座間コミニティー

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◆もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。

2018年02月26日 16時15分42秒 | 聖書
すべてが白く変わったので、彼はきよい。(レビ一三・一三)
この規則は奇妙に見えるかもしれないが、この中には知恵がある。病毒が外に吹き出ることは、身体が健全であることを証明しているからである。
私たちも、この病にかかっている。そしてこの病に関する規則は私たちにもあてはまる。人が自らの完全な腐敗と、自分が失われている存在であることと、全身罪の汚れでおおわれ、健全な所がないことに気づき、自らの中に義なるものがいささかもないことを認め、主の御前に告白する時、主の血潮と神の恵みによってきよめられる。隠れた無感覚な告白されない罪こそ、真の病である。しかし、罪が外に現れ、感じられる時、罪は致命傷を受けているのであり、主は罪に悩むたましいにあわれみの目を注がれる。自らを正しいとすることほど致命的なものはなく、悔い改めほど希望あるものはない。私たちは、自分が「罪人以外の何ものでもない」ことを告白しなければならない。ここにまで至らない告白は、すべて真のものではないからだ。もし聖霊が私たちとともに働き、私たちに罪を意識させられるならば、そのような告白をするのに何の困難も感じないだろう。自然に口について出てくる。
今夜のみことばは、真に目覚めた罪人にとってなんという慰めであろうか。本来ならば、非常に失望させるべきものが、ここでは望みのある状態のしるしとされている。着物を着せるためには、まず着ているものを脱がせなければならない。家を建てるには、まず地盤を掘り下げなければならない。そして全き罪の自覚は、心のうちに恵みのわざが始められた最初のしるしである。病で全身おおわれた者よ。この聖句によって力を得、そのままイエスのもとに来れ。
負債の大小にかかわらず、私たちが支払えないことを告白する時、主はことごとく免除してくださる。たましいを自由にするのは全き貧困のみである。たとえ一円でも自分のものだと言ううちは、負債を完全に免れることはできない。
 

「いつも喜んでいなさい。

2018年02月26日 16時14分41秒 | 聖書

絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16)

苦しい、辛い状況の中にある時、誰しも、「こんな状況の中で感謝なんて無理、できるわけがない」と思う。
しかし、御言葉はどう言っているだろう。感謝できるから、感謝せよ、とは言っていない。
喜べるから、喜べ、とは言っていない。

いつも喜んでいなさい。すべての事について感謝しなさい」だ。
なぜ感謝できるかと言うと、信仰者はすべての事に、神の主権を認めるからだ。
一つ残らず、すべてに神の支配を認め、神には目的があり、計画があり、意図を持っておられる事を信じるゆえだ。

意味の無い事は一つもない。無駄な事も一つとして無い。
私たちを聖めるため、気づきを与えるため、一段階成長させるため、実は危険な状態から救い出すため、もっとひどい事にならないため、私たちの益のために許されている。

人からの攻撃、批判を受けた時、肉は相手を憎み、恨み、何倍もの復讐心が湧き上がる。
しかし、それで苦しむのは自分自身だ。平安が失せ、喜びは無くなり、心は悶々状態で、暗く苦しく辛いばかりだ。
「感謝できませんが、感謝できるよう助けて下さい」と気持ちをそのまま祈って行こう。

感謝できないが、しかし、意志を向けて、感謝を選び取ろう。
「感謝できませんが、感謝します」と。その選択を祝福して下さる。
不思議が起こり、心が変えられ、平安が臨む。
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感謝できない状況で「感謝します」と言う時、私達はしっかりと神様を見ている。
不平不満の感情に落ち込む時、この御言葉を思い「今はわからないけれど感謝します!」と喜んでみよう。
肉から御神に思いが変わり感謝の祈りに変わらないだろうか。


今日の聖人の記念日

2018年02月26日 07時18分20秒 | キリスト教

聖ポルフィリオ司教

347年ごろ-420年

 ポルフィリオは、マケドニアに生まれた。25歳のときエジプトに行って5年間修道士として修行し、その後パレスチナに行くが、重い病にかかった。ポルフィリオは余生をイエスがたどられた道を歩もうと決心し、エルサレムに巡礼に出たことで奇跡的に病が治った。彼は持っていた財産をすべて貧しい人々に与え、自らは靴を作ることで生計を営んだ。

 392年に司祭となり、3年後に異教徒が多いガザの司教に選ばれて宣教に力を尽くした。当時の東ローマ皇帝アルカディウスの支持を得てキリスト教の宣教活動をますます推進した。

 ポルフィリオは395年までイエス・キリストがはりつけにされた聖十字架の遺物を保管していたことで知られている。


◆自分を救い出せ

2018年02月26日 07時17分06秒 | 聖書

あなたの目を眠らせず、
あなたのまぶたをまどろませず、
かもしかが狩人の手からのがれるように、
鳥が鳥を取る者の手からのがれるように
自分を救い出せ。        (箴言六4―5)
勢子たちや犬に狩り出されたイノシシが、鉄砲でねらう猟師たちの待つところにふらふらと追われてきた姿を見たことがあります。また、かすみ網にひっかかって懸命に暴れる小鳥たちの姿も映画で見ました。絶体絶命です。
聖書は、人間の姿を、こんなカモシカや鳥にたとえています。孤独・不安・挫折……、現代人の憂いは濃く、現代人は深く悩んでいるのです。あなたも現代人の一人として、そのような悩みを持っているのではないでしょうか。
現代人はこの悩みから逃れようとして、網にかかった鳥のようにもがいています。レジャーに、酒や女やギャンブルに自分を忘れようとし、趣味・道楽に逃げ道を見いだそうとしたり、勉強や事業をいのちがけでやってみたりします。しかし、それはがんに膏薬をつけているようなものです。どこに救いがあるのでしょう。
現代人のこの悩みの根本原因は何かを、私たちは知らないでいます。ちょうど、自分のすみかから迷い出たカモシカや網の前に迷い出てしまった鳥のようです。
人間の悩みの根本原因は、造り主なる神の愛のふところから離れ、愛深い神のいのちのつながりから迷い出たことです。神に立ち返るところにのみ、ほんとうの解決があります。
「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ」(イザヤ四四22)。
 

◆救いは主のものです。

2018年02月26日 07時16分07秒 | 聖書
(ヨナ二・九)
救いは神のみわざである。「罪過と罪との中に死んでいた」たましいを生かし、その霊のいのちを守られるのは神のみである。神は「アルファであり、オメガ」であられる。
もし私が祈り深いなら、それは神が私をそうされたのである。もし私に徳があるなら、それは神の賜物である。もし私が調和のある生活をしているなら、それは神がその御手で支えておられるからである。神が私を守るために先手を打たれたのであって、私が何かの努力をしたためではない。私の犯す罪は私のものだが、私のなす正しい行いはことごとく主から来たのである。
もし私が霊の敵を撃退したとしたら、主が私の腕を力づけられたからである。私が人々の前で聖い生活をしたとしたら、それは私でなく、私のうちに住んでくださるキリストである。私は聖められているか。私を聖としたのは、私自身ではなく聖霊である。私は世的なものから離れているか。私は、私のために配慮される神の懲らしめによってそうされている。知識において成長したか。それは大教師が私を教えられたからである。私の宝石はすべて天の技術によってみがかれたものである。私に欠けているものは、すべて神の中にある。しかし私の中にあるものは罪とわざわいだけである。「神こそ、わが岩。わが救い」である。
私は神のみことばを食べて成長しているか。みことばをたましいの食物として、それを食べるようにしてくださるのは神である。私は天から降るマナによって生きているか。そのマナは受肉されたイエス・キリストであって、私はそのからだを食べ、その血を飲んでいるのではないか。私は不断に新しい力を受けているか。その力はどこから来るか。私の助けは、天地を造られた主から来るのであり、イエスなしに何もすることはできない。枝が幹につながっていなければ、実を結ぶことがないように、私も主につながっていなければ何もできないのである。
ヨナが海底で学んだことを、今朝は私の密室において学びたい。「救いは主のものです」ということを。
 

詩篇92篇1-3節

2018年02月26日 07時14分03秒 | 聖書

92:1 主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。
92:2 朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表すことは。


「朝ごとに主の恵を思って感謝を献げ、夜になると一日の守りと導きを感謝し、主と主の言葉の真実さを覚えて、主の御名を褒め称えることは良いことです」と歌っています。

「良いことです」というのは、善悪のことを言っているのではありません。

それは「本当に素晴らしいことです」と言っているのです。

私たちは朝起きると「今日はどうしようか」と、心が憂鬱になることがあります。

また、夜になって一日が終わると、その日の失敗や悔いが思い出されて、不安で眠れないことがあります。

ところが、憂鬱なことや心配なことがあっても、主の恵みを数えると、力がわいてきます。

また夜、心に心配があっても、すべてを主に委ねると、平安が与えられます。

主がその恵みと安らぎを与えてくださるからです。

それは本当に素晴らしい、良いことなのです。


ゼパニヤ書2章3節a

2018年02月26日 07時10分55秒 | 聖書

★主の定めを行うこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。


■O:今日のコラム
以前、イスラエルに行った時に、嘆きの壁の前に立って、主の前にした一つのことがありました。それは、「花嫁の心を求めます」という決心でした。

自分の夢でも願いでもなく、この人生かけて主を愛し、主を慕い求め、主の心を満たしたいと願いました。もっと神様だけを見つめたい、もっと愛したい、もっと飢え渇きたい、もっと求めたい…聖霊様の助けによって、そのような飢え渇きが与えられました。

すると、そのような情熱、飢え渇きは、私の心に喜びをもたらしてくれました。主の心を満たすなら、私たちの心は満たされます。主を喜ばせるなら、私たちも喜びに満たされます。主の楽しみは、私たちの楽しみとなるのです。

自分が経験したことですが、「あれがあれば楽しい」「こうなれば幸せ」「あれがあれば良い暮らしが出来る」などと考えたことがあります。しかし、結局手に入れても喜びは一瞬で、私の心は何も変わることなく、また再び「あれがあれば…」という欲求が生まれます。

いつまでも心は満たされません。なぜなら、その願いは主の心を喜ばせるものではなかったからです。むしろ、他のものを求め、主の心を痛める行為であったと思います。

主が喜びとするのは、他の何ものでもない、主ご自身を、ただ一人の主だけを見つめ、尋ね求めることです。

「主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。」(詩篇14:2)

主を尋ね求め、主を慕い求めることが本来の私たちの姿であり、主の定めなのです(ゼパニヤ書2:3)。主が喜びとし、主が願っている本来の私たちの姿へと回復していきますように。

今日のゼパニヤ書2章は、「恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。」と、主の大いなる怒りの日が来る前に、立ち返るようにユダの民に促すところから始まりますが、実にインパクトのある呼びかけです。

「恥知らず」とは、「慕う、恋い慕う、熱望する」を意味する「カーサフ」に否定辞「ない」がついて「恥知らず」と訳されています。これは、「主を恋い慕わない民」は、「恥知らずな民」だという意味です。

主の激しい怒りの日が来る前に、悔い改めの門が開かれている今、自分が恥知らずな民であったこと、自分の生ぬるさを熱心に悔い改めましょう。聖霊様の助けによって、私たちの中に主を慕い求める花嫁の心、ダビデの霊性が回復しますように。

今日も、飢え渇きと情熱、主に会いたいという渇望、花婿を慕い求める花嫁の心をもって主の御前に出ていきましょう。

「それで、あなたは、どこから落ちのたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」(黙示録2:5a)

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)




■A:考えてみよう
全能のイエス・キリストの御名によって、主を愛する情熱と飢え渇きを受け取ります!と宣言していきましょう。

また、今日捧げられる全ての礼拝において、ただ一人のお方を慕い求める花嫁の心、ダビデの霊性が回復するよう、祈り求めましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。