湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

3/7 仕上がった企画に乗るか否かですか、え?

2013-03-08 06:30:29 | 引きこもり
2013/03/07 記
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暖かいが風が強い一日。

昨夜、私の活動がひとの不快感を起こしていること。それはひとの了解を築かず先走りしている、カバーしきれないというものだった。面食らわせず、対話の技法を身に付けコミュニケーションをという親身な忠告だった。

その話に入る前に、この例を聞いて欲しい。

発達障がいが疑られる不登校・引きこもりの青少年と接するとき、この人間関係の不器用さと向き合うことになる。類似の課題が私に向けられることになるとは、しかし、それは意外でもなんでもなかった。私が若者に向かうとき常に注意していることは、認知の偏りから生じる歪みであるのか、関係性のねじれなのかという識別だった。

満腹のひとに飢えの話は耳に入らない。必死に戦っているひとに詩歌の感動を伝えることは出来ない。そこにひょっとしたニュートラルな空白をおくことができれば、話は対話の前提に立ち入ることができる。ここに対話の技術が入り込むことができるが、それは本質ではない。契機を生み、開いた心を逃さないための技術である。ここで語られている互いの隙間は、認知の偏りによるものではない。

私の教えた子のなかに、学校の友達に三角定規で斬りかかった子がいた。猿とあだ名されていた子だった。家が貧しく、遠足に出なかった。担任もその可能性を配慮し、遠足貯金をさせていた。遠足当日、彼は腹痛を理由に遠足を休んだ。しかしその子は、遠足の格好で、当日私のところにきて、図鑑をひっぱりだして夕刻まで時間をつぶして帰って行った。遠足の格好をしているので、何かあると思い、黙って彼と弁当を食べた。

この日を境に、貧乏を嘲る彼へのいじめが始まった。たまっていた違和感が噴き出したかのようだった。「親には私のところにきたことを絶対にいうな」と彼から釘をさされていたが、いじめの件で学校の担任と話すこととなった。親御さんは遠足に参加しているものだと思っていた。

担任は、彼が遠足の費用を、家への金銭的負担の配慮をしたものとして、彼の心を尊重しようとした。親御さんは遠足に行けなかったのは、担任のクラス経営がまずいからいじめを生んだのであり、金を返せと担任に迫った。彼は無口になり、不登校になった。

彼と話したとき、その原因は意外なものだった。遠足当日、彼のベルトが切れたのだった。彼は1本のベルトしか持っていなかった。親は忙しい。生活保護世帯であることを彼なりに感じ、自分から必要なものも買ってくれとはいわなかった。親も子の細かい状態に目がいくゆとりがなかった。私はそういうとき、仲介者が必要なのだという意味で、私に相談しなと彼を諭した。

担任は遠足不参加はいじめのためと生徒を叱り、更に問題なのは「別のベルトにとりかえればいい」と、こともなげにいい、当時やっと知識が伝わり始めた発達障がいを疑り、検査を勧めた。

この「別のベルトにとりかえればいい」という言葉と彼の悩みとの落差。ここに言葉の無力を感じる。担任との話の機会があり、親に2本目のベルトを要求できなかった彼の気持ちをわかってあげて欲しいと、私は担任に話した。結果は、担任が親御さんに「もう一本ベルトを買ってあげてください」とダイレクトに頼み込んでしまった。親御さんの悲しさ・虚しさは、彼への折檻となり、彼は部屋から出なくなった。

ここには、ねじれた関係性や、言葉の通じない空転が多重に横たわっている。この担任に罪の意識はない。ベルトがなかったのだとクラスの子たちに語って、事態は解決するだろうか。

親御さんから深入りするなと私は断られ、彼とは暑中見舞いと年賀状だけの付き合いになって3年目、「親のいないときに来てくれ」というしわがれた彼の声で電話がかかってきた。会うと彼は、精神科から薬を盛られて酔いつぶれたような、いわゆるしゃぶ漬けになっていた。部屋から出ない彼を中学校養護教員の勧めで精神の病として精神科に連れて行った結果だった。診断は鬱病とされていたが、発達障がいが併行して疑られるというコメントがついていた。

通じない言葉があること、ひとはそれを抱えていきていくのだということ、善意はときに刃となることがあること。結局彼が状況を脱したのが、更に二年後、ベルト一本がひとの五年を破壊していた。

今、彼は一児の父として、路線バスの運転手をしている。これは一例だが、悲しみや憂いという感情を伴う人の危機は、丁寧にもつれた糸をほぐすような作業を経るか、直感的なバイパスに飛び込む以外、日常生活を送る人々に理解されることはない。前者は時と場面が保障されなければ、解き明かすことは出来ない。後者は初めから出会いの可能性を期待するわけにはいかない。

認知の偏りの例は、そのすべての場合に不適格な場面理解が登場するので、私の側で寄り添い方を変えていかなくてはならない。前者の例は、彼から見れば、あらゆる周囲の人間は対話の道を封じて彼を型にはめてくるように見える。

私はこうした引きちぎられた断面を持つ子に出会う仕事をしている。PSWの資格を持っているわけではないから、教育者としての環境や関係の整備の限定付きで関わっている。

しかし、「馬を水辺に連れて行くことはできても、馬に水を飲ませることはできない」その共感を得るところで、この子の担任に感じたような、特異な経験が伝わる回路を持たなければ、2本目のベルトが常識の壁を超えることはない。馬は水を飲まない。

3.11があって以降、ひとの絆の大切さを説く場面が多くなり、いつの間にか家族の絆が礼賛されるようになった。それはまた別の話だというのに。しかしそれが判然一体となって納得されているなかで、DVの狭間で苦しむ子はどうなっただろう。片親ゆえの負担の大きさに、周囲の無理解が伴う子はどうしただろう。さるぐつわをかまされているような気になっても、身を守る沈黙に入っても、それは異常だとは思わない。社会はそういう雑駁な刃をちらつかせているものとして、飲み込んでいく技量や、ひとの多面性を論拠に場をいなすいい加減さを身にまとうことが、プラグマチックな仮の解決法なのだと思う。

しかし、ひとの隙間を眺めるがゆえに、持ち込んだ提案に響くものが相手の辞書に無い場合、翻訳が解決になるだろうか。
駅頭で3.11関連のチラシを配布している最中、声をかけてくれたひとは、九割方関係団体の所属のひとだった。累積6~7万枚のチラシの応答して話した方も、初期の頃のカンパのように、その場では対応してくれたものの、会合への参加は全くなかったし、かかってきた電話連絡はどの議員の支持者かという探りでしかなかった。相手を諭すような対応が戸惑いや迷惑を引き起こしているならば、私は営業マンの知恵や話術を駆使することはできないだろう。しかし思いの塊は文章として残しておくこと、その上で、語らなければ、対話のキャパは超えてしまうだろう。相手にこれを読めばわかるということではない。「二本目のベルトを買ってやってくれ」と親御さんに言い放ってしまう表層なだれのような悪意のない悪意を止める力が私にはない。火急の課題を私はとり上げる。私抜きで一向に構わないから、課題解決を始めて欲しい。

今回の話合いは、私なりの改善の努力をすることを約束した。同時に、板挟みにしてはならない人々もまたはっきりしてきた。提案はとどけるが、それ以上の要望は断つことにした。この指とまれ型活動の原則であり限界である。いつも協力して下さり、間に立ってくださっていることは、言葉にならないほどに感謝している。しかしどんなに軽蔑されようと、その方々が動き出すまで、生涯をかける以外ないと思っている。自分の課題としてひとりでも動き出さない限り、それが私との連携を拒否したものでも、私はその動きを待っている。講師を口説くときの背景のなさに呆れるか、訝り遮断することは、うんざりするほど経験している。今まで私が招待したゲストは、そういう悪戦(苦闘とはいわない)の結果呼び寄せたのだ。ここへの援軍が欲しいが、協力ならばいらない。

ときのタイミングを過たぬ、見通しが開ける提案、皆が結集しうるような提案を練っていく。私の提案はたたき台であり、完成形ではない。ただそれを即座に廃するようなレッテル貼りには、先封じをしてある。QRカードで言えば、「個人情報の塊ではないか!」という批判に対してだ。しかし「QRカード」はパッチにすぎない、要援護者支援に至るひとつの切り口だ、しかし、それでも助かる命も見込めるのだ。

要援護者、特に障がい者と高齢者のテーマについては、ねちっこくやっていく。これからのチラシは通信紙の形式になる。また配布時点の対話への努力は重ねていく。また板挟みにさせかねない方の支援からは離れる。孤立は引き受ける以外ないだろう。対話への努力はするが、内容吟味の必要性が伝わるまで、可能性を探っていく。


夜間傾聴>ひとり(遠方ゆえ後日メール応答・今回限り)



(校正2回目済み)


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