それらが私を支配しませんように。(詩篇一九・一三)
この祈りは、「私を引き止めてください。さもないと私は罪の絶壁からまっさかさまに落ちてしまいます」という意味である。私たちの邪悪な性質は、ともすれば荒馬のように暴走しようとする。どうか神の恵みが私たちにくつわをつけ、人に危害を加えることがないよう引き止めてくださいますように。もし神が摂理と恵みによって制止なさらなかったら、私たちはどうなることだろう。
詩篇作者の祈りは、最悪の型の罪に向けられている。すなわち、故意と自己中心から生じた罪に対してである。最も聖なる人々でさえもとどめられて、極悪な咎から守られる必要がある。使徒パウロが最も忌まわしい罪について、聖徒たちに警告しているのは厳粛なことである。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」聖徒たちに、このような罪を警告する必要があるのか。実に必要なのである。純白な衣も、その純潔が神の恵みによって保たれなければ、真黒なしみに汚されるのである。
老練なクリスチャンよ。あなたは自分の経験を誇ってはならない。もしあなたをつまずかないように守るお方から目を離すなら、たちまちつまずく。燃えるような愛をもち、確固たる信仰をもち、輝かしい希望をもつ者よ。「私たちは決して罪を犯さない」と言ってはならない。むしろ「私たちを試みに会わせないでください」と叫べ。最も敬虔で信仰に満ちた人々の心の中にも、燃えやすいものがある。落ちてくる火の粉を神が消さなければ、地獄の火がその心の中で燃えることになろう。義人ロトが酒に酔い、不潔な罪を犯すなどと、だれが予想したことだろう。ハザエルは「しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんなだいそれたことができましょう」と言った。私たちも同じような高慢な問いをしがちではないか。無限の知恵が、私たちの自己過信の病をいやしてくださいますように。