2011/12/30 記
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泣いても笑っても2011年が終わる。今年ほど年賀状を書きにくい年も無かった。毎年、冬期講習と大掃除で大晦日に追い込まれるのだから、もともと書字不精〔新語か?)だから、まだ3分の1も書いていない。帰宅後、母を連れ出して買出しに出かけた。お前の話す世界は一部のひとだ。景気が悪いって言ったって、こんなに人手があるじゃないかと母が言う。高額食品のところ、店員が半分だ。売れないんだよと私。若夫婦が多い。いや高齢者夫婦の姿が少ない。両手に荷物の人も少ないだろうと私。気に入らない母。
景気が悪いのは下層の人。中間層は大丈夫だと母は家族平和の夢をみる。しかし、辛苦の波をくぐらない人生はありえない。家族を城壁の中に夢みるのではなく、「人は城」だろうと母に言えば、お前の周りにそんな人がいるかいと、語気を強めて親の口調になる。どうやら寿町越冬支援を察知しているようだ。人の中に生きるか、人を押し出して家族の居場所を築くか、この論議は50年間平行線をたどっている。
荒波に襲われて、がれきとともに濁流に飲まれていった人たちの画像をみれば、ひとは心穏やかではいられない。ガーデニングの花を写真にとって、これもブログに載せようと無邪気に語るチップスターのCMへの違和感。舟板一枚の地獄を声高に語ろうとは思わないが、被災経験から、姿を露わにしてしまった金魚鉢の中にあえて入ろうとは思わない。正義や倫理のことではない。リアルということ、近似の真実。
正社員だったらボーナスが出ていると、母がまた鬱憤晴らしを始める。自営の塾をやっていた頃も、私は複数収入だった。自営塾を閉じ、契約講師とテスト屋を続けているが、成果給の部分が大きい世界だ。
しかし、ひと相手の成果ほど見え難いものはない。自閉症スペクトラム、特にLDについて、LD学会が出来た頃は、他塾はスパルタで子どもに臨んだり、厳格なローステップ学習に追い込んだりしていた。
職員会議や、父母会でLDという困難について語ったことで、子どもを障がい者扱いしたと懲戒免職されたこともあった。今見れば異様な出来事である。それこそ誰も守ってくれない。
こうした不安定は続いた。塾が嫌だという子を無理矢理塾に子どもをつれてきた親子。車で立ち去る親と、興奮を担任の私にぶつけて私の眼鏡は宙に跳び、ポロシャツは破れ、引っかき傷から血が流れ出た。その姿で電車帰宅する経験は初めてではなかった。しかしこうしたトラブルも、私と正社員(専任講師)の二人が支えていたが、そこに高機能自閉症とパニックの理由を後輩の研修で語り、後輩がその知識を生のまま、当人にぶつけたことで、障がい者扱いしたと、後輩もろとも首になった。そういう時代をくぐったからこそ、今の粘り腰の私がある。
無知に返り討ちにあう事態にふんばれば、私の寄り添いの未熟さから、命を絶った子もいる。生涯この過ちの痛みはわすれまい。そう思って私は講師を続けている。心理カウンセラーをしている方もこの危うい世界の淵に立っている。夜間傾聴の初期の頃の青年は、危うい綱渡りの転倒の瀬戸際に飛び込んできた。今は緊急時と言っても真綿で首をしめられているような危機を抱えた面識のある子が大半だ。それは自分の抱え込める子の範囲を明確に言い切っていることが原因しているからだ。
私は自分の仕事に誇りを持っている。しかし、交通事故入院を経て社会活動のホームグラウンドを失えば、既存の社会活動団体に爺ぃの受け入れ場所は無いのだと思う。ならば、作ればいいのだが、精神や高機能自閉の子が味わう入口のなさ、標準外の生活者への優しい拒絶の残酷さを知る者が、世界をとり結ぶ。その仕事も40年経っても、母との理解は無い。
災害救援活動の中で声高に語られ始めた「絆」。それは反面では家族を持たない単身者をかき消している。「家族」というモデルが出来るという事は、地縁や活動のなかで培った友情を排除するものであるなら、連れ合いを失ったものの悲しみの行きどころはまた個に封じられてしまう。一括モデルというものは、そういうものなのだという苦い思いをかみ締めている。無論母には通じない、通じない言葉なのだ。
茅ヶ崎市に複数の提案を出そうと準備を始めている。アイデアはどんどん盗んでいい。そのことが実現する可能性を高めるなら、提案する者は「ひとりよりふたり」なのだ
内容は「災害時初期誘導員の奨励と育成」「福祉避難所の設置と運用」「仮設カーシェアリングと車の転用制度」の3つ。
古傷を蒸し返すことは、年末行事のようだ。しかし折角なのだから、私に集中する時間がほしい。三箇日はPC抱えて寿町と喫茶の往復になるだろう。
ゆずが匂ってきた。
夜間傾聴:南大沢君(仮名)
橋本2君(仮名)
淵野辺君(仮名・こちらから)
(校正2回目済み)
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泣いても笑っても2011年が終わる。今年ほど年賀状を書きにくい年も無かった。毎年、冬期講習と大掃除で大晦日に追い込まれるのだから、もともと書字不精〔新語か?)だから、まだ3分の1も書いていない。帰宅後、母を連れ出して買出しに出かけた。お前の話す世界は一部のひとだ。景気が悪いって言ったって、こんなに人手があるじゃないかと母が言う。高額食品のところ、店員が半分だ。売れないんだよと私。若夫婦が多い。いや高齢者夫婦の姿が少ない。両手に荷物の人も少ないだろうと私。気に入らない母。
景気が悪いのは下層の人。中間層は大丈夫だと母は家族平和の夢をみる。しかし、辛苦の波をくぐらない人生はありえない。家族を城壁の中に夢みるのではなく、「人は城」だろうと母に言えば、お前の周りにそんな人がいるかいと、語気を強めて親の口調になる。どうやら寿町越冬支援を察知しているようだ。人の中に生きるか、人を押し出して家族の居場所を築くか、この論議は50年間平行線をたどっている。
荒波に襲われて、がれきとともに濁流に飲まれていった人たちの画像をみれば、ひとは心穏やかではいられない。ガーデニングの花を写真にとって、これもブログに載せようと無邪気に語るチップスターのCMへの違和感。舟板一枚の地獄を声高に語ろうとは思わないが、被災経験から、姿を露わにしてしまった金魚鉢の中にあえて入ろうとは思わない。正義や倫理のことではない。リアルということ、近似の真実。
正社員だったらボーナスが出ていると、母がまた鬱憤晴らしを始める。自営の塾をやっていた頃も、私は複数収入だった。自営塾を閉じ、契約講師とテスト屋を続けているが、成果給の部分が大きい世界だ。
しかし、ひと相手の成果ほど見え難いものはない。自閉症スペクトラム、特にLDについて、LD学会が出来た頃は、他塾はスパルタで子どもに臨んだり、厳格なローステップ学習に追い込んだりしていた。
職員会議や、父母会でLDという困難について語ったことで、子どもを障がい者扱いしたと懲戒免職されたこともあった。今見れば異様な出来事である。それこそ誰も守ってくれない。
こうした不安定は続いた。塾が嫌だという子を無理矢理塾に子どもをつれてきた親子。車で立ち去る親と、興奮を担任の私にぶつけて私の眼鏡は宙に跳び、ポロシャツは破れ、引っかき傷から血が流れ出た。その姿で電車帰宅する経験は初めてではなかった。しかしこうしたトラブルも、私と正社員(専任講師)の二人が支えていたが、そこに高機能自閉症とパニックの理由を後輩の研修で語り、後輩がその知識を生のまま、当人にぶつけたことで、障がい者扱いしたと、後輩もろとも首になった。そういう時代をくぐったからこそ、今の粘り腰の私がある。
無知に返り討ちにあう事態にふんばれば、私の寄り添いの未熟さから、命を絶った子もいる。生涯この過ちの痛みはわすれまい。そう思って私は講師を続けている。心理カウンセラーをしている方もこの危うい世界の淵に立っている。夜間傾聴の初期の頃の青年は、危うい綱渡りの転倒の瀬戸際に飛び込んできた。今は緊急時と言っても真綿で首をしめられているような危機を抱えた面識のある子が大半だ。それは自分の抱え込める子の範囲を明確に言い切っていることが原因しているからだ。
私は自分の仕事に誇りを持っている。しかし、交通事故入院を経て社会活動のホームグラウンドを失えば、既存の社会活動団体に爺ぃの受け入れ場所は無いのだと思う。ならば、作ればいいのだが、精神や高機能自閉の子が味わう入口のなさ、標準外の生活者への優しい拒絶の残酷さを知る者が、世界をとり結ぶ。その仕事も40年経っても、母との理解は無い。
災害救援活動の中で声高に語られ始めた「絆」。それは反面では家族を持たない単身者をかき消している。「家族」というモデルが出来るという事は、地縁や活動のなかで培った友情を排除するものであるなら、連れ合いを失ったものの悲しみの行きどころはまた個に封じられてしまう。一括モデルというものは、そういうものなのだという苦い思いをかみ締めている。無論母には通じない、通じない言葉なのだ。
茅ヶ崎市に複数の提案を出そうと準備を始めている。アイデアはどんどん盗んでいい。そのことが実現する可能性を高めるなら、提案する者は「ひとりよりふたり」なのだ
内容は「災害時初期誘導員の奨励と育成」「福祉避難所の設置と運用」「仮設カーシェアリングと車の転用制度」の3つ。
古傷を蒸し返すことは、年末行事のようだ。しかし折角なのだから、私に集中する時間がほしい。三箇日はPC抱えて寿町と喫茶の往復になるだろう。
ゆずが匂ってきた。
夜間傾聴:南大沢君(仮名)
橋本2君(仮名)
淵野辺君(仮名・こちらから)
(校正2回目済み)