今日1日感謝の一日をありがとうございます。
合掌
1290年-1351年
コンラドは、イタリア、ピアチェンツァの裕福な貴族の家に生まれた。狩猟好きであったコンラドは、ある日、やぶに逃げ込んだ獲物を追い出そうとして火をつけた。その火はたちまち民家にまで広がり、近くにいた農夫が放火の罪を着せられて、死刑の判決を受けた。良心のかしゃくに苦しんだ彼は、自首し、刑を受け多大な賠償金を払った。これですべての財産を失ったが、この事件によって彼の心の目が開かれ、妻とともに神に生涯をささげることを決心した。ともにフランシスコ会第3会に入り、その後コンラドはシシリア島のノトの山で祈りと苦行の生活を送った。彼のもとには多くの人がいやしを求めに訪れた。
彼の遺体はノトの聖ニコラス教会に眠っており、現在も多くの巡礼者が訪れている。
91:7 千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。
91:8 あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。
千人、また万人があなたの傍らに倒れても、それはあなたに近づかないと言っています。
「それは」というのは、災いのことです。
恐ろしい苦しみや戦いが来ないというのです。
それはなぜなのでしょうか。
それはあなたが、主なる方をあなたの避け所としているからです。
つまり、主があなたを守ってくださるからであると言っているのです。
それほどまでに、主はあなたを愛して、あなたに敵を寄せ付けない配慮をしてくださると言っているのです。
これは、作者の信仰告白であると共に、主がもたれている事実をそのまま語っているのです。
私たちは困難や苦しみがあると、どこに心を向けたら良いのかわからなくなります。
作者は先ず、主にその助けを祈り求めていきましょうと言っているのです。
最善を持って、主が事を配慮をしてくださるからです。
★「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」
■O:今日のコラム
パウロにとってテモテは霊の子どもであり、パウロはテモテのことを手紙のあちこちで高く評価しているのを見ることが出来ます。
「しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。」(ピリピ2:20)
マケドニア、アカヤ、エペソでのミニストリーにおいて、テモテはパウロを助けました。
また、パウロはテモテを伝道の旅に連れて行ったり、パウロがローマで投獄されていた期間も共に過ごすほど、テモテのことをとても信頼していました。
テモテへの手紙は父が子に教えるように書かれていますが、テモテの人格の足りないところを指摘するような箇所や叱責は見られません。
これらのことを思い巡らす時に、(当時、テモテは若者ではありましたが)彼の人格が整っていたことが伺えます。
テモテの父親はギリシャ人で、母親はキリストを信じるユダヤ人でした。信仰者である母ユニケによって、テモテは幼い頃からみことばの教えを受け、またキリストの福音の中で育てられたことが分かります。
多くの人にとって「教育」というとまず初めに思いつくものは読み書き、国語や算数などの教科ではないでしょうか。けれども、ユダヤ人にとっては、「教育」というと、まず始めに来るもの、それは「信仰」であり、その「信仰」を土台として、「人格」が形成され、最後に私たち日本人にも馴染みのある「教科学習」(いわゆる国語、算数などなど)がきます。「信仰」→「人格」→「学習」。これがユダヤ人の教育の順番だと聞いたことがあります。
信仰者として、神のみことばに生きるように子どもを教え育てるならば、また、敬虔な者となることが出来るように教え育てるならば、聖書のみことばによって人格が整えられていきます。
テモテは母の信仰を受け継ぎ、みことばに従うように教え育てられることによって、これほどまでにパウロに信頼される人格者となったのだろうと思います。
私たちも、この教育にならって自分自身を建て上げていくことが出来ます。
神を神とする信仰。自分が人生の一番上に来るのではなく、神が自分の人生の主人であるとする信仰をもちましょう。
また御言葉を信じる信仰。自分の考えや世の中の言うことが、人生の一番上に来るのではなく、御言葉が言っていることが自分の人生の一番上に来る、そのような信仰をもつことが大切です。
信仰をもって、キリストとの交わりがスタートします。けれども、そこで終わりではありません。
どれだけ、みことばを読み、聖書の知識があったとしても、何時間祈ったとしても、毎週教会に通い続けたとしても、何十年もクリスチャンだったとしても、もし、私たちの人格がキリストとかけ離れたものならば、また、私たちが霊的に成長しないのであれば、それは、宗教であって、いのちには至りません。
信仰者として、敬虔な者となれるように、みことばの通りに生きる者となれるように願い、また努める時に、私たちの人格はキリストに似た者へと整えられていきます。
自分の人格、内なる人を見る時に、その足りなさに気落ちしてしまうこともあるかも知れません。けれども、それはキリストに似た者へと変えられたいという願いがある証拠です。(自分の人格を見て、満足する人は、その人の内にキリストの人格が満ち満ちているか、もしくは自分の霊的成長にまったく興味がないかのどちらかでしょう。)
御言葉を霊の糧として日々食し、内に蓄え、みことばに生きる者、みことばの通りに生きる者、敬虔な者となることを目指していきましょう。それは隣りの人と比較するようなものではありません。
誰と比較するのか。それは昨日の自分です。昨日より今日、自分がさらにキリストに似た者となっているか、昨日より今日キリストの御人格が自分の内に造られていっているかに目を留めましょう。
■A:考えてみよう
御霊の実は愛、喜び、平安、 寛容、 親切、 善意、 誠実、柔和、自制です。
例えばすぐカッとなってしまいやすい性質があるならば、昨日より今日、柔和、自制の実が自分の中に実っているか、ということに目を留める。例えば人の失敗がどうしても赦せない、見逃せない、という性質があるならば、昨日より今日、寛容の実が実っているか。心配症であるなら、昨日より今日、喜びと平安の実が自分の内で結ばれているか。人の悪口や批判をついついしてしまうなら、昨日より今日、親切と善意の実が結ばれているかに目を留める。そのようにして、イエス様が迎えに来られる日まで、キリストの御人格が自分の内に強く大きくなることに務めていきましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。