座間コミニティー

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◆わたしにとどまりなさい。

2015年03月09日 16時53分59秒 | 聖書

(ヨハネ一五・四)

主との交わりは、一切の悪からの確実ないやしを与える。それが、わざわいの苦よもぎであろうと、地上的な喜びの飽満であろうと、主イエスとの親密な交わりは前者から苦みを取り、後者からは飽満を取り去る。
友よ。イエスに近く住め。そうすればあなたの住む所が、名誉の山であろうが、屈辱の谷であろうが、二義的なものになる。イエスの近くに住むなら、あなたは神の御翼におおわれ、あなたの下には永遠の腕がある。あなたの聖なる交わりを何ものにも妨げさせてはならない。それは、愛する御子に結合されたたましいの特権である。時々主をかいま見るだけで満足せず、常に主と共にあることを求めよ。主の御前においてのみ、あなたは安息を得ることができるからである。
イエスが私たちにとって、たまたま訪れる友であってはならない。主は、私たちが常に共に歩むお方でなければならない。あなたは火の燃えさかる炉の中を通らなければならない。その時、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのように神が共に行かれるのでなければ、炉の中に入ってはならない。あなたは、あなた自身の腐敗のエリコを陥落させなければならない。その時、ヨシュアのように、主の軍の将が、抜き身の剣を手に持って立っているのを見るまでは、戦いを始めてはならない。あなたは、多くの誘惑というエサウに会わなければならない。その時、ヤボクの渡しにおいて天使を引き止め、そして勝つまでは、エサウに会ってはならない。
あらゆる場合に、またあらゆる境遇において、あなたはイエスを必要とする。そして、死の鉄の門があなたに向かって開かれる時に、特に主を必要とする。あなたのたましいの夫に近く身を置き、あなたの頭を主の胸にもたせかけ、主の香ばしいざくろの果汁によって力づけられることを求めよ。あなたは最期に臨んでも、主によって、しみや、しわや、そのようなものの何一つない状態で見いだされるであろう。
あなたは主と共に生きていた。そして今、主と共に生きている。ゆえに、永遠に主と共にあるだろう。

 


「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、

2015年03月09日 16時53分13秒 | 聖書

神のすべての武具を身に着けなさい」(エペソ6:11)

誰しもサタンの執拗な誘惑に会った経験があるだろう。
経験的に、その誘惑を何とかしようと、戦えば戦うほど、がんじがらめになり、更に深みにはまって行ったのではないか。
自分の思いをどうにかしようと、すればするほど、誘惑が更に強くなる。
誘惑と戦って行くと、逆にその誘惑に思いを集中する事になってしまう。
思いが捕らわれ、問題が必要以上に大きく見え、取り込まれてしまう。
どんどん消耗して力尽きる。
「こんな事思ってはいけない、してはいけない」と必死になるのでなく、思いの向きを変えてしまえばよい。
さっさと家事を始めてしまうとか、用事をするとか、行動する事も有効だ。
サタンはもう無駄だと思うと離れる。
思いを消そうとするのでなく、別の思いに代えればよい。
又、敢えて誘惑の場に近づく事は、自分から誘惑に乗って行くようなものだ。
近づかないよう具体的行動が必要だ。テレビや本が誘惑になるなら、消して、閉じる。
ある店が誘惑になるなら、店に入らない、近づかない。
誘惑になるもののそばを離れる。何よりも、積極的に御言葉と賛美と祈りで心を満たすことだ。
空いた心には必ずサタンが来る。
御言葉の剣を握り、心を霊のものでいつも満たしておくことだ。
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人それぞれ弱い部分があり、その弱い部分に集中攻撃をかけてくる。
サタンは単純には来ない。姿を隠して巧みに策略を練って来る。
サタンの誘惑に気づけるように。
今、目の前の問題もサタンがからんでいないか。 


今日の

2015年03月09日 06時52分00秒 | キリスト教

聖フランシスカ(ローマ)修道女

1384年-1440年

 フランシスカは、ローマの貴族の家に生まれ、信仰深く育てられた。幼いころから、修道院に入って神に生涯をささげたいという望みを抱いたが、13歳のときに両親の望みに従ってロレンツォ・ポンチオニという裕福な貴族の青年と結婚した。6人の子どもに恵まれ、妻として母として理想的な家庭を築いた。

 ローマが1400年からの内戦によって荒廃していたときには、義理の姉とともに貧しい人々の救済や、病人の看護に献身的に当たった。フランシスカのもとに、志をともにしたいとする婦人たちが集まり、1425年に、貧しい人々を救済するための会「トル・デ・スペキ女子修道会」を創立した。フランシスカは修道会を会外から指導していたが、1436年夫の死を機に自らも共同体で生活を始め、修道院長として亡くなるまで会員を導いた。

 彼女はしばしば神秘体験をし、守護の天使と親しく語らったといわれる。息を引き取る前にも、「天使が後についてきなさい、と手招きしています」と言ったと伝えられている。


◆銀より尊い知恵

2015年03月09日 06時50分46秒 | 聖書

銀を受けるよりも、わたしの懲らしめを受けよ。
えり抜きの黄金よりも知識を。
知恵は真珠にまさり、
どんな喜びも、これには比べられないからだ。(箴言八10―11)

若いお母さんが小さな幼子の手を引いて歩いています。そのかわいい女の子は時々立ち止まっては、「ねえ、ママ見て。お花よ。きれいきれい」と花大根の紫の花に顔を近づけては叫びます。でも、若いお母さんは邪険にその子の手を引っ張っていきます。しばらくすると、また女の子は地べたにしゃがみこんで言います。「ママ、ほら見て。蟻んこよ。重いお荷物を運んでるよ。」そのお母さんはまた生返事をして、その子を引っ張って歩かせます。
こんな情景を何回も見たような気がします。そんな時、そのお母さんの頭の中に何があるのかなあと思ってみました。今晩のおかずのこと、それとも、今月はまた赤字かしらとお金のこと、あるいは、ご主人としたけんかが気になっているのでしょうか。
私は、大人になっても、子どものようにひたむきに、驚きの目で見つめる心を失いたくないと思います。
えり抜きの黄金よりも白金よりも、どんなに大きなダイヤや真珠よりもすばらしいものが、この世にあります。神、そしてその愛です。驚きの心で、それを見いだし受け止めたいものです。試練や苦難を受ける時も、あの人が悪い、この人がいけないのだなどと考えず、神がこらしめの中からなお語りかける愛の声に、あっと驚く心を持ちましょう。
福井県のF君は、やっと十八歳になった時思わぬ事故に会って、下半身完全麻痺になってしまいました。この悲しい事実の中で、彼のために十字架の上で血を流された神の愛の声をひたむきに聞きました。今F君は驚くほど豊かに生きて、人に喜ばれる奉仕の仕事をしています。
「愛は死のように強く、……大水もその愛を消すことができません」(雅歌八6―7)。

 


◆あの方のすべてがいとしい。

2015年03月09日 06時49分53秒 | 聖書

(雅歌五・一六)

イエスのたぐいない美しさは強く人を引きつける。賛嘆させるというよりはむしろ、愛着を起こさせると言ったほうが近い。快いとか美しいとかいう以上に、愛らしくあられる。たしかに冒頭の聖句は、神の民に適したものである。それは、イエスが彼らの熱愛の対象であり、その愛が主のご人格の本質的な気高さとその全き魅力に基づいているからである。
イエスの弟子たちよ。主のくちびるを見て、「これこそ最も甘美なるもの!」と言え。主が道であなたに語られる時、あなたの心はうちに燃えないであろうか。インマヌエルを拝する者よ。その黄金の頭を仰げ。その御思いはあなたにとって尊いものではないか。レバノンの杉の木のような気高い主の御顔の前にあなたが謙虚にぬかずく時、あなたのささげる礼拝には愛慕の情が伴っていないだろうか。主の顔だちには魅力があり、その全人格は香油の香りを放つ。それで、おとめたちも主を慕うではないか。主の栄光のからだのほんの一部分でも、私たちの注意を引かないものがあろうか。ご人格のほんの一部でも、私たちのたましいの礎石とならないものがあろうか。主のただ一つの役目といえども、あなたの心をしばる強いひもでないものがあろうか。私たちの愛は、主の愛の心に印せられているばかりでなく、主の力強い腕にも結びつけられている。主のごく一部分といえども、私たちの愛が注がれていない箇所はない。私たちは主の全身に、私たちの熱烈な愛の香油を塗る。私たちは主の全生涯を見習い、その品性のすべてにあやかりたいと願う。
主以外のすべての人々にはなんらかの欠点を見いだすが、主のみは完全であられる。主の知遇にあずかる最も洗練された聖徒でさえ、その衣にはしみがあり、額にはしわがある。しかし主こそは最大の愛らしさそのものである。地上の太陽にはみな、しみがあり、美しい世界自体にも荒野がある。いかに愛らしいものでも、申し分ないものはない。しかしイエス・キリストは混じり気ない純金であり、闇なき光、曇りなき栄光であられる。「あの方のすべてがいとしい。」

 


第1列王記22章41-50節

2015年03月09日 06時48分21秒 | 聖書

22:43 彼はその父アサのすべての道に歩み、その道からそれることなく、主の目にかなうことを行った。しかし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。



 ユダの王ヨシャパテは、自分の父のアサと同じように、主をあがめ、その御心に従うように努めた人でした。

彼は、父の時代に行われていた、神殿における男性娼婦の存在を問題視して、それを除き去りました。

しかし、彼にはなお1つの問題があったと語られています。

それは、「高き所を取り除かなかった。」というのです。

高き所と言うのは、通常、偶像礼拝が行われていた所でした。

そこを同じく、主を礼拝させたままにしていたと語っているのです。

これによって、主と偶像が同時に拝されてしまう状況が起ったのですが、彼はそれを危惧しなかったというのです。

 主を礼拝する時に、そこに偶像が入り込むような余地を残すことは、主の御心に反することで、取り除くべき事であったのです。

混合は、許されないのです。


使徒の働き11章23節(エレミヤ書11章)

2015年03月09日 06時45分18秒 | 聖書

★彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。

■O:今日のコラム
アンテオケ教会は、初めての異邦人中心の教会でした。しかし、バルナバ、パウロが一年間教え、励ましたこともあり、アンテオケの教会で初めてキリスト者と呼ばれるようになりました。それほどに他の人々と違いがあったという事です。これは、周りからは馬鹿にされた呼び名だったとも言われますが、主のゆえに辱めを受けることは、喜ばしい事です。
 彼らに対して、バルナバがしたアドバイスは、『心を堅く保って、常に主にとどまっている』ことでした。この『堅く保つ』という語は、決心とか、備えのパンという意味がありま す。何を決心し、どのように心を堅く保つのでしょう?
 それは、『常に主にとどまっている』です。それは主に向かって、主の御そばにあり続ける、という意味の言葉が使われています。
 この方にしがみついて離れない、という決心がある聖徒たちは、健全な教えの中で、わずか一年で、この地上に違いをもたらす者になっていきました。
どんなときにも、どんな状況でも、主にしがみついて離れない生き方。ダビデが『私は絶えず主を目の前に置いた』、とはどのようなものなのか?絶え間ない礼拝者となってそのことを学んで行きたいです。


■A:考えてみよう
これは私の場合の、より具体的な事柄です。あらゆるときに、主から引き離されるような心を捨て、主に喜ばれる心、言葉(心があれば言葉も出ます)、行いを身に付ける。主が自分を見ておられ、ともにおられる事を絶え間なく味わう。

■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


3月8日(日)のつぶやき

2015年03月09日 01時40分52秒 | キリスト教

マタイの福音書10章7節(エレミヤ書10章) goo.gl/XWno8Y


◆私たちが神の国にはいるには、 goo.gl/jEqF9L


「御霊に属する人に対するようには話すことができないで、 goo.gl/kuWDoz


◆彼女はその子の名をベン・オニ(私の苦しみの子)と呼んだ。 goo.gl/UA1ojT