座間コミニティー

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◆あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。

2015年03月16日 16時11分05秒 | 聖書

それらが私を支配しませんように。(詩篇一九・一三)

この祈りは、「私を引き止めてください。さもないと私は罪の絶壁からまっさかさまに落ちてしまいます」という意味である。私たちの邪悪な性質は、ともすれば荒馬のように暴走しようとする。どうか神の恵みが私たちにくつわをつけ、人に危害を加えることがないよう引き止めてくださいますように。もし神が摂理と恵みによって制止なさらなかったら、私たちはどうなることだろう。
詩篇作者の祈りは、最悪の型の罪に向けられている。すなわち、故意と自己中心から生じた罪に対してである。最も聖なる人々でさえもとどめられて、極悪な咎から守られる必要がある。使徒パウロが最も忌まわしい罪について、聖徒たちに警告しているのは厳粛なことである。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」聖徒たちに、このような罪を警告する必要があるのか。実に必要なのである。純白な衣も、その純潔が神の恵みによって保たれなければ、真黒なしみに汚されるのである。
老練なクリスチャンよ。あなたは自分の経験を誇ってはならない。もしあなたをつまずかないように守るお方から目を離すなら、たちまちつまずく。燃えるような愛をもち、確固たる信仰をもち、輝かしい希望をもつ者よ。「私たちは決して罪を犯さない」と言ってはならない。むしろ「私たちを試みに会わせないでください」と叫べ。最も敬虔で信仰に満ちた人々の心の中にも、燃えやすいものがある。落ちてくる火の粉を神が消さなければ、地獄の火がその心の中で燃えることになろう。義人ロトが酒に酔い、不潔な罪を犯すなどと、だれが予想したことだろう。ハザエルは「しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんなだいそれたことができましょう」と言った。私たちも同じような高慢な問いをしがちではないか。無限の知恵が、私たちの自己過信の病をいやしてくださいますように。

 


『そしてイエスは言われた

2015年03月16日 16時10分20秒 | 聖書

「聞く耳のある者は聞きなさい」』(マルコ4:9)

御言葉が蒔かれる。土地は私達一人一人の心だ。
「聞く耳」とは、聞く意志を持って、全身全霊で御言葉を聞こうとする耳だ。
そして、従おうとの態勢で聞く耳だ。
「聞く耳のある者は」だから、「聞かない耳」もあるという事だ。
聞かない耳は聞く意志のない耳、又、物理的に聞いてはいるが、心に入らない。
心で聞いていないから、頭を通り抜けて行く。
又、従うつもりが無い。よく御言葉がわからない、わからないと言う。
しかし、御言葉がわかるのは、従おうとの気持ちと態度があるからだ。
従おうとの姿勢がある時、必ず御言葉がわかり、神のみこころがわかる。
逆に、従うつもりが無いなら、御言葉はわからない。
御言葉をどぶに捨ててしまう事だから、決してわからない。
御言葉はわかりたい、しかし、従うつもりは無い時、実のところ、わかっては困るのだ。
従う気が無いのだから。だから、わからないという事になる。
どのようであれ、御心に従う決心があるなら、必ず御言葉はわかる。
神の御声がわかる。聞く耳というのは、聞いた事に従う姿勢を持って、聞く態度だ。
私達はどうだろう。聞く耳があるだろうか。
聞かない耳だろうか。
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御言葉を慕い求めているだろうか。
従いたい、変わりたいとの心で御言葉を聞こう。
聞く耳のある者になって、いのちの御言葉を無駄にしないように。


今日の聖人の記念日

2015年03月16日 06時29分14秒 | キリスト教

聖ヘリベルト大司教

970年ごろ-1021年

 ヘリベルトは、ドイツのヴォルムス市の貴族の息子として生まれた。ロレインの修道院で教育を受け、司祭となり、994年に皇帝オットー3世の高官となった。ヘリベルトは、オットー3世の良き相談相手であると同時に友人であり、政治家としても手腕をふるった。999年にケルンの大司教に就任した後も政治にかかわり、皇帝を支えた。また当時は、多くの聖職者が国務に携わっていたので、ヘリベルトは、彼らの霊的務めを深めることにも力を注いだ。

 次の皇帝ハインリッヒ2世は、長い間ヘリベルトに良い感情を抱いていなかったため、彼を投獄したときもあったが、ヘリベルトの死の直前に、彼の知識と誠実さを認め、和解した。


◆世界の計画者

2015年03月16日 06時27分59秒 | 聖書

神が上のほうに大空を固め、
深淵の源を堅く定め、
海にその境界を置き、
水がその境を越えないようにし、
地の基を定められたとき、
わたしは神のかたわらで、
これを組み立てる者であった。(箴言八28―30前)

ザンブザンブと押し寄せる波を見るたびに、私はこの聖書のことばを思い起こします。そうです。神はその知恵をもって「海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし」ておられます。世界を組み立てられたのは、愛と知恵の神なのです。キリストの愛が、愛ある知恵が、この世界を組み立てられました。
愛のない知恵は恐ろしいと思います。私の身近に、最高学府を出て教育の要職についている人がいます。もちろん、「知恵のある人」でしょう。ところが、この人は妻を追い出しました。実の妹さんとは財産相続のことで、裁判で長年争っています。冷ややかな家庭です。ヒトラーも、「知恵のある人」だったでしょう。しかしヨーロッパの白人種をより純粋より優秀にしようとして、ユダヤ人や有色人種を六百万人以上も殺しました。
この世界を組み立てられたイエス・キリストは、やがて、この世界のためにご自分をささげられました。この世界は、とてつもなく大きいイエス・キリストの愛・十字架の愛で包まれています。
愛に裏づけられた知恵に、私たちは従うべきです。ですから、子どもは親に従うべきです。それと同じように、愛に裏づけられた知恵のもとである神に、人は従うべきではないでしょうか。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ八38―39)。

 


◆私はあなたとともにいる旅人……です。

2015年03月16日 06時27分06秒 | 聖書

(詩篇三九・一二)

神様。私はあなたとともにいる旅人で、あなたを目ざしている旅人ではないのです。私をあなたから遠ざける生来のものはみな恵みによって取り去られ、今あなたの同行者となり、この罪の世を外国にいる巡礼のように旅しています。あなたはご自身の世界にあって旅人です。人はあなたを忘れ、辱しめ、新しい法律と異なる習慣を作り出し、あなたを知らないでいます。
あなたの御子が民を訪ねられた時、民は受け入れませんでした。だからイエスのいのちに生きている私が、世に認められず旅人であっても驚くには当たりません。神様。イエスが他国人であられたこの世で、私は市民になりたいとは願いません。かつて私のたましいをこの地にしばりつけていた縄は、主の裂かれた御手によって解かれ、今この世にあって私は旅人であることを見いだしました。
異邦人の中で私のことばは奇異に思われ、私の態度は奇妙であり、私の行動は変わっています。外国人がロンドンの大通りに来たとしても、罪人のすみかにいる私よりはくつろぐでしょう。しかしここにいても私は喜びます。私はあなたとともにいる旅人ですから。あなたは私とともに苦しみ、私に同行してくださいます。ああ、このようにすばらしい交わりをもって旅を続けるのほ、なんという喜びでしょう。
道々あなたがお語りになる時、私の心はうちに燃えます。寄留者にすぎない私ですが、王座に座する者よりもはるかに祝福に満たされ、大邸宅に住む者にまさる平安を覚えます。
 私は時と所を選ばない
 至る所に私の国はある
 未知の地に宿っても
 そこに神がおられるので悩まない
 この地に望みをかけ、かの地を避けるなら
 どこでもたましいに幸いはない
 しかし、神が共にいて導いてくださるなら
 とどまることも行くことも共に喜ぶ

 


第2列王記1章17-18節

2015年03月16日 06時25分54秒 | 聖書

1:17 王はエリヤが告げた【主】のことばのとおりに死んだ。そしてヨラムが代わって王となった。それはユダの王ヨシャパテの子ヨラムの第二年であった。アハズヤには男の子がなかったからである。
1:18 アハズヤの行ったその他の業績、それはイスラエルの王たちの年代記の書にしるされているではないか。



 アハズヤの治世は、2年という短いものでした。

また、彼に子供がなかったために、先代の王アハブの別の子、つまり彼の兄弟ヨラムが王となりました。

この王の名前は、南の国ユダの王の名前と同じでした。

 ところで、このアハズヤの行ったことが皆、年代記に記されていると語られています。

「記されている」というのは、彼のしたことが記録されている、つまり、彼の為した不信仰な悪しき業が皆、残され、覚えられているということです。

これは私たちも同じです。

この地上でした、良いこと、また悪いことも皆、主の前では覚えられているのです。

そのことを思って、真摯な、主に喜ばれる歩みを、私たちはこの地で為していきたいと思うのです。




使徒16章6-9節(エレミヤ16章)

2015年03月16日 06時23分23秒 | 聖書

★それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
それでムシヤを通って、トロアスに下った。
ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。

■O:今日のコラム
初代教会の大きな特徴は、人間が中心ではなく、聖霊様が中心だったという事実です。
終わりの時代、主は、聖霊様に聞いて従う、そのような教会を回復してくださっていると信じます。

今日の箇所で、パウロ、シラス、テモテたちは、自分たちの計画、意思に反して、別の場所に導かれました。
登場する現地(トルコやギリシャ)の地名を日本の地名でたとえてみると、豊橋から静岡に行こうと思ったのに、禁じられて、名古屋方面に進み、そこから、もう一度長野の方に行こうとしたのに、許されなくて、仕方なく、滋賀の方向に進んでみたら、幻の中で、京都に来て下さい!と示された、というような感じです。

カーナビもGPSもGoogleマップもなく、彼らは聖霊によって行くべきところに導かれました!

マケドニヤ第一の都市ピリピで伝道を始めると、占いの霊につかれた女奴隷から霊を追い出してしまったことをきっかけに、投獄される。しかし、パウロとシラスが真夜中獄中で賛美して、奇跡の解放と救いが起こる。そして、後に、ここから、パウロに愛されたピリピの教会が出来た….。また次に福音を宣べ伝えたテサロニケでも、後のテサロニケ教会が始まった…。

これらのことを考えると、聖霊の導き、働きがどれほど素晴らしいか、また重要か、ということを改めて思わされます。

人間の計画で、あそこの町に行こう、この場所で教会を始めよう、ではなく、聖霊が語られ、行きなさい、という所に行く、ということが、重要だということです。

では、では、聖霊はどうやって、私たちを導いてくださるのでしょう?

内に起こされる願いや促しによって、御言葉によって、牧師やリーダー、親を通して、預言を通して、はっきりと聞こえる声、夢や幻によって、確信によって、扉が閉ざされたり、開かれたりすることによって…..、様々な方法で語られますが、一つの基本的な導き、それは、平安です。

ローマ8章6節 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。

聖霊によって、キリストの御霊によって、導かれている時、そこには平安があります。

マタイ11章29-30節
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

私たちは、この聖なる神の霊、キリストの御霊を、聖霊様と呼び、私たちの中に歓迎し、共にいてくださることを感謝します。この方は、助け主、慰め主であり、すべての真理に導き入れてくださる真理の御霊であり、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊です。

聖霊はただの力や存在ではなく、人格をもったお方なので、この方を悲しませないように、無視しないように、いつも歓迎し、また従っていきましょう。
この方に従って、導かれて行く時、そこには喜びと平安、主の臨在があるので、「そのくびきは負いやすく、その荷は軽く」、私たちは主のために、実を結び、主に栄光を捧げることができるのです。

さらに聖霊様と親しい関係を築く事ができるよう、求めていきましょう!


■A:考えてみよう
聖霊様、すなわち、神を知るための知恵と啓示の御霊を日々求めましょう。(エペソ1章17-19節をそのまま祈ってみましょう。)

異言で祈れる人は異言で毎日祈りましょう。
1コリント2章13節
この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
1コリント14章4節
異言を話す者は自分の徳を高めます


■P:祈り
知恵と啓示の御霊よ、聖なる神の霊よ、キリストの御霊よ、真理の御霊よ、助け主よ!あなたを歓迎します。あなたを認めます。あなたを愛しいます。あなたに従います。今日も私を満たし、導いてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


3月15日(日)のつぶやき

2015年03月16日 01時41分44秒 | キリスト教