座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

詩篇69篇13-18節

2017年10月24日 15時20分16秒 | 聖書


69:13 しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。


主は私たちに、いつも祈りなさいと語っておられます。

いつもと言うのですから、つらい時や悲しい時だけではなくて、うれしい時や喜びの時もそうです。

皆それらは、主からもたらされた恵みであることを覚えて、祈りの内に喜びと感謝とを主に献げるのです。

 ところで、私たちの祈りは、神さまへの感謝よりもお願いすることが多くあります。

また、願いの祈りをしますと、神様はすぐにも聞いてくださるように思うのです。

ところが、それがいつまでも聞かれないと思うと、もう祈る意欲が失われてきます。

ここで作者は、「みこころの時に」と言っています。

これは、「神の御心の時に、私の祈りをお聞きください」ということでしょう。

また「神の御心の時に、私の願いを叶えてください」ということでしょう。

いつでも主を信頼しているのです。

祈りつつ、待ち続けるているのです。


「だから、聞き方に注意しなさい。

2017年10月24日 15時18分05秒 | 聖書

というのは、持っている人は、さらに与えられ・・」(ルカ8:18)

ただ単に、御言葉をぼやっ~と、聞いていればよいのでなく、聞き方に「注意せよ」と言われている。

イスラエルの民は皆、モーセから神の言葉を聞いていた。
しかし、聞いた言葉が「信仰に結びつけられ」なかったため、最後まで神を疑い、結局は不信仰によって荒野で滅ぼされてしまった。

モーセは神の言葉を語った。聞く側に問題があった。
信仰に結びつける事が大切だ。
種蒔きのたとえで、種は御言葉で、土地は心だ。
道ばたに落ちた種は土が固く、心に入らず、サタンが来て御言葉を奪い去った。

先入観や偏見があると御言葉が入らない。
又、他人事として聞く態度だ。自分の事として聞かないので、素通りする。
まるで目の前で映画でも見ているように、傍観者として聞いていないか。

御言葉は「自分に」向けられている言葉として受け取らない限り、無益だ。
自分の事として受け取る心が「良い地」だ。必ず豊かに結実する。

岩の上に落ちた種とは、喜んで御言葉を受け入れるが、根が無い。
根を張るのは地中だ。隠れた神との関係を培う事が大切だ。
人目に見えない神との交わりの地道な生活が根だ。それが無いと枯れてしまう。

いばらの中の種は、外部から伸びたいばらにふさがれた。
外部のものによって生長が妨げられる。
世の様々な事柄に心が奪われ、いつしか神がおそろかになってしまう。
それは仕事や趣味など、全然罪ではない良いものかも知れない。
良いものだけに気づかない。

自分はどんな「聞き方」をしているか、よく省みてみよう。
御言葉を、愛して、へりくだって、「従います」の態度で聞こう。

------------------
「聞き方に注意せよ」と言われている。聞いている「つもり」で、右から左なら、結実が無い。
御言葉により自らを吟味し、示されている事に従おう。
従う時に、自分が変えられ、主を新たに知り、自分も恵まれ、周囲にも神の栄光を現して行く。



詩篇69篇1-12節

2017年10月24日 15時16分34秒 | 聖書


69:8 私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、私の母の子らにはよそ者となりました。
69:9 それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。


「常識的でありなさい」「この世の人の意見に従いなさい」と、人から注意される時があります。

こうした常識は、社会生活をしている時には必要なことです。

 ところが、主に対しても常識程度にして、あまり熱心になるなということを語る人がいます。

特に、家族の人などはそうでしょう。

しかし、偶像に対しては熱心であってはならないのですが、真の神に対しては、心を熱くすることを主は求められておられます。

熱心であるとは、主のみ言葉に聞いて、それに従うことです。 

 神を知らない人々は、そうした時、その熱心を軽蔑したり、また愚か者扱いをする時もあります。

しかし主なる神は、そうした人こそ喜こんでくださいます。

真の神に対しては人の評価を気にせず、パウロが言うように、気が狂うほどに熱い心で仕えましょう。



ネヘミヤ記13章1節

2017年10月24日 15時14分58秒 | 聖書


★その日、民に聞こえるように、モーセの書が朗読されたが、その中に、アモン人とモアブ人は決して神の集会に加わってはならない、と書かれているのが見つかった。


■O:今日のコラム
エズラ記とネヘミヤ記を通して私たちの内なる人が神の統治する神殿となり、主の栄光が輝くエルサレムとして回復する為の行程を悟ることが出来ます。その重要なポイントが悔い改めの祈りと御言葉の朗読にあります。

神殿再建を進めるにあたり、ユダヤ人たちは多くの妨害と非難と困難に直面しました。しかしその度に彼らは神のあわれみを求めて祈り、御言葉を朗読する中で神の律法に反して生きる自分たちの罪が示され、一歩一歩悔い改めが深い領域へと進み、彼らの内にある異教の文化や神に背く生き方が取り除けられていきました。

私たちも人生の中で試練や困難、妨害や非難に遭う時は、状況や環境や人に問題を探ろうとするのではなく、立ち止まってまず自分自身の内を点検する必要があります。

鏡を見ると自分の体が曲がり、姿勢が悪いのに気がつくのと同じように、聖書の御言葉に照らし合わせて見る時、自分自身の内に主の基準から離れた部分や、真理から曲がってしまった領域を知ることになります。その時にこそ、神の慈愛の中で悔い改めて祈り、御霊の助けにより自分の内から罪の生き方を取り除く機会となります。

ネヘミヤ記9章2~3節にはこのように記されています。

「そして、すべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と、先祖の咎を告白した。彼らはその所に立ったままで、昼の四分の一は、彼らの神、主の律法の書を朗読し、次の四分の一は、告白をして、彼らの神、主を礼拝した。」

ここで主の民は自分の罪と先祖の咎を悔い改めて祈り、多くの時間を御言葉の朗読に費やしました。そしてその御言葉に基づき告白をし、主に礼拝を捧げました。悔い改めを通して御言葉の真理が私たちの内に臨む時、主への礼拝が回復します。詩篇の中でダビデはこれを「喜んで仕える霊」(詩篇51:12参照)と呼んでいます。

神の恵みは今日も十分に私たちに用意されています。しかし、私たちの心の目が違う方向を見ているが故にその恵みに気が付きません。悔い改めをもって心の偶像を取り除き(エゼキエル14章参照)、主に目を向け、柔らかになった心の土地に御言葉の朗読をもって真理の種を蒔き続けていきましょう。

日々一歩ずつ、神を礼拝する喜びのエルサレムが私たちの内に回復していきますように。



■A:考えてみよう
今日も御霊の助けを求め、新しい心をもって悔い改めの祈りをし、御言葉の朗読を続けていきましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


◆(イエスは)弟子たちの足を洗って……。

2017年10月24日 15時12分48秒 | 聖書
(ヨハネ一三・五)
主イエスは、この上なくその民を愛し、今なお日ごとに、彼らの汚れた足を洗うのと似たことをくり返しておられる。主イエスは、彼らの貧弱な活動を受け入れ、その深い悲しみを感じ、その頼りない願いにも耳を傾け、そのすべての咎をお赦しになるのである。主はその民の友であり、主であられるとともに、今なお彼らのしもべであられる。主はその額に大祭司の冠をいただき、胸当てに輝く宝石を飾り、彼らのためにとりなしの荘厳なみわざをなされるのみか、へりくだり、忍耐強く、たらいと手ぬぐいとを携えて、その民の間を行き巡ってくださる。主が日ごとに、私たちの不断の弱さと罪を取り去られる時、このようにされる。
あなたは昨夜ひざまずいた時、悲しそうに、自分の行為の多くが自分の信仰告白にふさわしくなかったことを告白した。そして今夜は、しばらく前に特別な恵みがあなたを愚行と罪から救い出したのに、その同じ愚行と罪に再び陥ったことを新たに嘆かなければならない。しかしイエスは、あなたに対する大いなる忍耐をもっておられる。主はあなたの罪の告白を聞き、「わたしの心だ。きよくなれ」と告げられる。主はあなたに再び血を注がれ、あなたの良心に平安を語りかけ、すべての汚れを取り除かれる。
キリストが罪人を赦し、神の家族に迎え入れたのは、永遠の愛の大いなる行為による。しかし救い主が、不従順な弟子たちがしばしば繰り返す愚行を長い間忍耐されるとは、なんという謙遜だろう。主は、毎日毎晩失敗の多い、しかし愛すべき弟子たちの増大する咎を洗い流しておられる! 反逆の洪水を干上がらせることは、驚くべきことである。しかし、くり返される罪の不断の継続を、どこまでも忍ぶことは、実に神のわざと言えよう。主によって日ごとにきよめられることは、私たちに慰めと平安をもたらす。またその影響は、私たちをさらに注意深くさせ、聖潔への願いを燃やさせる。友よ。そうではないだろうか。
 

「御霊によって歩みなさい。

2017年10月24日 15時11分48秒 | 聖書

そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(ガラテヤ5:16)

私たちの肉は、サタンもそこに働いて来て、御霊に従う事に、常に逆らう。
神は「いつも喜んでいなさい」と言われる。しかし、肉は「何でいつも喜べるのか。
今はいい。又良い事があれば喜べばいい」と言う。

「偽ってはならない」と神は言われ、肉は「少しの嘘の方がうまく収まる。
これぐらい誰でもしている。許されるさ」と言う。神は「隣人を愛しなさい」と言われる。
肉は「そんな事無理。自分は忙しい。自分の都合の良い時に愛せばよい。
好きな人だけ愛せばよい」と言う。

神は「兄弟が罪を犯したら、ふたりだけのところで責めなさい」と言われ、肉は「とにかく誰かに話せ」と言う。
「間違いは謝るように」と神は言われるが、「ごめんなさい、だけは絶対に言いたくない。
で、自分のとがめをチャラにしよう」と肉は思う。

神は「自分で復讐するな」と言われ、肉は「何倍にもして仕返しせよ。
スッとする」と言う。神は「不満があるなら、まず祈り、赦せ」と言われ、肉は「すぐに言い返せ。
スカッとする」と言う。御心を示されると肉は「面倒だ、したくない」と言う。

肉は、御霊の導きと正反対に向かう。神の栄光を損ない奪う。
の願う事は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう。この二つは互いに対立し、相容れない。
肉の思いは神に反抗し、服従しない。

「御霊によって歩みなさい」は命令だ。
どちらかと言えば「歩んだ方が良い」のでなく、「歩め」だ。
肉が来る時、いつもその場で助けを求めて祈ろう。
主が助けて下さる。

---------------
日常、意識も認識もせずに、肉の言いなりに流されてないだろうか。
気づかないまま、肉の言いなりになっていると、信仰人生最後まで、成長無く、自分が変えられる事もなく、御霊の実を結ぶ事もない。
御霊に従えるよう祈ろう。祈りから始まる。気づきが与えられて行く。


今日の聖人の記念日

2017年10月24日 09時04分37秒 | キリスト教

聖アントニオ・マリア・クラレ司教

1807年-1870年

 クラレは、スペイン、カタロニア地方の織物工の信仰深い家庭に育ち、幼いときから司祭になることを望んでいた。22歳のときに神学校に入り、1835年に司祭となった。その後ローマに行き、一時はイエズス会員になることを決意したが、カタロニアに帰って、説教をしながらスペイン各地を巡った。

 クラレの説教は分かりやすく、多くの人びとを惹きつけ、回心に導いた。また彼は、宣教のためのより効果的方法は何かと研究し、特に字を読めない人にも分かるように印刷物、著作に絵を入れるなどの工夫をし、宣教に力を注いだ。彼の著作は100以上に及び、内容も教義、道徳、修徳のほかに、教育、歴史、音楽、医学など多くの分野に渡った。

 1849年に、クラレは宣教を目的とする「クラレチアン宣教会」を創立し、翌年には、キューバの大司教に任命された。数年間教区の司牧のために熱心に働き、1857年に、スペイン女王の聴罪司祭としてスペインに招かれ、その務めを果たした。また、1869年12月から開かれた第1回バチカン公会議に出席し、教皇の不可謬性について主張するなど、生涯をキリストのためにささげ尽くした。


◆口先だけの真理

2017年10月24日 09時03分07秒 | 聖書

愚かな者が口にする箴言は、
足なえの垂れ下がった足のようだ。  (箴言二六7)
皮肉な表現だと思います。口先で、どんなにりっぱな真理のことばを語ったとしても、そのことばを自分の魂に当てはめず、日常の生活に生かそうとしていないなら、その語ることばには力がなく、何の役にも立たないということでしょう。語ることの多い私には、ずしりとこたえることばです。
私の友人で、アルゼンチンで有名な伝道者バンジョニさんが、こんな話をしてくれました。ある無神論者の女子大生と話を始めましたが、バンジョニさんがああ言えば、こう言う。どんなに語っても反発するばかりでした。女子大生の心は石のように硬かったのです。さすがのバンジョニさんも、「話はこれくらいにしましょう」と、議論を打ち切って別れようとしました。その時、ふっと心に押し迫るものを感じて言いました。「私は、あなたのために祈らせてもらいますよ。」すぐ、床の上にひざまずいて祈り始めました。神の愛が彼の心を包み、祈っているうちに、ぽたぽた涙が流れてきたそうです。五分祈ったでしょうか、十分祈ったでしょうか。祈り終えて顔をあげたバンジョニさんの前に、まだ、その女子大生が立っていたそうです。しかも、目にいっぱい涙をためて、こう言いました。「先生、今まで私は、私のために涙を流してくれる人を一人も知りませんでした。先生、私も神さまを信じたいのです。」
口先で語る真理のことばよりも、足で語り、涙で語ることばに力があります。イエス・キリストは、救いの福音・愛のことばを、十字架の血で語ってくださったのです。
「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(Ⅰコリント一18)。
 

◆主の木々は樹液に満ちています。

2017年10月24日 09時01分58秒 | 聖書
(英訳)
樹液なくして木は栄えることも存在することもできない。活力はクリスチャンに欠くことのできないものである。そこにいのちがなければならない。――聖霊なる神に注ぎ込まれた生気がなければならない。そうでないと私たちは主の木となることはできない。単なる名ばかりのクリスチャンは死んだものにすぎない。私たちは神のいのちに満たされていなければならない。
このいのちは神秘である。私たちは樹液の循環を理解できない。すなわち、どのような力によって樹液が上り、どのような力でそれが再び下がるかを知ることができない。そのように、私たちのうちにあるいのちも聖なる奥義である。聖霊が人の中に入り、その人のいのちとなることによって新生がもたらされる。そしてこの信者の中にある神のいのちはキリストの肉と血とを食し、神の食物で養われるが、それがどこから来て、またどこへ行くのかはだれにも説明できない。
樹液はいかに神秘であろう。根は地中にはびこり、先端の小さな海綿状組織によって養分をとるが、私たちはその過程を見ることはできない。この作用は暗い地下でなされる。私たちの根は主イエスであり、私たちのいのちは主のうちに隠されている。クリスチャンの生命の根は生命そのものと同様に隠れたものである。
杉の木の中の樹液は長く活気を失わない。クリスチャンにおいても、神のいのちは内にあって常に活気に満ちている。――常に実を結ぶとは限らないが、内部にあって活動している。信者の徳は、その一つ一つが常に動いているのではない。しかし、いのちは内にあって片時たりとも脈を打つことをやめない。彼は常に神のために働いているのではない。しかしその心は常に神によって生きている。
樹液が葉や実において現されるように、真に健全な信者は、その徳をその歩みと日常の会話において表す。もし語るなら、イエスを語らずにはいないだろう。その行動に注意するならば、私たちは彼がイエスと共にいることを知るであろう。内なる樹液がその行動と日常の会話に流れ出ないわけにはいかないからである。
 

詩篇68篇35節

2017年10月24日 09時00分25秒 | 聖書


68:35 神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。ほむべきかな。神。


神は、人の目には見えないお方です。

ですから、人はなかなか神のことを知ることが出来ませんし、また知ろうともしません。

しかし、このお方のことを知り、祈りを通して交わりを持たせていただいている者は、このお方が誠に聖なる方であり、義に富んでおられる、恐るべき方であることを知らされています。

その知識は、主のみ言葉を聞くことによって与えられ、また日常の信仰の生活の中で確認されています。

このことは、昔からそうでした。

イスラエルの民も、特に主との交わりを頂き、その結果として、この主なる神がどれほど豊かな恵みと憐れみとに富み、また聖であり義であられるお方かということを知りました。

このお方のことをこのように知ることが出来たことは、特別な恵みです。

ですから、この世の人がどのような歩みをしていても、私たちはこの主の恵みに預かった者として、主の御名を褒め称えつつ歩んでいくのです。


ネヘミヤ記 12章43節(ネヘミヤ記11章)

2017年10月24日 08時58分16秒 | 聖書


こうして、 彼らはその日、 数多くのいけにえをささげて喜び歌った。 神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。 女も子どもも喜び歌ったので、 エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。


■O:今日のコラム
新年あけましておめでとうございます!今日はユダヤ新年のロシュ・ハシャナです。ユダヤ暦5778年の幕開けです。主が素晴らしいことを成して下さる一年であることを信じます。

今日の聖書の箇所では、ネヘミヤ記の冒頭でネヘミヤが嘆いていた城壁の修復がついに完了し、城壁の奉献式を行う喜びの箇所になります。聖書の中で神殿の奉献式は良く知っていると思いますが、城壁の奉献式は本当に珍しいことだと思います。

城壁は石が積まれてできています。聖書で石はイエス様を指すことが多いですね。ヨハネ1:1によれば、イエス様はみことばであると言うことができます。つまり、神のみことばが一つひとつ積み重ねられた城壁の完成、すなわち、キリストの花嫁の完成の姿を見ることができます。

城壁が無い町は本当に無防備です。日本でもお城の周りには城壁が建てられ、敵の侵入を防ぐように作られています。私たちも目には見えないかもしれませんが、霊的な城壁があります。その城壁がボロボロに崩れているなら、敵は私たちの内なる人に攻撃し放題になってしまいます。

城壁を建てあげていくには自動的には建て上げられません。時には戦いながら城壁を一つひとつ築き上げ、敵の攻撃や妨害があって諦めそうになってもまた立ち上がって築き上げていく。今までのネヘミヤ記の中からそのような姿を学んできたと思います。

同じように、普段の生活の中でも私たちが神の国とその義とを第一として歩み、みことばと祈りの生活をあきらめること無く続けていくなら、私たちの城壁は強固にされていきます。

私たちの霊的な城壁が完成するなら、その喜びの声がはるか遠くにまで聞こえていくはずです。ともにみことばと祈りの生活を続けていきましょう。



■A:考えてみよう
自分の霊的な城壁はどのような状態だろうか。すぐに敵に侵入される状態になっていないだろうか。
みことばを通して霊的な目が開かれて、自分の霊的な城壁を見て、あまりの無残な状態に嘆くことができますように。

どのような無残な城壁の状態であっても、主は必ずそれを再建して下さるお方です。そのためには、まず自分の現状をしっかりと見つめ、一つひとつ主と共に城壁を建てあげて行かなければなりません。

それは本当に地味な事に思えるかもしれませんが、終わりの無いことではありません。
私たちは全体像を見ることはできないかもしれませんが、主の御声に聞き従う時、必ずそれは完全な形で完成を迎えると信じます。

ノアが100年かけて方舟を完成させたように、同じ忠実さを持って私たちの城壁が回復されていきますように。

具体的には、神の武具を毎日宣言していきましょう。

「終わりに言います。 主にあって、 その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、 神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、 主権、 力、 この暗やみの世界の支配者たち、 また、 天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
ですから、 邪悪な日に際して対抗できるように、 また、 いっさいを成し遂げて、 堅く立つことができるように、 神のすべての武具をとりなさい。
では、 しっかりと立ちなさい。 腰には真理の帯を締め、 胸には正義の胸当てを着け、
足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべてのものの上に、 信仰の大盾を取りなさい。 それによって、 悪い者が放つ火矢を、 みな消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、 また御霊の与える剣である、 神のことばを受け取りなさい。
すべての祈りと願いを用いて、 どんなときにも御霊によって祈りなさい。 そのためには絶えず目をさましていて、 すべての聖徒のために、 忍耐の限りを尽くし、 また祈りなさい。」
(エペソ6:10-18)

そして、ゼカリヤ2:5を宣言しましょう。
「しかし、 わたしが、 それを取り巻く火の城壁となる。 --【主】の御告げ--わたしがその中の栄光となる。 』」

そして、毎日少しずつでもいいので、みことばを読み、祈るという、個人の礼拝の時間を主に捧げていきましょう。それが城壁を建てあげて行くという事になります。



■P:祈り
天のお父さん、私の城壁がどのような現状かを見せて下さい。壊れているところがあるなら、その場所を修復することができるよう、知恵と力を、また必要な資材を与えて下さい。
敵が来て私たちの心をくじくことが無いように、全ての悪いものから私を守って下さい。
主ご自身が御使いを遣わしてくださり、ゼカリヤ2:5にある火の城壁を私の周りに与えてください。
そして、人から教えてもらったことだけではなく、自分自身でみことばの中から直接神様の感動を受け取ることができるよう、助けてください。
私の城壁が主によって完全に修復され、天と地で喜びの声が湧き上がっていきますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


10月23日(月)のつぶやき

2017年10月24日 02時29分40秒 | キリスト教