座間コミニティー

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◆わたしはシャロンのばら……です。

2017年05月01日 16時43分50秒 | 聖書
◆わたしは(雅歌二・一協会訳)
花の中でも、ばらは最も美しいとされているが、たましいの花園におけるイエスの美しさは、地上の花園におけるばらの美しさよりも、はるかにすぐれている。万人の中にあって、主は最も麗しいものとして最高の地位を占めておられる。主は太陽であり、主以外のものはすべて星である。天も昼も主に比べれば暗い。主はその美しさにおいてすべてに抜きんでておられるからである。
「わたしはシャロンのばらです。」それはばらの中でも最上のものであり、最も珍しいものであった。イエスは単なる「ばら」ではなく、「シャロンのばら」であられた。これはあたかも、主がご自分の義を「金」と呼び、それにつけ加えて「オフィルの金」(金のうち最上のもの)と呼ばれたのと同様である。主は何の条件もなく麗しく、この上なく美しい。
その魅力には多様性がある。ばらは目に美しく、その香りは心地よくさわやかである。そのように、たましいの一つ一つの感覚は、それが味覚でも、触覚でも、あるいは聴覚、視覚、霊的臭覚でも、イエスにおいて満足を見いだす。主の愛を回想することさえも甘美である。シャロンのばらの一つ一つを取り、それを記憶の花びんにさせ。その一つ一つの花びらがいつまでも香りを放ち、家の中を芳香をもって満たすことに気づくであろう。キリストは、最もよく訓練された霊にも最高度の満足を与えられる。香料に対してどんなに高い趣味をもつ者でも、ばらにはすっかり満足する。そしてたましいが真の趣味の最高峰に達する時も、たましいはなおキリストに満足する。否、その時こそ、さらによくキリストの真価を認めることができる。天国にさえも、シャロンのばらにまさるものはない。
主の美を十分に表すのに、何をもってたとえればよいのであろう。人間のことば、地上の事物をもっては、主を語ることはできない。地上の最もすぐれた美を寄せ集めれば、その豊かな富をかすかに描き出すことができるであろう。尊いばらよ。とこしえに私の心の中で咲き、香りを放ってください。
 
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「・・なぜこのようなことをたくらんだのか。

2017年05月01日 16時42分44秒 | 聖書

あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」(使徒5:4)

信仰生活、年数を経てくると、自然に聖書知識が増して行く。
毎週、教会に通っているとそれなりに身について来る。
祈りの言葉も、最初は緊張の中で、しどろもどろだったのが、いつしかそれらしくなって来る。

信仰生活が長くなると、内側と外側のギャップが大きくなって来る。
実質は無いのに、どんどん言葉は増え、聖書知識も増え、外側、信仰者に装えてしまう。
私達には、人に良く見られたい強い欲望があり、人前を繕ってしまう。

この誘惑に陥ってしまうと、暗闇の中に入る。
最初はわかって取り繕っているが、その内に自分が自分に欺かれて、本当の自分がわからなくなる。
演じている方が本来の自分だと思い込んでしまう。

ある人が、外での自分をひた隠し、親の前では良い子を演じていた。
親は全くわからなかった。
しかし、最初は意識した演技だったが、どちらの自分が自分なのか、わけがわからなくなった。
これが一番恐い状態だ。

特に霊的生活はサタンの惑わしをわきまえ、主の御前に正直でいよう。
アナニヤとサッピラの間違いは、「振り」をした事だった。虚栄から出ていた。
自分が崇められる事を求めた。
誕生したばかりの教会に、この偽りを放置するなら、内部から崩壊してしまうので、神は対処された。

自分自身もこの偽りだけは、心していよう。信仰が破船してしまう。
献げ物が一部なら一部で全く構わない。一部をお献げしますと、主の御前に正直でいよう。
----------------------
信仰生活は、いつも神様と自分だ。人前を繕っていく必要も、焦る必要もない。
なぜ焦るのか、なぜ振りをするのか、その動機をまず手放していこう。
光の中に出して主に告げてみよう。


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おはようございます。

2017年05月01日 07時19分03秒 | 日記

今日1日感謝の一日をありがとうございます。

合掌  大西

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今日の聖人の記念日

2017年05月01日 07時18分02秒 | キリスト教

労働者聖ヨセフ

 

 この日はメーデーで、労働者の日である。ヨセフは、イエス・キリストの養父として、大工の仕事にいそしみながら、イエスとマリアを養った。彼は、労働は人間性を高める手段であることを教えてくれた。1955年に教皇ピオ12世は、この日を労働者の模範であるヨセフの保護のもとにおき、感謝の日と定めた。肉体的な労働にせよ、知的労働にせよ、私たちがどういう意向で働くかが大切である。

 聖ペレグリーノ修道者

1265年-1345年

 ペレグリーノは、イタリアの中部フォルリー市で育った。彼が少年のころ、市は教皇の権利を無視するようになっていた。そのため、教皇は聖フィリポをその市に送り、人々を教会に立ち戻らせようとした。ペレグリーノも、フィリポの説教と熱意にうたれ、フィリポがいる「マリアのしもべ会」に入った。

 ある日、聖母マリアがペレグリーノに現われて、彼の名前「ペレグリーノ」は「旅人」の意味であり、その名が示すように地上において旅人になると言われた。そのとおり、彼はいつも立って出歩くことを自分の生涯と決めた。彼はフォルリー市の貧しい人々や病人を訪れて慰め、懸命に働いた。

 ペレグリーノは、1726年12月27日に列聖され、フォルリーの町の守護聖人、また癌に苦しむ人々の守護聖人とされている

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◆人 生 の 痛 み

2017年05月01日 07時16分55秒 | 聖書

訓戒を愛する人は知識を愛する。
叱責を憎む者はまぬけ者だ。     (箴言一二1)
叱られるのはだれでもいやです。でも、不思議に叱られたことはなつかしくなります。叱ってくれる人が多くいて、その叱責を心を開いて受け入れる人こそ、成長していく人です。反対に、叱られると反発したりすねて受け入れない人は、伸びる可能性がありません。
ところで、人生で一番すばらしい叱責・訓戒は、神によるものではないでしょうか。神からの叱責・訓戒を、素直に受け入れる人は、いよいよ神の心に近づきます。神の用意しておられる恵みの道を深く踏み分けていき、大きな祝福を見いだす人です。
病とその孤独は、神の叱責と訓戒の時です。病気になって長い間仕事の前線から退くなら、社会から置き去りにされたような孤独を覚えます。人生は、落ち目になった時にほんとうの人の情けが分かるといいます。自分の弱さを見つめる時にこそ、神の変わらない条件なしの愛が、じわりじわりと分かってくるのではないでしょうか。人から忘れられた時も、じっと見守ってついていてくださる神の愛にしみじみと気がつきます。
また、失敗も、神の訓戒の一つです。私たちは、失敗を恐れます。私は、終戦後、国電高田馬場の階段で、つまずいて倒れたことがありました。すると、上からどんどん人に踏みつけられて、下敷きになってしまいました。失敗したり挫折したりすれば、人々がかまわず土足で自分を踏みつけていくのではないか、それでだめになってしまうという恐れが、人生にあります。今、ちょうどそんな感じを持っている人もいるかもしれません。しかし、けっしてそうではないのです。神の愛は、あなたの失敗をよいものに変えてくださり、必ず立ちあがらせてくださいます。
人の叱責を憎む者はまぬけ者です。しかし、神からの叱責と訓戒を拒否する者は、もっと重大なまぬけ者ではありませんか。
 
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◆その頬は、

2017年05月01日 07時16分12秒 | 聖書
良いかおりを放つ香料の花壇のよう。(雅歌五・一三)
見よ。花の月は来た! 三月の風、四月の春雨の後、地は一面に美しく装われた。さあ、私のたましいよ。晴れ着をつけて、みこころの花飾りを集めるために出て行け。おまえはどこへ行くべきか知っている。それは「香料の花壇」のありかをよく知っているからだ。さらにおまえは、「良いかおり」をしばしばかいでいるため、すぐにおまえの愛する方のもとへ行き、彼の中にすべての愛と喜びを見いだす。かつて彼のは容赦なくむち打たれ、しばしば同情の涙にぬれ、またつばで汚された。しかしそのにあわれみの微笑を見ることは、私にとって良いかおりを放つ香料の花壇のように感じられる。
おお、主イエス様。あなたは恥とつばより御顔を隠されませんでした。それゆえ、あなたをほめたたえることは、私の無上の喜びです。そのは悲しみのすきに耕され、いばらをいただく額より流れる血潮のために赤く染められていた。このような無限の愛のしるしは、「香料の花壇」にもまさって私のたましいを魅了せずにはおかない。もし主の御顔の全部を見ることができないなら、私は主の頬を見ていたい。なぜなら、わずかでも見るなら私のたましいにこの上もない力が与えられ、多くの喜びがもたらされるからだ。
イエスの中で香りを得るだけでなく、良い香りを放つ香料の花壇を見いだし、一つの花ではなく、あらゆる種類の香りの良い花を見る。主は私にとってばらであり、ゆりであり、三色すみれであり、また塊となった芳香剤であられる。
主が私と共におられるなら、一年のすべては五月であり、私のたましいは主の恵みの朝露の中に出て、晴れやかな顔を洗い、御約束の小鳥の声に耳を傾けて自らを慰める。
尊い主イエス様。親しい交わりの祝福を知ることを得させてください。私は貧しく、価値のないもの。しかしあなたは、私のに口づけしてくださいました。
おお、どうか、私のくちびるの口づけをもって、あなたにお報いすることができますように。
 
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詩篇35篇23-28節

2017年05月01日 07時14分50秒 | 聖書


35:27 私の義を喜びとする者は、喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。彼らにいつも言わせてください。「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな」と。
35:28 私の舌はあなたの義とあなたの誉れを日夜、口ずさむことでしょう。



「私の義を喜びとする者」と語っています。

私の義というのは、彼が全く正しい者である、ということではありません。

主に頼って、信仰によっていただく義です。

神様が与えてくださる義です。

信仰によって義とされたことを喜ぶ人々は、同じように信仰によって義とされた人々のことを喜びます。

また、主はこのような信仰に生きる者を喜んでくださいます。

そしてその信仰に生きる人々は皆、主を誇り、また主に寄り頼んでいきます。

なぜなら、自分の正しさはすべてこの主の内にあり、また主から与えられるものであるからです。

「誇る者は主を誇れ」と言われています。

私たちが義とされたのは、主によります。

ですから私たちも、私たちを義とし、受け入れてくださる主を、感謝して、褒め称えてまいりましょう。

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★列王記 第一 19章11節~12節

2017年05月01日 07時12分35秒 | 聖書


主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。

■O:今日のコラム
第一列王記18章で、大いなる主の勝利のために用いられたエリヤは、第一列王記19章では、イゼベルの言葉によって恐れ、自分のいのちを救うために荒野へと逃れ、自分のいのちを取って下さいと主に願います(19章2節~4節)。圧倒的とも言える勝利の後でも、敵は私たちが隙を見せるならば突いてきます。成し遂げた・何かをしたという思いから私自身が、私たち1人ひとりが主によって守られることを心から願います。

その後いのちを取って下さいと願ったエリヤを、ひとりの御使いが励ましながら神の山ホレブへと導きます。そこで主はエリヤと会話をしながら、ご自身の前に立つよう言われます。その時の様子が第一列王記19章11節~12節です。

主が通り過ぎられるとき、岩々を砕くほどの激しい大風が起き、地震が起き、火があったのにも関わらず、そこに主はおられませんでした。一見主の働き、主の臨在の現れ、主が中心にいて成して下さっている様にみえるものであっても、あるいはそこに主はおられない、そのようなことがあるかもしれません。

そして火のあとに、かすかな細い声があって、それを聞いたエリヤは入口に立ち、主の声を聞き、主が何を彼にこれからしてほしいのかを聞き受け取ります(19章12節~18節)。

■A:考えてみよう
今日、私たちは1度立ち止まり、自分自身が全ての中心におられるべき主以外を求めて、それを中心に置いていないかを省みて、点検しましょう。また主から受け取ったと思えることも、主の十字架の前に置いてさらに御言葉によって確かなものとして頂きましょう。探り求める静かな時間を持ちましょう。見るからに、聞くからに大きな事が起きていても、そこに主がおられなければ何の意味もありません。私自身、大風や地震、火のような現れ、盛り上がり、ムーブメント、出来事を目が見続け、耳が聞き続けていたこと、自分で何かを神からものだと決めつけたことや、自分の感情や思い考えで何かをしていたことがあることを認めます、そして悔い改めます。

私たち1人ひとりは主によって造られ、いのちを受けた者です。羊飼いなる、牧者である主の羊です。ヨハネ10章にこれらのことがはっきりと記されています。以下抜粋します。

ヨハネ10章9節
「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」

ヨハネ10章14節
「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」

ヨハネ10章27節
「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」

私たちは主の羊として、エリヤが主の細き御声を聞いたように、主の御声を聞いていきましょう。

主の御声は御言葉であり、肉声で語られることもありますが、多くは私たちの心に語られるものだと思います。イエス様の血潮は私たちの良心をきよめて、死んだ行いから離れさせてくださいます。ですから私たちは自分自身の良心が痛むような、また平安を感じないものからすぐに離れましょう。

全ての源、中心におられるべき主ご自身を求めましょう!

■P:祈り
愛する主よ、今日も生かされ、主の声によって進むことが出来る恵みを感謝し受け取ります!あなたの完全な十字架の贖いを感謝します!私の心、また目や耳は、主が中心におられないことに注目しません。私はその主の細き御声、主が成してほしいと願っていることに注目を置き、それに聞き入ります。今日も滴り続けている愛するイエス様の血潮を受け取ります!その力ある主イエスの血潮を、私の心に、目に、耳に宣言します!どうぞ今日あなたの御顔の光、天の音、御言葉という真理を見させ聞かせて下さい。今日という日に、あなたご自身を求めます!愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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4月30日(日)のつぶやき

2017年05月01日 01時35分34秒 | キリスト教
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