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今日の聖人の記念日

2017年10月18日 07時08分28秒 | キリスト教

聖ルカ福音記者

1世紀

 ルカは、新約聖書の中の第3の福音書と使徒言行録の著者である。聖パウロの手紙によると、ルカはギリシャ人の医師であった。またパウロの第3と第4宣教旅行に同行したことが示されている(使行16.10、20.6)。その後、パウロが2度目に逮捕されてローマに滞在していたとき、ルカだけは彼とともにいた。(2テモテ4.11)

 ルカ福音書がギリシャ語で書かれ、巧みで美しい表現に彩られていることからも、彼が高い教育を受けていたことが分かる。ルカは特にキリストの優しさを浮き彫りにし、善きサマリア人、ザアカイ、放蕩息子など、差別されている人びとを題材とした話は、独特のものである。また、キリストの幼年時代をいちばん詳しく書きとめ、聖母マリアが果たす役割を強調した。

 聖パウロの死後、ルカの活動について確かではないが、主にギリシャで宣教し、そこで殉教したと伝えられている。後世の教会の伝承によれば、ルカは画家でもあり、聖母マリアとイエスを描いたということから、ルカは、医師と画家の保護者とされている。


◆争い好きな女

2017年10月18日 07時07分22秒 | 聖書

争い好きな女と社交場にいるよりは、
屋根の片隅に住むほうがよい。   (箴言二五24)
「争いを好む怒りっぽい女と大邸宅に住むより、屋根裏部屋のすみっこでひとり住まいをするほうがいい」ということでしょうか(箴言二一19をも参照)。
このような箇所を読んで、女性蔑視だ、女ばかり目の敵にするなんてひどいと思われる方もいましょう。確かに、女性ばかりのことではありません。いっしょに住むのが苦痛のような男性もいるでしょう。
私がすぐ思い出す、一人の若い婦人がいます。とても口やかましく、夫にこごとばかり言っていました。夫のほうも愛想がつきて、ほんとうに離婚寸前という状態でした。ところがさそってくれる人があって、彼女のほうが教会に行き始めました。そして、教会の静かな雰囲気や美しい賛美歌が大好きになりました。しかし、口こごとのほうは相変わらずで、「私なんかいいけど、あんたこそ教会に来てざんげすべきよ」と夫に向かって言い続けました。日曜日になると、当てつけるようにだんなさまは、さーっとゴルフやつりに出かけたのです。一向に教会には来ませんでした。
ところがある日曜日の晩に、罪を悔い改めて神を信ずべきことを力強く単純に話す伝道者が、その教会に来たのです。心刺されたその婦人は、悔い改めて神を信じ、神の愛を受け入れました。その日以来、口こごとがぴたりとやみました。こんな男と結婚したのが私の不幸の始めと思いもし言いもしていたのが、こんな私を主人はよく我慢していてくれる、と思うようになったのです。お勝手で賛美歌が聞こえ、寝室で祈る声が聞こえるようになりました。ご主人も教会に来て、神を信じました。ご主人が、教会の牧師にこう言ったそうです。「私のうちのお勝手で、イエスさまが賛美歌をうたって歩いていました。それで、私も信じたのです。」
 

◆あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています。

2017年10月18日 07時06分26秒 | 聖書
(詩篇六五・一一)
あぶらがしたたっている主の道は多い。特に祈りの道においてはそうである。絶えず密室にある信者は、一人も「私はだめだ。なんと私は不幸なことか」と叫ぶ必要はない。飢えたたましいは恵みの御座より遠く離れて生きているのであり、かんばつの乾ききった畑のようになる。神と格闘するような熱烈な祈りをする人は、たとえ幸福になれなくても、強くなることは間違いない。天国の門に最も近い場所は天の恵みの御座である。あなたがふだんより孤独になれば、さらに大きな確信を得るだろう。イエスと共にいることが少なければ、あなたの信仰は浅くなり、多くの疑いや恐怖によって汚され、主の喜びの輝きは失せる。
たましいを富ませる祈りの道は、最も弱い聖徒にも開かれており、高度の学識や造詣は必要ない。あなたが信仰に進んだ聖徒であるがために招かれているのではない。あなたが聖徒であるならば無代価で招かれている。それなら愛する読者よ。個人的な祈りの道にいそしめ。しばしばひざまずいて祈れ。エリヤが飢え苦しむイスラエルの地に雨を呼び下したのも、祈りの結果であった。
歩む者の上にあぶらのしたたるもう一つの道がある。それは隠れた神との交わりの道である。ああ、イエスと交わることの楽しさよ! イエスの胸によりそうたましいの聖なる静けさを表現できることばは、この地上にはない。この境地を知るクリスチャンはきわめて少数である。多くのクリスチャンは低地に住んでおり、ネボ山頂に登ろうと試みることはほとんどない。彼らは外庭に住まい、聖所に入ろうとしない。遠くに全焼のささげ物を見るが、祭司と共にそれを食べようとせず、全焼のささげ物のあぶらを賞味しようとはしない。
しかし、読者よ。絶えずイエスの陰に座れ。そのなつめやしの木のもとに来て枝を手に取れ。あなたの愛する方を林の中のりんごの木のように大切にせよ。そうすればあなたは脂肪と髄に満ち足りるであろう。
おお、イエス様。あなたの救いをもって私たちに臨んでください。
 

詩篇68篇24-25節

2017年10月18日 07時04分36秒 | 聖書


68:24 神よ。人々は、あなたの行列を見ました。聖所でわが王わが神の行列を。
68:25 歌う者が先に立ち、楽人があとになり、その間にタンバリンを鳴らしておとめらが行く。


エルサレムの聖所は、主が民と共にいてくださることの印でした。

そのことによって人々は、主が自分たちと共にいて下さることを喜びました。

ここでは、主が聖所においでくださったことを絵画的に描いて、その喜びを伝えています。

人々はあなたの行列を見ました、と言っています。

その時には、歌う者が先頭に立って主の御名を褒め歌い、楽器を弾く人が続き、次にタンバリンを鳴らし、おとめ達が入場したと歌っています。

その情景を見て人々は驚き、また、主にある人々は喜び歌っていたというのです。

主は同じように、今、私たちと共にいてくださいます。

主の宮である教会で、共にいてくださっています。

そこで、主に属する人々は、主の御名を褒め称えて、賛美しています。

そこには、主を知ることの喜びが満ちているのです。


ネヘミヤ1章8節a

2017年10月18日 07時02分20秒 | キリスト教


★しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください。


■O:今日のコラム
ネヘミヤ記1章は、エルサレムの城壁がくずれたままの荒れ果てた現状を知り、悲しみの中に、ネヘミヤが主の前に悔い改めをもって祈る場面です。

ネヘミヤは喪に服し、断食をもって心を注ぎ、悔い改める中で、現状ではなく「しかしどうか」と言い、約束された御言葉に目を向けさせてくださいと祈ります。

私たちも悲しみやあらゆる状況の中で、ネヘミヤのように御言葉を思い起こし、御言葉に目を留めていく必要があると思います。悩みや悲しみの中にいたとしても、私たちが頼るべきものは変わることのない真理のことばです。御言葉だけが私たちを生かし、私たちを慰めるのです。
 
「どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。」(詩篇119:49)

私たちの歩みの中に御言葉がないならば、どうなるでしょう。御言葉は主の御心でありますから、主の御心を悟ることはできません。たとい、「主よ。主よ」と言っても私たちは天の父の御心を行わなければ、天の御国に入れないのです。私たちは、御心っぽいことや真理っぽいことではなく、御心を、真理を思い起こし、それを握って歩む必要があります。

私たちが御言葉を蓄え、御言葉にある約束に目を留めていくならば、既に与えられている御心に沿った勝利が約束されています。

「幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることはない。」(詩篇127:5)

日々の朗読を続け、自分自身の中に御言葉を蓄え、御言葉を握り、あらゆる状況の中においても真実な御言葉をほめたたえ、歩んでいきたいと願います。

御言葉は変わることのない私たちの相続分であり、必ず成就する約束であり、ゆずりの地であり、私たちの勝利です。

「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)



■A:考えてみよう
御言葉を朗読する生活を継続していきたいと願います。与えられている時間の中で、朗読のために時間を費やし、火で精錬された金を今日も買いましょう。
そして、御言葉にある約束を宣言していきましょう!



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月17日(火)のつぶやき

2017年10月18日 02時26分05秒 | キリスト教