goo blog サービス終了のお知らせ 

集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

ブログの引っ越し及び、こちらでの新規投稿停止のお知らせ

2025-05-22 12:30:20 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 閲覧の皆様は既にお気づきと思いますが、弊ブログのプラットホームである「gooブログ」が今秋につぶれることとなったため、引っ越し作業を行いました。
 幸い、過去の記事も全て移設することができましたので、とりあえずホっとしてます。

 ブログのタイトルですが…gooに移籍した際に「集成」が加わり、現在のタイトルとなっていますが、すでに「集成・兵隊芸白兵」と名乗って10年以上が経過したこと、それによって弊ブログの「悪名」が現タイトルで固定されていしまっている(;^ω^)ことなどから、現在のタイトル名のまま引っ越しました。
 
 新URL https://suouheimin.hatenablog.com/

 なお勝手ながら、こちらのブログでの新規投稿は「柔道は日本伝武道に非ず」伝を以て終了とさせていただきます。

 平成26年から10年以上継続しました「gooブログでの兵隊芸白兵」はおしまいとなりますが、はてなブログに移りましても、変わらずお引き立て頂きますよう、伏してお願い申し上げますm(__)m。

             「集成・兵隊芸白兵」管理者 周防平民珍山 拝




  

(書いたヤツはそう思っていませんが)大極論!「柔道は日本伝武道に非ず」(その7)

2025-05-13 17:57:03 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 「柔道は日本伝武道ではない」話の最終回になります。結構長くなりましたが、お急ぎでない方はお付き合いいただきますれば、幸甚に存じます。
 なお文中、嘉納治五郎先生や講道館に関し、かなり辛辣なことを書いているように見受けられる箇所がありますが、これらはすべて、ワタクシが昔の一次資料を調べに調べた結果です。
 柔道側から「この内容は治五郎先生や講道館への侮辱ニダ~!」というような異議があった場合、いつでも受けて立ちますので、よろしくお願い致します。

 弊ブログでは「警察術科の長い長い歴史」以降、柔道をずっとフォーカスし続けていますが、その理由を簡単にまとめますと、柔道とは
・講道館は「柔道は日本伝武道の代表なり」と自称しているが、技術体系や稽古の内容がいい加減すぎるうえ、礼法ひとつ取っても、古い日本の礼法から完全に逸脱しているので、日本伝武道の仲間じゃない。
・「教育に用いる社会体育」と呼ぶには危険度が高い(学校教育武道において、硬膜下血腫などの重大事故が最も多数発生しているのは柔道)うえ、ルールがコロコロ変わるので、社会体育として不適である。
・「小能く大を制する」だの「柔能く剛を制する」などと景気のいいことを言っているが、道着からルール設定まで、何から何までデブかマッチョが勝つようにできているので、「看板に偽りあり」になっている。前の東京オリンピック以降、柔道が外国人天国になったのは当たり前。
・理念として「知育・徳育」を謳っているくせに、講道館はその発足から現在まで、他流派潰しばかりに力を入れており、内輪でも頭の悪い勢力争いばかりしている。とても知育・徳育にふさわしい格闘技とは言えない。「私たちのようなマネをしてはいけません」という反面教師としてならわかるが…(-_-;)。
という、矛盾をはらんだ…というより矛盾だけで固まった極めて珍妙な格闘技であり、「なんでこんな頭のおかしいものができてしまい、それが社会に受け入れられたのか?」ということが不思議でならなくなったからです。

 さて、調べれば調べるほど(作ったヤツや広めたヤツの頭が)おかしな格闘技・柔道ですが、ここまで調べて、ようやくこんな疑問が出てきます。
「なぜ、柔術を社会に普及させる役割を担ったのが治五郎先生なんだ?確かに治五郎先生は当時の我が国ではトップクラスの官僚だったが、柔術の腕ははっきり言って、シロウトに毛が生えた程度。なぜ他の実力派の柔術家たちが動かなかったのか?」
 これに気づくことって、実は我が国武道史を考えるうえで、すごく重要なことなんです。
 ワタクシたちは永い事、治五郎先生や講道館が広めた「明治初期の柔術家は貧乏をこじらせ、生活が立ち行かなかったから、治五郎先生が代表して柔術を研究し、柔道を作り、結果として柔術を救った」というプロパガンダに知らず知らずのうちに絡め取られており、その見解が史実だと思い込まされています。
 武道や格闘技の歴史に多少詳しいと自負しているワタクシだって、こんなごく単純な疑問を抱くのに、相当の時間を要したのです。それほど治五郎先生と講道館が捏造した「公式史」は、強い呪縛力を持っているのです。
 ではここから虚心坦懐に史実と照らし合わせ、「明治初期の武道再興ムーブメントと、その中で治五郎先生が何を考え、どう動いたかを見てみましょう。

 明治以降における日本伝武術のうち、最も早く再興したのは撃剣。
 西南戦争での抜刀隊の活躍(実際は非常な銃撃戦の戦いばかりで、抜刀隊はそんなにハデな活躍はしていなかったが、川路利良大警視の武術振興のコマーシャルとして、そういう活躍をしたことになったのはヒミツ(;^ω^))によって「やはり警察官に、撃剣は必要だ」との世論が形成され、これを受けた警視庁は明治12(1879)年初頭から梶川義正・上田馬之助・逸見宗助といった天下の名人を招集して警察の階級を与え、それらの名人に稽古をつけさせるという事業をしています。
 その後警視庁は、明治16(1883)年には柔術の名人も招集していますし、ほぼ同時期のまた明治17(1884)年には、のちの大日本武徳会の雛型となる「剣槍柔術永続社」という結社ができたりと(残念なことに1年で頓挫したが、撃剣では松崎浪四郎、柔術では中村半助などの有力武術家が多数参加していた)、別に文教キャリアの治五郎先生がしゃしゃり出てこなくても、警察や民間では、実力派の剣術家や柔術家による「武道復興」が、それなりに始まっていたのです。

 こうして当時の「武道復興」の史実を虚心坦懐に眺めますと、ワタクシも皆様も、ひとつの疑問が澎湃と湧き上がってくると思います。
「治五郎先生が本当にやりたかった事業は『武道の再興』などではなく、『俺様が考案した柔術』を普及させることにより、当時の国民がほとんど認識していなかった『日本のスポーツ統括団体(講道館)』をこっそり作って一番乗りを果たし、以後の日本スポーツ界の主導権を握ることだったのでは?」
 治五郎先生や講道館の広めたプロパガンダをベースとして見ると「とんでもない侮辱発言」かもしれませんが、実はこの仮説をもとに治五郎先生や講道館がやったことを顧みると、今まで「矛盾だ」と思っていたことが、全て納得のいく行動になるのです。

 「俺様の柔術」をやりたいだけなら、師匠の言うことを聞かなくても、日本伝武道に則った稽古をしなくても、型の持つ意味がわからなくても、実戦で使えない技ばかりでも、何の問題もありません。
 また「俺様の柔術」は、日本伝柔術が根っこにない、完全な根無し草ですから、他の柔術諸流派は「手を取り合うべき仲間」などではなく、「スポーツという概念がわからない、因循な叩き潰すべき敵」でしかありません。
 講道館柔道が初期の初期からスパーリング一辺倒のおかしな技術だったこと、武道を標榜しつつ、全く実戦に供する技術がないこと、スパーリング以外の練習方法を持たないこと、そして遠慮会釈がない他流派潰しといったことのすべては、先ほど掲げた仮説で全て説明ができます。
 さらに言えば、初期の講道館の門人(四天王のうち富田常次郎、山下義韶、第2期門人でいえば磯貝一、飯塚国三郎、宗像逸郎など)が、他流派潰しのために招集した「飛車角」であった横山作次郎・西郷四郎を除き、みんな我が国トップクラスのインテリばかりであったことについては、将来に亘って柔道を学校体育にしようという目論見が当初からあったため、と考えれば納得がいきます。

 このことを裏付けるように、治五郎先生は本連載のタネ本である「柔道家としての嘉納治五郎」の連載第3回において、「諸種の運動もやった」と銘打ち、「体育として最も適した運動は何か」を探るべく、ベースボール・ボート漕ぎ・ウォーキング(当時のインテリ学生さんの間では、日曜日に集まって遠くに出かける「遠足会」なるものがあったそうです)をやったけども、どれも一長一短で、結局「身体鍛錬のため」には柔術が一番良かったのだ、と語っていますが、これは先ほどの仮説に立脚して考えますと、「日本初のスポーツは『俺様の考えた柔術』しかないと確信したんだ」と読み替えることができます。
 
 19世紀当時、世界の中心であったヨーロッパでは、各種スポーツのルールやテクニックが整備され、娯楽や国民体育として大人気を博していました。
 文明開化後間もない明治10年代、我が国にまだそのムーブメントは届いていませんでしたが、いずれスポーツが娯楽や体育として受け入れられる日が来るということを、当時の我が国では治五郎先生だけが明確に見通せていました。だから明治10年代の初頭にベースボールやボート漕ぎといった、一般人には全く無縁の高級スポーツをやっていたわけです。
 この流れで考えますと、おそらく治五郎先生が柔術を始めた理由は、何かのきっかけでイギリス式レスリングを知り、そのうち、カンバーランド式(ジャケットを着て釣手・引手を取って投げ合う、ジャケッティッド相撲みたいな競技)が自らの理想に最も近いと感じ、それを柔術道場で実地に試したかっただけではないか、と思うのです。
 このことはワタクシの妄想ではなく、治五郎先生が「柔道家としての嘉納治五郎」の中で語った「福田道場在籍時、大兵の門人福島兼吉を、カンバーランドスタイルの肩車で投げた」という話が、そのことを暗喩・補強しています。

 治五郎先生がスポーツの未来を見通した眼力や志は確かにスゴいのですが…治五郎先生の良くないところは、自分の持つ強大な権力を「日本スポーツを率いるのはオレしかいないから、オレの作ったスポーツ競技を普及させ、スポーツ界を牛耳る」という方向にのみ指向させてしまったこと。
 それに関する「限りなく黒に近いグレー」な出来事を、ここで紹介しておきます。

 明治10年代中盤には、先ほど紹介した警察による撃剣の再興など、「武術再興」の運動が全国各地で沸き上がっており、各地方の有力者から文部省に対し「撃剣や柔術を体育に採用してはどうか」との問い合わせが殺到していました。
 もしそれが叶えば、当時は各地方にまだまだたくさん存在した「真の技術を持った柔・剣術家」たちの再評価にもつながりますし、また、そうした名人たちに「体育の先生」という安定した職業を与えることもできるようになります。
 こうした動きを受けた文部省は明治16(1883)年5月、体操伝習所(今の筑波大)に対して「本邦剣術柔術等ニ就キ教育上ノ利害適否ヲ調査」を命じ、伝習所は1年余をかけて調査。その結果は「体育の正科として採用することは不適当なり」というものでした。
 講道館ベッタリの史料しか読まずに書かれた各種論文では「治五郎先生はこの答申を受け、伝習所が示した問題点を解消した柔術を作るべく、柔道を編纂したのだ」みたいなことを書き、ワタクシも弊ブログ連載「警察術科の長い長い歴史」でその説を採用してしまった(不覚!!!!!)のですが…先ほどお話しした仮説をもとにワタクシが出した結論は「この『不適』の判定は、治五郎先生が命じたものであり、『不適の判定を受けての柔道編纂』は治五郎先生の完全なる自作自演」です。

 治五郎先生最大の野望「自分と自分の手下による日本スポーツ界の席巻」は他のどの武術でもなく、あくまでも治五郎先生が作った『俺様の柔術』によってのみ達成されなければなりません。その権利を他人に渡すなんてことは治五郎先生にとって、ありうべからざることでした。
 そこで治五郎先生は、文教族トップのアブロリュート・パワーを使って伝習所に「不適と言え」と命令し、「そんな理不尽な命令に耐えて、その答申を覆す新スポーツを作ったオレってステキ!」というポーズを取ろうとしたとしか思えません。
 数年前に放送された大河ドラマ「いだてん」で、治五郎先生が伝習所の後身である東京高等師範の校長をしていたことを覚えている方もいらっしゃるでしょう(校長在任期間は明治26(1893)年から、なんと23年間!)。
 日本最高峰の師範学校長をずっと勤められるような高級官僚の治五郎先生が、手下の下した「不適」の裁定を覆すためにがんばる!なんて、太陽が西から登るようなことをするはずがないですし(;^ω^)、逆に、治五郎先生が伝習所に対して命令を出して言うことを聞かせることは、赤子の手をひねるより簡単だったはずです。
 なお、治五郎先生は明治22年ころから、自流である柔道につき「知育・体育・徳育」とか「体育法の柔道・修心法の柔道・勝負法の柔道」などということを盛んに言うようになり、それに関する文献もアホほど残っていますが、これらはすべて「治五郎先生の、その場しのぎの思い付き」と断じていいと考えます。
 あの程度の屁理屈、スーパーインテリ治五郎先生ならアドリブでペラペラ喋れますよ(;^ω^)。

 結果として治五郎先生の戦略は全て図に当たり、治五郎先生は「日本初のスポーツ」である柔道を普及させ、他流派を叩き潰し、日本スポーツのイニシアチブを握り、アジア人初のIOC理事になることができました。
 その反面、成立したときから「スポーツ」であり、日本伝武術としての性質を最初から持たない柔道、護身術や逮捕術としての能力を全く有していないのに、「柔道は武道だから無敵だ!」などという大嘘をつき続けた結果、様々な問題や犠牲者を出すに至ります。
 しまいには、晩年になって気が狂った治五郎先生が、むかしアドリブの一発ギャグとして披露した「勝負法」の実現を求めるという「砂浜を掘って井戸を見つける」的なバカな研究をしており(このあたりの経緯については「嘉納健治伝」参照)…これはもう、吉本新喜劇レベルのギャグとしか言えません。何をかいわんやですwwww

 以下、本連載のまとめです。
・柔道は治五郎先生が、日本スポーツのイニシアチブを握るために作った『俺の考えた柔術モドキ』でしかなく、日本伝武道が持つ特性を何ら有していない。従って日本伝武道の仲間に入れていけない。
・柔道の歴史は当初から他流派や異端者の排除、そして歴史の捏造に彩られており、シナや朝鮮の『易姓革命』と同じことをしている。
シナ・朝鮮人のマネをして歴史も伝統もメチャクチャにした柔道は、やはり日本伝武道ではない。
・治五郎先生は『柔道の武道性』につき、様々な媒体でそれらしいことを言っているが、どれもこれも耳を貸すに値しない屁理屈である。
 おそらくこれからもヨカタたちは「柔道は日本伝武道の代表的なものだ」と信じ続け、オリンピックがあるたびに「柔道は武道だから、武道精神がウンヌン」などというバカ極まりない話をすると思いますが(;^ω^)、本連載に掲載したような理由から、少なくともワタクシは生涯を通じ「柔道は日本伝武道じゃない」と言い続けます。

 最後に本連載第4回で引用した、沖縄拳法空手道・山城美智首席師範のお言葉を再掲し、本連載をシメたいと思います。

「歴史も伝統も受け継ぐ気がない者を、武術家とは言いません。」
 
 泉下の治五郎先生、聞こえてますか?

【本連載は以下の書籍・論文を引用しました】
「柔道家としての嘉納治五郎」(講道館機関誌「作興」第6巻第1号~第4号〔昭和2年〕連載)
「沖縄拳法 山城空手」山城美智 チャンプ
「剣士松崎浪四郎伝」園田徳太郎 ちくま書房
「警視庁武道九十年史」警視庁警務部教養課 編
論文「嘉納治五郎による柔道教材化の試み―「体操ノ形」を中心として―」 池田拓人
フリー百科事典ウィキペディア「嘉納治五郎」の項目

(書いたヤツはそう思っていませんが)大極論!「柔道は日本伝武道に非ず」(その6)

2025-05-09 19:14:41 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 ではようやく本論、「示現流の考え抜かれた教法」についてお話しします。
 
 今回の投稿において「示現流の教法テキスト」として取り上げたのは、天明元(1781)年に書かれた「示現流聞書喫緊録」というもので、著者は久保七兵衛紀之英。
(なお同著の解説については、鹿屋体育大学の前阪茂樹・村上輝志両先生の共著「示現流の教法‐割時悟味之事‐」を引用しました)
 久保七兵衛は示現流の大家でありつつ、「開祖東郷重位五高弟」のひとり、薬丸兼陳の薬丸家が代々引き継いでいた「野太刀」も修めていたという、当時の薩摩における「撃剣オピニオンリーダー」みたいな存在。
 余談ですが、七兵衛の息子・兼武は薬丸家の養子となり、示現流に野太刀の技法を加えた、有名な「野太刀自顕流」(薬丸自顕流)を新たに興しています(しかしこの独立の際、弟子の従属権をめぐってトラブルが起き、兼武は屋久島に遠島、そのまま客死している)。

 この「喫緊録」がどれだけ価値ある書物だったかといいますと…「喫緊録」完成9年後の寛政2(1790)年、ときの老中首座・松平定信は、いわゆる「寛政の改革」の主要政策のひとつ「武芸奨励」の一環として、全国諸藩に「各藩御留流の伝書を提出せよ」と命じます。
 太平の世に狎れた凡百の藩は命令が出てから大慌てで伝書を編纂したため、大抵の編纂時期が「寛政2年」なのですが、薩摩藩は他藩の騒ぎを尻目に「ハイ、どうぞ」みたいな感じでこの「喫緊録」を提出しています。
 まあ、そうした経緯はともかく、幕府に対して「これが薩摩示現流のテキストです」と提出できるという時点で、その完成度は折り紙付きといっても過言ではないでしょう。
 話を「喫緊録」の内容に戻します。

 「喫緊録」原則は「示現流開祖・東郷重位が著した示現流に関する各種兵法書の解説本」という体裁を取っていますが、前稿でお話ししたとおり、開祖の著した兵書は、かなりの教養と読解力を要します。
 実はその点こそが、幕末期において「上士は示現流、下士は薬丸自顕流」に自然に分かれていった原因でもあったのですが…喫緊録はその「教養がないとよくわからない」箇所をかなり平易・具体的に詳細に説明したテキストであり、その平易な解釈や具体性は一驚どころか、二驚・三驚を禁じえません。
 ではその「喫緊録」のなかから、開祖の兵書における要諦のひとつ「割時知味之事」…「時を割き、味を知る」について書かれた部分をご紹介します。
(なお、以下に申し述べる内容は「格闘技はシコタマやったけど、示現流に関しては文献を漁り、記念館に行き、南洲神社の稽古を見た程度」の人間が書いたものゆえ、示現流有識者が見た場合「違うんじゃね?」というところも多々あるかと思いますが、その点については別途指摘いただければ幸甚に存じます。)

 「時を割」くとは、「時間設定を細かくする」ことを指します。
 江戸時代の時間の単位は日(現在の24時間)・時(とき。現在の2時間)・刻(現在の15分)・分(現在の10.71秒)・秒(1.34秒)…と続くわけですが、喫緊録では「人間の呼吸は1刻(15分)で84回、呼吸1回の間に脈が4回半脈動する」としています。
(実はこの呼吸回数も、そこから導き出される脈動も、現在の観点からすれば恐ろしく少ない回数になるのですが、その点は「物凄い修行をした人達だけの常識」ということでご理解ください。)

 示現流では「盛風力」(武道初心者、力だけに頼っている者)が脈動1回目~2回目が終わるかどうかギリギリくらいの間に「二足半(距離にすると2間3尺=4.5m)飛行」することができるとしており、示現流を稽古するものはまず「脈動2回弱の間に、4.5m距離を詰める」歩法を稽古します。

 ただそのトレーニング指針は、驚くほどシステマチック。
 闇雲に跳んだりハネたり走ったりすることは「寄足を速く求めれば蜻蛉の姿勢(示現流独特の、頭の右側に刀をタテに据えた構え)が崩れる」として厳禁。また、極端にゆっくり行うことも「蜻蛉の打ち出しが遅くなる」として禁止。
 最初に踏み出す左足は「寄足を速く求め」ることがないよう、控えめな三尺(90㎝)の踏み出し、そこから右足・左足と各1間ずつ(合計3.6m)踏み込む。これによって0.9+1.8+1.8=合計4.5mの寄足が完成します(なお示現流の「寄足」は現代剣道のようなピョコピョコ跳ぶ寄足ではなく、歩み足です)。
 この寄足を用い、「脈2回弱」の所要時間…「喫緊録」に書かれた内容から計算すると、1秒(現在の1.34秒)で4.5mの間を詰めることが「初歩の初歩」、そこからさらに修行を重ねて1シ(シ=「糸」という字を2つ並べた文字=0.134秒)で4.5mを詰められるようになり、最終的には「雲燿」(うんよう。要するに光速)の域を目指すという流れになっています。

 示現流がスゴいのは、この「絵空事」みたいな目標に近づく手法が、極めてシステマチックに数値化されていること。
 「喫緊録」には「三間(5.4m)を二足半に寄って」打ち込むことや、対人稽古であれば「相手を二間三尺前後において、五・六足を以てさらさらと」近寄る稽古法が紹介されています。
 江戸時代にこれだけ細かい数値設定がなされていることにも驚きますが、さらに驚くのは凡百の他流や、現代剣道がよしとする「最初からビヨーンと一足飛び」でなく、歩幅を小さくして相手に寄っていくという点。
 示現流が、相手に対して近寄る初動を「五・六足」としている理由はその独特の構えにあり。
 ビヨーンと跳ぶと「骨合が乱れる」…つまり、「跳ぶ」ことによって蜻蛉の構えが崩れ、結果として打ちの速さや威力が落ちる、とされていますし、実際実験すると、そうなりました( ゚Д゚)。
 最初は静かに、歩数多く近寄り、しかる後に大走りにて踏み出す。すると骨合が乱れない…驚くべき配慮です。
 ちなみにこれらのトレーニング方法、かつては全て「口伝」。門外不出のものでした。

 示現流が推進していた「規格化されたトレーニング方法に則り、目標とするタイムを定め、それに対してイメージをたくましくし、動きから無駄を削り取っていく」という方法は「1分1秒を削り出す」あるいは「1センチ、1ミリを伸ばす」アスリートの取り組みに酷似しており、江戸時代によくぞここまでシステマチックな稽古体系を作り上げたものだと、感心することしきりです。

 示現流が幕末期、実戦において他を圧倒したのはその太刀筋の速さ・強さ・鋭さによるところ大でしたが、その極意の源は而してこの寄足にあり、「当流の打は他流が未だ一、二間進みよるうちに我は三、四間を飛行し、敵の技の未発に打臥する」ことができたわけです。
 このほか、「喫緊録」が明らかにした、恐ろしく具体的で、恐ろしく根拠がしっかりしたトレーニング方法につき、紹介したことはまだまだあるんですが…!
 このまま続けますと、本連載の本旨である「治五郎先生は武術を知らない」という本筋から限りなく逸脱しますので(;^ω^)、示現流話はいったん終わりにしたいと思います。

 以上長くなりましたが、みなさまいかがでしたでしょうか?

 真の日本伝武道は幾万の先人が知恵を絞り、想像もつかない修行を経て、それを極めてシステマチックに構築したのち、未熟者やよそ者にその技術を盗まれないよう「口伝」とか「道歌」などといったセキュリティロックをかけて運用していたわけです。
 これらを理解したうえで、翻って治五郎先生が修行期にやったことを顧みますれば…師匠の教えをないがしろしにしてドッタンバッタンとスパーリングをやったことと、字面では読めても、意図するところが全く分からない伝書を貰ったことくらい。
 繰り返しで恐縮ですが、日本伝武道は伝書を「圧縮ファイル」と例えると、その解凍ツールが「口伝」となります。
 治五郎先生が師事した福田・磯・飯久保の三師も当然、解凍ツールである「口伝」をいくつか治五郎先生に話しているはずです。
 しかし、治五郎先生が生前にやらかしたこと…「柔道の形」を作る際に噴出した柔術他流派の型に対する無理解、出来上がった「柔道の形」の出来の悪さや、粗末極まりない「型の解釈」を見る限り、修行時代の治五郎先生は三師の「口伝」に耳を一切貸していなかった、だから型の有益性が終生に亘って理解できなかったとしか思えないのです。

 ワタクシなんぞは「その程度の修行で、よくまあ一門一派を興そうと思ったものだ」と、治五郎先生にヘンな感心をしてしまいますが…要するに治五郎先生の「日本伝武道への認識」はその程度のものでしかなかったのです。

(書いたヤツはそう思っていませんが)大極論!「柔道は日本伝武道に非ず」(その5)

2025-05-04 20:32:28 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 さて、本連載ではここまで、若いころの治五郎先生が日本伝武道の何たるかを何一つ理解しないまま免許皆伝を受けてしまったこと、また当時は、そんな非常識なことが起こり得る非常にレアな時代だったことについてお話ししました。
 では、治五郎先生が生涯理解し得なかった「真の日本伝武道」の教授内容やその方法はどのようなものだったのか?
 ここではある撃剣の流派を例に挙げてご紹介します。

 今回「これぞ日本伝武道の教授法!」と感心し、例に挙げるのは…薩摩にその名も高き示現流!
 とここまで聞いて、江戸期の薩摩藩を「薩摩ホグワーツ」とか言って喜んでいるハンパな「歴史好き」は、きっとこう思うことでしょう。
「え、薩摩の示現流?示現流って言ったら、猿叫(えんきょう。「キエーッ!」という感じの声)を上げて突進して、ただ刀を振り下ろすだけの単純な剣術でしょ?そんな流派に術理とかってあるの?」
 弊ブログをお読みの諸賢にあっては、上記のような愚かな認識を持つ方はいらっしゃらないと思いますが…そんなんだから、ワタクシごときに「ヨカタ」ってバカにされるんですよ(;^ω^)。
 あ、でも歴史ヨカタの方々も大丈夫ですよ!
 あとで解説しますが、あなた方の視点と「治五郎先生の日本伝武道への視点」は、知識も鑑識眼もま~ったく一緒!なので、「ヨカタはヨカタのままでいいんだ!」ということで、まずは一安心して下さい(-_-;)!

 もし歴史ヨカタたちが言う「ただ突進して刀を振り下ろす」ことだけが示現流のすべてであるなら、「勇猛」と「合理性」を表裏一体で持つ薩摩武士(ただ勇猛な猪武者では、薩摩の裏のお家芸「密貿易」で国の経営を成立させることは不可能)の間に他地域発祥(示現流の大元である「天真正自顕流」は常陸国発祥)の示現流が根付くことは絶対にありえませんし、それに何より「殺し合い・斬り合い」が日常だった幕末期にあって、薩摩藩士が他藩士を圧倒した戦闘力の源泉になりえていないはずです。
 更に言えば「薩摩藩士の斬り込みを受け止めた武士が、自分の刀が頭にめり込んだ状態で絶命していた」「西南戦争の際、西郷軍兵士の斬り込みを銃で受止めた官軍兵士は、銃が頭にめり込んで死んでいた」という激烈な太刀筋は、ワタクシが実体験から帰納する限り、現代の「筋トレ」理論や理屈、方法論で成しえることは絶対に不可能です。
 では、ろくに米も食えず(戦前までの鹿児島において、米は常食不可な貴重品で、死んでいく人に食わせる程度だった)、日々芋と雑穀、たまに四つ足(薩摩ではずいぶん昔から、豚や鶏を普通に食っていた)を食べることしかできなかった薩摩武士(とくに郷士)を、驚くべき剣客に変身させてしまえる「示現流の教授方法と術理」とはいかなるものだったのか?
 これらを各種文献とともに、繙いていきたいとおもいます。
 なお鹿児島には「示現流」と「野太刀自顕流」とが別々に存在し、「ヨカタが見るとそっくり、ものが分かって見ると似て非なるもの」なのですが…そのあたりを細かく話し始めると途轍もなく話が長くなるうえ、本稿の主旨である「治五郎先生の作った柔道は日本伝武道じゃない」という論旨の補強の域を大きくはみ出てしまうので(;'∀')、ものすごく乱暴なようですが、以後本稿では「野太刀自顕流までも含めた薩摩藩の御留技・示現流」のことを単に「示現流」と呼称します。悪しからずご了承ください。

 まず、歴史ヨカタが思い込んでいる「示現流にはロクな伝書も兵法書もない」という思い込みについて。
 そのように考えるヨカタの皆様はまず鹿児島市に赴き、鹿児島ではその名を知らない者はいない「まことラーメン」のすぐ真横にある「示現流兵法所記念館」に、入館料の500円を惜しむことなく払って赴くべきです。

 示現流のスゴさは数々ありますが、他日本伝武道と比べてトップクラスにスゴい点は、開祖・東郷重位(1561~1643)から令和の現在に至るまで一子相伝で技が伝えられていること。
(現在の宗家は13代目・重賢氏。余談ながら「野太刀」のほうは、大東亜戦争で薬丸家の嫡流が断絶したため、諸流諸派が乱立している状況)。
 そのため同記念館には東郷家所蔵の開祖直筆伝書、兵法書、切紙(今でいう2~3段クラス允許者に与えた允可状兼極意書)、そして何より、薩摩にとって「よそ者剣術」であった示現流の威力を文字通り体で受け止め( ´艸`)、示現流を島津家御留流として認めた島津忠恒(1576~1638。歴史好きの間では「ワルいことばっかりしてきたほうの家久、略して悪久」として知られる御仁)が「示現流のどこそこがわからない!教えて!」という内容が書かれた書簡の実物(同書簡中、他の部分が流麗すぎる達筆ななか『秘密』という文字だけが楷書で、しかもバカでかく書かれていたのが印象的でした(;^ω^))など、国指定重要文化財級の書物が惜しげもなく展示されています。

 高校時代、現代文と漢文だけは得意だった珍特技?を生かして、それなりに読み込んでみましたが…メチャクソ格調高い文体であるところに持ってきて、当時の知識人共通の話題であった儒・仏道に関する話や、現代でいう心理学に関する話、そして誰もが知る名作短歌(「かささぎの わたせるはしに おくしもの しろきをみれば よぞふけにける」(大伴家持))を道歌に引用した太刀筋の話など、読み手の「読解力」を大いに試す内容となっており…とにかく「これこそが伝承を重ねることで起きる劣化コピー、いわゆる『技の乱れ』を起こさずに開祖の術理をパッケージングする、最大にして最強の方法なんだな~!」と唸るほかありませんでした。

 あ、すみません!話が示現流の話に大きく振れすぎてしまいました!
 次回こそはきちんと「示現流から見る、日本伝武道真の姿」を具体的にお話しします!

(書いたヤツはそう思っていませんが)大極論!「柔道は日本伝武道に非ず」(その4)

2025-04-30 18:42:51 | 集成・兵隊芸白兵雑記
 今回は、以前掲げた「日本伝武道」の要件として掲げた4つの特色のうち「師匠の名前をちゃんと人前で言える」という点に照らし合わせて、治五郎先生の柔術修行を見ていきます。

 ここでいう「師匠の名前を人前でちゃんと言える」というのは、ただ単に「私は●●という武道(あるいは格闘技)を、●●という師匠に就いて習いました」という表層的なもののみならず、「その師からいつごろどんな技を習い、どのようなことに気づき、それがその武道(あるいは格闘技)全体の技術体系の中で、どのあたりのものであったか」ということを順序だてて話ができることを言います。
 その補強として、前出「沖縄拳法 山城空手」に書かれた「武術家のあるべき姿」論をご紹介します。。
「師から学んだことを信じ、ただひたすらに稽古を積む。弛むことなく思考を重ねて励む、そして、継承したことをただ伝える。これが武術家の姿です。」
 こうしたことがきちんと出来ているのであれば、師匠の名前はもちろん、その師匠からいつ頃どのような技術をどう学び、それによって自らの武道の何たるかを、筋道を立てて説明できるはずです。

 しかし「柔道家としての嘉納治五郎」を読む限り、治五郎先生の師匠の姓名だけはわかるものの、そこで具体的にどのようなを稽古を積み、そこからどのような学びを得たかということがほとんどわかりません。
 書いてあることと言えば「最初は必ず形をやったもので、その後乱取をやるのだが…」(「柔道家としての嘉納治五郎(二)」より)程度の内容しかなく、特に型稽古に関する記述は「柔道家としての…」の連載全4回中、連載第1回と第2回で合わせて3か所だけ、しかも「型をやった」程度のことしか書かれていません。
 あとは徹頭徹尾「ひたすら乱取をやった!熱心な稽古の結果、私は強くなった(乱取だけで)!」「私はこういった一流の人材に囲まれ、日本トップクラスの学問に熱中した!」「スポーツというものについて、こんなに真剣に考えていた!」という話ばかりで、特に最終回に関しては講道館の自慢話ばかり。
 ワタクシ個人の感想ですが、「柔道家としての嘉納治五郎」を読む限り、治五郎先生は、先ほど引用した「沖縄拳法 山城空手」が示した武術家の姿のうち「ただひたすらに稽古を積む」こそできているもの、「師から学んだことを信じる」という、武術を習ううえでもっとも大事な点が抜け落ちているため、その「稽古」がただの筋肉運動にしかなっておらず、「弛むことなく思考を重ねる」ことについては「柔術を魔改造して近代スポーツにする」ことだけに思考が指向(すんません、ダジャレです(;^_^A))しており、極めつけは「継承したことをただ伝える」ことが一切念頭にない!という、実にしょうもない修行ぶり…
 もしワタクシが道場主なら、こんな不遜な弟子は速攻で破門しますよ!

 さて昨今、YoutubeやSNSの発達に伴って、クソしょうもない「僕だけの秘伝」を披露して憚らない「インチキ武道家」が、夏場の蛆虫の如くウジャウジャ沸いていますが、山城先生は前出「沖縄拳法 山城空手」のなかで、これらの「蛆虫」をこのように批判しています。

「ありもしない技を作ったり、無意味な『僕だけの身体操作論』を語ったり、我こそが発見者だと言いたげな偽物の武術家が増えましたが、そんなことは武術でもなんでもない、『武術家のフリをした偽物』の商売人のビジネスモデルでやっているだけなのです。」

 治五郎先生が生涯を通じてやったことを顧みますれば、上掲山城先生のお言葉のうち、「商売人のビジネスモデル」の箇所を「近代スポーツ風に魔改造された自流を国内に広めるため」と読み替えただけでした。
 治五郎先生を筆頭とする講道館草創期メンバーが「柔術の型を全く理解していない」ことについては「長い長い歴史」や「嘉納健治伝」でお話ししたとおりであり、いわんや磯貝一・飯塚国三郎・宗像逸郎といった第二世代以降の手下たちにおいてをや。
 こんな状態で「師匠からいつごろ何を習ってどう考えたのか」ということを名言できるハズがありません。

 治五郎先生は三師が死去し、さらに念の入ったことに、当時を知る関係者が全て死滅した昭和2年ころになってようやく「福田・磯・飯久保(飯久保恒年は治五郎先生に皆伝を与えた5年後の明治21年に死去)の三師が、私の師匠だ!」と公言するようになりましたが、これにはかなりの悪意と含みがあったとしか思えません。
 またまた「沖縄拳法 山城空手」からの引用で恐縮ですが、若いころの不遜極まりない治五郎先生がいたらぜひ聞かせてやりたい名言を紹介して、本稿をシメたいと思います。

「歴史も文化も受け継ぐ覚悟が無いような人を、武術家とは言いません。」