座間コミニティー

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◆イエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。

2011年08月09日 17時08分16秒 | 聖書
イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。(マルコ一六・九)

マグダラのマリヤは、恐るべき悪の犠牲者であった。彼女は、一つの悪霊だけでなく、実に七つの悪霊にとりつかれていた。これらは彼女のあわれなからだに、はなはだしい苦痛と汚れを与えた。彼女は望みのない恐ろしい状態にあった。自分の力でいやすことができず、他の人々もどうしたらよいかわからなかった。
しかしイエスはそのかたわらを過ぎ、求められたのでもないのに、力あるみことばをお語りになり、彼女を主のいやしの力の記念とされた。七つの悪霊はみな彼女から出て行き、決して戻って来なかった。悪霊たちは万物の主によって強制的に排除された。なんと幸いな救いであり、幸いな変化であろう。彼女は狂乱から喜びに、失望から平安に、地獄から天国に移された。
彼女はただちに、イエスに絶えず従う者となり、主の一言一句に耳を傾け、主の行かれる所に従って行き、その苦難の多いご生涯に参与する者となった。もの惜しみしない助け手となり、病をいやされた感謝のあまり、物質面で主を援助した婦人たちの筆頭となった。
イエスが十字架につけられた時、マリヤはその恥辱にあずかる者として踏みとどまった。彼女は初めは遠くから見ていたが、次第に十字架のもとに接近して行った。イエスと共に十字架上で死ぬことはできなかったが、できるだけ近づいて立ち、そのおからだが取り降ろされた時、どこに葬られるかを見届けた。
彼女は忠実な信者であった。イエスが眠られた墓に最後までとどまって、主がよみがえられた時、最初にそこに来た。彼女にその愛するラボニ(先生)を見させたのは、聖い忠実さのゆえであった。イエスは彼女の名前を呼ばれた。そして、震える弟子たちやペテロのもとに、良い知らせを告げる使者とされたのである。
こうして、恵みは悪霊につかれていた彼女を働き人とした。彼女から悪霊を追い出して天使を見させ、サタンから救い出して、永遠に主イエスに結合させた。この恵みの奇蹟が私の上にもなされますように。

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レター・泉教会0809

2011年08月09日 12時02分03秒 | 聖書
(新しく来られた方のために、3年サイクルで同じ内容を繰り返します)

 娘が通った学校の山荘が、清里にあります。行ってみると自然観察指導員の方
がいて、ネイチャー・プログラムというのをやってくれました。ゲーム感覚で自然
を見つめるプログラムなのですが、これが楽しかった。その一つに「ミクロ探検隊
」というのがあります。虫眼鏡を持って、クモの巣を探しましょう、ジャングルの
ような苔の森を探しましょう、次は妖精の現れそうな場所を・・とグループごとで
探していくのです。虫眼鏡で見る森の中は、肉眼で見るのとはまるで違った世界に
なります。なぜ、そこが妖精の現れそうな場所なのか、あとで他のグループに説明
しますから、それなりの理由を考えるのです。私たちは、こうして、「森」と出会
った。 そこで改めて気づいたことがあります。森の中は、小さな苔や、虫たちでいっ
ぱいだということ。そしてその小さな苔や虫たちは、倒れた大きな木を分解して、時
間をかけて、やがて大地に返しているのです。小さな生物によって、しかし、大
きなすごいドラマがそこには展開されていました。そこで体験したことを漢字一文
字で表しましょう、という時間が最後にありました。私は「繋」、つなぐ、つなが
りという字を書きました。どんなに小さな苔も、虫も、ここでは大事な主役を演じ
ている。脇役などない。そしてその小さな主役たちによって、繋りが生まれている
。虫と苔と木と森と、そして大地と、空気とさえも繋がりがある。もっと言えば、
過去と今と未来が繋がっている。すばらしいことだと思いました。
 私たちは分断化された社会に住み、いつのまにか細切れにして、ものを考えて
います。国と国、人と人が対立して、お互いの繋がりを考えません。今の時だけは
大事にしますが将来に繋がる発想ができません。あのネイチャープログラムを通し
、私は次の聖書の言葉を心に留めました。「ユダヤ人もギリシャ人もなく・・あな
たがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つ」。私が「繋がり」ということを森の
中で気づいたように、キリストの眼差しの中で、私たちは繋がりのある関係を発見
し大事にすることができるのです。

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●労働時間に対する賃金●

2011年08月09日 11時08分06秒 | 労働法
労働時間として認められた場合には、当然にその労働時間分の賃金である、いわゆる残業代が支払われることになるのですが、ここに問題があります。日直や宿直などの残業代として、1勤務3,000円、と就業規則などに定められていた場合、会社は日直や宿直の手当てとして、所定の3,000円を支払えば良いことになります。労基法上の労働時間かどうかは、指揮命令下にあるかどうかという客観的判断によって決まりますが、その労働時間に対していくらの賃金を支払うかは、これは契約によることになるのです。
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出エジプト記4章10-17節

2011年08月09日 06時15分22秒 | 聖書
4:11 主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」 モーセは自分が遣わされる時になり、ますます不安になってきました。遣わされる相手は、巨大な国であるエジプトであり、その王です。しかも、イスラエルの民を苦しめて、こき使っている人です。そのような人の前でどう語り、また、何を語るのかと思ったことでした。彼は、もう何十年もエジプトから離れていたからです。その時に主が語られたことは、「わたしがあなたと一緒にいる。」といった意味を悟りなさい、ということでした。ここで主は、誰が人に口を与えたのか、あるいは、口がきけなくしたりするのかと言われました。主がそのように人々を支配し、また導いているのではないかと言われるのです。その主が下さるならば、語るべき言葉も、当然与えられるであろうと言われるのです。その主に対する信頼こそが、大事なことだと言われるのです。
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◆相談・計画・リーダーシップ

2011年08月09日 06時01分48秒 | 聖書
相談して計画を整え、
すぐれた指揮のもとに戦いを交えよ。(箴言二〇18)

相談・計画・リーダーシップ。――これは、人生のいろいろな戦いを戦い抜いて勝利を得るための三つのマジックワードともいうべきです。
十数年前、私はT先生という先輩のもとで、ある大きな仕事に携わらせていただきました。先生は、戦後、大きなグループを0から築きあげた実力者で、それだけにワンマンだ、という評判のあった方でした。ところが、身近に親しく仕事をしてみると、この評判は大違いでした。これほどまでしなくてもよいと思うほど、人と相談した上で、計画を整え、人々の理解・和・一致を得た上で、押しつけや無理をせずに実行に移るのです。そして、その時も大成功でした。
第一は「相談」です。人間にはいつも、自分の考えが正しくて自分のやり方が最高という自負があります。しかし神は、その人その人に、違った知恵と違った観点を与えていらっしゃるのです。自分も心を開いて、人の助言を求めるなら、神がほかの人々に与えておられる他の知恵も分かります。
第二は「計画」です。よい相談は自然によい計画を導き出すかもしれません。計画で大切なことは、まず、だれにも分かり、納得される目標と目的とが、神のみこころにかなってはっきり立てられるということ。その達成のための経済的必要や払うべき犠牲が、はっきり計算されていること。そして、目標達成までのプロセスと必要な忍耐と待望が、はっきり覚悟され、計算されていることでしょう。
そして第三は、よい「リーダーシップ」です。これを備えた人は、人の和の上に立って、目標をはっきり見させ、一人一人に気を配る愛と使命感を持ち、犠牲を惜しまない人です。考えれば考えるほど、イエス・キリストのよい指揮のもとに、神のために仕える人生のチャレンジに心が燃えます。

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◆都には、これを照らす太陽も月もいらない。

2011年08月09日 05時58分07秒 | 聖書
(黙示録二一・二三)

かなたのさらにまさる世界で、民はどのような被造物からの慰めも必要としない。また衣服も必要ではない。彼らの着る白い衣は、決してほころぶことも汚れることもないからである。また彼らには病をいやす薬もいらない。「そこに住む者は、だれも『私は病気だ。』とは言わない」からである。そして、体力を回復するための眠りも必要としない。彼らは疲れず、昼も夜も神の聖所で神を賛美する。また慰めを得るために社交的な交わりに入る必要もない。人との交わりによって得る幸福がどんなものであろうと、それは彼らにとって不可欠のものではない。主との交わりこそ、彼らの最大の願望を十分に満たすからである。そこでは彼らは教師を必要としない。もちろん神について親しく語り合うが、ほかの者によって神の知識を教えられる必要はない。主についてすべて教えられるからである。
私たちの今の状態は、王の門前で施しを受けているようなものだ。しかしそこでは彼らは、食卓でごちそうにあずかる。この世で私たちは友情の腕によりかかっているが、そこでは彼らは愛する御子にのみよりかかる。この世で私たちは友の助けを借りなければならない。しかしそこでは彼らはキリスト・イエスの中にすべての必要を見いだす。この世で私たちは朽ちる糧を求め、しみの食う衣を必要とする。しかしそこにおいては、彼らは一切をキリスト・イエスの中に見いだす。私たちは井戸の水を汲むために容器を用いる。しかしそこでは彼らは水源に行って、いのちの水にくちびるをつけて飲む。この世では天使が私たちに祝福をもたらす。しかしその時はもはや天からの使いは必要ではない。また天使ガブリエルが神からの愛の手紙をもたらすこともいらない。なぜなら、顔と顔とを合わせて神を見るからである。
ああ、一切の二次的原因を超越して、神の御手の中に憩う時は、なんたる祝福の時か。被造物ではなく神が、主のみわざではなく主ご自身が、私たちの日々の喜びとなられる時は、なんという栄光の時か。そのたましいは全き祝福にあずかるものである。

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