座間コミニティー

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◆……あなたを喜ばせた。

2018年02月15日 15時28分51秒 | 聖書
(詩篇四五・八)
このように救い主を喜ばせる特権にあずかっているのはだれか。それは主の教会、主の民である。主は私たちを喜ばせてくださるが、私たちはどのようにして主をお喜ばせすることができるのか。
私たちの愛によって……。私たちは自分たちの愛が全く冷ややかで、かすかであることを思う。悲しいことに、それは事実であることを告白しなければならない。しかしキリストにとっては、私たちの愛は実にすばらしいものである。雅歌の賛歌を聞くがよい。「私の妹、花嫁よ。あなたの愛は、なんと麗しいことよ。あなたの愛は、ぶどう酒よりもはるかにまさり……」と。見よ、主がいかにあなたを喜んでおられるかを。あなたが主の胸に頭をもたせかける時、主から喜びを受けるばかりでなく、主に喜びを与えている。あなたが愛をもって、主の栄光に満ちた御顔を見つめる時、慰めを得るだけでなく、主に喜びを与えている。
私たちの賛美――くちびるから出る歌ばかりでなく、心の内の感謝のメロディーも――も主に喜びを与える。
主は、私たちが時も才能も財産も主の祭壇にささげるのを見ることを愛される。主は、私たちのささげる動機を喜ばれる。聖徒たちのいやしいささげものを、幾千枚の金銀にもまさってお受けになる。
聖潔は主には乳香のようであり、没薬のようである。あなたの敵を赦せ。そうすれば、キリストをお喜ばせできるであろう。あなたの持ち物を貧しい人に分け与えよ。主は喜んでくださるであろう。救霊のために身をささげよ。主はご自分のたましいの苦しみの実を見られるであろう。主の福音を宣べ伝えよ。主はあなたを香ばしい香りとされるだろう。
ベタニヤの女のように、石膏のつぼを打ち砕いて、主の頭に尊い喜びの香油を注ぐことは、今あなたにもできる。この女のしたことは、世界中のどこでも、福音が宣べ伝えられる所なら、今日も記念として語られている。あなたは臆するのか。あなたの心の賛美の没薬、アロエ、肉桂をもって愛する主を芳香で満たしたいと思わないか。
 

「しかし、私自身については、

2018年02月15日 15時27分52秒 | 聖書

自分の弱さ以外には誇りません」(Ⅱコリント12:5)

み言葉の言う弱さとは、自分の限界を知り、認めているということだ。
この世の言う弱さは違う。この世界は比較の中におかれ、比較の中で生きている。
人より仕事ができない、勉強ができない、運動ができない、テキパキ処理できない、対人関係がうまくできない、そんな弱さは悪という価値観だ。

どこまでも競争ゆえ、それなら「負け組」ということになる。
そのようなこの世の価値観、古い価値観の影響を受けると、できない自分、だめな自分、人の持つ幸せを持たない自分、人より劣る自分は敗北者になり、自分で自分を受け入れることができず、認めることができない。

問題はここだ。自分が自分を受け入れず認めない。
だから人も認めることができないし、又、自分の弱さを、人にも受け入れて貰えないと思ってしまう。
それゆえ、人に弱さを隠す事になる。競争なので、弱さを見せると、負けになる。
尊敬を失い、自分の価値が下がる、だから絶対に見せられない。

自分で自分を縛り、窮屈にし、がんじがらめにしている。
しかし、御霊の世界は違う。神の力は弱さのうちに完全に現される。
神の愛や、力や、恵み、神の支えや、助け、それらを弱さの中で初めて体験する。
身をもって知れる。自らの弱さを「認める」時に、御霊の自由の中に入れられ、解き放たれ、平安にされる。
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自分の苦手な部分、弱い所を認めて祈る時、神様の取り扱いを経験をする。
弱さの中で与えられる慰めや励ましは、神様からだと知れてなんと愛されている事かと喜びに満ちる。


今日の聖人の記念日

2018年02月15日 07時10分45秒 | キリスト教

聖ジークフリード

?-1045年

 ジークフリードは、イギリスのヨークに生まれ、グラストベリーのベネディクト会修道院に入った。当時、ノルウェー国王がイギリス国王に宣教師の派遣を願っていたので、ジークフリードは宣教師として数名の仲間とともに派遣された。

 彼らはノルウェーで熱心に宣教し、多くの人々に洗礼を授けた。ジークフリードはスウエーデン国王にも洗礼を授け、ベクシェに教会を建て、そこを中心にスカンジナビア地方一帯の人々を信仰に導いた。

 ベクシェの初代司教となり、3人の甥とともに活躍したといわれている。

 ジークフリードはスウエーデンの守護の聖人として、国民から親しまれ尊敬されている。


◆義人の道・悪者の道

2018年02月15日 07時09分36秒 | 聖書

義人の道は、あけぼのの光のようだ。
いよいよ輝きを増して真昼となる。   (箴言四18)
ロッキード事件の丸紅ルートの公判で、一人の容疑者が告白したことですが、逮捕される前に、その会社の最高幹部が検事ごっこをしたのだそうです。なぜ検事ごっこなどやったのかと聞かれてその答えは、逮捕された時の準備ということもあったが、そうでもしていないと不安だったというのでした。
悪を働いている者・不正の者には平安がありません。どこから水がもれてくずれ、すべてがだめになるか分からない不安がつきまとっています。それに、悪を働いている者・不正の者には、人との間にまごころとまごころのつながったほんとうの交わりがないのです。疑い・ねたみ・そねみ・悪意・ひがみだけの交わりだけです。一見親しそうに見えて、たちまち裏切り合う生き方です。まことに、「悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない」(19節)と記されたことばのとおりです。
ところが、神のみこころを行う者の道はあけぼのの光、いよいよ輝いて真昼となるのです。アルプスの登山家のウィンパーは言いました。「希望と計画を共有する時ほど、人が固く結ばれることはない。」
神に従い、神のみこころを行うことは、アルプスの氷壁をよじ登るようにつらく見えることもあるかもしれません。しかし神に希望を置き、神の高さに登ろうとする人々の心には、やがてあけぼのの光が差し、神のために、人に仕えて生きようとする人の心は結ばれて、その交わりは真昼のように輝くのです。神に従い、神を目標としてそのご計画の中に歩む時、親しい人との交わりがあり、すばらしい神との交わりがあるのです。これこそ最高の人生です。
 

◆このキリストに、栄光が、

2018年02月15日 07時08分50秒 | 聖書
今も永遠の日に至るまでもありますように。(Ⅱペテロ三・一八)
天にはイエスを賛美する声が絶えず満ちている。永遠よ、おまえの無数の年月は不断に流れていくことであろう。しかし「栄光が、永遠の日に至るまで」キリストにあるだろう。彼は、「メルキゼデクの位に等しい大祭司」ではないか。栄光が主にあるように。主への賛美は決してとだえることがない。血をもって買われたものは永遠に存続する価値がある。十字架の栄光は決して曇ってはならず、墓と復活の輝きは決しておぼろになってはならない。
主にある友よ。あなたは天上の聖徒の群れに加わって、すべての栄光をイエスに帰する日の来ることを期待している。しかし今、あなたは主の栄光を現しているか。使徒は「このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように」と言っている。今日あなたはこのことを祈らないか。
主よ。私を助けて、あなたをあがめさせてください。私は貧しい者ですが、足ることを知り、あなたをあがめることができますように。私は病んでいます。しかし、忍耐してあなたをたたえることができますように。主よ。私には時間があります。この時間をあなたのために用い、あなたに仕えることができますように。主よ。私には心があって感じることができます。どうかあなたに対してのみ愛を感じ、その愛だけを燃やすことができますように。私は考える頭をもっています。どうかあなたのことだけを、あなたのためにだけ考えることができますように。
主よ。あなたは何事かをなさせるために私をこの世に置かれました。主よ。それが何であるか示してください。私がその生涯の目的を達成できるよう助けてください。私は多くをなすことはできません。しかし、生活費の全部であるレプタ二つをささげたやもめのように、私の時と永遠をあなたの倉にささげます。私のすべてはあなたのものです。今私を用い、語るところ、なすところ、持てるすべてによって、栄光をあなたに帰さしめてください。
 

詩篇91篇4-6節

2018年02月15日 07時07分12秒 | 聖書

91:4 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。


主は、親鳥が小鳥を羽でおおってくれるように、あなたを御自分の羽で覆ってくださると語っています。

その翼の下に身を避けて、敵から命を守っていただくことが出来ると言っています。

また、主が彼を守ってくださるのは、他の鳥の羽によってではなく、自分の羽です。

だからこそ安全で、確実な守りであると言っているのです。

 では、なぜその主の守りが確かであり、安心してその翼の下に入って、身を避けることが出来るのでしょうか。

それは、主が真実であられるからです。

真実な方であるとは、約束を決して変えないお方であるということです。

御自分が守ろうと言われた時には、どのような時にも守ってくださるというのです。

そのように真実な方であるからこそ、私たちは安心して、心から主に身を委ねて歩むことが出来るのです。

そして、その主が今、ご自分を頼って、私の元に来なさいと言われるのです。



テモテへの手紙第二1章9節

2018年02月15日 07時04分30秒 | 聖書

★神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、

■O:今日のコラム
このテモテの時代の背景はどのようなものだったでしょう。

第一、二テモテの手紙を読むと、信仰が離れ出ていく者が起こったり、一生懸命宣教したにも関わらず背教と思えることが起こっていたのだと分かります。その中でテモテは落ち込んでいたのではないでしょうか。だからこそ、パウロはこの手紙を通してテモテを励ましているのです。

では、どのような励ましをしているでしょうか。「テモテ、あなたのしてきたことは素晴らしいよ、よくやってるよ。」とか、「苦しいよね、つらいよね。」というようなテモテに寄り添う心、ほめる気持ちもあったでしょう。

しかしそれ以上に、今日の箇所のように、「神様があなたを召してくださったんだよ。」と励ますのです。これは真の励ましではないでしょうか。そうです、私たちが自分で選んだのでなく、神様が私たちを召し、神がその場所に私たちを置いているのです。

自分自身に基準を置くときに私たちは、うまくいくと自分がやった、と高ぶってしまうものです。また、うまくいかない時には、私が駄目だからこうなったんだ、もうふさわしくない、立てないと落ち込んでしまうのです。このようにして信仰生活にアップダウンが起こってしまうのではないでしょうか。

しかし、決して間違うことなく、偽りのない真実な神様が、私たちの働きでなく、ご自身の計画と恵みによって召してくださったのです。召された者でなく、召してくださった方が真実なのです。

「私たちは真実でなくても彼は常に真実である。」(2テモテ2:13a)

「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(1テサロニケ5:24)

ここに立つ時に、もちろん試練の時、栄える時という状況の変化はあろうとも、この心は揺らぐことのないものヘと造り変えられていくのです!

私自身、落ち込んだり、こんな私に何ができるのかと思うことがあります。しかし、そのたびに祈るのです。

祈りの家で祈る時、会堂で賛美をする時によく、掲げられている十字架を見上げます。進めない、自分の愚かさに失望する時に、この十字架を見ると、私の内に生きておられるイエスキリストを強く感じます。

自分はどういうものであるか、でなく、神様がどういうお方で、神様は何をしてくださったか、神様がなんと言っておられるか、という視点へと目が開かれるのを、本当に本当に一部ですが体験しているように思います。

「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているででなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」(ガラテヤ2:20‐21)

苦しい時も、栄える時も、真実な主に信頼して、自分に与えれた走るべきレースを今日も、私も含めてお一人お一人が歩んでいけますように心からお祈りします。


■A:考えてみよう
今日の聖書箇所、コラムの中にある聖書箇所を朗読し、以下のことを中心に点検する時間をもちましょう。(2テモテ1:9,ガラテヤ2:20-21)

落ち込む時に自分を見ていないだろうか。その時こそ、十字架のもとに走っていきましょう!十字架のもとで、慰め、励ましを受け、そして自分から神様へと方向転換されていくように祈り求めましょう。

また、自分が出来ること、うまくいったことに土台を置いていないでしょうか。十字架の恵みを放従に変えることなく、神の国のため正しく用いていくことができるように祈り求めましょう。

「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。」(2テモテ1:6b)

「そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。」(2テモテ1:14)


■P:祈り



愛するイエス・キリストの名前によってお祈りします。アーメン。


2月14日(水)のつぶやき

2018年02月15日 02時35分54秒 | 仏教