座間コミニティー

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◆どうか、私の主を求め、主に信頼してやまないように。

2017年10月10日 16時18分03秒 | 聖書
あなた自身を主にゆだね、喜び望むことはできなくても、忍耐深くより頼め。
わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちの手から助け出す。(エレミヤ一五・二一)
この約束をされた輝かしい人格に注目せよ。「わたしは……救い出し……助け出す」とある。主ご自身がその民を救い、助け出される。ご自身が、親しく彼らを救われることを誓約しておられる。ご自分の腕でそれをなされるのであり、栄誉を受けられるのである。
ここには、主を助けるために私たちの努力が必要だとは、一言も言われていない。「わたし」のみが、大空の太陽のように十全の輝きを放っている。では、なぜ私たちは自分の力を計算し、血肉に相談をして、自分自身を傷つけているのだろうか。主は私たちの細腕を借りなくても、十分な力をもっておられる。不信仰な思いよ。静まって主が統べ治められることを知れ。
またここには、第二次的な手段や原困については少しもほのめかされていない。主は友人や助け手については、いささかも語っておられない。主は単身で事に当たられ、人の助けの必要をお感じにならない。私たちが周囲の友や親戚をあてにすることは、すべて空しい。彼らは、私たちを助けることができるのに、助けようとしないことがしばしばあり、また助けようとしてもその力がない。
約束は神からのみ来る。だから神を待ち望むことはよい。そのようにする時、私たちの期待は決して裏切られることがない。私たちが恐れる悪人たちはだれなのか。彼らは主によって根絶される。彼らは、むしろあわれむべき者たちである。彼らはより頼むべき神をもたない人にとってのみ、恐ろしい者である。主が味方である時、私たちはだれを恐れよう。私たちが邪悪な者を喜ばせるために罪に陥るならば、驚きあわてることもあろう。しかし、節操を堅く守っているならば、横暴な者たちの怒りも私たちの善によって圧倒されるであろう。大魚がヨナをのんだ時、大魚はヨナを消化することができないことを知った。世が教会をのみこむ時も、世は教会を吐き出すことを喜ぶのである。どれほど火のような試練の中にあっても、私たちは常に忍耐し、自分のたましいを失わないようにしよう。
 

「私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。

2017年10月10日 16時17分01秒 | 聖書

それは人間同士のねたみにすぎない。
これもまた、むなしく、風を追うようなものだ」(伝道4:4)
       
ここでは、人間社会の様々な分野での成功は、人の心にある「妬み」を原動力に成し遂げられていると言っている。
私たち人間の一番奥底に、「妬み」が存在する。
これは誰しもに根深くある。

普段、私たちのしている事の「動機」は何だろう。数日間の事を考えても明らかだ。
なぜ、あの行動をしたのか。あの言動の「動機」は?
あの事、この事、それは何に突き動かされてしたのだろう。

競争相手への妬みか、勝ちたいとの競争心か、もし動機が妬みや競争心であれば、それは虚しい。
見た目は、何かを成し遂げたとしても、何の実もなく、平安も喜びもない。
風を、空をつかもうとするように虚しい。

ある人が思い立って奉仕をした。主のための奉仕であり、うまく出来て満足した。
しかし、心の深い所で何かが違う、平安がない。御霊は示された。
主のためなどでなく、自分をアピールするため、自己顕示のためだったと。

自分が優りたい。心から悔い改め、平安が戻った。
競争心は人の奥深く巣くい、普段、無意識なので気づかない。
しかし、何かの時に必ずざらつくものが出て来る。

心照らして頂こう。人への妬みと競争心から何を成し遂げても、実が無い。
人ではなく、絶えず神の御前で、神を見ていよう。
神の自分への御心を求め、そこに歩もう。
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この世の結果だけを求める社会とは違い、必要も、することも神が一つ一つ与え導いて下さる。
そこには人もなく、自分さえもなく、ただ神の自分への御心だけが見える。
妬みを覚える時、それに突き動かされるのは虚しい。


今日の聖人の記念日

2017年10月10日 07時12分50秒 | キリスト教

聖フランシスコ・ボルジア司祭

1510年-1572年

 フランシスコは、スペインのガンディアの貴族ボルジア家の子孫として生まれ、信仰深く育てられた。国王カルロ5世に仕え、王妃の勧めで彼女の友人と結婚した。カタルニア総督を務めて後、父の後を継いだ。フランシスコは、キリスト者として成長するにつれ、生涯を神にささげたいと修道生活への望みを強くした。1546年に妻が亡くなり、子どもたちも独立して後、彼はイエズス会の創立者である聖イグナチオの指導を受け、イエズス会に入り司祭となった。

 フランシスコはスペインの管区長に任命され、教会の改革に力を尽くした。後に、ローマでイエズス会第3代目の総長となり、会の発展に貢献した。会員をアメリカ、ポーランド、メキシコなどに派遣し、ローマのグレゴリア大学をはじめ各地に多くの学校や寮を創立した。偉大な働きをなしたにもかかわらず、彼は決して高ぶることなく謙遜で、生活は質素だった。フランシスコは、最も活動的な教会人の一人とされている。


◆忠 実 な 使 者

2017年10月10日 07時11分46秒 | 聖書

忠実な使者はこれを遣わす者にとって、
夏の暑い日の冷たい雪のようだ。
彼は主人の心を生き返らせる。   (箴言二五13)
今は、どこの家でも電気冷蔵庫があって、自家製の氷を楽しむことができます。しかし徳川時代には、将軍に献上するために半年もの間、地下深い氷室に蓄えておいた氷や雪を、はるばる担いで江戸まで持ってきたのです。その一かたまりの雪や氷が、どれくらい将軍の心を慰めたか、いいえ、生き返らせたかは、想像に余りあります。忠実に神の使命を果たす人は、この夏の雪の一かたまりのように、神の心を慰め、喜ばせ、生き返らせるというのです。
私にとって神は、十六歳の時まで無関係の方でした。私のことなど一向に構ってくれず、高い所で腕組みして、そっぽを向いている方だったのです。しかし、イエス・キリストとその十字架の愛を心に受け入れた時から、私にとって、神がどういうお方かが分かってきました。
第一に、私がまだ罪にまみれており、その罪にまみれていることさえ分からないで神につばきしていた時から、私を愛し、私に目を留め、私を選んでくださったのです(ヨハネ一五16参照)。「私たちが神を愛したのではなく、神がまず私たちを愛してくださったのです」(Ⅰヨハネ四10参照)と、ヨハネは語りました。
第二に、私たちの罪をゆるし、永遠のいのちを与えられた神は、私たちがその救いを受け入れるやいなや、一人一人を神の愛の使者として任命し、遣わしてくださることが、だんだんに分かってきました。私には、神から任された仕事がある。神は、この置かれた場所に私を遣わし、神に代わって、祈り仕え愛させてくださると分かってきた時、私の人生が変わってきたのです。それぞれの持ち場立場でできるかぎり忠実に、遣わされた使命に生きようとする時、神は、想像できないほどに喜んでくださるのではないでしょうか。
 

◆傷のない者として……。

2017年10月10日 07時11分01秒 | キリスト教
(ユダ二四節)
この「傷のない者」という驚くべきことばを深く考えよ。今私たちは、この標準にははるかに及ばない。しかし主の愛の働きは完成まで決してやむことがないから、いつか私たちもそれに達するであろう。民を最後まで守ってくださる救い主は、ついには彼らを「しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」として、ご自身に迎えてくださる。救い主の王冠にあるすべての宝石は最上の質のもので、わずかの傷もない。小羊の花嫁に仕える者たちは、すべて汚れない清純なおとめである。
しかしイエスは、どのようにして私たちを完全無欠な者とされるのか。主はご自身の血潮によって私たちの罪を洗いきよめ、きよい天使のように純白なものとされる。また私たちは主の義の衣を着せられる。その義は、それをまとう聖徒たちを全く欠点のない、神の目から見て完全なものとする。私たちは神の目から見てさえ、非の打ち所のない者とされるのである。主の律法は、私たちを責めないだけでなく、私たちの中で高められる。さらに、私たちのうちの聖霊の働きは、完全なわざをする。聖霊は私たちを完全に聖いものとし、私たちのうちの罪を犯そうとする傾向をも皆無にされる。判断力、記憶、意志、すべての力、感情が悪の支配から解放される。私たちは神が聖であるように聖なる者とされ、永遠に神の御前に安住する。聖徒たちは、天国においても均整を保つ。彼らの美しさは、そのために準備された場所にふさわしいであろう。
ああ、永遠のとびらが開かれ、財産を継ぐのにふさわしくされた私たちが、聖徒たちと共に光の中に住む時の喜びはどれほどすばらしいものだろう。罪はなくなり、サタンは閉め出され、誘惑は永久に去り、私たちは神の前に「傷のない者」となる。これこそ真の天国である。私たちは、やがて血で洗われた群れからわき上がる永遠の賛美の歌を、喜び躍りつつ練習しようではないか。そしてダビデの契約の箱の前における歓喜をまねて、御座の前における私たちの喜びの序曲としようではないか。
 

詩篇78篇52-64節

2017年10月10日 07時09分27秒 | 聖書


78:56 それなのに、彼らはいと高き神を試み、神に逆らって、神のさとしを守らず、
78:57 もとに戻って、彼らの先祖たちのように裏切りをし、たるんだ弓の矢のようにそれてしまった。


イスラエルの民は多くの恵みを主から受けとり、約束の地であるカナンへと入ることができました。

それは一方的な主の憐れみと恵みに寄ったことでした。

 ところが、そのカナンの地に入ってから、彼らは自分たちの先祖達のように、主に対して裏切りをしたと言われています。

それは、彼らがカナンの地で農耕や生産の働きについた時、その地の人々が行っている偶像礼拝を見て、それに習ったと言っています。

つまり、その生産の恵みをもたらすのは、現地の人が祀っている偶像によると思って、その偶像を神として礼拝したと言うのです。

それは真に、神に対する裏切りでした。

主こそが、天と地を造られた唯一の神であることを、彼らは、忘却していたのです。

実際の繁栄に、彼らの心が騙されたのです。

そうした彼らを主は怒られて、彼らを裁かれました。



箴言31章21節

2017年10月10日 07時07分27秒 | 聖書


★彼女は家の者のために雪を恐れない。家の者はみな、あわせの着物を着ているからだ。


■O:今日のコラム
イソップ物語のアリとキリギリスの物語を思い出します。夏の間、アリたちは冬の食料を蓄えるために一生懸命に働き続けますが、一方、キリギリスはバイオリンを弾き、歌を歌って遊び呆けて過ごします。やがて冬が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、飢え死んでしまいます。

この物語と共通して、箴言31章から学べる一つのことは、「将来のために備える」ということです。

「まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。」(1テモテ6:19)

私たちは、目先のこと、目に見えることがすべてであるかのように錯覚することがあります。また、世は、あらゆる方法で「今の楽しさ、今の話題」に集中させようとします。

終わりの時代、私たちが打ち勝たなければならないのは、まどろみとなまぬるさです。箴言31章の女性は、怠惰のパンを食べず、夜もともしびを絶やさず(箴言31:18)、家族の様子をよく見張り、内においても外においても勤勉に働きました。

雪が降る時も、それに備えることができるよう、防寒用の着物や寝る時の敷布を作り、家の人々はみな、彼女が作ったあわせの着物を着ました。このあわせの着物とは、「緋の衣」です。すなわち、イエス様であり、みことばです。

「その方は血に染まった衣を着ていて、その名は『神のことば』と呼ばれた。」(黙示録19:13)

やがて、主の御前に立つ時、しみも傷もないキリストの花嫁として立つために、まどろみから目を覚まし、勤勉に、主のために時間を捧げ、みことばを着、みことばと一つなった歩みをしていきたいと願います。

「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:14)

創世記において、アダムとエバに皮の衣を作り、着せてくださった神様は、来るべきときに私たちにイエス・キリストの衣を着せてくださるのです。

「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」(創世記3:21)

「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。」(黙示録19:8a)






■A:考えてみよう
箴言の締めくくりは、こうです。

「彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。」(箴言31:31)

家族のためにしてきたこと、悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に手を差し伸べたこと、目に見えない働きも全て、主は覚えていてくださり、花婿なるイエス様は、やがて天の御国で賞賛してくださるのです。

その日を待ち望み、勤勉に、永遠への備えをしていきましょう。



■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


10月9日(月)のつぶやき

2017年10月10日 02時25分47秒 | キリスト教