座間コミニティー

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◆彼は手を差し伸べて鳩を捕え、

2015年03月13日 16時48分52秒 | 聖書

箱舟の自分のところに入れた。(創世八・九)

鳩はあてどなく飛ぶのに疲れ、ついにその唯一の憩いの場である箱舟に帰って来た。なんと重そうに飛んでいたことだろう。鳩は今にも落ちそうであった。箱舟にまで着けそうになかった。しかし、がんばり続けた。ノアは箱舟に入れるために鳩を待ち、一日中鳩を捜し求めていた。鳩はやっと箱舟の端に着いたが、止まっている力もなく落ちそうであった。その時ノアは、手を差し伸べて自分のところへ入れたのである。
「自分のところに入れた」とあるのに心を留めよ。鳩は的確に飛んでいたのではない。恐れに満たされ、また疲れきっていた。鳩は飛べるだけ飛んだ。そしてノアは手を差し伸べて、鳩を自分のところへ入れたのである。これはさまよえる鳩に対するあわれみの処置で、鳩はさまよっていたことについてはとがめられなかった。飛んできたままの姿で箱舟に入れられたのである。
同じように、神を求める罪人なるあなたは、すべての罪をもったままで受け入れられる。「ただ帰れ。」これこそ、神の恵みのことばである。それ以外に何もないのかと尋ねるのか。全く何もないのである。「ただ帰れ。」鳩はこの時、オリーブの若葉をくわえていなかった。かろうじてそのさまよえる旅から帰ったのである。「ただ帰れ!」そして鳩は帰り、ノアは鳩を自分のところに入れた。さまよっている者たちよ。飛べ。あなたは鳩にすぎなくても、また、罪のゆえに烏のように黒いと嘆く者であっても、帰れ。救い主のもとに帰れ。あなたがためらうなら、みじめさが増す。
あなたが自分の力で羽を整えて、イエスの御前に出るのにふさわしい者になろうとすることは、すべて無益である。あるがままの姿で、イエスのみもとに来れ。「背信の女イスラエル。帰れ。」主は「悔い改めているイスラエル。帰れ」とは言われなかった。「背信の」と言われた。背信者として、背信者のままで帰るのだ。帰れ。イエスはあなたを待っておられる。主は手を差し伸べて、あなたの心の真の故郷である主のみもとに、あなたを入れてくださる。

 

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「まことに、あなたがたに告げます。

2015年03月13日 16時47分46秒 | 聖書

取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです」(マタイ21:31)

自分が「良い人」だと思っている人は多い。
勿論完全ではないが、そんなにひどくは無いと思っている。
そこそこ良い人で、隣の人よりましだと思っている。
多くの人は、外側を何とかうまく繕って生きている。
外面繕うので、外側だけを見ると良い人に見える。
犯罪ニュースに出て来る人物に、近隣の人々は、皆おしなべて、良い人だと言う。
必ずそう言う。私達も、外側繕って生きてしまう。
そうすると、周囲に良い人だと言われる。
繕い続け、良い人だと言われ続けると、自分で錯覚して、勘違いして、自分は良い人だと信じ込む。
良い人である限り、神は必要無い。
神無しで生きて行ける。しかし欺瞞であり、偽りであり、勘違いだ。
義人はいない、一人もいない。遊女や取税人が、神の国に入った。
自他共に、罪深さが余りにもあからさまで、人にも自分にも、どうにも隠すことができないからだ。
認めざるを得ない。砕かれたたましいは、神を必要とし、自らの罪を告白する。
そのような人々に、全き赦しが与えられる。
自分の罪を認めるので、罪の増し加わるところに、恵みも満ち溢れる。
自分を「良い人」と見るなら、光に照らされない。暗闇の中だ。
罪は無いというなら、真理もない。
自分を欺いてしまう。光に自分自身を照らして頂こう。
----------------------------
外側を繕っている内に自分だけは間違っていないと思い込む。
完全に盲目だ。真実の自分の姿をしっかり神様の前に認め、また赦される祝福を味わいながら、いつまでも光の中を歩んでいこう。

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今日の聖人の記念日

2015年03月13日 06時27分49秒 | キリスト教

聖エウフラシア修道女

382年ごろ-412年ごろ

 エウフラシアは、コンスタンチノープルに生まれた。父は元老院議員で、ローマ皇帝テオドシウス1世の親戚であった。

 幼くして父を失ったエウフラシアは、皇帝の勧めで元老院議員の息子と婚約した。しかし、7歳のときに母とエジプトに行って、修道院の近くに住み、たびたび修道院を訪れるうちに修道生活にひかれ、生涯を神にささげたいと思うようになった。

 母の死後、12歳のときに、皇帝から婚約者と結婚するようにといわれたが、彼女は本当の望みを皇帝への手紙に書き、結婚を辞退した。そして遺産を貧しい人々に施してほしいと皇帝に依頼し、自らは修道院に入った。同僚の修道女たちの嫉妬によって苦しんだこともあったが、常に優しさと忍耐をもって、神と共同体に謙遜に奉仕した。

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◆知 恵 と 祝 福

2015年03月13日 06時26分44秒 | 聖書

わたしを愛する者には財産を受け継がせ、
彼らの財宝を満たす。        (箴言八21)

人は、親とか教師とか、人の人格からにじみ出るところで一番深い決定的な影響を受けるのではないでしょうか。イエス・キリストというお方を見いだし、この方と共に歩み出す時、人は決定的な影響力を受けます。
イエス・キリストは愛の人です。あなたを理解し、受け入れ、包みこみ、あなたにすべてを与えつくし、愛といのちを与えてくださいます。その栄光の富に従って、私たちを満ちあふれさせると聖書は言っています。
イエス・キリストが与える祝福は、こんなに豊かにあります。
・ 愛が分かるので、周囲の人とうまくいく。
人を愛し、人々に愛されるようになります。幸福な夫婦の間柄・親子の関係・職場関係へと変わっていきます。
・ 人間の生きる目的が分かるので、使命感に燃えて、生きがいのある生活を見いだすことができる。
・ 全世界の富を持つ神といっしょなので、経済的な祝福が与えられる。
大金持ちや長者番づけにのることはさておき、金まわりも確かによくなります。これは、金や物に対する考え方が根本的に変わってくることと関係しています。
・ 性格まで変わってくる。
悪意や悲観から抜け出し、善意と楽観に生きる人となります。
しかし、これらの地上の祝福は、イエス・キリストの十字架によって、罪と滅びから救われて永遠のいのちを与えられ、神の愛によって新しく生まれるという土台の上に築かれるのです。

 

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◆私たちはどうして死ぬまでここにすわっていなければならないのだろうか。

2015年03月13日 06時25分52秒 | 聖書

(Ⅱ列王七・三)

愛する友よ。この書は主として信者への教訓として書かれたものだが、もしあなたが救われていないならば、私は心からあなたに同情し、あなたの祝福になることを語りたいと思う。もしあなたが現在の所にとどまっているならば、あなたは滅びなければならない。しかしイエスのもとに行けば、死ぬだけで滅びることはない。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」というⅤがある。あなたの場合、冒険はそれほど大きいものではない。不機嫌に失望の色を浮かべ、じっと座っていても、破滅が来た時、だれもあなたを顧みるわけではない。しかし、もしあなたが主にすがり、あわれみを求めつつ死んだならば――そのようなことが可能なら――あなたは同情の的となるだろう。
イエスを見るのを拒んだ者は滅亡を免れることはできない。しかし、あなたは主を信じて救われた人がいることを知っており、その中のある者は、あなたもよく知っている人である。それなら、なぜあなたは救われないのか。滅びることはきわめて恐ろしいことである。だから、一筋のわらでもつかむものがあれば、あなたは自分を守るために手を伸ばすはずである。あなたはこれまで、不信仰の側に立って自らに語ってきた。しかし主の側に立って、主を求めるならば、あなたは主を必ず見いだすということを私は保証したい。イエスはご自分のもとに来た者を捨てられたことがない。あなたがもし主に信頼するならば滅びることがなく、あわれな病人がアラムの陣営で拾った財宝よりも、はるかに尊いものを得るであろう。どうか、聖霊がただちにあなたを主のもとに行かせ、あなたの信仰が無益なものではないことを知らせてくださいますように。
救われた時には、その良い知らせを他の人に語れ。沈黙していてはいけない。まず主の家族に告げ、彼らと兄弟姉妹になれ。町の門を守る者にあなたの発見を知らせ、良い知らせをあらゆる場所に広げよ。主は、今日太陽が沈む前にあなたを救われる。

 

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第2列王記1章9-10節

2015年03月13日 06時24分20秒 | 聖書

1:9 そこで、アハズヤは五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。彼がエリヤのところに上って行くと、そのとき、エリヤは山の頂にすわっていた。彼はエリヤに、「神の人よ。王のお告げです。降りて来てください」と言った。



 アハズヤは、自分が送った使者に語った預言者がエリヤであることを知った時、エリヤが自分に都合のよい言葉を告げなかったために、50人の部下を引き連れた隊長をエリヤの所に送りました。

そのことによって、このエリヤをとらえようとしたのです。

 この50人の隊がエリヤの所に来てみますと、エリヤが山の頂に座っているのを見つけました。

そこで隊長はエリヤに向かって、「王のお告げ」であるので、こちらに降りてきて下さいと語りました。

つまり、王という、あらゆる者の支配の上に立つ人があなたに告げるので、あなたはそこから降りてきて、王の命令に従って下さいと語ったのです。

ところが、王の権威を主張する彼等は、主から下された火によって、滅ぼされてしまいました。


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使徒の働き14章9節(エレミヤ14章)

2015年03月13日 06時22分07秒 | 聖書

★この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、

■O:今日のコラム
この足が不自由だった人は、「パウロの話に耳を傾けていた」とありますが、原語によると、未完了過去形で書かれていて、継続または反復を示しています。
つまり、この人は、パウロの話に何度も何度も聞き入り、福音に興味を示し続けていたのでしょう。
「パウロは彼に…癒される信仰があるのを見て」とありますが、この「癒される」とは原語で「sozo (ソウゾウ)」で「救い」と言う意味でもあります。
パウロは彼が救いを受け入れる信仰があるのを見て、癒しを宣言したのでした。

私たちの周りにも、救いを待ち望んでいる人がたくさんいます。

教会のある姉妹が、最近、仕事仲間のために手を置いて祈り、また聖書を渡し、福音を伝えることが出来たという証しを聞きました。
相手の方は「祈ってもらえるなんて…」と涙しながら喜んでもらえたそうです。『嫌がられるんじゃないかと恐れていましたが…臆病な自分にこんなことが出来るなんて…』と自分自身でも驚いたそうです。

パウロは足の不自由な男の内側にある、その「救いを必要としている飢え渇き」を見落としませんでした。

同じように、私たちの周りの人々をよく見てみて下さい。人々は私たちが思っている以上に福音を求めています。この足の不自由な人のように、救われる信仰を持っている人がいるはずです。
皆、いのちの道を探し、救いを必要としています。
この姉妹は、同僚にに手を置き祈り、その方の内側に癒しが起こることを体験しました。その喜びに満ちた奇跡は、行動に出た者にしか体験することは出来ません。
きっと断られるに違いない…、変な人だと思われるに違いない…、キリスト教はしつこい怪しいモノだと思われたら証しにならないかも…
その様に制限しているのは、自分自身の思いだけかも知れません。

私たちも、この様な救いと癒しの奇跡を見たいでしょうか。
自分自身を通して、神の国がこの地に来るのを見たいでしょうか?
是非、周りにいる「救われる信仰」を持っている人、福音を待っている人々に、御国の福音を、イエス様の愛を伝えていきましょう。


■A:考えてみよう
自分の周りにいる「救われる信仰」がある人、福音を待っている人は誰だろうか?


■P:祈り


イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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3月12日(木)のつぶやき

2015年03月13日 01時43分34秒 | キリスト教
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