座間コミニティー

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◆キリストの測りがたい富……。

2014年08月22日 16時53分53秒 | 聖書

(エペソ三・八)

私の主がもっておられる富は、数学によって計算することも、理性によって測ることも、想像力によって夢見ることも、雄弁をもって語ることもできない。測りがたい富である! あなたはイエスをながめ、研究し、測れるかもしれない。しかし主は、あなたの考え得る極限をはるかに超えた偉大な救い主であられる。
あなたは罪を犯しやすいが、私の主はそれ以上に赦しを備えておられる。あなたが咎に陥るよりもはるかにまさって、それを赦すことができる。私の主はあなたが欠乏を訴える以上に、あなたのその欠乏を喜んで満たされるのである。私の主イエスについての不十分な考えに甘んじてはいけない。
私の主は、今あなたの上に授けなければならない幸福の富を所有しておられる。あなたを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われる。主の笛にまさる音楽はない。主は羊飼い、あなたは羊、そしてあなたは主の足もとに伏す。主のもっておられるような愛はこの天地にない。キリストを知り、そして主に見いだされること、おお、これこそいのち、喜び、脂肪と髄、そしてよくこされたぶどう酒である。私の主は、そのしもべたちを粗末に扱うことをされない。主は、王が他の王に贈り物をするようにして彼らに与えられる。主はしもべたちに二つの天国を与えておられる。一つは、この地上で主に仕える、下にある天国。一つは、永遠に主にあって喜ぶ、上にある天国である。
主の測りがたい富は、永遠の世界において最もよく知ることができる。主はあなたが天国へ行く途上においても、あなたの要する一切のものを与えられる。あなたは堅き巌で守られ、あなたのパンは与えられ、あなたの水は確保される。しかしあなたが勝利者の歌を聞き、宴会に連なる者たちの叫びを聞き、愛する栄光の主に顔と顔とを合わせてまみえるのはかしこである。
キリストの測りがたい富よ! これは地上の歌人の調べであり、天上のたてごとの歌である。主よ。私たちにさらに深くイエスを教えてください。私たちはその良いおとずれを他の人々に伝えます。

 


「私は、私のうち、すなわち、

2014年08月22日 16時53分01秒 | 聖書

私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています」(ローマ7:18)

アダムとエバは善悪の知識の木から食べ、善と悪がわかるようになったが、善を行う力は無い。
それは、善悪が「わかる」だけで、善に生きる事はできないし、神のようにもならなかった。
サタンの大嘘だ。
善の知識があるだけで、自分の内に善が住んでいないので、善は無い、行う事が出来ない。
頑張るが出来ない。
頑張れば善を行えると頑張るが、善が住んでいないので無理だ。
善をしたいと言う願いがあるが、実行不可能だ。
善が住んでいないところの私達が、頑張ってする、善とは偽だ。
善が住んでいないのだから、真の善は不可能だ。
だからこそ、御父は御子キリストを与えて下さった。
どれだけ頑張っても、善は行なえない事を認め、ギブアップする事だ。
自分の内に善が無い事を知った人だけが、初めて主に頼る。
それ以前には決して主に頼る事など出来ない。
必ず自分に頼っているからだ。
何とか頑張れば出来ると思っている。
肉は、生まれつきの自分は、どこまでも自分の能力を誇りたいし、認められたい。
そこそこの無力は認めるが、どん底まで完全無力は、余りにも惨めで認められない。
プライドゆえだ。
しかし、徹底無力を認めた時に初めて、十字架の血潮が自分のためであり、完全に赦され、血潮におおわれている実感を得る。
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頼りにならない自分を認める事が出来るのが恵みだ。
弱く一時も霊的に立っておれない自分を認める時、主の十字架の憐みが感謝に思える。
一つ一つ無力を示され、いつも自覚しておられますように。


今日の聖人の記念日

2014年08月22日 07時34分25秒 | キリスト教

聖シンフォリアノ殉教者

2-3世紀

 シンフォリアノは、ガリア(フランス)地方の、オータン市の貴族の家に生まれた。その地は、シベルという女神が特に崇められ、ローマ総督のヘラクリウスも、すべての神々の母として拝むように市民に命令した。しかし、シンフォリアノは、唯一の神だけを拝むと言ってそれを拒み、むち打ちの刑に処せられても最後まで信仰を守りとおしたので、死刑を言い渡された。
 5世紀の中ころ、彼の墓の上にオータン市の司教が記念聖堂を建てた。シンフォリアノは、ローマ時代のガリア地方で最も有名な殉教者のひとりである。

天の元后聖マリア

 

 この記念日は1954年、教皇ピオ12世が発表した回勅“Ad Caeli Reginam”(アド・チェリ・レジナム)によって定められた。この回勅のなかで、教皇は「マリアは神の母であり、新しいエバとしてイエスのあがないの業に参与した。また、卓越した完徳と、力強い取り次ぎによって、天の元后と呼ばれるにふさわしい方である」と述べている。以前は5月31日だったが、典礼暦の改訂後、聖母被昇天の8日目にあたる8月22日に祝われるようになった。

 聖書の中には、キリストが王として描かれている箇所がいくつかある。(マタイ27.11、黙示録19.16など)マリアは大天使ガブリエルから、生まれる子が「いと高き方の子」であり、ダビデの王座が与えられることを告げられた。そのときから、マリアはイエス・キリストの母となり、生涯にわたって特別にキリストの救いの業に協力した。

 4世紀の教父、聖エフレム(306年ごろ-373年)は多くの賛歌を残し、マリアを「元后、女王」と呼んで、たたえている。その後、この称号は教父や教会博士たちによって好んで用いられ、人々に親しまれるようになった。

 教会憲章は、「原罪のいかなる汚れにも染まらずに守られていた汚れないおとめは、地上生活の道程を終えて、肉体と霊魂ともども天の栄光に引き上げられ、そして主からすべてのものの女王として高められた。それは、主たる者の主であり(黙示録19.16)、罪と死の征服者である自分の子に、マリアがよく似たものとなるためであった」(59)と述べている。天にあげられたマリアは、王であるキリストの栄光にあずかり、女王としてたたえられ、すべての人のために恵みを取り次いてくださっている。


◆自任か、モットーか、追求か

2014年08月22日 07時33分09秒 | 聖書

正義と誠実を追い求める者は、
いのちと正義と誉れとを得る。    (箴言二一21)

まじめに誠実にやっていけばそれでいいという考えが、今も日本人の人生観の底流となっているようです。この箴言のことばは、日本人のそんな人生観にはんこを押してくれるもののように響きます。ところがどっこい、そうではないと思うのです。
正義と誠実について、同じように見えながら、全く違う三つの態度があります。
第一は、自分は正義だ誠実だと自任する態度です。そのように自任する人で、ほんとうに正しく、ほんとうに誠実な人がいるでしょうか。それに対して、私も聖書もイエス・キリストも、大きなクエスチョンマークを持っています。
エルサレムの神殿の前に、パリサイ人と取税人が祈りに来ました。正しいまじめな者だと自任するパリサイ人は、こう祈りました。「神よ。私が、隣にいる取税人のような罪人でないことを感謝します。私は、祈りや施しや断食に励んでいます。」ところが隣の取税人は、うつむいて胸をたたき、「神よ。この罪深い私をあわれんでください。ゆるしてください」と祈りました(ルカ一八9―14参照)。
第二に、自分は正義と誠実をモットーとして生きていこうと、言い聞かせている態度です。まじめ人間の特徴として、同情はできます。しかしこれは、きたないどぶ川に、「いのちの清水」と立て札を立てるようなものです。立て札やラベルだけで、人間がどうなるものでもありません。
第三に、正義と誠実を追い求める態度です。自分にはそれがない、自分はそれが欲しいと、飢え渇いて、神に向かって心を開いて求めます。自分が正しい、自分が誠実だなどと言いません。しかし神の前に全く開かれた心に、神が、ゆるしによる義・愛によるいのち・人の誉れでない天の誉れを与えてくださるのです。

 


◆エルサレムの娘たち。誓ってください。

2014年08月22日 07時32分12秒 | 聖書

あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください。(雅歌五・八)

これはイエスとの交わりを求めてあえぐ信者のことばである。彼は主に対する愛のために病んでいる。恵まれたたましいは、キリストに近くいなければ決して満たされない。なぜならキリストから離れている限り、平安がないからである。信者は、主に近づけば近づくほど、天国の全き静けさに近づくのである。また、心が満たされるのである。平安で満たされるだけでなく、いのち、活力、喜びに満たされる。なぜなら、これはイエスとの絶えざる交わりに依存しているからである。
キリストの私たちに対する関係は、太陽が昼に、月が夜に、露が花に対するごとくである。パンが飢えた人に、着物が裸の人に、大きな岩陰がくたびれる旅を続けている旅行者に対するごとくである。だから私たちが主と一体であることを意識していないとすれば、私たちのたましいが「エルサレムの娘たち。誓ってください。あなたがたが私の愛する方を見つけたら、あの方に何と言ってくださるでしょう。私が愛に病んでいる、と言ってください」と叫ぶのは当然である。
このイエスに対する熱望には祝福が伴っている。「義に飢え渇いている者は幸いです。」その渇きは尊い。なぜなら、それは神から来たものだからである。私がもし満開の祝福で満たされていないとしても、キリストによって満たされるまで、せめてその祝福のつぼみを熱心に求めたい。キリストによって養われていないとしても、イエスを求めて飢え渇く私は、天国の隣にいる。その渇きは神聖である。それは私たちの主の至福の中に輝いているからである。またその祝福の中には約束が含まれている。飢え渇く者は、今求めているものに「満ち足りる」ようになる。
もしキリストがこのように、私たちにご自身を慕うようにさせられるならば、必ずその熱望を満たしてもくださる。そして主が私たちの所へ来られる時、おお、それはなんと楽しいことであろう。

 


第2サムエル記13章20-22節

2014年08月22日 07時30分45秒 | 聖書

13:21 ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った。
13:22 アブシャロムは、アムノンにこのことが良いとも悪いとも何も言わなかった。アブシャロムは、アムノンが妹タマルをはずかしめたことで、彼を憎んでいたからである。



 アムノンとアブシャロムは、異母兄弟でした。

ですから、アブシャロムの妹タマルをアムノンが好きになることがありえたのです。

しかし、この異母兄弟であるということが、一度憎しみを持ちますと、その怒りの現実表されることを見るのです。

 この二人の兄弟の父であるダビデは、このアムノンの行為を激しく怒りました。

しかし、それ以上は何もしなかったようです。

そしてタマルの兄アブシャロムは、タマルに向かって、アムノンもあなたの兄弟の一人であるから黙っていなさいと言って、自分の家に彼女をかくまいました。

彼女は、一人寂しく暮らす羽目になってしまいました。

アブシャロムは沈黙しました。

アムノンには、それは過去の出来事というように写ったかもしれません。

しかし、それは許しのための沈黙ではありませんでした。


ルカによる福音書5章16節(イザヤ書5章)

2014年08月22日 07時26分42秒 | 聖書

 ★  しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

■O:今日のコラム

福音書には数多く、主イエスがなされた癒しと奇跡の業が記されていますが、主イエスは何故この地において数々の奇跡の業を解き放つ事が出来たのでしょうか? その為の重要な秘訣が今日の箇所に記されています。
      
それは「イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」という事です。

主イエスは神の御子なるお方です。しかし、彼は完全に神であると同時に、完全に人としてこの地に来られました。だから主イエスはこの地においては、眠る必要もありましたし、空腹や渇き、疲れを覚える事もありました。彼は人間を超越した能力を持った人としてではなく、私達と同様、弱さを持った人としてこの地を歩まれたのです。
      
しかし、その人の子が何故、超自然的な業をこの地に現す事が出来たのでしょうか。それは、御霊に満たされ、父なる神と親密な関係に生きる神の子として歩んだ故にその業が現されたのです。
 
主イエスは奇跡と癒しについて「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。」(ヨハネによる福音書5章19-20節)と言われています。
 
父が行う業を見る為には、荒野に退き祈る必要があったのです。祈りは主との交わりであり、親密な関係の中に生きる事です。祈りを通して主の御声を聞き、主の御心を悟り、この地に神の業を解き放つのです。

主イエスでさえ、この地上において祈り無くしては何も御父の業を行う事が出来なかったのであれば、なおの事、私達は祈り無くしては何も主の業を行えません。
      
祈り、御言葉に生きる事、本当にシンプルで基本的な事ですが、この歩みを続けて行きましょう。それこそが、神の子どもとしての歩みに不可欠なものです。そして、神の子ども達に次の御言葉が実現します。

■A:考えてみよう

信仰を持って次の御言葉を告白し、今日、遣わされる場所において主の癒しと奇跡を解き放ち、御国の福音を宣べ伝えましょう。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネによる福音書14章12節)

「病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコによる福音書16章18節)

「なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」(ヨハネの手紙 第一 4章17節)

■P:祈り

主よ。今日あなたとの親密さの中で、御霊による豊かな油注ぎを求めます。イエス様がこの地を父の御心を行なって歩んだのと同じように、私もその道を歩ませて下さい。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


8月21日(木)のつぶやき

2014年08月22日 01時41分33秒 | キリスト教