座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

今日の聖人の記念日

2018年02月19日 07時22分50秒 | キリスト教

聖コンラド(ピアチェンツァ)修道者

1290年-1351年

 コンラドは、イタリア、ピアチェンツァの裕福な貴族の家に生まれた。狩猟好きであったコンラドは、ある日、やぶに逃げ込んだ獲物を追い出そうとして火をつけた。その火はたちまち民家にまで広がり、近くにいた農夫が放火の罪を着せられて、死刑の判決を受けた。良心のかしゃくに苦しんだ彼は、自首し、刑を受け多大な賠償金を払った。これですべての財産を失ったが、この事件によって彼の心の目が開かれ、妻とともに神に生涯をささげることを決心した。ともにフランシスコ会第3会に入り、その後コンラドはシシリア島のノトの山で祈りと苦行の生活を送った。彼のもとには多くの人がいやしを求めに訪れた。

 彼の遺体はノトの聖ニコラス教会に眠っており、現在も多くの巡礼者が訪れている。


◆家庭に忠実であれ

2018年02月19日 07時21分43秒 | 聖書

他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、
その口は油よりもなめらかだ。
しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、
もろ刃の剣のように鋭い。         (箴言五3―4)
聖書は、けっして禁欲主義を教えていません。神の与えてくださったこの世界は、第一義的には祝福なのです。聖書は、この世を浮き世と呼んで否定したり、この世を捨てて出家したりするようには、けっして教えていません。かえって夫婦が愛し合って家庭をつくり、仕事にも励むことを命じているのです。クリスチャンになったからといって、信仰に熱心になったからといって、この世の祝福を避けるようにとは言っていません。かえって、社会の第一線で活躍するように励ましているのです。
神は人を男と女に造られ、祝福として性を与えておられます。人間が家庭をつくっていくために、性の喜びを与えてくださいました。つまり、愛と性は固く結びついています。性があることによって、人間は愛を教えられます。初めは奪う愛しか分からないのに、だんだんと与える愛へと変えられていく時、さらにいっそう性は祝されるのです。
しかし、性には大きなわながあります。自分の欲望を満たすためだけに性が使われ、奪う愛のみでほんとうの愛と結びつかない時、相手を道具とし、相手への忠実さは失われるのです。そのような結婚愛と分離された性はあなたの人間性を破壊し、あなたの家庭を破壊し、社会をだめにします。性のためのセックスの終局は苦よもぎのように苦く、両刃の剣のように鋭く殺りくするのです。
「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行なう者とをさばかれるからです」(ヘブル一三4)。
 

◆神である主はこう仰せられる。

2018年02月19日 07時20分56秒 | 聖書
わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。(エゼキエル三六・三七)
祈りはいつくしみの先駆者である。聖書に記されている歴史を考えてみよ。大きないつくしみが、祈りの前ぶれなしにこの世に来たことはないことがわかるであろう。あなたはあなたの個人的な経験に照らして、これが真実であることを知るだろう。神は、あなたが求めないのに多くの恩恵を与えてくださった。しかし、それでもやはり大きな祈りは、あなたに対するいつくしみの序曲である。あなたが十字架の血によって初めて平和を得た時は、多く祈って、疑いを取り去り、苦悩から救ってくださるように神に嘆願していた時であった。あなたの確信は祈りの結果であった。いつであろうと、あなたが非常に大きな喜びを経験した時には、それが必ず祈りの結果であったことに気づくであろう。あなたが非常な困難、大きな危険から救い出された時、あなたは、「私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった」と言うことができた。
祈りはいつでも祝福のいとぐちである。祝福の影として祝福の前に来るものである。神のいつくしみの太陽が私たちの必要を照らし始める時、それは祈りの影を平原のはるかかなたに投げる。あるいは、他の例をあげると、神がいつくしみの山を築かれる時、神ご自身がその後ろから照らして私たちの霊に祈りの影を与え、もし私たちが熱心に祈るなら、私たちの嘆願はいつくしみの影であることをはっきり知らされる。
このように、祈りは祝福と結び合って私たちにその価値を示してくれる。求めずに祝福を得るならば、私たちはそれを平凡なものと思う。しかし祈りは私たちの受ける祝福をダイヤモンドよりも尊いものとする。私たちの求めるものは尊いものだが、熱心に求めないならば、その尊さを知ることはできないのである。
 祈りは黒い雲をはらい
 祈りはヤコブのはしごを上らせ
 信仰と愛を訓練して
 上よりの祝福のすべてをもたらす
 

詩篇91篇7-9節

2018年02月19日 07時19分03秒 | 聖書

91:7 千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。
91:8 あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。


千人、また万人があなたの傍らに倒れても、それはあなたに近づかないと言っています。

「それは」というのは、災いのことです。

恐ろしい苦しみや戦いが来ないというのです。

それはなぜなのでしょうか。

それはあなたが、主なる方をあなたの避け所としているからです。

つまり、主があなたを守ってくださるからであると言っているのです。

それほどまでに、主はあなたを愛して、あなたに敵を寄せ付けない配慮をしてくださると言っているのです。

これは、作者の信仰告白であると共に、主がもたれている事実をそのまま語っているのです。

 私たちは困難や苦しみがあると、どこに心を向けたら良いのかわからなくなります。

作者は先ず、主にその助けを祈り求めていきましょうと言っているのです。

最善を持って、主が事を配慮をしてくださるからです。



テモテへの手紙第二2章15節(ハバクク書2章)

2018年02月19日 07時14分57秒 | 聖書

★「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」

■O:今日のコラム
パウロにとってテモテは霊の子どもであり、パウロはテモテのことを手紙のあちこちで高く評価しているのを見ることが出来ます。
「しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。」(ピリピ2:20)

マケドニア、アカヤ、エペソでのミニストリーにおいて、テモテはパウロを助けました。
また、パウロはテモテを伝道の旅に連れて行ったり、パウロがローマで投獄されていた期間も共に過ごすほど、テモテのことをとても信頼していました。
テモテへの手紙は父が子に教えるように書かれていますが、テモテの人格の足りないところを指摘するような箇所や叱責は見られません。
これらのことを思い巡らす時に、(当時、テモテは若者ではありましたが)彼の人格が整っていたことが伺えます。

テモテの父親はギリシャ人で、母親はキリストを信じるユダヤ人でした。信仰者である母ユニケによって、テモテは幼い頃からみことばの教えを受け、またキリストの福音の中で育てられたことが分かります。

多くの人にとって「教育」というとまず初めに思いつくものは読み書き、国語や算数などの教科ではないでしょうか。けれども、ユダヤ人にとっては、「教育」というと、まず始めに来るもの、それは「信仰」であり、その「信仰」を土台として、「人格」が形成され、最後に私たち日本人にも馴染みのある「教科学習」(いわゆる国語、算数などなど)がきます。「信仰」→「人格」→「学習」。これがユダヤ人の教育の順番だと聞いたことがあります。

信仰者として、神のみことばに生きるように子どもを教え育てるならば、また、敬虔な者となることが出来るように教え育てるならば、聖書のみことばによって人格が整えられていきます。
テモテは母の信仰を受け継ぎ、みことばに従うように教え育てられることによって、これほどまでにパウロに信頼される人格者となったのだろうと思います。

私たちも、この教育にならって自分自身を建て上げていくことが出来ます。
神を神とする信仰。自分が人生の一番上に来るのではなく、神が自分の人生の主人であるとする信仰をもちましょう。
また御言葉を信じる信仰。自分の考えや世の中の言うことが、人生の一番上に来るのではなく、御言葉が言っていることが自分の人生の一番上に来る、そのような信仰をもつことが大切です。
信仰をもって、キリストとの交わりがスタートします。けれども、そこで終わりではありません。

どれだけ、みことばを読み、聖書の知識があったとしても、何時間祈ったとしても、毎週教会に通い続けたとしても、何十年もクリスチャンだったとしても、もし、私たちの人格がキリストとかけ離れたものならば、また、私たちが霊的に成長しないのであれば、それは、宗教であって、いのちには至りません。

信仰者として、敬虔な者となれるように、みことばの通りに生きる者となれるように願い、また努める時に、私たちの人格はキリストに似た者へと整えられていきます。

自分の人格、内なる人を見る時に、その足りなさに気落ちしてしまうこともあるかも知れません。けれども、それはキリストに似た者へと変えられたいという願いがある証拠です。(自分の人格を見て、満足する人は、その人の内にキリストの人格が満ち満ちているか、もしくは自分の霊的成長にまったく興味がないかのどちらかでしょう。)

御言葉を霊の糧として日々食し、内に蓄え、みことばに生きる者、みことばの通りに生きる者、敬虔な者となることを目指していきましょう。それは隣りの人と比較するようなものではありません。
誰と比較するのか。それは昨日の自分です。昨日より今日、自分がさらにキリストに似た者となっているか、昨日より今日キリストの御人格が自分の内に造られていっているかに目を留めましょう。


■A:考えてみよう
御霊の実は愛、喜び、平安、 寛容、 親切、 善意、 誠実、柔和、自制です。
例えばすぐカッとなってしまいやすい性質があるならば、昨日より今日、柔和、自制の実が自分の中に実っているか、ということに目を留める。例えば人の失敗がどうしても赦せない、見逃せない、という性質があるならば、昨日より今日、寛容の実が実っているか。心配症であるなら、昨日より今日、喜びと平安の実が自分の内で結ばれているか。人の悪口や批判をついついしてしまうなら、昨日より今日、親切と善意の実が結ばれているかに目を留める。そのようにして、イエス様が迎えに来られる日まで、キリストの御人格が自分の内に強く大きくなることに務めていきましょう。


■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。