座間コミニティー

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民数記7章42-47節

2012年08月19日 07時00分00秒 | 聖書

7:42 六日目にはガド族の族長、デウエルの子エルヤサフであった。


6番目は、ガド族でありました。

その族長エルヤサフが、捧げ物をしたのです。

彼らの始祖ガドは、ヤコブの7番目の子供でした。

ガドというのは、ルベンとマナセの半部族という名称との関係でよく知られています。

なぜ知られているのかと言いますと、カナンの地に入ります時に、彼らは家畜をたくさん持っていたものですから、カナンの地に入るよりも、現在いるヨルダン川の東の地の方が放牧に適していると感じて、その地に留まることを他の部族と一緒になって、モ-セに要請したからです。

彼らは、約束の地を攻略する戦いに参加をするという条件で、願いは了解されました。

そこで彼らは、先頭に立って、カナンの地へ攻略の戦いに出て行きました。

こうした彼らの勇敢さの故に、彼等はこの地に戻ることができました。

また、自分たちの子孫がカナンの地に住んでいる同胞と同じ民であるということを覚えさせるために、ヨルダン川の近くに記念の祭壇を築きました。



民数記7章36-41節

2012年08月19日 07時00分00秒 | 聖書

7:36 五日目にはシメオン族の族長、ツリシャダイの子シェルミエルであった。


5日目に捧げ物をしたのは、シメオン族でありました。

シメオン族が出てきたその族長シメオンは、ヤコブの2番目の子供でした。

シメオンは、名前の発音はおとなしく感じられますが、昔から、彼はずるがしこく、荒々しい人と受け取られてきました。

創世記の34章のところを見ますと、ヤコブには娘がいたのですが、その娘がだまされて、その体が他民族の人に汚されたことを知りました時、彼は兄弟のレビと一緒に計略を練って、その部族の人々を皆殺しにしてしまいました。

このような関係からでしょうか、エジプトを出た時にはこの部族は人数が多くて、3番目の人数を数えた部族でしたが、後になりますと人数は減り、ついには一番人数の少ない部族となってしまいました。

 シメオンという言葉の意味は「聞く」という意味なのですが、彼はヤコブの言葉を聞かないで、自分勝手に行動するということの結果、内に弱さを持つ者となってしまったのです。



◆迷い出る道・悟りの道

2012年08月19日 07時00分00秒 | 聖書

悟りの道から迷い出る者は、
死者の霊たちの集会の中で休む。  (箴言二一16)

孔子は「四十にして惑わず」と言いましたが、現代日本の有名な小説家は、「四十にして初めて惑う」「四十初惑」と言いました。人生に迷いは、つきもののようです。今のあなたはどうでしょうか。
迷いには、いろいろの理由があると思います。
第一に、人生には多くの分かれ道があります。以前私の住んでいたところは駅から近く、歩いてたった七、八分でした。ところが、私の家の前まで来る道がいろいろありすぎて一本道でないので、多くの方が迷ってしまいました。右に行ったらよいのか、左に行ったらよいのかを選択しなければならない多くの場合に、私たちは迷います。
第二に、私たちにいろいろ違った助言がされます。親はこう言うが、友人はああ言う。そして、自分の心の欲求はまた別なことを言う場合もあります。「船頭多くして舟山に上る」式で、いったいだれのことばに聞き従ったらいいのか分かりません。
第三に、私たちの判断力には欠陥があることです。何がよいことなのか、ほんとうに益になるのか、一番幸せなことなのかを判断する力が、多分、罪深いエゴイズムにさえぎられて鈍くなっているのです。
迷っている初めのうちは、ほんとうの道と大してへだたりがないように見えます。「悟りの道」と「迷い出た道」の間に、そんなに差はないように思われるのです。逆らう道を歩いて、平気でいます。ところが聖書は、その終点は大違いだと語ります。「死者の霊たちの集会の中で休む」=地獄に定住するようになる、とでも意訳できましょうか。
迷い出ることから何とかして免れる方法はないものでしょうか。参考になるような聖書のことばをあげておきます(マタイ六22―24、七13―14)。これらはみな、イエス・キリストのみことばです。

 


◆彼は立って、主の力……によって群れを飼い……。

2012年08月19日 07時00分00秒 | 聖書

(ミカ五・四)

キリストは羊飼いの王としてその教会を治められる。主は主権をもたれる。そしてその主権は、無力な、愛らしい羊の群れに対する、優しく賢明な羊飼いの優越性である。主の命令は服従を要求する。しかしこれは、愛を受けた羊たちの心からの服従である。彼らは愛する羊飼いの声を知って喜んで従うのである。そして主は、愛と善の力によって導かれる。
キリストの統治は実践的である。「彼は立って……群れを飼い」とある。偉大な教会のかしらが、親しくその民を飼われるのである。この「飼う」ということばのもとの意味は(ギリシヤ語にも同じような意味のことばがあるが)、羊飼いに託されたすべてのこと、すなわち、食物を与えるばかりでなく、羊を導き、見守り、保護し、看護し、世話をすることも含まれている。
キリストの統治は継続的である。「彼は立って……群れを飼い」とあるではないか。「彼は時々食物を与え、ほかへ行く」とか、「彼はある時はリバイバルを許し、またある時は不毛にされる」などとは記されていない。主は決してまどろむことはなく、その御手は決して休むことはない。その心は決して愛の鼓動を止めず、その肩は民の重荷を運ぶのに決してうむことがない。
キリストの統治の活動は効果があり、力強い。「彼は立って、主の力によって……群れを飼い……。」キリストのおられる所にはどこにでも神がおられ、キリストがなされることはどのようなことであっても、いと高き方のみわざである。
ああ、今日も主の民の利益を代表するために立ってくださる方がまことの神であり、すべてのひざがその前にかがむと考えるのは、なんと喜ばしいことだろう。このような羊飼いにつく私たちは幸福である。主の人性は私たちと交わり、主の神性は私たちを守る。私たちは、主の牧場の民として主を礼拝し、その御前にぬかずこうではないか。