山口県には現在、プロの使用に堪える球場が下関、宇部ユーピーアール、西京、津田恒美メモリアルと4球場も存在します。立派になったものです。
そんな山口県の球場事情ですが、むかしむかし、山口県徳山市(現在の周南市)に、ひときわ珍しい「殿様の球場」があったのをご存知の方は・・・相当な山口県の野球ツウです。
現在は周南市文化会館・山口放送が建っているあたりに、むかし「毛利球場」という球場がありました。
球場のオープンは昭和23年4月。
「徳山高校野球部百年史・上巻」によりますと、毛利球場は、昭和20年に戦災で焼失した、徳山毛利藩邸跡地に建造されたもので、毛利家12代当主と徳山野球連盟理事長・理事会顧問が話し合い、用地を借りる承諾をえたうえで建造されたものだそうです。
ほかの球場と大きく違う特徴としては、空襲でも無傷で焼け残った藩邸門を、そのまま球場入り口として使用していたこと。藩邸門をそのまま使った球場は日本国内、他に例がないそうです(そりゃそうだ)。
その建造にあたっては、ごく直近に存在する山口県立徳山高校(山口県屈指の進学校)野球部員がかなり駆り出されたそうです。同じく「百年史」より引用します。
「入部して最初の仕事は毛利邸に作られた毛利球場の地ならし作業。何しろ藩主のお屋敷跡と庭園だったところだから、平地にしたといってもデコボコだらけでお世辞にも野球のグラウンドとは言えない状態。学校の練習と並行して毛利球場の整地作業。2人がかりで重たいコンクリート製のローラーを、エッチラ、オッチラ。食糧不足の時代に腹ペコの毎日だった。」
「毛利球場は他とは違って、入り口に昔の藩邸門がそのまま残されているほか、外野の後方には旧庭園の一部や植え込みや庭石が見えるというユニークな球場。新聞各紙が「名物球場」として一斉に取り上げたほど。」(いずれの回顧話も徳山高校3期・昭和26年卒・田村定彦さんのものを引用)
同百年史には在りし日の毛利球場の写真が数枚掲載されており、その中の1枚に、レフト外野席(ただの土盛ですが)後方の、庭園の植え込みが見受けられます。
写真に残る藩邸門はかなり立派なもので、その端っこの方に「施設の無断使用を禁ず」と大書された貼り紙がありました(;^ω^)。
ともあれ、フェンスやベンチがきちんとついていた球場は、当時まだ山口県内では珍しいものであり、また、広く市民に貸し出される性質の球場でもあったことから、山口県の高校野球のメッカとして永く使用されました。
開場~昭和27年までの間には、大洋ホエールズの主催試合も、幾度か催され(大洋の本拠地は、昭和25~27年まで下関市営球場だった)、昭和38年の山口国体では、一般準硬式野球競技も開催されました(優勝は地元山口県の協和発酵)。
昭和46年、毛利球場の施設老朽化のため、徳山市は代替施設として、周南緑地公園に新たに徳山市野球場(現在の津田恒美メモリアルスタジアム)を建造。毛利球場は解体され、23年の生涯を終えました。
解体後の跡地にはボウリング場「モウリプラザ」というものが建ったそうですが、それは長く続かず、モウリプラザ解体後、周南市文化会館及び山口放送が建造され、現在に至っています。
寂しいことに、付近には毛利球場があったことを示す遺構は何も残っていません。
山口県の新制高校野球の揺籃期を支えた殿様の球場・毛利球場。
何か石碑的なものでも、作ってくれませんかねえ。
そんな山口県の球場事情ですが、むかしむかし、山口県徳山市(現在の周南市)に、ひときわ珍しい「殿様の球場」があったのをご存知の方は・・・相当な山口県の野球ツウです。
現在は周南市文化会館・山口放送が建っているあたりに、むかし「毛利球場」という球場がありました。
球場のオープンは昭和23年4月。
「徳山高校野球部百年史・上巻」によりますと、毛利球場は、昭和20年に戦災で焼失した、徳山毛利藩邸跡地に建造されたもので、毛利家12代当主と徳山野球連盟理事長・理事会顧問が話し合い、用地を借りる承諾をえたうえで建造されたものだそうです。
ほかの球場と大きく違う特徴としては、空襲でも無傷で焼け残った藩邸門を、そのまま球場入り口として使用していたこと。藩邸門をそのまま使った球場は日本国内、他に例がないそうです(そりゃそうだ)。
その建造にあたっては、ごく直近に存在する山口県立徳山高校(山口県屈指の進学校)野球部員がかなり駆り出されたそうです。同じく「百年史」より引用します。
「入部して最初の仕事は毛利邸に作られた毛利球場の地ならし作業。何しろ藩主のお屋敷跡と庭園だったところだから、平地にしたといってもデコボコだらけでお世辞にも野球のグラウンドとは言えない状態。学校の練習と並行して毛利球場の整地作業。2人がかりで重たいコンクリート製のローラーを、エッチラ、オッチラ。食糧不足の時代に腹ペコの毎日だった。」
「毛利球場は他とは違って、入り口に昔の藩邸門がそのまま残されているほか、外野の後方には旧庭園の一部や植え込みや庭石が見えるというユニークな球場。新聞各紙が「名物球場」として一斉に取り上げたほど。」(いずれの回顧話も徳山高校3期・昭和26年卒・田村定彦さんのものを引用)
同百年史には在りし日の毛利球場の写真が数枚掲載されており、その中の1枚に、レフト外野席(ただの土盛ですが)後方の、庭園の植え込みが見受けられます。
写真に残る藩邸門はかなり立派なもので、その端っこの方に「施設の無断使用を禁ず」と大書された貼り紙がありました(;^ω^)。
ともあれ、フェンスやベンチがきちんとついていた球場は、当時まだ山口県内では珍しいものであり、また、広く市民に貸し出される性質の球場でもあったことから、山口県の高校野球のメッカとして永く使用されました。
開場~昭和27年までの間には、大洋ホエールズの主催試合も、幾度か催され(大洋の本拠地は、昭和25~27年まで下関市営球場だった)、昭和38年の山口国体では、一般準硬式野球競技も開催されました(優勝は地元山口県の協和発酵)。
昭和46年、毛利球場の施設老朽化のため、徳山市は代替施設として、周南緑地公園に新たに徳山市野球場(現在の津田恒美メモリアルスタジアム)を建造。毛利球場は解体され、23年の生涯を終えました。
解体後の跡地にはボウリング場「モウリプラザ」というものが建ったそうですが、それは長く続かず、モウリプラザ解体後、周南市文化会館及び山口放送が建造され、現在に至っています。
寂しいことに、付近には毛利球場があったことを示す遺構は何も残っていません。
山口県の新制高校野球の揺籃期を支えた殿様の球場・毛利球場。
何か石碑的なものでも、作ってくれませんかねえ。
鳴海球場といえば、中等学校大会に、プロ野球発足の嚆矢ともなった日米対抗戦に、戦後はドラゴンズの二軍の育成地ともなり…まさに野球史に名を刻む名所ですね。土地を管理しているのがずーっと名鉄というためか、記念碑があるのがうらやましいです。
こんなマニアックな話題に乗っていただき、感謝しかございません。ありがとうございます!