聖マリア・マグダレナ(パッジ)おとめ
1566年-1607年
マグダレナは、イタリアのフィレンツェの名門パッチ家に生まれた。幼いときから愛に満ちあふれ、信仰深く、生涯を神にささげたいと思い、カルメル会の「天使の聖マリア修道院」に入った。マグダレナは、18歳で誓願をたてた後、ますます多くの恵みを神から受けるが、同時に重病にかかったり、精神的苦痛や絶望への誘惑など、多くの耐え難い苦しみも受けた。しかし彼女は「死よりも苦しみを」をモットーにし、祈り続けそれに耐えた。彼女の深い超自然的知識と愛は、会の修道女たちをより高い徳へと導いた。彼女の遺体は腐敗せずに、フィレンツェの近くのカレッチ修道院に眠っている。彼女の肖像画は、胸に燃える心臓を記し、手に茨の冠を持った姿で描かれている。
聖グレゴリオ7世教皇
在位1073年-1085年
イタリア、トスカーナの貧しい家に生まれたヒルデブランドは、小さいころローマに移り、聖マリア修道院で教育を受け、教皇グレゴリオ6世の付き人になった。皇帝ハインリヒ3世から追放された教皇グレゴリオ6世とともにケルンに移り、ロレーヌ地方の教会改革運動にたずさわった。1049年ローマに戻り、その後20年間、改革を目指す歴代教皇の顧問として次第に力をつけていった。1073年、教皇選挙ではなく、民衆の歓呼による異例の形で教皇に選ばれ、グレゴリオ7世となった。そのため、急きょ司祭に叙階されることになった。
教皇になってからは、世俗権力の支配から教会を取りもどすための改革に精力的に取り組んだ。聖職売買を禁止して違反者を処罰し、一般人が司教になることを禁じたが、この処置は各地で重大な対立を引き起こした。司教の任命権は教皇にあるのか皇帝にあるのかという「叙任権闘争」である。
特にドイツでは深刻であった。この特権を手放そうとしなかった皇帝ハインリヒ4世は、聖グレゴリオ7世から非難の手紙を受け取り、自分のいいなりになる司教たちを集めて教会会議を開いて、教皇の廃位を求めた。これに対して教皇は皇帝を破門し、皇帝権力の行使を禁じた。皇帝はイタリアのカノッサ城に出向き、教皇のゆるしを求めた。これが「カノッサの屈辱」である。しかし、皇帝はドイツに戻るとすぐ対立教皇を立ててローマに進軍し、その後2年間ローマを占領した。教皇はノルマン人によって救出され、ノルマン軍の保護を受けながら、南イタリアのサレルノで亡くなった。こうして、教皇権と皇帝権の解決は聖ベダ司祭教会博士
672年ー735年
ベダはイギリス、タイナンドウェア州にある、ジャローという町に生まれた。この町にある、聖ペトロ・聖パウロ修道院の近くで育ち、修道士のベネディクト・ビスコップとチェオフィリドからギリシャ語、ラテン語、詩などを学んだ。その後、修道院に入った彼は30歳のときに司祭に叙階され、数回外出する以外は、生涯をほとんど修道院で過ごした。
聖書の勉学に献身し、多くの著作を残した彼は、当時の最も博学な人物として、英国文学に大きな影響をもたらした。モーセ五書をはじめとする聖書の研究、神学、科学、歴史書、伝記などの著作がある。最もよく知られているのは、731年の『イングランド教会史』で、イングランドの歴史をつづった現存する最古のものである。このなかで、ベダはキリスト教がイングランドに伝わってから、729年までの歴史を描いている。彼の知恵と教養の深さを称えて、人びとは彼を「尊敬すべきベダ(Beda Venerable)」 と呼んだ。賢明な学者であり、「英国史の父」とも言われている。彼は735年5月25日、ジャローで亡くなった。1899年、教皇レオ13世によって列聖され、教会博士の位に挙げられた。
次の時代に持ち越された。
聖マグダレナ・ソフィア・バラ修道女
1779年-1865年
フランスのブルゴーニュのぶどう栽培の家に生まれた。当時フランスは革命の中にあり、自由・平等の気運が高まっていたので、神学生であった兄は、ソフィアの宗教教育に力を注いだ。兄は司祭になると彼女をパリヘ呼び、神学と哲学の勉強をさせた。そのころ、フランスの司祭のグループが女子教育のために修道女会を設立したいと望んでおり、その指導者であったヴァラン神父がソフィアと3人の仲間を受け入れ、1825年に「聖心会」が誕生した。ソフィアは、亡くなるまでの60年間、会の支えとなって活躍した。
彼女は、女子教育をとおしてイエスのみ心の愛を世に広めることに生涯をささげた。聖心会は、欧州各国、アメリカ、東洋にまで発展し、日本には1907年に渡来。札幌、東京、裾野(静岡県)、名古屋、宝塚などで聖心女子学院、聖心女子大学を経営したり地域のために働いたり、祈りと教育と宣教の生活に励んでいる。