4:42 メラリ諸氏族で、その氏族ごとに、父祖の家ごとに登録され、
4:43 三十歳以上五十歳までの者で、会見の天幕での奉仕の務めにつくことのできる者の全員、
4:44 その氏族ごとに登録された者は、三千二百人であった。
メラリの氏族の、登録された人々の数のことが記されています。
彼らで登録された人々の数は、3,200人であったと言われています。
3つの氏族の中で、一番数の多い氏族でありました。
重たい荷物を運ぶということですので、人数が多いということは、運ぶ回数が少なくなるということで、こうした面での助けであり得たでしょう。
教会でも、大きな教会ですと人数が多いですし、また小さな教会ですと人数が少なくなります。
したがって、そうしたことによって、働きが異なってくるかもしれません。
しかし、大きな教会でもいろいろな働きがありますし、小さな教会でもそれなりに奉仕があります。
大事なことは、どのような状況におかれても、それが主の配慮であると覚えて、忠実に働き、また労することです。
4:40 その氏族ごとに、父祖の家ごとに登録された者は、二千六百三十人であった。
4:41 これはゲルション諸氏族で登録された者であって、会見の天幕で奉仕する者の全員であり、モーセとアロンが主の命により登録した者たちである。
次に、ゲルションの氏族の人々の人数のことが語られています。
男性で、30歳から50歳以上で働くことができる人は、2,630人であったと語られています。
ケハテの人々よりも少し少ない人数ですが、だいたい同じような人数です。
この人々は、会見の幕屋を運ぶ仕事に携わりました。
この働きは、いつ行わなければならないのかということは、わかりません。
「イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。」と記されているように、雲が幕屋から上った時に、旅立つことをしていたからです。
いつ、主のご用に召されるかもわかりません。
ですから、いつでも備えをしておかなければならないのです。
心構えは、私たちも同じです。
軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、
誓願を立てて後に、それを考え直す者は、
わなにかかっている人だ。 (箴言二〇25)
「富くじが当たったら、金の鳥居を奉納します」なんて神棚に手を合わせている光景が、落語の「富久」に出てきます。山室軍平のお母さんは、息子の無事と幸福を願って、茶断ち・卵断ちをしたというのは有名な話です。誓いを立て、ささげ物をして神に願い祈るというのは、世界人類に共通のことでしょう。
しかし、軽々しく誓願を立てたりささげ物をする約束をして履行しないのは罪である。誓願を立てずささげ物をしないことは罪にならないが、神への約束をほごにするのは罪であると、申命記には記してあります(二三21―23参照)。
まことの神は、ささげ物や誓いの約束をしたかどうかで、祈りの答えを出したりひっこめたりする方ではありません。それでは、汚職役人と何の違いがありましょう。神が求めていらっしゃるのは、取り引きやささげ物ではありません。もともと世界のすべては神のものです。神は、愛するあなたの心を求めておられます。あなたの心が神にささげられ、その心の中に神の愛が満ちて、神の祝福でいっぱいになり、あなたが幸せになること。――これが、神のみこころなのです。
A・B・シンプソンが、こういう夢を見ました。「神さま。私は私のすべてをささげますから、私をきよめ、私を力強い働きができる者にしてください。」そして、自分の持っている鍵束を神にさし出しました。すると神が、「後一つの鍵はどこにかくしたのです。全部でなければ、一つもいりません」と言って鍵を突っ返されました。そこで、夢が覚めました。そしてシンプソンは、神が求めておられるのは誓いでもささげ物でもないこと、けちくさい、神との取り引きではなく、神は、この心を求めておられることが分かったのです。神にすべてをゆだね、あのアライアンスの創設者A・B・シンプソンが生まれたといわれています。
(ヨブ二九・二)
多くのクリスチャンは過去を顧みて喜ぶが、現在を見て不満に思う。彼らは主との交わりのうちに送った最上の日々を思うが、今は悲しみと寂しさの喪服を着ているかのようだ。かつて彼らはイエスに近く暮らしていた。しかし今は、イエスのみもとからさまよい出ていることを感じて、「ああ、昔の月日のようであったらよいのに」と言うのである。彼らは、確信を失ったこと、平安が得られないこと、祈りや礼拝に喜びがないこと、心に優しさがないこと、神の栄光に対する熱心をもたないことを嘆く。
このような痛ましい状態に陥った原困は、種々あげられるだろう。それは祈りを怠ったことによるかもしれない。なぜなら、密室をおろそかにすることは、すべての霊的衰退の初めであるから。それはまた偶像礼拝のためかもしれない。心が神以外のものに向けられると、天のものの代わりに地上のものに執着するからである。ねたむ神は二心では満足されない。私たちは何をおいてもひたすら神を愛さなければならない。神は、冷ややかで横道にそれる心からは、ご臨在の輝きを取り上げてしまわれるであろう。またその原因は、自信であり、独善であるかもしれない。高慢が心を占領し、自我が十字架のもとにひれ伏さず、頭をもたげているのである。
クリスチャンよ。もしあなたが「昔の月日のようで」ないなら、以前の幸福が帰ってくることを願うだけでなく、ただちに行って、あなたの主を捜し、あなたの悲しい状態を告げよ。もっと主に近く歩むために、主の恵みと力と助けを求めよ。主の御前でへりくだれ。そうすれば、主があなたを高くし、もう一度主の御顔の光を楽しむことを得させてくださるであろう。むなしく座して嘆息し、悲嘆にくれるな。愛する名医のある限り、望みはあるのだ。否、どれほどひどい病であろうと、確実な回復がある。