座間コミニティー

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◆すぐさまふたりは立って、エルサルムに戻って……

2017年05月25日 17時58分47秒 | 聖書
道であったいろいろなことや……イエスだとわかった次第を話した。(ルカ二四・三三、三五)
二人の弟子がエマオに達し、夕食をとって再び元気を回復しようとしていた時、途中で彼らの心を深く動かした不思議な見知らぬ人が、パンを取って裂き、ご自身を弟子たちに知らせ、そして姿を消した。彼らは日も傾いていたので、共に泊まるようにと強いて引き止めていた。今や夕やみはさらに濃くなっているが、彼らの愛がその足のともしびとなり、翼となった。彼らはやみを忘れ、その疲れも消え去った。そしてただちに、復活の主が彼らに現れたその喜びの知らせを伝えるため、十二キロの道を引き返した。彼らはエルサレムでクリスチャンたちに会った。そして自分たちに起こったことを話さないうちに、数々の喜びの知らせを聞いた。
これら初代のクリスチャンたちは皆、キリストの復活を語り、主について知っていることを宣べ伝えようとする熱情に燃えていた。彼らは自分たちの経験を共通の財産としていた。
今夜、彼らの模範を私たちの心に深くとどめよう。私たちもまた、イエスについて証ししなければならない。ヨハネの語る墓の話は、ペテロによって補足される必要があった。そしてマリヤは、さらにそれにつけ加えることができた。私たちはそれらを全部総合することによって、完全無欠の証言を得る。私たちはそれぞれ特別な賜物を受け、異なった務めをもつ。しかし神が意図される一つの目的は、キリストのからだの全体を完成することである。したがって、私たちは自らの霊的所有を携えて使徒たちの足もとに置き、神が私たちに下さったものをすべての人に分けなければならない。
貴重な真理をもち腐れにすることなく、あなたの知っているところを語り、見たことを証しせよ。そのための骨折り、暗やみ、友の不信感などを決して気にすることはない。立ち上がってあなたの働き場へ行き、神があなたのたましいに示された大いなることを語れ。
 

◆すぐさまふたりは立って、エルサルムに戻って……

2017年05月25日 15時53分24秒 | 聖書
道であったいろいろなことや……イエスだとわかった次第を話した。(ルカ二四・三三、三五)
二人の弟子がエマオに達し、夕食をとって再び元気を回復しようとしていた時、途中で彼らの心を深く動かした不思議な見知らぬ人が、パンを取って裂き、ご自身を弟子たちに知らせ、そして姿を消した。彼らは日も傾いていたので、共に泊まるようにと強いて引き止めていた。今や夕やみはさらに濃くなっているが、彼らの愛がその足のともしびとなり、翼となった。彼らはやみを忘れ、その疲れも消え去った。そしてただちに、復活の主が彼らに現れたその喜びの知らせを伝えるため、十二キロの道を引き返した。彼らはエルサレムでクリスチャンたちに会った。そして自分たちに起こったことを話さないうちに、数々の喜びの知らせを聞いた。
これら初代のクリスチャンたちは皆、キリストの復活を語り、主について知っていることを宣べ伝えようとする熱情に燃えていた。彼らは自分たちの経験を共通の財産としていた。
今夜、彼らの模範を私たちの心に深くとどめよう。私たちもまた、イエスについて証ししなければならない。ヨハネの語る墓の話は、ペテロによって補足される必要があった。そしてマリヤは、さらにそれにつけ加えることができた。私たちはそれらを全部総合することによって、完全無欠の証言を得る。私たちはそれぞれ特別な賜物を受け、異なった務めをもつ。しかし神が意図される一つの目的は、キリストのからだの全体を完成することである。したがって、私たちは自らの霊的所有を携えて使徒たちの足もとに置き、神が私たちに下さったものをすべての人に分けなければならない。
貴重な真理をもち腐れにすることなく、あなたの知っているところを語り、見たことを証しせよ。そのための骨折り、暗やみ、友の不信感などを決して気にすることはない。立ち上がってあなたの働き場へ行き、神があなたのたましいに示された大いなることを語れ。
 

「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、

2017年05月25日 15時52分09秒 | 聖書

むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:9)

劣等感や自己卑下にさいなまれる人は、「どうせ私なんて・・」と言いつつ、本当は、自分の欠点を認めているわけではない。
その証拠に、他人から「そうですね。その通りですね」などと言われようものなら、激怒だ。
「自分なんてダメで」といいながら、実は「自分は能力があるのに、自分を認めてくれない周囲が悪い」と思っている。

その屈折が対人関係に、きしみを生じさせ周囲を退かせてしまう。
人は欠点があるから不幸なのではない。欠点は誰にでもある。皆、欠点だらけだ。
その欠点を認めないこと、認めずに、強がることが問題だ。
絶対に弱みを人に見せたくない。

プライドだ。認めたくないので弱さを無視する。自分自身に向き合わない事で、ますます自分がしんどくなる。
無視しても事実は何も変わらない。欲求不満と苦しみが増すばかりだ。
まず、現実を認めることから始まる。自分の欠点を認めることが始まりだ。

アルコール依存症が治って行くのは、自分はアルコール依存症だと、正面から認めた人々だと言われている。
無視したり、逃げたり、ごまかしていては何も始まらない。
認めて、受け入れた時、解決へと導かれる。
解き放たれて行き、そして、これまで決して見えなかった主の祝福が見えて来る。
あなたはどうだろう。
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自分の弱さの中に、励まし慰め力強く導いて下さっている神様を見る。
弱さを認めず自分の力で歩むなら、そこにどんな祝福があるのだろう。
弱さは感謝だ。


今日の聖人の記念日

2017年05月25日 06時33分19秒 | キリスト教

聖マリア・マグダレナ(パッジ)おとめ

1566年-1607年

 マグダレナは、イタリアのフィレンツェの名門パッチ家に生まれた。幼いときから愛に満ちあふれ、信仰深く、生涯を神にささげたいと思い、カルメル会の「天使の聖マリア修道院」に入った。マグダレナは、18歳で誓願をたてた後、ますます多くの恵みを神から受けるが、同時に重病にかかったり、精神的苦痛や絶望への誘惑など、多くの耐え難い苦しみも受けた。しかし彼女は「死よりも苦しみを」をモットーにし、祈り続けそれに耐えた。彼女の深い超自然的知識と愛は、会の修道女たちをより高い徳へと導いた。彼女の遺体は腐敗せずに、フィレンツェの近くのカレッチ修道院に眠っている。彼女の肖像画は、胸に燃える心臓を記し、手に茨の冠を持った姿で描かれている。

聖グレゴリオ7世教皇

在位1073年-1085年

 イタリア、トスカーナの貧しい家に生まれたヒルデブランドは、小さいころローマに移り、聖マリア修道院で教育を受け、教皇グレゴリオ6世の付き人になった。皇帝ハインリヒ3世から追放された教皇グレゴリオ6世とともにケルンに移り、ロレーヌ地方の教会改革運動にたずさわった。1049年ローマに戻り、その後20年間、改革を目指す歴代教皇の顧問として次第に力をつけていった。1073年、教皇選挙ではなく、民衆の歓呼による異例の形で教皇に選ばれ、グレゴリオ7世となった。そのため、急きょ司祭に叙階されることになった。

 教皇になってからは、世俗権力の支配から教会を取りもどすための改革に精力的に取り組んだ。聖職売買を禁止して違反者を処罰し、一般人が司教になることを禁じたが、この処置は各地で重大な対立を引き起こした。司教の任命権は教皇にあるのか皇帝にあるのかという「叙任権闘争」である。

 特にドイツでは深刻であった。この特権を手放そうとしなかった皇帝ハインリヒ4世は、聖グレゴリオ7世から非難の手紙を受け取り、自分のいいなりになる司教たちを集めて教会会議を開いて、教皇の廃位を求めた。これに対して教皇は皇帝を破門し、皇帝権力の行使を禁じた。皇帝はイタリアのカノッサ城に出向き、教皇のゆるしを求めた。これが「カノッサの屈辱」である。しかし、皇帝はドイツに戻るとすぐ対立教皇を立ててローマに進軍し、その後2年間ローマを占領した。教皇はノルマン人によって救出され、ノルマン軍の保護を受けながら、南イタリアのサレルノで亡くなった。こうして、教皇権と皇帝権の解決は聖ベダ司祭教会博士

672年ー735年

 ベダはイギリス、タイナンドウェア州にある、ジャローという町に生まれた。この町にある、聖ペトロ・聖パウロ修道院の近くで育ち、修道士のベネディクト・ビスコップとチェオフィリドからギリシャ語、ラテン語、詩などを学んだ。その後、修道院に入った彼は30歳のときに司祭に叙階され、数回外出する以外は、生涯をほとんど修道院で過ごした。

 聖書の勉学に献身し、多くの著作を残した彼は、当時の最も博学な人物として、英国文学に大きな影響をもたらした。モーセ五書をはじめとする聖書の研究、神学、科学、歴史書、伝記などの著作がある。最もよく知られているのは、731年の『イングランド教会史』で、イングランドの歴史をつづった現存する最古のものである。このなかで、ベダはキリスト教がイングランドに伝わってから、729年までの歴史を描いている。彼の知恵と教養の深さを称えて、人びとは彼を「尊敬すべきベダ(Beda Venerable)」 と呼んだ。賢明な学者であり、「英国史の父」とも言われている。彼は735年5月25日、ジャローで亡くなった。1899年、教皇レオ13世によって列聖され、教会博士の位に挙げられた。

次の時代に持ち越された。

聖マグダレナ・ソフィア・バラ修道女

1779年-1865年

 フランスのブルゴーニュのぶどう栽培の家に生まれた。当時フランスは革命の中にあり、自由・平等の気運が高まっていたので、神学生であった兄は、ソフィアの宗教教育に力を注いだ。兄は司祭になると彼女をパリヘ呼び、神学と哲学の勉強をさせた。そのころ、フランスの司祭のグループが女子教育のために修道女会を設立したいと望んでおり、その指導者であったヴァラン神父がソフィアと3人の仲間を受け入れ、1825年に「聖心会」が誕生した。ソフィアは、亡くなるまでの60年間、会の支えとなって活躍した。

 彼女は、女子教育をとおしてイエスのみ心の愛を世に広めることに生涯をささげた。聖心会は、欧州各国、アメリカ、東洋にまで発展し、日本には1907年に渡来。札幌、東京、裾野(静岡県)、名古屋、宝塚などで聖心女子学院、聖心女子大学を経営したり地域のために働いたり、祈りと教育と宣教の生活に励んでいる。


◆自 己 ぎ ま ん

2017年05月25日 06時32分21秒 | 聖書

利口な者は自分の知恵で自分の道をわきまえ、
愚かな者は自分の愚かさで自分を欺く。(箴言一四8)
詐欺をして人を欺き、金をごまかせば、つかまって罰せられます。しかし、私たちが、自分で自分をごまかし欺くなら、どうなるでしょうか。私は、これほどみじめで寂しいことはないと思うのです。ところが、私たち人間は、よく自分で自分を欺いているのではないでしょうか。
・ 実際は、自分が弱くみじめで小心で、なっていない人間であるのに、大物ぶったり、重々しく振舞ったり、権威をふりまわしたりする。
・ 実際は、この自分が問題であり、自分さえ「ごめんなさい」「すみません」「ありがとう」と万事素直になればいいのに、メンツや肩書きにこだわって我を折らない。
・ いつの間にか、あんな人は適当に祭りあげておけ、あの人はあれだけの人なんだとされているのも知らず、自分を大物・権力のある者と思いこんでしまう。
私は軍隊時代に、防毒ガスマスクを着けたまま駆け足の訓練をさせられ、死ぬ苦しみをした経験があります。マスクをしたままこの人生コースを走ることは、苦しいことです。自分を偽って過ごす人は、人の真実・神の真実・人の愛と友情・神の愛と恵み・祝福にじかに触れることができません。いつも独りぼっちです。神にも人にも遠く、真実な自分からも裏切られているのです。
今の自分が、いやでいやでたまらない人も多いでしょう。しかし、その自分から逃げてはなりません。自分で自分を欺いている人もいるでしょう。その偽りから勇敢に抜け出してごらんなさい。マスクを取って神の前に出てごらんなさい。神はありのままのあなたを受け入れ、あなたに愛を注ぎ、恵みを押し入れ、あなたがもう自分で格好をつけなくてもよくしてくださるのです。
 

◆私を見捨てないでください。主よ。

2017年05月25日 06時31分16秒 | 聖書
(詩篇三八・二一)
試練と誘惑の時、私たちはしばしば、見捨てられないようにと神に祈る。しかし、いつでもこのように祈る必要があることを忘れがちである。私たちの生活がいかに聖化されても、常に神に支えられているのでなけれは、それは一瞬たりとも保たれない。私たちは、光にある時にもまた暗やみの時にも、神と交わる時にも誘惑の中にある時にも、等しく「私を見捨てないでください。主よ」と祈る必要がある。「私をささえてください。そうすれば私は救われ」ます。歩き始めたばかりの幼児は、常に母親の助けを必要とする。私たちは絶えず上から助けを受けるのでなければ、一歩も進めない。だから、今日はこう祈ろう。
私を見捨てないでください。父よ。あなたの子が敵の手で倒されないように、あなたの子を見捨てないでください。牧者よ。あなたの小羊が安全なおりの中から迷い出ないように、あなたの小羊を見捨てないでください。私の生涯のどのような時にも捨てないでください。喜びの時に、喜びのために心が奪われないために、悲しみの時に、あなたに対してつぶやかないために、私を捨てないでください。私の悔い改めの日にも、私が罪の赦しの希望を失い絶望に陥ることのないために、また強い信仰に立てる日にも、私の信仰が高慢にならないために、主よ、私を捨てないでください。あなたがおられなければ私は弱く、あなたが伴ってくだされば私は強いのです。私の道は危険で、落とし穴が多く、導きがなければ一歩も進めません。めん鳥が決してひなを捨てないように、主よ、あなたの羽毛をもって永久に私をおおってください。その翼の下に私が避け所を得ることを許してください。「どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。」「私を見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神。」
 おお、とこしえにきよめられた私の心に
 あなたの永遠の御霊を遣わして憩わせ
 隠れた私のたましいを
 あなたにかなう宮としてください
 

詩篇38篇1-4節

2017年05月25日 06時29分24秒 | 聖書


38:1 主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。
38:2 あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。


ダビデは今、自分の犯した罪のために心が苦しみ、神の激しい怒りが自分に矢を突き刺したように痛く、重くのしかかり、苦しくて仕方がありませんと語っています。

神の戒めを犯した自分の罪に関して、このように苦しむのは、人一倍ダビデが罪に対して敏感だからという事ではありません。

人は、自分が犯した罪に対して敏感でないことが多くあります。

むしろ犯した悪など、人にわからなければ良いと思う程度になっていることが、多くあります。

しかしダビデは、神は、罪に対して実に厳しく接するお方であると知って、このことを語っているのです。

神は罪に対して、いい加減ではあられないのです。

ですから、自分が犯した罪に対して、人ではなく、神様が厳しく見ておられることを覚えて、それを悔い改めることが必要なのです。


マタイの福音書24章19節、42節(エゼキエル書24章)

2017年05月25日 06時27分04秒 | 聖書


「だがその日、 哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。」
「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」

■O:今日のコラム
イエス様はご自分がどのように再臨されるのか、その前にどのようなことが起こるのか、また、世の終わりにはどのようなことに気をつけなければならないのかを、この章で語っておられます。終わりの時代の事柄の多くの側面を、イエス様が例えをもって語っておられるので、知恵と啓示の御霊の助けを求めて何度も読む必要があると感じます。

イエス様は「目をさましていなさい。」と語られますが、果たして自分がそもそも目を覚ましているのだろうかと、不安になります。

いつか震災が来るだろうと分かっているのと、震災に備えているのは大きく違います。非常用持出バックもしっかり揃え、家の耐震工事も完了、避難場所も確認している人は、いつ震災が来ても大丈夫、と安心していて、そのような人は「震災に備えている」と言えるでしょう。

同じように「今が終わりの時代だ」と認識しているからといって、それがイコール「主の再臨に備えている」ことではありません。
目を覚ましている、とは、いつイエス様が来られても良い、という備えと平安がある状態でしょう。

「 だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。」とあります。子どもの頃はここを読む度に「妊娠中や子どもが小さい時に世の終わりが来たら困るから、早く結婚して早く子どもを産んでおかなきゃ…」と、トンチンカンな不安を覚えたものです。
聖書の中で女とは、教会を指している場合があります。この「身重の女と乳飲み子を持つ女」とは内にキリストが形造られていない教会、つまり霊的に成長を遂げていない教会を指しているのではないでしょうか。
パウロは、ガラテヤの教会に向かって、彼らの内にキリストが形造られるために、自分は「産みの苦しみ」をしていると語っています。
「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(ガラテヤ4:19)

花婿なるイエス様に見合う花嫁とは、どのような花嫁でしょうか。何か自分の気に入らないと、居心地が良くなるまで泣き続ける赤ちゃんでしょうか?お腹が空いて何か食べ物がもらえないと、くれくれとゴネ続ける幼児でしょうか?相手を喜ばすことよりも自分が喜ばせてもらうことに興味のある子ども、あっちのせいだ、こっちが悪いと兄弟喧嘩ばかりする子どもでしょうか?
いいえ。花婿なるイエス様に見合う花嫁とは、キリストの身丈に達した成熟した花嫁です。

19節で、イエス様は、ご自分が帰って来られる時に、内なるキリストが形造られていない教会は哀れだと語っておられるように感じます。

主が来られる日に備えられることの1つ、それは私たちの内にキリストの御人格が形造られることです。
日々、悔い改めをもって自分の古き罪の性質を十字架につけ、その代わりにキリストのご性質が私たちのうちで大きくなられるよう努めること。日々、古き自分を衰えさせ、内側が「神ご自身の満ち満ちたさまにまで」(エペソ3:19)満たされるように願い求めること。それが、目を覚ましている者の生き方であると信じます。
花婿は花嫁が成長を遂げた時に、完成した時に、花嫁を迎えにその走路を喜び走って迎えに来られ、花嫁を抱き上げて婚姻へと向かって下さるでしょう!
その日を夢見て止みません!


■A:考えてみよう
去年、先月、昨日の自分と比べて、今日、自分の罪の性質はどれだけ十字架につけられただろうか?去年、先月、昨日の自分と比べて、今日、自分の内にどれだけキリストのご性質が満ちているだろうか?どれだけ、キリストの似姿へと変えられただろうか?


■P:祈り
花婿なる主イエス様、あなたは花嫁なる教会、私たちが成熟し、キリストの満ち満ちた様にまで満たされ、成長を遂げるのを待っていて下さることを感謝します。聖霊様、あなたが私たちを花嫁として整えて下さることを感謝します。
「イエス様、早く来て下さい!」と言いながら、自分の古い罪の性質を居心地のいいままにしていたことを赦して下さい。自分自身の古きを悔い改め、十字架につけることを通して、また私の内にキリストが形造られることを通して、あなたが来られる道を備えます。聖霊様、どうぞ、今日、変わらなければならない部分を、捨てなければならない罪の性質を、衰えなければならない私自身を教えて下さい。御霊による気付きを切に求めます。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


5月24日(水)のつぶやき

2017年05月25日 01時23分54秒 | キリスト教