このあわれな罪深い私の心が、神が聖であられるように聖となるとは、真実であろうか。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」としばしば叫ぶこの霊が、罪と死を免れることがあり得るのか。
ああ、幸いな時よ。早く来てほしい。聖化のみわざは、私がヨルダン川を渡る時完成されるであろう。その時まで私は、自らの完全を要求しないであろう。私の霊はその時、聖霊の火による最後のバプテスマを受けるであろう。私は、天国に導き入れられる最後のきよめを受けるために、死をさえ願う。御使いといえども、その時の私の状態よりきよくない。なぜなら、私は二重の意味において、「私はきよい」と言うことができるからである。すなわち、イエスの血と御霊のみわざによって二重にきよい。おお、ほむべきかな。私たちをこのように天の父なる神の御前に立つにふさわしくされる御霊の力は。
しかし、将来においてきよめられる望みがあるからと言って、現在の不完全に満足していてよいだろうか。そうであってはならない。そのようであるなら、私たちの望みは真のものではない。よい望みは、現在においてもきよめるものだからである。恵みのみわざは、現在においても私たちの中になされなければならない。そうでないなら、後の日に完成されることはない。私たちが義の実を豊かに結ぶことができるように、「聖霊に満たされる」ことを祈り求めようではないか。