理とすぐれた知性とはわたしのもの。
わたしは分別であって、わたしには力がある。
わたしによって、王たちは治め、
君主たちは正義を制定する。  (箴言八14―15)
もう亡くなられましたが、「鬼の大松」という方がありました。「おれについてこい」と言って、自分が監督をしていた女子バレーボール・チームを日本一、いいえ世界一にした人です。私たちも、そんな力ある分別にあこがれます。お父さんとして、家庭を力強く導き、子どもたちを育てます。お母さんとして、子どもたちをりっぱに引きあげていきます。職場にあっては、部下に慕われつつ仕事をバリバリやります。そんな力ある分別が欲しいものです。大きなことをいえば、主として君主として、国をよく治めることも同じです。
このような力は、「権威」ともいえましょう。お父さんが、そのままお父さんらしい力と威厳を持っています。お母さんにしても同じです。文句なしにやっぱりおふくろだという感じがします。職場でも、この人ならついていける、この人のためならという力です。
この権威とは、経済力でもなければ、いわゆる実力とも違うものです。何というか、そんな外面的なものでなく、にじみ出てくる備わったものなのです。わがままやワンマンの押しつけでは、もちろんありません。教養とか頭がいいということでもないのです。
聖書の中で、神は「分別・力ある分別・権威はわたしのものだ」と宣言しておられます。
自分の下にある者を能力面ばかりでなく人間としてよく理解し、人間の使命や仕事の意味が分かり、その見通しがつき、しかも、自分自身を与えつくす献身的な心意気、――これこそ権威の内容です。これは全部神のものなのです。自分を完全に神の権威のもとに置き、この神から預かった家庭・子ども・職場なのだと徹底して受けとり、神の前にひれ伏した人にのみ、権威は備わるのです。
 

◆罪は……戒めによって、

2017年03月11日 08時54分34秒 | 聖書
極度に罪深いものとなりました。(ローマ七・一三)
罪を軽く考えてはならない。回心直後は良心が鋭敏であるため、ごく小さな罪をも恐れる。若い信者には聖い臆病さがあり、神のみこころを痛めまいとする敬虔な恐れがある。しかし、それからすぐに、これらの信仰の芽は世の暴風に吹き飛ばされてしまう。若い感じやすい芽は、成長し柳のようになり、風のまにまにゆらゆらと揺れ、すぐに妥協してしまうようになる。
クリスチャンが次第に罪に対して無感覚となり、初め自分を驚かせた罪に対してもなんとも思わなくなるのは、悲しむべきことだが、事実である。人はだんだんと罪に慣れる。大砲の音に慣れた耳に、小さな音は気にならない。初めは小さな罪に驚いても、後になると「こんな小さな事ぐらい」と言うようになる。そして順次に大きな罪が続いてくる。次第に罪を悪いと思わなくなる。「私たちは公然と罪を犯したわけではない。なるほど多少の過ちはあった。しかし大体正しかった。時々よくないことを言ったかもしれないが、そうひどいことは言わなかった」というずるい推測を下すようになる。こうして私たちは罪を弁解する。罪に衣服を着せてそれをおおう。罪を美しい名で呼ぶ。
主にある友よ。罪を軽視しないように注意せよ。注意しなければ、次第に罪に深入りするようになる。罪は小さなものだろうか。否、毒薬である。死毒である。小狐でもぶどうの木をだいなしにするではないか。小さなさんご虫も軍艦を沈没させるようなさんご礁を作るではないか。小さな斧の一撃が樫の大木を倒すではないか。雨滴も長く続けば岩をもうがつのである。
罪は小さいものだろうか。罪は贖い主にいばらの冠をかぶせ、主の心臓を刺し通したではないか。主を苦しめ、悲しませたではないか。永遠のはかりをもって、最小と思われる罪をはかったならば、あなたはきっと毒蛇を恐れるように、罪から逃げ出すであろう。そしていかに小さい悪の現れをも嫌うであろう。すべての罪を、救い主を十字架につけたものとして見よ。罪が「極度に罪深い」ものであることを知るであろう。
 

詩篇22篇1-5節

2017年03月11日 08時53分15秒 | 聖書


22:4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
22:5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。



ダビデも多くの時、戦いの中に置かれていました。

そうした時に、彼は主に助けを求め、また導きを求めました。

しかし時に、主から全く助けを与えられない時、またその叫ぶ祈りが聞かれない時がありました。

その時に彼は、なぜ主がお聞きくださらないのかと言って、主に尋ねました。

「あなたは私が昼に、また夜に祈ってもお聞きくださいません。」と嘆きました。

 しかし、その時に彼が思ったのは、先祖の信仰者達がどうしていたのかということでした。

彼らはどんな苦しみの時にも、また困難な時にも、主に祈り続けたことを覚えたのです。

主は自分たちを捨てたのではない。

だから、必ず祈りに答えて自分たちを助けてくださるいう信仰に立って、忍耐を持って祈り続けたのです。

ですからダビデも、その信仰に倣って、自分も祈ると言ったのです。



使徒の働き11章24~26節

2017年03月11日 08時51分04秒 | 聖書


★彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

■O:今日のコラム
使徒の働き10章と11章は世界宣教における大きな分岐点となった箇所です。なぜなら10章に入る以前弟子達は、ユダヤ人以外には福音を宣べ伝える事をしておらず、福音が異邦人の世界に届くには「ユダヤ教の文化」という大きな壁を越えなければなりませんでした。しかし、主イエスの御心はエルサレムから始まった福音宣教が、ユダヤ、サマリヤ、全世界へと広がって行く事でした。

10章において、ペテロを通してイタリヤ隊の百人隊長コルネリオとその家族が救いを受け、異邦人にも福音が広がり始め、またこの11章においては、イスラエルから国外に散らされた弟子達とパウロ、バルナバによってアンテオケ教会が建てられ、アンテオケ教会を通して爆発的に異邦人の救いが起こり始めたのでした。このアンテオケ教会は異邦人宣教の重要な拠点となる教会でした。

さらに今では当たり前の様に使われている「クリスチャン(キリスト者)」という呼び名も、イエス・キリストを信じる弟子達がアンテオケにおいて初めて呼ばれる様になった呼び名なのです。

この「キリスト者」とは本来「小さなキリスト」という意味があります。つまりキリストに似た者、キリストと同じ性質を持った者、キリストが生きる様に生きる者という意味です。


つまり、クリスチャンとは正確な定義で言うなら、教会に行っている人、キリスト教の教義を知っている人、クリスチャンホームに生まれた人がそのままクリスチャンなのではなく、内にキリストが生きている人を意味する言葉です。味わった事の無い料理を表現する事が出来ないのと同じ様に、主との生きた関係を味わわないではこの世に福音を表す事は出来ません。私達は主ご自身を味わった分だけ、キリストの満ち満ちた愛、赦し、人格、賜物、主のあらゆる御性質をこの世に表す事の出来るキリスト者となるのです。

永遠のいのちについて主イエスは

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネの福音書17:3)

と言われており、永遠のいのとは、すなわち主を知る事なのです。この「知る」とは知識において知る。という意味では無く、全人格を持ってこのお方を味わう事を意味する言葉です。今日も、御霊により、また御言葉を持って私達は主との親密な関係を味わう事が出来ます。この主イエスとの生きた関係を通して、今の時代の中でますますキリスト者として命と主の光を放って生きる事が出来ます様に。私達は主イエスの生ける証し人なのです。

■A:考えてみよう
今日、私の口から出る言葉、態度、表情からも主イエスの似姿を持ったキリスト者として永遠のいのちを家族に職場に、また遣わされて行く地に表して行く事が出来ます様に。あらゆる時に聖霊様に依り頼み歩みましょう。

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


3月10日(金)のつぶやき

2017年03月11日 01時29分02秒 | キリスト教