私たちはどろ沼の中にいた。貴重な黄金が下水の中に落ちると、人々は寄って来て注意深く山のような汚物をかき回し、その中からついに黄金を見つけ出す。私たちもそのようであった。
別の例で言うならば、私たちは迷路の中に入り込んだようなものである。方々をさまよい、あわれみが福音を携えてきても、私たちをすぐに発見できなかった。あわれみは、私たちを捜し出さなければならなかった。私たちが迷える羊のように全く道に迷い、未知の国にさまよい出たので、曲がりくねって歩き回る私たちの跡を追うことは、良い羊飼いにさえも不可能と思われた。しかし、どのようなものにも征服されない恵みに栄光あれ! 私たちは捜し出された! どのようなやみも汚れも私たちをおおうことができず、私たちは見いだされ、家に連れ帰られた。限りない愛に栄光あれ! 聖霊なる神は私たちを回復された。
神の民のうち、ある人たちの生涯を文章にすることができるとすれば、それは私たちを聖なる驚きで満たすであろう。神が彼らを見いだすために用いられた方法は、実に不思議な驚くべき方法であった。神はその選ばれた者を捜し出すまでは、決して捜索をやめられない。彼らは、今日は捜され、明日は捨てられるというたぐいの人々ではない。彼らは「捜し出される者」と言われる。だれかが捜し出されるとは、無比の恵みである。しかし、私が尋ね出されるとは、実に測り得ない恵みなのである。それは神の主権の愛のゆえであり、今夜、私たちが「捜し出される者」ととなえられることは、私たちの心を驚嘆させ、主への賛美を高らかにあげさせる。